正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書⑥)

2005-11-21 | 手引書⑥

75.嫌な出来事は「空」を観じることから

76.末法の正しい仏像とは日蓮大聖人

77.末法は「有名無実」が氾濫します

78.末法の御利益は「冥益」

79.成仏し難い人に四種類あります

80.罰について

81.怨嫉を静めるには四恩を知ることから

82.己心で騒ぐ師子身中の虫とは

83.成仏とは何か

84.正しい仏法を決める五重の相対

85.下種三宝の「法宝」とは

86.下種三宝の「仏宝」とは

87.下種三宝の「僧宝」とは

88.主師親の三徳「主徳」とは

89.主師親の三徳「師徳」とは

90.主師親の三徳「親徳」とは


嫌な出来事は「空」を観じることから

2005-11-21 | 手引書⑥

 生きていく上で嫌な出来事も経験します。嫌な経験をすることで人間は成長します。信心に置き換えた場合、成仏の大切な糧に変わるのであります。御本尊様に御題目を唱えるところに、信心をしなければ解らない、言い知れぬ悟りがあります。
 嫌な出来事は「空」を観じることからというのは、即身成仏をする過程で、心の迷い煩悩の扱いを説かれたのが「空」です。「空」とはもろもろの事物は縁起によって成り立っており、永遠不変の固定的実体がないということです。人間は六根である眼・耳・鼻・舌・身・意で感じ取ることに執着します。そこから嫌な出来事が生まれ、迷いや悩みが生じます。
 嫌な出来事は全て私達の六根から感じ取っています。六根を全て無くせば問題ありませんが、これでは小乗教で説く教え「灰身滅智」であり、本当の悟りや成仏に繋がりません。六根は生きていく必要な感覚機能で、私達にはなくてはならないものです。
 人間は、執着心があるから生きていけるのであり、執着心を無くすと生きることが出来ません。無意識に行う呼吸も、生きようという本能的な現れです。ここにも生きるという執着心が作用しています。様々な出来事に嫌だなと感じることは、生きる上で人生を楽しい方向に位置づけようとする本能的に具わった心理的な働き、人生を軌道修正する作用です。心の持ちようによって、生活を快適にします。
 「空」を感じるとは、どういうことかと申しますと、心を空(から)にすることであり、また「忘れる」ことです。嫌な出来事を空にして忘れ、嫌な出来事を心から亡ぼすということが「忘れる」ことです。人生に必要な大事なことは忘れず、心に止めていけば幸福になります。以上が「空」を感じる秘訣です。
 その方法が御本尊様に勤行唱題をするという修行になります。御題目を唱えなければ本物の「空」を感じることは出来ません。唱題中に「空」にする事柄、「忘れる」ことを取捨選択し、具体的な実践をすることが大事です。そこに掛け替えのない日蓮正宗でしか実感できない成仏の境界を体験できるのであります。この気持ちを「折伏」で弘め伝えることが大切です。自他共に即身成仏する要因になります。
 『御義口伝』に、
 「此の下に於て十八空之(これ)有り。十八空の体(たい)とは南無妙法蓮華経是なり。十八空とは何(いず)れも妙法の事なり」(御書1763)
と御教示のように、「空」には十八種類あります。十八種の「空」を感じるには御題目の南無妙法蓮華経を唱える以外にないことを日蓮大聖人が仰せられたところです。嫌な出来事も一つではありません。多くの出来事があります。十八種類の「空」を感じることにより、嫌な出来事を全て忘れ去ることが出来ます。
 「空」を感じていくことで、正しい執着心を身に付けることが出来、邪な執着心を排除させることが出来るわけです。つまり「空仮中円融三諦」を御本尊様の尊い力用によって感じることが出来ます。
 唱題行は、嫌な出来事を「空」に転じる大切な行になります。そして新たな気持ちで人生を出発することが出来ます。


