正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書③)

2005-11-21 | 手引書③

30.家庭訪問の心得

31.日蓮大聖人の「御書」とは

32.邪宗・邪師の利根と通力に踊らされない信心を

33.諸天善神といわれる神の働き

34.神社に「悪鬼神」が住み着いています

35.寺院の意味とは

36.思春期という心の葛藤を乗り越えるには

37.一念三千を理解することで性格が変わります

38.日蓮正宗を信心するには御授戒が必要です

39.三大秘法の御本尊様とは

40.名聞名利と我慢を誡める信心を

41.寺院参詣は御念珠を忘れずに

42.法に依って人に依らざれ(依法不依人)

43.私達の心の惑い三惑とは

44.不染世間法 如蓮華在水


家庭訪問の心得

2005-11-21 | 手引書③

 日蓮大聖人は『教行証御書』に、
 「雑言(ぞうごん)・強言(ごうごん)・自讃気(じさんげ)なる体(てい)、人目に見すべからず、浅猿き事なるべし。弥身口意を調へ、謹んで主人に向かふべし、主人に向かふべし」(御書1110)
と主人に向かう折伏の姿勢・心得を御指南であります。家庭訪問でも、身口意の三業を調え姿勢を正し、日蓮大聖人の弟子として地涌の菩薩の自覚を持ち訪問することが大事です。
 家庭訪問の心得として注意するところは、自分自身の生命力が弱っているときや感情が高ぶり、身口意の三業が乱れているときは避けるべきです。勤行唱題で歓喜に満ちた生命力を漲(みなぎ)らせ、相手の心を動かす生命力で訪問し折伏と教化育成をすることです。
 また家庭に訪問をする「時」ということが大切になります。節度を保ち常識のある行動を心得て、家庭訪問すべき時を考えていくべきです。基本的な節度と常識が損なわれると、法を下げることになり逆効果であります。逆縁を結ぶことは出来ても、確実な成果に結び付けることは出来ません。人間関係が気まずくなる訪問は避けましょう。仕事中や食事中など他に取り込んでいる時は、集中力と注意力が散漫し信心の話しを聞き流され、相手の心に信心の素晴らしさを残すことが出来かねます。相手の立場と心の状態もしっかり見つめていきましょう。勤行唱題が出来ていれば見えるはずです。
 家庭訪問における教化育成は、御本尊様が御安置されていれば、まず「御題目を唱えさせて下さい」とお願いすることが大切です。そして御仏壇を拝見させて頂き、信心状態を把握していくことが必要です。過去帳が毎日めくられているか、御仏壇の汚れ具合やほこりの着き具合をさり気なく、御題目を唱えさせていただく時、不快感を与えないように観察することで、その家庭の信心状態に大凡の察しがつくでしょう。
 更に話しの中で、はじめは今日の天気の事を話し始めたり、お互いにリラックスした話せる雰囲気つくりが大事です。この雰囲気つくりが後々大きな効果をもたらします。次に差し障りのない世間的な話題や家族のこと、お子さんに法統相続出来ているか、そして四苦八苦という人生の苦しみに直面していないか伺い、一緒に考える一時を持つことが大事です。そして日蓮正宗の化儀化法を教えながら、人間関係を深め家庭訪問における教化育成を円滑にしていきます。また相手に不快感を与えないように話しをし、さり気なく家庭の状況を聞くことが好ましいです。一回の訪問で全て行おうとせず、「一年に一人以上の折伏」の御指南を心得、一年間じっくり時間をかけることが必要です。
 そして寺院参詣の大切さや総本山大石寺登山のこと、日蓮正宗の機関誌である大日蓮や大白法を通して対話を持つことが大事でしょう。
 家庭訪問での教化育成は、長い目をもってじっくり時間をかける必要があります。あせらずに気長に行うことで相手の発心を育て、一人でも立派に信心できる姿勢が出来上がります。家庭訪問は歓喜を持ち、更に訪問する家庭に「歓喜」を施し明るさを与える「抜苦与楽(ばっくよらく)」の修行であります。


