正林寺法華講員手引書

『折伏・家庭訪問・教化育成・法統相続・教学研鑚・邪義破折・支部組織の充実強化に活用』 法華講正林寺支部 正林編集部

目次(手引書⑩)

2005-11-21 | 手引書⑩

135.寺院参詣によって麻畝の性となる

136.人の性分は「善悪不二」

137.環境が変化するときに魔が襲う

138.正しい仏法は「四依」による

139.文証・理証・現証の「三証」

140.朝夕の勤行について

141.現当二世という現世安穏と後生善処

142.妙法の四力「信力と行力」

143.妙法の四力「仏力と法力」

144.他力本願にならない信心に志そう

145.信心の「心」について

146.現代の修行は難行苦行必要なし

147.自分の修行である「自行」

148.他人を教化する「化他行」

149.消化不良を起こさない折伏を


寺院参詣によって麻畝の性となる

2005-11-21 | 手引書⑩

 寺院に参詣することで、世間で染み付いた、心の汚れを洗い流す譬えに用いられるのが、「麻畝の性」です。迷いや悩みを誘発させる原因は、三大秘法の御本尊様在す以外のところにあります。寺院に参詣することで、御本尊様の仏力に縁し、世間で染まった謗法の垢を転重軽受させ、成仏の性分である「麻畝の性」へと変わっていくのであります。
 日蓮大聖人は『立正安国論』に、
  「主人悦(よろこ)んで曰く、鳩化(はとけ)して鷹(たか)と為り、雀(すずめ)変じて蛤(はまぐり)と為る。悦ばしいかな、汝欄室(らんしつ)の友に交はりて麻畝(まほ)の性(しょう)と成る。誠に其の難を顧(かえり)みて専ら此の言(ことば)を信ぜば、風和(やわ)らぎ浪(なみ)静かにして不日(ふじつ)に豊年ならんのみ。但し人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。」(御書248)
と仰せであります。「麻畝の性」とは、日蓮正宗の寺院に参詣し、三大秘法の御本尊様の正境に縁することで、私達の末法濁悪の生命が浄化されることです。つまり、心の汚れが洗い流されることを意味するのであります。日蓮正宗を信心しない、考えには様々な悪因が潜んでいます。この悪因を、寺院に参詣することにより、完全に摘み取って、仏様の仏因と引き替えます。それが「麻畝の性」という仏様の性分です。この性分を、命に刻むことで、世間の謗法多き世の中に出ても、安穏な境界を現当二世に渡って、維持することが出来るのです。
 具体的に、寺院に参詣して「麻畝の性」という性分・性格になる方法は、毎月の永代経や御講に参詣し、御住職様から日蓮大聖人の教えを頂くことです。また、唱題会に参加して、御本尊様と境智冥合することで、心に染めることが可能です。「麻畝の性」の性分とは、「六根清浄」です。複雑によじれた性格も、正しい道を示す道筋に随えば、曲がった性格も、少しずつ軌道修正され、最高の境界、即身成仏を仏果として得るのであります。 
 人間は、環境に大きく左右され、人間の弱い部分です。適切な判断基準を持たなければ、人生が大きく狂い、悪道に染まり取り返しの付かない人生になります。
 寺院に参詣することで、『立正安国論』に、「欄室(らんしつ)の友に交はり」と仰せのように、法華講という組織に縁することで、欄室(らんしつ)の友に交わることができます。「欄室」とは、蘭の花の香りが漂う部屋のことで、高徳の士や善人のいる部屋、または美人のいる部屋。蘭は美徳のあるものを譬えます。蘭の花の香りは、日蓮正宗において、御本尊様に御供えする、「御樒」から出る香気や、御線香を炊いたときの香りを意味します。その香りが漂う場所には、悪人は近寄れず、常に善人や徳を具えた人しかいないのであります。それが「欄室(らんしつ)の友」です。日蓮正宗の寺院が正しく「欄室(らんしつ)の友に交はりて麻畝(まほ)の性(しょう)」という、一番相応しい場所なのであります。
 寺院参詣を習慣付けることで、世間に横行する悪縁に、紛動されない精神を、御本尊様の力により養うことが出来ます。唱題行に精神を養う秘訣があります。