末法の正しい仏像とは日蓮大聖人

2005-11-21 | 手引書⑥

 今現在、末法時代に一番相応しい本尊として崇める「仏像」は、日蓮大聖人であります。日蓮大聖人以外は、正法時代と像法時代に利益があった仏像です。
 「仏像」といいますと観念的に謗法の考えが頭に過ぎる方が多いでしょうが、日蓮正宗における「仏像」の考えは、生き仏の日蓮大聖人であり、大聖人御入滅後は、日蓮大聖人の御魂が染め流された、三大秘法の大曼陀羅本尊を生きておられる大聖人と拝するのです。
 『観心本尊抄』に、
 「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶(なお)文殊薬王等にも之を付属したまはず、何(いか)に況(いわ)んや其の已外(いげ)をや。但(ただ)地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ。其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空(くう)に居(こ)し、塔中(たっちゅう)の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士(きょうじ)上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属(けんぞく)として末座に居し、迹化(しゃっけ)・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処(しょ)して雲閣月卿(うんかくげっけい)を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之(これ)無し、八年の間但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為(な)し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。」(御書654)
と仰せのように、末法の正しい「仏像」は釈尊でもなく、釈尊を本師とする垂迹仏や菩薩・御地蔵さんでもない、日蓮大聖人であることを御教示された御書です。
 末法の正しい「仏像」は、墨に大聖人の魂が込められた御題目の南無妙法蓮華経が「仏像」になります。「仏像」ということで邪宗邪師が主張する、固定観念的な「仏像」を想像することなく、末法における正法正師の御教示を素直に信じることであります。
 梵漢文字の曼陀羅本尊ではない、外見・形だけの「仏像」は、正法像法時代においての本尊であり、末法時代では全く御利益がありません。末法時代は、釈尊から多宝塔中相承を受けられた、日蓮大聖人の仰せになる「仏像」を尊崇する事で御利益があります。この「仏像」が本門戒壇の大御本尊様となり、寺院に御安置される御本尊様や、各家庭にお迎えされた御形木の御本尊様が正しい「仏像」です。
 末法は形だけの「仏像」でなく、文字の曼陀羅を御本尊とし「仏像」とするのには深い意味があります。深い意味は日蓮大聖人からの唯授一人血脈相承において、時の御法主上人猊下から御指南を賜り「信」をもって拝受することです。
 その意味を上げるとすれば、末法は五濁爛漫といわれる人々の生命が濁る世の中であります。外見を取り繕い、世間を上手く生きていこうと考え、悪事を志す人が充満する時代です。その外見に惑わされることなく、心の中身を悟るようにということで、外見や形だけの「仏像」ではなく、文字の曼陀羅御本尊をもって、心の中の気持ちを察し生きましょうということで、末法の御本尊があるのであります。その末法濁悪の衆生の気持ちを察していけることで「我此土安穏」な境界が築き上げられます。文字は心の中を現し伝えるものです。相手の心を明らかに見ることが大事です。
 以上、末法時代である現在は、日蓮大聖人を「仏像」である仏様と崇め奉り、大聖人が御図顕あそばされた三大秘法の曼陀羅御本尊に、御題目を唱えることが大事であります。