日蓮大聖人の「御書」とは

2005-11-21 | 手引書③

 「御書」とは書の尊敬語で、御妙判(ごみょうはん)ともいいます。日蓮大聖人が私達に残された、成仏するための教えが説かれた書物です。
 第二祖日興上人は『富士一跡門徒存知事』に、
 「日興は聖人の御書と号して之を談じ之を読む」(御書1870)
と仰せのように、日蓮正宗では御相伝においても日蓮大聖人がお書き残されたものを「御書」と呼んでおります。日蓮正宗以外の日蓮各派は、御書とはいわず、御遺文などと称し日蓮大聖人の蔑(さげす)んでおります。
 「御書」という呼び方は、仏様が書かれた書物という意味があります。私達が必ず幸福になれ成仏できる教えであるため、尊んで「御書」と呼ぶのであります。御書は正しい「師匠」について学ぶことが必要です。
 御書には、正しい修行のあり方、正しい成仏できる仏法と間違った邪な仏法の違いを、細かく御教示下さっているのが御書です。御書には「五大部」「十大部」という第二祖日興上人が決められた、重要な御書があります。
 「五大部」とは、立正安国論(りっしょうあんこくろん)・開目抄(かいもくしょう)・観心本尊抄(かんじんのほんぞんしょう)・撰時抄(せんじしょう)・報恩抄(ほうおんしょう)です。「十大部」は、この五大部に唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)・法華取要抄(ほっけしゅようしょう)・四信五品抄(ししんごほんしょう)・下山御消息(しもやまごしょうそく)・本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)を付け加えた御書です。
 私達の生活は、日蓮大聖人の仰せになる教えに随っていけば安穏な境涯になります。人生の指針が説かれたものであり、悪道を防ぐ教えです。「御書」についての詳しい解説は、日蓮正宗の寺院で毎月の永代経や御講で御住職様が解りやすく御指導下さいます。正しい師について御書を学び、他の縁ある方に御書の有り難さを教えていくことが大切です。そこに自他共に幸せになる要素があります。
 第二祖日興上人は『日興遺誡置文』に、
  「一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理(ごくり)を師伝して若し間(いとま)有らば台家を聞くべき事」(御書1884)
と御教示でありますように、当日蓮正宗では御書を心に染めて、更に大切な御書に秘められた極理を師から伝えられた教えを学ぶことであります。この「極理を師伝」された御書を学ばなければ成仏は出来ません。日蓮正宗寺院には、極理を師伝した教えが伝えられているのであります。
 現在の御書の内容は、四百数十編に及んでいます。難しい教学的な御書や弟子檀那に与えられた、人々の気持ちにあわせた、やさしい御消息文といわれる御書が沢山あります。総本山大石寺には、多くの御真蹟(ごしんせき)といわれる日蓮大聖人の直筆の御書が御宝蔵(ごほうぞう)に厳護されています。 
 毎年、四月に行われる「御虫払大法要(おむしばらいだいほうよう)」には、日蓮大聖人の御書を間近に拝することが出来ます。代々の御歴代上人猊下が護ってこられたので御真筆(ごしんぴつ)の御書を拝することが出来るのであります。御書は私達の幸せを絶対的なものにし、成仏するための大切な書物です。