人の性分は「善悪不二」

2005-11-21 | 手引書⑩

 人は、生まれ育つ環境により、善くもなり、悪くもなります。それが、「善悪不二」です。性善説や性悪説でもありません。正しい仏法においては、「善悪不二」を説きます。それが、一念三千という複雑な生命活動として、日蓮大聖人の仏法で説き明かされるのです。
 日蓮大聖人は『一念三千法門』に、
 「凡(およ)そ此の経は悪人・女人・二乗・闡提(せんだい)を簡(えら)ばず。故に皆成仏道とも云ひ、又平等大慧(びょうどうだいえ)とも云ふ。善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す。故に即身成仏と申し、一生に証得(しょうとく)するが故に一生妙覚と云ふ。義を知らざる人なれども唱ふれば唯仏と仏と悦び給ふ」(御書110)
と仰せです。「善悪不二」が説かれる故に、大聖人の仏法では、悪人も成仏できます。つまり、悪人の命にも、一分、縁に触れ善の気持ちが出ます。菩薩の気持ちに似た、人を愛する思いや、因縁により悪人とは思えない感情を見せることがあります。これが正しく「善悪不二」となります。
 この善い方の縁を、御本尊様の縁に触れることで、悪人の性分が冥益を得て、善人へと少しずつ変わるのです。善人へと変わった悪人が、折伏をしていくことで、周りの環境を根底から変え、その住む場所が「常寂光土」へと「我此土安穏」な境界に変わるのです。
 世間では、普通の人や、一見、真面目そうな人が、極悪非道な言動をするのは、正しく「善悪不二」であることを物語っています。善人も正しい宗教観を持ち合わせていなければ、悪縁に左右され、終いには、悪人へと豹変します。日蓮正宗の信心をするところに、悪縁を正しく処理する能力が身に付きます。この動かぬ現証は、真っ向から性善説や性悪説を根底から覆(くつがえ)す証拠になりましょう。
 仏法では、文証・理証・現証という三証を重んじます。三証が完璧に存在するのが、日蓮大聖人の教えであり日蓮正宗です。日蓮正宗以外は、三証がいい加減で、一時的な幸福感を与える低い教えです。法華経を蔑ろにしている仏教各派が多いなか、悪人を成仏させることは出来ません。悪人成仏は法華経だけです。
 浄土宗や浄土真宗あたりも、弥陀念仏を唱えれば、女性も悪人も成仏できると主張しますが、仏様の説かれる経典を無視し、後生に現れた念仏宗の僧侶が我意を雑えて、世の中に布教したのです。この背景を理解しなければいけません。
 子供を育てる親御さんは、幼い頃、素直で愛らしい子であっても、年齢を経るにつれ、様々な友人に縁することで、人格が変えられていくことを経験される方が多いことでしょう。時の流れにより、善と悪の働きは、親御さんの視野以外、死角となって複雑な働きが行われています。この働きは世の中で、三大秘法の御本尊様だけが明らかに見て居られます。私達は、この善悪の働きを御本尊様から智慧を頂くことで、明らかな現実を見られます。つまり、親御さんは子供の気持ちが御本尊様の力によって正確に掴むことが出来るのです。その方法は、勤行唱題であり、気持ちを落ち着け、現実を冷静に見られる心の余裕と、正しい智慧を得ることが大事です。そこに、悪心を明らかに見つめ、正しく扱っていく力が身に付くのです。つまり「親徳」が身に付くということになります。
 人は、生まれながらにして、善と悪の性分を兼ね備えており、置かれた環境によって、左右されやすく非常に弱いものなのです。その弱さを強くするために日蓮大聖人が有り難い教えを残されたのであります。悪を止め、善を生じていくのが信心です。