末法は「有名無実」が氾濫します

2005-11-21 | 手引書⑥

 日蓮大聖人は『開目抄』に、
 「法華経已前の諸の小乗経には、女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には、成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり」(御書563)
と仰せのように、仏法においては「有名無実」という名前だけがあり、実体が無い教えが氾濫していることを御指南であります。
 仏教に関係なく「有名無実」は世の中にも多く蔓延しています。信心では、「有名無実」の存在を御本尊様の仏眼を頂いて明らかに見ていくことが大事です。「有名無実」を明らかに見ていくことで成仏の境界があります。
 「有名無実」を明らかに見ることが出来ずに、人生に落胆している人が大勢います。折伏では「有名無実」が氾濫していることを教え、更に御本尊様の仏眼を頂いていけば幸せになれることを諭すことです。
 「有名無実」を生き甲斐にし、詐欺紛いの商売をしている人がいます。つまり「有名無実」とは人を騙していることになります。実体が全く存在しないのに、有るというわけです。この「有名無実」の商売に填(はま)ってしまいう人もいます。 
 世の中に起きている訴訟という裁判も、「有名無実」を正当化しようとしているものがあります。「有名無実」を正当化し、生き甲斐にしている人は、冥の照覧を恐れ、今生だけの名聞名利に執着することはやめましょう。
 「有名無実」の情報も世の中に飛び交う時代です。人々が飛び付きやすい情報には慎重を要します。これも信心をすることで命に培われ、御本尊様から頂く有り難い功徳です。「禅定」を得ることで可能になります。正しい知識を持ち、様々な情報を鵜呑みにしないよう冷静に判断することです。御本尊様に御題目を唱えればその判断力が自然と身に付きます。
 『開目抄』に、
 「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶(たす)けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は、自身の得道猶(なお)かなひがたし。何に況んや父母をや。但文のみあって義なし。今、法華経の時こそ、女人成仏の時、悲母の成仏も顕はれ、達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕はるれ。此の経は内典の孝経なり」(御書563)
と仰せの如く、外道の教え儒教や法華経以前の大小乗教は、父母を救うことが出来ず、女人成仏や悪人成仏も「有名無実」の法門であると御指南です。
 「有名無実」ではない「本有常住」といわれる教えは、日蓮大聖人が説かれる教義です。世の中に氾濫する「有名無実」の存在を明らかに見ることが出来ます。「本有常住」とは名前だけではなく根本的実体が有り、常に世の中に住していることです。それが本有常住・事の一念三千の御本尊様です。「有名無実」ではない、実体が伴う本物の御本尊様です。本尊も実体が伴わない「有名無実」の本尊が蔓延しています。「有名無実」の本尊を拝んでも当然功徳はありませんし、成仏もできません。「有名無実」ではない「本有常住」の御本尊は日蓮正宗だけに伝わっています。故に日蓮正宗以外の本尊は全て「有名無実」の本尊です。
 「有名無実」の本尊を崇めている方は、今すぐに改宗され御授戒を受けて、日蓮正宗の正しい「本有常住」の御本尊様をお迎えしましょう。


末法の御利益は「冥益」

2005-11-21 | 手引書⑥

 日蓮大聖人は『教行証御書』に、
 「問うて云はく、上に挙ぐる所の正像末法の教行証各別(かくべつ)なり。何ぞ妙楽大師は「末法の初め冥利(みょうり)無きにあらず、且(しばら)く大教の流行すべき時に拠(よ)る」と釈し給ふや如何(いかん)。答へて云はく、得意に云はく、正像に益(やく)を得し人々は顕益(けんやく)なるべし、在世結縁(けちえん)の熟せる故に。今末法には初めて下種す、冥益(みょうやく)なるべし。已(すで)に小乗・権大乗・爾前・迹門の教行証に似るべくもなし。現に証果の者之(これ)無し。妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり」(御書1104)
と「冥益」について御指南されています。正法時代や像法時代は「顕益」という利益が目に見える明らかなものでありましたが、末法は「冥益」という人が感じにくい利益であると仰せです。つまり、末法に生まれる人は命が汚れているために、また「本未有善」という仏様の種が無いところに植えたばかりであるので御利益が目に見えにくいので「冥益」なのであります。
 「冥益」は「境智冥合(きょうちみょうごう)」という言葉がありますように、我見を誡めて三大秘法の御本尊様と気持ちを一つにするところに、「冥益」の御利益があります。つまり御本尊様を疑い離れてしまえば「冥益」を頂くことは出来ないのであります。
 この御本尊様から頂いた「冥益」をもって末法の迷える衆生を済度していくことが出来ます。釈尊は法華経の『如来神力品第二十一』に、
 「如来の滅後に於て 仏の所説の経の 因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん 日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(法華経516)
と説かれていますように、如来である釈尊が入滅された後には、上行菩薩である日蓮大聖人が御出現あそばされ、「冥益」を示して、末法の人々の闇を滅し、日月のような光明を放たれ衆生済度に当たられることを説いています。
『如来神力品第二十一』の「仏の所説の経の因縁及び次第を知って義に随って実の如く説かん」という経文を実際に行われた方が日蓮大聖人です。経文の如くに実践された方を「法華経の行者」といいまして、末法の仏様であり日蓮大聖人だけであります。それ以外にはおられません。
 『道妙禅門御書』に、
 「祈祷に於ては顕祈顕応(けんきけんのう)・顕祈冥応(けんきみょうおう)・冥祈冥応(みょうきみょうおう)・冥祈顕応(みょうきけんのう)の祈祷有りと雖も、只肝要は、此の経の信心を致し給ひ候はヾ、現当の所願満足有るべく候。法華第三に云はく『魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る』と。第七に云はく「病即消滅して不老不死ならん」との金言之を疑ふべからず」(御書1041)
と仰せのように、御本尊様への祈り方に「顕」と「冥」があり、御本尊様に感応して頂く功徳に「顕」と「冥」があり四種類になります。それが顕祈顕応(けんきけんのう)・顕祈冥応(けんきみょうおう)・冥祈冥応(みょうきみょうおう)・冥祈顕応(みょうきけんのう)です。
 末法の現代は、「冥益」が主流でありますので、焦らず地道に御利益を頂くことを待つ姿勢が大切です。この姿勢に信心で培われる「禅定」の境界があります。それが成仏に繋がり、日々の勤行唱題にその全てが含まれています。