邪宗・邪師の利根と通力に踊らされない信心を

2005-11-21 | 手引書③

 『唱法華題目抄』に、
 「通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。唯仏の遺言の如く、一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は、権経に宿習(しゅくじゅう)ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。」(御書233)
と仰せであります。世の中には、普通の人とかけ離れた能力を保持し、人々の無知を巧みに操る利根と通力を具えた人がいます。「利根」とは、かしこい性質。利口。利発。特に仏教で、宗教的素質・能力がすぐれていることをいいます。「通力」とは、自由自在の超人間的で不思議な力。神通力をいいます。神通力とは、何事でもなし得る霊妙な力を意味します。
 日蓮大聖人は、邪正を正して利根と通力という超能力を兼ね備えた人には依るべからずと御指南であります。人々の眼を誑惑する現象が世の中には氾濫しています。勤行唱題を怠ることなく、邪師の利根と通力に迷わされない信心が成仏につながります。利根と通力を巧みに操る人は、人々が陥りやすい落とし穴を心得、更に利根と通力を磨き、影で日々研究熱心に努力をしているわけです。人の興味を引く技を錬るのであります。その裏には、利根と通力を巧みに使う人師の二乗根性である名聞名利と欲望的な要素が見え隠れします。
 邪宗の僧侶、そして超能力者や祈祷師、新興宗教の教祖や占い師など様々な姿で世の中に蔓延っています。他の仏教宗派を信仰する人は、邪宗の僧侶や教祖などの言葉巧みな利根と通力に操られ、正法に目覚める本心を失った状態であります。つまり邪宗の害毒におかされています。
 利根と通力に迷わされないようにするには、日蓮大聖人の教えに確信を持ち、利根と通力に踊らされている人を折伏することが大事です。御本尊様を唯一無二と信じ、御題目を唱え強い信心を貫くことです。
 信心していても邪師の利根と通力に踊らされる背景には、信心がまだ「不退」の位になっていないところがあります。唱題行を根本に強盛な信心を気持ちにつくることです。未だ日蓮正宗の信心に縁していない人も、信念やしっかりした目的観がなければ、邪師の利根と通力に左右されることがあります。利根と通力を使い、相手を上手く納得させてしまう巧みな話術には注意しましょう。
 世間的な邪師が用いる利根と通力よりも勝れた「神通力」を御本尊様を信じるところに得ることが出来ます。『如来寿量品第十六』に、
 「如来秘密 神通之力(如来の秘密神通の力)」(法華経429)
と釈尊が説かれていますように、日々勤行唱題に精進するところに邪な利根と通力ではなく、御本尊様から最高の仏様の境界における、秘密の神通力を得ることが出来ます。勤行唱題を怠ることなく持続する人にしか感じることの出来ない、不思議な御本尊様から頂く神通力があります。
 この御本尊様から頂く「神通力」をもって折伏することで、成果に結び付けることが出来、更に自行において、生活を豊かにすることが可能です。毎日の勤行唱題に、凡眼凡智では計れない「神通力」が秘められております。


諸天善神といわれる神の働き

2005-11-21 | 手引書③

 日蓮大聖人は「神」の守護について『四条金御殿御返事』に、
 「魔訶止観(まかしかん)第八に云はく、弘決第八に云はく『必ず心の固きに仮(よ)って神の守り則ち強し』云云。神の護ると申すも人の心つよきによ(依)るとみえて候。法華経はよ(善)きつるぎ(剣)なれども、つかう人によりて物をきり候か」(御書1292)
と仰せであります。信心が強ければ神の働きは強くなり、信心が弱ければ神の働きは弱くなります。自分自身の信心の強弱に神の守護は大きく左右されます。他力本願では、諸天善神の加護は弱いのであります。
 神である諸天善神は、御題目の南無妙法蓮華経を主食としています。朝の勤行で東天に向かい、御経をあげ御題目を唱えなければ諸天善神は、力を出すことが出来ません。初座をあげるのは、諸天善神に「法味」を捧げ、護って下さるように御願いをするのであります。これを怠ると当然、神の働きは期待できません。御本尊様を受持しているのに、諸天善神の御加護がないと悩み疑いを抱いている人は、東天に向かい「法味」である御題目を唱えているかいないかを見直す必要があります。
 諸天善神の守護は、「善神」とある如く、善行をおこなう人に守護の働きがあります。悪意を持ち、悪行に対し成功するよう諸天善神に御題目を捧げても守護の働きは一切なく、逆に仏罰を被ることになります。
 世間の神社仏閣や邪宗の寺院には、神は存在せず悪鬼や魔人が住み着いています。「神天上の法門」というのがありますが、世の中は正法を信心する人が少ないために、「法味」である御題目を貰うことが出来ないので、天上界に神は帰ってしまったのであります。その代わりに邪神・邪横神である悪鬼が住み着いています。悪鬼が住み着いた神社で交通安全の「お守り」を購入して、車に付けると事故にあいます。時々、テレビのニュースで眼にしますが神社で買った「お守り」を付けた車が事故を起こしています。この現証は、正しく神社に悪鬼が住み着いている動かぬ証拠です。神社に初詣に行ったり、神社にお参りに行く人は以上のことを深く考え、正しい宗教である日蓮正宗について信心することを勧めます。
 『立正安国論』に、
 「守護の善神去(さ)りて来たること無し。是偏(これひとえ)に法然(ほうねん)の選択(せんちゃく)に依るなり。悲しいかな数十年の間、百千万の人魔縁に蕩(とろ)かされて多く仏教に迷(まよ)へり。謗(ぼう)を好んで正(しょう)を忘る、善神怒(いか)りを成さゞらんや。円を捨てゝ偏(へん)を好む、悪鬼便(たよ)りを得ざらんや。如(し)かず彼(か)の万祈を修せんよりは此の一凶(いっきょう)を禁ぜんには」(御書241)
と念仏宗である浄土宗・浄土真宗を破折されております。神社と同様に、間違った仏法にも守護の善神は去ってしまい、その寺院には悪鬼が住み着いています。この間違った仏法を断たなければ、本当の諸天善神の働きがないことを御指南されています。
 諸天善神は、三大秘法の御本尊様を受持信行する、日蓮正宗の寺院や御本尊様を御安置する家に守護の力をもたらします。