環境が変化するときに魔が襲う

2005-11-21 | 手引書⑩

 信心は、環境の変化に襲ってくる魔を、適切に扱っていく術を身に付ける大切な修行です。人生は何時如何(いついか)なる時に、魔が襲ってくるか予測が付きません。魔の出現に備えて、信心では常に、心の準備をするのです。他の人が経験し、現実に起きている様々な状態を、自分の身に置き換え、勤行唱題の折には、自問自答することが大事です。即、その気持ちが自行化他の糧に変わります。
 「環境の変化」とは、新しい人生の出発があります。楽しいことであれば問題ありませんが、不安を抱えた人生の出発には、様々な心の葛藤があります。緊張感で気持ちが落ち着かず、神経が敏感になり、期待と不安が右往左往します。この時、魔が付け入り人生を揺さぶります。事前に魔の働きに耐えうる精神が出来ていれば問題ありませんが、順境に浸り、逆境を全く経験したことのない人には、心に強烈な重圧を感じることがあります。
 信心では、心の重圧を転重軽受の法門で和らげることが出来ます。不安なときや緊張したときに生まれる、心臓の鼓動を落ち着けることが、戒定慧の三学という「定」によって出来ます。それが、御本尊様に向かうことで、自然と御本尊様の功徳に浴し、不安や緊張を解消するのです。御題目を声に出して唱えることが大事です。そして、一時的に不安や緊張感に向けられた集中力を、違う方に向けることが大事です。不安なことに集中しすぎている結果、気持ちが安定を失います。
 勤行唱題では、不安への集中力を分散させ、適度な緊張を保つことが出来ます。この適度な緊張が、自分自身を成長させる大切な肥やしになり、成仏に大事な因となるのです。そして、日蓮大聖人の御精神に近づくことが出来ます。
 具体的に、環境が変化するときに襲う魔とは、人間関係や新しい環境になれるまでの気持ちの動揺です。三障四魔という姿で襲ってきます。それぞれの因縁により、魔の働きは異なります。時として現実に実際起きていないことを、妄想的に考えて、自分の気持ちに魔の働きを作ることもあります。現実と非現実の違いを明らかに御本尊様に向かって見つめ直すことが必要でしょう。
 環境の変化には、人間関係も変わります。穏やかさを失わず、柔軟な気持ち「柔和忍辱」が大切です。柔和さが、対人関係を円滑にするはずです。相手も初対面の人には、警戒し不安があります。このことを忘れずに、相手の不安を柔和な表情で和らげることが大事です。これは折伏でも非常に重要なことです。後々の人間関係を大きく作用します。気難しそうな人の場合には、好印象を期待できませんが、付き合い難さを和らげることは出来ます。また第一印象で判断出来ない部分もあります。観察眼や洞察力を勤行唱題で磨きましょう。
 生活環境の変化には、以前の生活リズムと変わるため、新しい生活リズムを速く掴むことです。御本尊様に御題目を唱える習慣を忘れずに、設計することが必要で、一日に必ず現実を落ち着いて考えられる時間を持つことを心がけましょう。その時間が、御本尊様に向かう姿勢です。朝夕の勤行唱題を習慣付けることが一番の理想となり、勤行唱題で環境が変化した時に襲う魔に、左右されない気持ちを養うことが出来ます。そして、月に最低一度は、日蓮正宗の寺院に参詣し、新しい環境で心に染み付いた垢を、洗い流すことが大切です。


正しい仏法は「四依」による

2005-11-21 | 手引書⑩

 日蓮正宗以外の仏教各派は、正しい仏法を示す「法四依」によらず、名聞名利に汚染された、人師の邪な教えが全てです。仏様を蔑ろにした人師の考えは、当然人々を不幸にします。
 「四依」とは、法四依のことであり、釈尊が説かれる『涅槃経』にあります。日蓮大聖人は『一代五時図』に、
  「涅槃経六に出ず 法四依  法に依って人に依らざれ
  義に依って語に依らざれ 智に依って識に依らざれ  了義経に依って不了義  経に依らざれ」(御書491)
と「法四依」について御教示です。

 法に依って人に依らざれ(依法不依人)とは、修行する人は、教そのものを依りどころとして、教を説く人に依ってはならない。

 義に依って語に依らざれ(依義不依語)とは、教の意義(元意)に従い、表現の文章に依ってはならない。

 智に依って識に依らざれ(依智不依識)とは、真の智慧に依って、凡人の情識(仏法を知らない識者)に依ってはならない。

 了義経に依って不了義経に依らざれ(依了義経不依不了義経)とは、中道実相の義を説いた了義経に依って、そうでない不了義経に依ってはならない。以上が、『涅槃経』に説かれる「法四依」であります。つまり、仏様である釈尊の遺言、経典に背いてはいけないということです。