成仏し難い人に四種類あります

2005-11-21 | 手引書⑥

 日蓮大聖人は『法華題目抄』に、
 「成仏往生のなりがたき者四人あり。第一には決定性(けつじょうしょう)の二乗、第二には一闡提人(いっせんだいにん)、第三には空心の者、第四には謗法の者なり。此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に法華経を妙とは云ふなり」(御書357)
と仰せでありますが、成仏し難い人でも御本尊様に縁し信心をすれば成仏できるのであります。それが法華経だけに説かれる「悪人成仏」です。法華経では「女人成仏」も説かれますが、爾前権教では「悪人成仏」と「女人成仏」は説かれていません。それだけ勝れた教えが日蓮正宗にあります。
 成仏し難い四種類の人について説明します。
 第一の決定性(けつじょうしょう)の二乗。性格が決まっていることです。つまり性格が直そうとしても直らない人、我見が強い人です。十界で考えた場合、声聞界と縁覚界の人になります。自分の考えを曲げようとしない頑固な人が決定性の二乗です。折伏では苦戦する機根の持ち主であります。
 第二には一闡提人(いっせんだいにん)。仏法で断善根・信不具足と訳され、正法を信ぜず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生です。快楽主義者や現世主義者に多いです。
 第三には空心の者。空理に執着し、因果の理法を信じない者。空理をもって最高の悟りとする外道です。
 第四には謗法の者。正法を誹謗し背いて信受しない人のことです。日蓮正宗を悪口罵詈し信心に目を向けない人です。
 折伏や家庭訪問における教化育成、そして法統相続でも成仏し難い人に縁します。これが日蓮正宗の修行になり、何にして信心に目覚めさせることが出来るか、御本尊様から頂いた御命題になります。この御命題を成就することで自分自身の境界が更に高くなり、成仏への仏果を御本尊様から頂けるのであります。
 成仏し難い人には「逆縁」を縁付ける事が大事です。「逆縁」とは、信心に目もくれない人に、縁ある事に信心の話しをすることです。
 『唱法華題目抄』に、
 「本(もと)善根ありて今生(こんじょう)の内に得解(とくげ)すべき者の為には直(ただち)に法華経を説くべし。然るに其の中に猶聞いて謗ずべき機あらば暫(しばら)く権経をもてこしらへて後に法華経を説くべし。本(もと)大の善根もなく、今も法華経を信ずべからず、なにとなくとも悪道に堕(お)ちぬべき故に、但押して法華経を説いて之を謗ぜしめて逆縁ともなせと会する文なり。此の釈の如きは、末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕(だ)せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓(どっく)の縁と成すべきか。然れば法華経を説いて謗縁(ぼうえん)を結ぶべき時節なる事諍(あらそ)ひ無き者をや」(御書231)
と仰せのように、「逆縁」である「毒鼓の縁」を結ぶことが必要です。それにより、未来世に必ず信心に目覚めて成仏することを御指南であります。
 成仏し難い人には、「逆縁」を結び折伏することであります。