神社に「悪鬼神」が住み着いています

2005-11-21 | 手引書③

 世間では、「神」の存在に対し様々な概念があります。「神」という言葉を知らない人は全くいないでしょう。しかし、「神」に対する存在については信じる信じないという意見があります。「神」を信じない人は無神論者として自分だけの智慧を頼りにし、その反面「神」を信じていても全て一つの「神」に定まって信じられているものではありません。過去の先人達が神格化した創造上の「神」が世の中に氾濫しています。この神格化した創造上の「神」は、あくまでも人間が創りあげたものであり、「神」本来の力を有しているか疑問が残ります。
 多くの人は、この神格化した創造上の人間が創りあげた「神」を崇め信じているのが現実ではないでしょうか。世の中に蔓延する「神」には、人間が創りあげたものと、仏様が説かれたものがあります。人間に随うか仏様に随うかで大きく異なり、「神」の働きにも自ずと違いが出てきます。「神」を信じる上で、この点を注意深く考えなければいけません。日蓮正宗に縁しなければ、思いも付かないことです。
 仏様が説かれた神は、先人達が考えた神とは根底から違います。それが三種の神「法性神・有覚神・邪横神」です。世間に蔓延る創造上の神しか知らない人は聞いたことがないと思います。これは人間が想像して創りあげた「神」ではありません。仏様が三世を達観されて説かれる「神」です。凡眼凡智では計れない「神」です。 
 三種の神「法性神(ほっしょうしん)・有覚神(うかくしん)・邪横神(じゃおうしん)」とは、台家の相伝に説かれ、御書を心肝に染めて拝する必要があります。『百五十箇条』に、
 「問テ云ク神に於て三種有り、其貌何と分たるや、答テ曰ク是は台家切紙相承の法門なり、凡神に三種有り一に法性神・恒遍法界の神なり此ハ有情非情ノ神なり、二に有覚神・我滅度後於末法中・現大明神・広度衆生垂迹和光の神なり、三ニ邪横神なり」
と説かれています。「法性神」とは、無辺の法界(宇宙)に存在する有情・非情の神。風神、火神、山神等の神を指します。「有覚神」は垂迹和光(すいしゃくわこう)の神をいいます。権現・大明神の本誓、仏・菩薩の本地を隠して現れます。「邪横神」は、実迷と名付け、垂迹和光の神が天上界に去った後、神社などの社に入る悪鬼魔神をいいます。日本に存在する全ての神社には、「邪横神」が聖者を装い住み着いています。
 「善神」となる「法性神」や「有覚神」は、御本尊様を信じ御題目を唱える人を諸天善神となり守護するのであります。「神」は、お金を貰って護るのではありません。「邪横神」が住み着いた神社運営における邪義邪説です。謗施を止めることが大事です。一体誰がお金を賽銭箱に入れれば神様が願いを叶えてくれると言い出したのでしょう。神社の神を信じている人は一度、神主さんにでも聞かれてみては如何でしょうか。おそらく文証の原点が不明確な文献に依って、邪義邪説を述べてくることでしょう。
 世間では神社に「善神」が住んでいると思われていますが、その「善神」は「法味」を貰えないので天界へ去ってしまい、かわりに邪横神といわれる悪鬼神が住み着いています。「善神」は御題目の南無妙法蓮華経を「法味」とし主食としていますので、お金を貰っても「法味」が貰えないので力が出ないのであり、そのため天界に去ってしまったのです。逆に邪横神である悪鬼神にお金を施すので国は滅びる方に向かってます。当然、悪鬼神が住み着いた神社で「法味」である御題目を唱えても御利益はありません。神道を信仰される方は、今一度考え直されることが必要でしょう。本当の「神」は日蓮正宗の寺院にしか居りません。今までの信仰を改宗し日蓮正宗を信心しましょう。