 日蓮大聖人は、念仏である浄土宗や浄土真宗が、釈尊の経典に背いていることを『依法不依人御書』に説かれています。
  「仏は依法不依人(えほうふえにん)といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は依了義経・不依不了義経とはせいし給へども、濁世(じょくせ)の衆生は依不了義経・不依了義経の者となりぬ。(中略)当世の念仏者たとい諸経諸仏を念じ行ずとをもえども、道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)・法然(ほうねん)等の心をすぎず。若(も)し爾(しか)らば道綽禅師が未有一人得者の釈、善導が千中無一の釈、法然が捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字謬(あやま)りならば、たとえ一代聖教をそらにせる念仏者なりとも阿弥陀の本願にもすてられ、諸仏の御意にもそむき、法華経の其人命終入阿鼻獄(ごにんみょうじゅうにゅうあびごく)の者とならん事疑ひなし。これ偏(ひとえ)に依法不依人の仏の誓戒をそむいて、人によりぬる失(とが)のいたすところなり。」(御書806)
と法然が説く「捨閉閣抛」、念仏の思想が間違っていることを仰せです。
 更に、念仏宗の明らかな矛盾点を破折されています。『四条金吾殿御返事』に、
  「日本国の有智・無智仰いで此の義を信じて今に五十余年、一人も疑ひを加へず。唯日蓮の諸人にかはる所は、阿弥陀仏の本願には『唯五逆罪と誹謗正法とを除く』とちかひ、法華経には『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん』と説かれたり。此善導・法然謗法の者なれば、たのむところの阿弥陀仏にすてられをはんぬ。余仏余経においては我と抛(なげう)ちぬる上は救ひ給ふべきに及ばず。法華経の文の如きは無間地獄疑ひなしと云云。」(御書619)
と御教示のように、念仏の阿弥陀仏は、「五逆罪」と「正法誹謗」する人を救済することがないと本願を立てています。正法である『法華経』を誹謗する法然は、無間地獄行きであり、当然成仏することがありません。故に、浄土宗や浄土真宗を信仰する人は、正法誹謗により無間地獄が確定します。
 未だ、正しい仏法を知らない人は、日蓮正宗に入信し、「法四依」に従い『法華経』を信じて、本当の成仏を目指すことが大切です。


文証・理証・現証の「三証」

2005-11-21 | 手引書⑩

 正しい宗教を明らかにし信じる上で、大事なことが「三証」です。「三証」とは、文証・理証・現証であり、正しい宗教か、間違った宗教かを判別するときに必要な原理です。
 文証とは、文書・記録などの証拠。一つの教義または主張がいかなる文献に依っているかを調べて判定の基準とすることです。
 理証とは、道理・筋道が通っていること。一宗の文証・教義が道理にかない、適しているか調べて判定する基準。
 現証とは、現実の証拠。一つの教義を実践するにあたり、そこに説かれる内容が現実社会や生活に証明されるかどうかを判定する基準。
 まず文証について、日蓮大聖人は『法華真言勝劣事』に、
  「文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず」(御書307)
と仰せです。文証が不的確な教えを信じれば、自ずと不幸になります。文証の原点がいい加減な教えは、信用しないことが鉄則です。信心を知らない多くの人は、文証もなく、また文証が存在しても、その文証の出来上がった背景を知り疑うことなく、信じるために不幸になるのです。日蓮正宗の信心をすれば、この裏側に潜んだ部分に着眼し、日蓮大聖人の仰せになるままに、文証となる文献の存在を明らかに見ていくのです。その明らかに見る眼が、直ちに成仏の因に結びつくのであります。そしてこの眼を施すことが折伏へと通じていくのです。更に『聖愚問答抄』に、
  「経文を手に把(と)らずば用ゐざれとなり。天台大師の云はく『修多羅と合する者は録して之を用ひよ。文無く義無きは信受すべからず』文。釈の意は経文に明らかならんを用ひよ、文証無からんをば捨てよとなり。伝教大師の云はく『仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫(なか)れ』文。(中 略)経文にも論文にも法華に対して諸余の経典を捨てよと云ふ事分明なり」(御書389)
と日蓮大聖人は、正法正師の引用文をもって、文証無き主張を信じてはいけないと御指南です。文証でも人師のものは疑い、仏様の説かれる文証を敬い信じていくことが大事です。そこに本当の幸せを築く原因があります。 
 理証となる道理については『四条金吾殿御返事』に、
  「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝(か)つ物なり」(御書1179)
と仰せのように、文証が存在しても道理に適っていなければ劣り、道理に適った教えが勝れているのであります。『破良観等御書』に、
  「いづれも仏説に証拠分明(ふんみょう)に道理現前ならんを用ふべし、論師・訳者・人師等にはよるべからず、専(もっぱ)ら経文を詮とせん」(御書1078)
と御指南のように、仏様ではない、人のいう文証には、道理があわないものがあるので、釈尊の説かれた経文に依るよう仰せです。仏様が説かれたところに、三世に渡る厳然とした道理があります。人師には誤り多きことを『曽谷殿御返事』に、
 「但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり。末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著(じゃく)して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり」(御書1039)
と仰せです。邪宗に君臨する僧侶の心理を鋭く見抜かれた大聖人の御指南です。
 現証については『三三藏祈雨事』に、
  「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(御書874)
と御指南のように、如何に文証があり、理証が存在しても、文証と理証を証明する、現証が厳然と存在しなければいけません。現証が存在して信じることが出来ます。
 日蓮大聖人の仏法は、文証・理証・現証という「三証」に則った教えです。