罰について

2005-11-21 | 手引書⑥

 罰には四つあります。総罰・別罰・顕罰・冥罰です。因果の道理を理解せず人生を無謀に生きていくと「罰」が当たったと世間ではいいます。「罰」は一種の警告であり、「罰」が当たる前に気づく事が必要です。正しい仏法を学ぶことで、未然に「罰」が当たらないように出来ます。言い換えると仏法を学ばないところに「罰」が当たることになります。 
 しかし、現代末法では「罰」に当たっても「罰」という認識を全く持たない人が大勢います。その背景には様々ありますが、「罰」とは何かについて教える人がいなくなっていることが上げられます。「罰」はどうすれば受けるのか、「罰」にはどんなものがあり、「罰」が当たったらどういう行動をとればよいのか、主師親の三徳に縁していない人が迷い悩むところです。
 世の中には主人や師や親はいますが、外見だけで本当の資格を持たない主人や師や親が横行しています。これが原因となり「罰」の認識が薄くなっています。その「罰」の理解力がないために、まともな精神が失われ悩乱しているような人もいます。正しく末法濁悪の様相を示しています。
 日蓮大聖人は四つの罰について『聖人御難事』に、
 「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり。過去・現在の末法の法華経の行者を軽賤(きょうせん)する王臣・万民、始めは事なきやうにて終(つい)にほろ(亡)びざるは候はず、日蓮又かくのごとし。始めはしるし(験)なきやうなれども、今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば、仏前の御誓ひむなしくて、無間大城に堕つべしとをそ(恐)ろしく想ふ間、今は各々はげ(励)むらむ。大田親昌(ちかまさ)・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。日本国の大疫病(やくびょう)と大けかち(飢渇)とどしう(同士討)ちと他国よりせめらるゝは総ばち(罰)なり。やくびゃう(疫病)は冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばち(罰)なり」(御書1397)
と御指南であります。『種々御振舞御書』に、
 「今の世の人々は皆頭(こうべ)阿梨樹の枝のごとくにわ(割)れたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せばてを(手負)いたる人の、或は酒にゑ(酔)ひ、或はねい(寝入)りぬれば、をぼえざるが如し。又頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して、頂(いただき)の皮の底にある骨のひヾた(狂)ぶるなり。死ぬる時はわるヽ事もあり。今の世の人々は去ぬる正嘉の大地震、文永の大彗星(すいせい)に皆頭われて候なり。其の頭のわれし時ぜひぜひ(喘息)やみ、五蔵の損ぜし時あかき(赤痢)腹をやみしなり。これは法華経の行者をそし(謗)りしゆへにあたりし罰とはし(知)らずや」(御書1071)
と「罰」が厳然と現れても全く解らない人がいると仰せです。この御指南は法華経である御本尊様を信じ御題目を唱える人を謗ったり悪口を言った人に起きる「罰」です。悪業が深いために「罰」を受けた自覚症状がありません。
 日蓮正宗を謗ることで悪道に進む道に入り、結果として「罰」が出るのであります。「罰」は日蓮正宗の信心に目覚め、今までの言動を悔い改めることで「罰」を罪障消滅させられます。