寺院の意味とは

2005-11-21 | 手引書③

 「寺院」は御本尊様が在す修行の根本道場です。『百六箇抄』に、
 「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書1699)
と仰せのように、日蓮正宗においては「寺院」を建立することが大事です。更に第二祖日興上人は『富士一跡門徒存知事』に、
 「凡(およ)そ勝地を撰んで伽藍(がらん)を建立(こんりゅう)するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是日本第一の名山なり、最も此の砌(みぎり)に於て本門寺を建立すべき由(よし)奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」(御書1873)
と三大秘法の本門戒壇の大御本尊様は、富士山の麓に寺院を建立し御安置すべきであると仰せです。以上の意味から日蓮正宗の地方の末寺において、富士山の麓に建立された「大石寺(たいせきじ)」を総本山とし、大石寺の御住職様である御法主上人猊下の御指南に信伏随従し、末寺は存在するのであります。
 寺院を軽視する人は、日蓮大聖人の弟子ではありません。大聖人と第二祖日興上人の御指南に背くことになります。
 寺院の意味と存在は、私達の気持ちが休まる安堵感を得るところです。そして、現実を客観的に見る時間をつくり、様々な現実に起こりうる問題を安心して解決できる場所なのであります。御経をあげ御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで、心の汚れを本堂に御安置されている御本尊様が、綺麗に洗い流して下さるのであります。
 寺院は、御先祖様を追善供養するためだけの建物ではありません。本来は自分自身の心と精神を鍛錬する場所です。正座をして御念珠をし合掌する姿勢を持つことで、精神が御本尊様の正境に縁することで磨かれていくのであります。
 日蓮大聖人は『一生成仏抄』に、
 「深く信心を発(お)こして、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(御書46)
と御指南であります。時々寺院に参詣すれば信心が更に深まり、毎日朝夕の勤行を怠らず、行うことが磨くことであります。そして合間を見付け、寺院に参詣し唱題をして更に磨くことが大事です。寺院は、御題目を唱えて心を磨き、生活を揺さぶる魔の働きを乗り越える精神を身に付ける必要な場所であります。心の葛藤に明るい兆しを降り注いで下さるところです。
 『草木成仏口決』に、
 「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり」(御書523)
と御教示のように、寺院に安置される大曼陀羅の御本尊様に御題目を唱えることで、一念三千の法門といわれる、世間の学者も知ることが出きない御法門を、御住職様から伺うことが出来、御仏智を頂くことが出来るのであります。寺院に参詣し精神を磨きましょう。


思春期という心の葛藤を乗り越えるには

2005-11-21 | 手引書③

 「思春期」は人間誰もが迎える時期であります。一般的に十一歳~十二歳から十六歳~十七歳に迎えます。この「思春期」は心に生まれる様々な欲望や未来への期待感が活発化する時です。両親や人生において尊敬する先輩などからこの「思春期」の過ごし方をある程度教えて貰い理解していなければ、人生において取り返しの付かない事態を招くことがあります。心の中に生まれる様々な欲望が葛藤を起こし、その欲望の扱い方に迷い悩む次期が「思春期」であります。この「思春期」を乗り越えることによって、大きく成人として飛躍していきます。身心両面にわたり成長著しいのが「思春期」です。幼少の頃と違い、「思春期」は多くの事柄へ更に興味を持ちます。この興味の持ち方を間違えると人生を大きく脱線する場合があります。正しい判断力を身に付け心に生まれる欲望や葛藤を処理することが大事です。
 日蓮正宗の信心は、「思春期」における心の葛藤を御本尊様の尊い力によって、人間として理想的な方向へ教え諭して下さいます。また私達の力では対応できない心の迷いや抑えきれない心の欲望や葛藤を正しい方向へ導いて下さるのであります。その方法が日蓮正宗の修行である「勤行唱題」です。この御本尊様に向かい正座をし御題目を唱える姿勢には、心のあらゆる葛藤を沈静化し、気持ちに余裕をもたせ、落ち着かせて現実を冷静に見ることが出来ます。それにより、「思春期」に迎える心の迷いや悩みを知識とし智慧として自分自身の成長の糧になるわけです。それが日蓮大聖人が御指南くださる「煩悩即菩提」という御法門です。
 心の迷いである煩悩を利用して、成仏という幸せになる要素へと変えてしまうのであります。
 また「思春期」は、三毒である貪・瞋・癡という貪る気持ち、瞋る気持ち、癡という愚癡が旺盛になります。自分自身の感情ではコントロール出来ないときがあります。この時「柔和忍辱衣」という気持ちに柔軟さを持ち、耐え忍ぶ心が大事です。しかし、頭では理解できてもいざ実行に移すとなると、それぞれの性格によって上手くいかない場合があります。この時こそ、御本尊様に向かって声を出し御題目を唱えることです。御題目を声に出すことで、心の中に渦巻く世の中に対しての様々な不満を解消することが出来ます。「思春期」には、心に不満をためるのは禁物です。この不満やストレスを適度に他人に迷惑をかけないように扱うことが必要です。不満やストレスの処理方法に失敗すると世間を騒がせることになり、楽しいはずの人生が暗黒になります。
 「思春期」には、更に法統相続における重要な身心における機能が発動する時期です。つまり法統相続に必要な性欲が活動します。正しい仏法を広宣流布の暁まで伝えるには大事なことです。性欲は、人間の命に具わる尊い本能的な働きです。正しい知識を持って「善知識」と考えるか、人生を悪くする「悪知識」をもって性欲を考えるかで、人生を大きく分けます。世の中には性欲に対する「悪知識」が氾濫しています。御本尊様から仏眼を頂いて正しい眼を持つことが大事です。
 「思春期」では、法統相続における性欲に対しての正しい知識を身に付けることが大事です。


一念三千を理解することで

2005-11-21 | 手引書③

 勤行唱題は唯一、私達の性格を根底から変える修行です。持って生まれた性格は、過去世に自らが作り上げた人格です。その姿が今の自分自身となって現れています。育った環境と接した人により大きな影響を受け、一つの業として人格が出来ています。信心は、この業を転換させることが出来ます。一念三千の法門を寺院へ参詣して御住職様から学び、勤行唱題に精進するところ冥益の功徳を御本尊様から頂き、性格が変わります。
 性格を変える要素は、心に深く入り込んだ人生にマイナスになる欠点や劣等感などの自分という先入観と固定観念を勤行唱題によって和らげ、御書を心肝に染め、仏様の生命と境界に先入観と固定観念に作り替えていきます。生きることに対して絶望感やあきらめを捨て、不動の信心と確信を持ち、勤行唱題に専念するところ性格が変わっていきます。
 一念三千を理解するとは、簡単にいいますと「仏様の生命が私達の迷いの命に具わっている」ということです。仏様の生命は、不老不死です。この仏様の生命を動かすには、ひたすら御本尊様に勤行唱題をする以外にありません。
 「一念三千」とは私達の命に、理論的に三千の働きが眠っていることであります。この教えは日蓮正宗でしか説かれません。つまり、一念三千が説かれるということは、潜在能力がもともと具わっており、御本尊様に勤行唱題するところに、自分の好みである三千の一つの働きを涌現させ、生活を楽しく送ることが出来るのです。今の自分は三千の働きの一つに過ぎません。
 人間には「癖(くせ)」があります。無意識のうちに生まれ育った環境や周囲の人によって出来上がるものです。癖は一念三千のある一部分が偏った形で人格として表情や体に出たものです。勤行唱題をし意識して直せば変わります。
 持って生まれた肉体的外見は、かえることは出来ませんが、心の働きを根底から変革することで、持って生まれた外見の持ち味が活かされ、六根清浄の功徳が外見を飾ります。これが御本尊様から頂く、決してお金で買うことの出来ない、来世までも続く御利益です。内面に隠された一念三千の働きを御本尊様によって涌現させて頂くことで、更に見えるものも生き生きと変わってきます。それが「我此土安穏」であり、「常寂光土」の一分を御本尊様から頂いていることになります。
 『一生成仏抄』に、
 「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此くの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」(御書46)
と御教示のように、私達、衆生の心が、けがれているか清いかで人生が大きく別れます。更に見えるものも、心の持ち方によって変わってきます。信心は、心の持ち方を正法に随う上で、自分の好みに御本尊様の功徳により変革できるのです。成仏とは、癖のついた今までの人格を信心によって変革することです。
 日蓮正宗の寺院が成仏の根本道場です。信心をして心を清めていきましょう。