怨嫉を静めるには四恩を知ることから

2005-11-21 | 手引書⑥

 生活していくなかで気持ちに「怨嫉」が生まれることがあります。特に他人に対して生まれる心の迷い煩悩です。自分と他人を意識しすぎ他人より勝りたい劣りたくないという本能的な迷いからくるものです。「怨嫉」の扱いを間違えますと心が荒(すさ)み、生活が荒れ周囲の人に迷惑をかけることになります。 
 「怨嫉」とは、「怨」がうらむこと。「嫉」がねたむこと、やきもちを妬(や)くことです。妬くとは心を乱すという意味です。
 「怨嫉」にも種類が沢山あり、最悪な場合、私生活を泥沼化します。「怨嫉」の正しい扱い方を常日頃から磨き、身に付けていれば問題はありません。日常起こりうる縁に「怨嫉」を生む原因が潜んでいます。その原因に対しどのような行動をとっていくかで「怨嫉」を未然に防ぐことが出来ます。その方法が御本尊様に御題目を唱える勤行唱題という修行になります。「怨嫉」を正しく扱い冷静な気持ちと落ち着きを取り戻すことが出来ます。勤行唱題をしても「怨嫉」を静められない人は、我慢偏執と慢心が信心に対する素直さより勝っているため、更に「怨嫉」の気持ちを燃え上がらせています。「怨嫉」を静めるには、まず心の乱れ動揺を抑えることが大事です。つまり禅定と空が必要で、「怨嫉」への集中力を他に向けることです。「怨嫉」で生まれる生命力には巨大な力があります。この力を成仏のために注ぐことです。それが「煩悩即菩提」です。釈尊は法華経の『法師品第十』に、
 「而も此の経の中に於て 法華最も第一なり 爾の時に仏、復、薬王菩薩摩訶薩に告げたまわく、我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり。薬王、此の経は、是れ諸仏の秘要の蔵なり。分布して、妄りに人に授与すべからず。諸仏世尊の守護したもう所なり。昔より已来、未だ曽て顕説せず。而も此の経は、如来の現在すら、猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや。」(法華経325)
と法華経を弘めるに当たり「怨嫉」が多いことを説かれています。日蓮大聖人も御書で引用される法華経の文証です。
 私達の心に生まれる「怨嫉」は、信心をし「四恩」を知り、恩を報じることで平静を保つことが出来ます。『上野殿御消息』に、
 「仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ」(御書922)
と仰せのように「怨嫉」という気持ちを捨て、「四恩」である父母に恩を報じ、国主の恩を報じ、一切衆生に恩を報じ、三宝に恩を報じることです。「怨嫉」は貪瞋癡の三毒から生じる心の汚れです。「怨嫉」は気分の良いものではありません。非常に身心を害する毒素を含んでおり、「怨嫉」から病が生まれます。
 「怨嫉」が生まれるのは、「四恩」を忘れ自己中心的になるからです。信心は自己中心的な考えを改心し、「四恩」を理解して自他共に幸せになることです。「怨嫉」は幸せになる生活を破壊するものです。「怨嫉」の強さも様々あり、瞬間的なものから継続的にある縁に触れて生まれるもの、永続的な「怨嫉」など自分と相手との関係によって異なりがあります。
 「四恩」を知り御本尊様に御題目を唱えることで「怨嫉」は心から消滅させることが出来ます。「怨嫉」が生まれると相手に原因があると錯覚を起こしますが、自分自身の己心の魔や師子身中の虫が操っていることを覚ることが大事です。信心をすれば明らかに見えるようになります。明らかに見えたら「四恩」を報じ「怨嫉」を静めることが大切です。そこに「我此土安穏」な世界が築き上げられるのであります。折伏をすれば更にその輪を広げることが出来ます。それが日蓮大聖人が仰せになる「立正安国」です。


己心で騒ぐ師子身中の虫とは

2005-11-21 | 手引書⑥

 「師子身中の虫」とは、私達の心の中で騒ぐ虫です。「師子」とは百獣の王ライオンのような強い動物を意味し、ライオンでも己の体に入り込んだ寄生虫には命を奪われるということです。体は大きくても小さな毒性の強い虫にはお手上げなのであります。
 「師子身中の虫」が私達の心で騒ぐとは、生活の中に生じる雑念や迷い悩みなどで思想的な迷いです。この思想的な迷いから身心を害し病気になり命を落とすこともあります。「師子身中の虫」は侮(あなど)れません。この己心の虫は御本尊様を受持し御題目を唱えることで虫の動きを抑えることが出来ます。この「師子身中の虫」は生まれたときからすでに心に住み着いている虫なので、一生涯共にするため付き合い方を心得ていなければなりません。
 まず「師子身中の虫」に心の主導権を取られないことです。主導権を取られますと三界六道の世界になり、最悪な場合「悪鬼入其身」し元々の人格を根底から変えられてしまい人相も以前と全く変わります。
 また「師子身中の虫」は「僧俗和合集団」を「破和合僧」に導く力を持っています。例を上げれば、根も葉もない邪な情報を注ぎ込み僧俗和合を破ろうとする働きです。ある宗教団体が得意げに使用する技です。正しい信心をしていれば未然にその働きは見抜けます。信心がしっかりと出来ておりませんと、心の中で「師子身中の虫」が根も葉もない情報に飛び付き己心で騒ぎます。和合集団の混乱を目的とした、根も葉もない情報を「師子身中の虫」が好物としています。「師子身中の虫」に翻弄された人は退転し日蓮正宗を誹謗します。
 日蓮大聖人は『本因妙抄』に、
 「若し本迹勝劣を知らずんば、未来の悪道最も不便なり。宿業を恥ぢず還って予を恨むべきか。我が弟子等の中にも天台・伝教の解了の理観を出でず、本迹に就きて一往勝劣・再往一致の謬義(みょうぎ)を存じて、自他を迷惑せしむるの条宿習の然らしむる所か。閣浮提第一の秘事たりと雖も、万年救護の為に之を記し留むる者なり。我が未来に於て予が仏法を破らんが為に、一切衆生の元品(がんぽん)の大石、第六天の魔王、師子身中の蝗虫(いなむし)と成り、名を日蓮に仮りて、本迹一致と云ふ邪義を申し出して、多くの衆生を当(まさ)に悪道に引きいるべし。若し道心有らん者は彼々の邪師を捨てゝ、宜しく予が正義に随ふべし。正義とは本迹勝劣の深秘、具騰本種(ぐとうほんしゅ)の実理なり。日蓮一期の大事なれば、弟子等にも朝な夕なに教へ、亦一期の所造等悉く此の義なり」(御書1679)
と仏法における「師子身中の虫」について仰せです。末法濁悪世の現代、「師子身中の虫」に侵された仏教が全てです。唯一日蓮正宗だけが「師子身中の虫」に侵されていません。「師子身中の虫」に侵されないために、血脈相承が古来からあり、広宣流布の暁まで未来に正法を伝えていきます。
 「師子身中の虫」が貪瞋癡の三毒を発生させます。心を蝕んでしまう三毒は御題目を唱え、御本尊様に変毒為薬して頂くことが大切です。