日蓮正宗を信心するには

2005-11-21 | 手引書③

 『御講聞書』に、
 「今南無妙法蓮華経有れ共、今身より仏身に至るまでの受持を受けずんば、成仏は有るべからざるなり」(御書1843)
と仰せです。御本尊様は有り難く、御題目の南無妙法蓮華経は素晴らしいと知っていても、「今身より仏身に至るまで」という御授戒の儀式を寺院で行わなければ成仏の因を積むことができません。御授戒を正式に受けたことで、本門戒壇の大御本尊様から有り難い功徳が流れ通ってきます。
 御授戒を受けたことで、爾前権教の戒律と比較にならない、最高の妙戒「金剛宝器戒」を頂くことが出来ます。日蓮大聖人は『教行証御書』に、
 「此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為(せ)り。此の五字の内に豈(あに)万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝器戒(こんごうほうきかい)とや申しけんなんど立つべし。三世の諸仏は此の戒を持(たも)って、法身(ほっしん)・報身(ほうしん)・応身(おうじん)なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(御書1109)
と仰せでありますように、「金剛宝器戒」という妙戒を一度、持てば破ろうとしても破ることが出来ないという御指南です。この妙戒を持ったことで三世の諸仏が成仏したのであります。私達も、妙法五字に万戒の功徳を納めた戒「金剛宝器戒」を受持することで一生成仏は疑いありません。
 日蓮正宗の「戒」は法華本門の戒です。授戒における「戒」には様々なものがあります。小乗の低い戒律や大乗の戒律、更に大乗の中でも像法時代の伝教大師(最澄)が比叡山に建てた法華迹門の戒と繁多しております。今現在の末法という時代においては、法華本門の妙戒である「金剛宝器戒」でなければいけません。この妙戒でなければ、末法という時代に現れる様々な魔の働きに対応できないのであります。末法に生まれた人達には、小乗の戒律や権大乗の戒では限界があって不満が残り、私達の性格や体質には全くあいません。
 その限界と不満が邪宗の害毒となって現れ、宗教の異常性と宗教への奇異な眼を持たれる原因があります。正しい宗教を信心することで限界と不満を解消し、本当に幸せな他から破ることの出来ない境界が出来上がるのであります。それが「金剛宝器戒」であり御授戒を受けることで私達の命に宿すことが出来ます。
 御授戒を受ける際には、以上のことを十分に理解され信心に精進することが大事です。日蓮正宗の信心の出発は「御授戒」です。御授戒において、本当の「下種」を頭に頂き、勤行唱題をすれば体全身に成仏の根を張らせることが出来ます。この根を身心に張ることで迷いや悩みに紛動されない命が出来ます。「御授戒」を受けることで成仏させて頂ける仏様の種を命に宿すことになります。 
 更に勤行唱題という修行を積むことで、信心をした人にしか感じることの出来ない、日蓮大聖人が御書で御指南下さるような非常に有り難い功徳を頂けるのであります。未入信の方で、御本尊様と御題目の南無妙法蓮華経が有り難く素晴らしいと感じている人は、今すぐ御授戒を受けることをお勧めします。
 日蓮正宗の寺院へ参詣され、御住職様に御授戒を執り行って頂くことが大事です。