成仏とは何か

2005-11-21 | 手引書⑥

世間一般では、他界し亡くなった故人を「成仏」したといいます。しかし、本来仏法から見たとき、間違いであります。「成仏」とは仏に成ることです。「仏(ほとけ)」という意味が世間においていい加減です。間違った解釈が世の中を覆っています。「仏様」をこの世を去られた故人と思っている人が多いことでしょう。
 「仏」という本来の意味は、悟りを開かれた方です。悟りとは、迷いや悩みが全くないことをいいます。そして常に幸せな境界にいて、迷いや悩みを抱えた人を救済する人です。世間では本来の意味から相当逸脱して考えられています。
 「仏」とは、特別人間からかけ離れた存在ではありません。どのような人でも仏様が説かれた教えを信じ行っていけば「仏」になれます。心に生まれる迷いや悩みの扱いを完璧に心得、その方法を他の人に教えていくことが「仏」です。「成仏」とは悩み多き心の問題を速やかに解決し、生活全般に明るいきざしをもたらすことです。
 悩み多き心の問題を解決するには、仏法を学ぶことです。世の中には仏教が沢山ありますが、中には不幸にする教えもあります。特に新興宗教に多いです。人々の宗教や仏教に対する無知を利用し、金儲けのために宗教を開いている間違った宗教があります。宗教は自分の人生を大きく左右するものです。慎重に考えなければいけません。
 時代により師匠として教えを請う「仏」が異なり、説かれる教えも異なります。
「仏」が説かれた教えであればどれでも良いというわけにいきません。その中に散在する、教えが説かれる仏典は今の時代に適さないものや、かえって不幸になり地獄に堕ちる教えもあります。仏教を学ぶときはこの点を注意しなければなりません。日蓮正宗ではこの点を考慮して教えを説いています。
 「仏」が説かれた仏教は「教えに順序次第」があります。つまり易しい教えから、高度な難しい教えへと移っていきます。仏様の究極な悟りを初めから説いても、仏教を全く知らない人には理解できないためだからです。私達も何かを学ぶ場合や、修得するときには易しい基本から入るものです。この理屈と同じで、仏教にも基本があります。この基本に随って修行するところに悟りを開き「仏」に成れ「成仏」できます。
 基本とは御本尊様に御題目を唱えるところにあります。ここに全てがあり、更に上の境界を目指します。今末法時代は、御本尊様に御題目の南無妙法蓮華経を唱えるところに成仏があり、本当の「仏」に成れます。
 世の中に散在する「仏」は、ほとんどが過去世に成仏した「仏」です。今の時代では、過去の「仏」を崇めても御利益はありません。それぞれの時代において、尊崇する「仏」があります。今の時代は三大秘法の御本尊様であり、日蓮大聖人を「仏」と拝し奉ることです。日蓮大聖人の仰せになられた御指南を実践するところに最高の境界、即身成仏があります。
 『一生成仏抄』に曰わく、
 「深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑ひあるべからず。故に経文には『我が滅度の後に於て応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん』とのべ給へり。努々(ゆめゆめ)不審(ふしん)をなすべからず。穴賢穴賢。一生成仏の信心。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」(御書46)