朝夕の勤行について

2005-11-21 | 手引書⑩

 「勤行」は、日蓮正宗の信心において一番大事な修行です。成仏の因を御本尊様から頂くのが「勤行」であります。朝起きたら、顔を洗うように、末法濁悪の世の中に染まった私達の命を、御本尊様に心の汚れを洗い流して頂くことが必要です。「勤行」によって、心の汚れとなる、縁に触れて生まれる貪瞋癡の三毒や、見思惑・塵沙惑・無明惑といった三惑をも洗い流すことが出来ます。朝夕の「勤行」は、この世で唯一、私達の心の汚れを洗い流す方法です。更に、過去世からの宿業も善知識へ転換し、過去世の悪い業も洗い流します。それ以外に心の汚れを洗い流すことは出来ません。
 世の中の多くの人は、心の汚れをそのままにしているため、性格が歪むのです。日蓮正宗の信心は「勤行」によって、歪んだ衆生の性格が御本尊様に、境智冥合し、麻畝の性となって治るのです。
 第二祖日興上人は『日興跡条々事』に、
  「一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」(御書1883)
と仰せの如く、日蓮正宗においては、伝統的に七百年前から、広宣流布の暁まで「勤行」することが修行になります。
 「勤行」は、朝に五座、夕に三座行います。
 朝の五座は、初座で東を向き、諸天供養を行い、諸天善神に法味である御題目を捧げます。二座で本尊供養を行います。三大秘法の御本尊様が唯一、私達に幸せをもたらす源ですので、御報恩謝徳申し上げていきます。三座で三師供養を行います。三師とは、仏宝である宗祖日蓮大聖人、僧宝である第二祖日興上人、そして第三祖日目上人であります。そして、現在まで正しく伝えられてこられた、御歴代上人にも御報恩謝徳申し上げます。四座で広宣流布祈念をし、更に個々の諸願成就を御本尊様に祈念します。五座で唱題後に回向を行います。過去帳を見て、御歴代上人から御先祖様の回向を行います。
 夕の勤行、三座は朝の勤行に行う初座と四座を行わず、二座の本尊供養と三座の三師供養、五座の回向を行います。
 「勤行」は、現実を冷静に見る大切な時間です。生活や仕事に追われて、失い欠けている冷静さや気持ちの余裕を取り戻す大事な時です。身口意の三業が一番休まり、安堵感を味わえます。御経のテンポの良いリズムに、私達の身心が本当に休まるのです。この落ち着きが、六根清浄の功徳を得やすくします。心が落ち着くことで、心の汚れが洗い流され、その後、唱題の中で、現実を冷静に見つめることが出来ます。その時、様々な悟りが御本尊様から頂けるのです。その智慧を生活の場に活用させて頂くことで、我此土安穏という「常寂光土」の実現があります。
 「勤行」の唱題中に、人生設計や今日一日の予定と反省をし、未来の糧に活用していきます。その糧が、人生を有意義にする智慧になり、現実に繁栄させれば、冥益のもと現当二世に渡る、有り難い功徳を頂けるのです。
 「勤行」は、毎日欠かさず行うことが必要であります。


現当二世という現世安穏と後生善処

2005-11-21 | 手引書⑩

 日蓮正宗の信心をすれば、御本尊様の右脇に「現当二世」と認められておりますように、現在は安穏な生活を送れ、後生という未来では善い処に生まれます。御本尊様を信じ、勤行唱題に精進すれば、現世安穏・後生善処は疑いないのです。
 釈尊は『法華経薬草喩品第五』に、
  「現世安穏にして後に善処に生ず」(法華経217)
と説かれています。現世安穏・後生善処の原点は、釈尊が説かれた『法華経』にあります。これは、如来の法力を説いたもので、妙法を信受する衆生の三世にわたる福徳を述べたものです。
 中国の天台大師は『法華文句』に、
  「現世安穏後生善処とは、即ち是れ報因に報果を感ず」(文句記会本中409)
とあり、現世に妙法の弘通に励んだ因は自己の境涯を開き、因果の二法によって必ず未来世には善処へ生まれるとしています。つまり、因果応報を天台は、妙法の修行の上に説かれたものです。
 『御講聞書』に、
  「所詮此の妙法蓮華経を聴聞し奉るを現世安穏とも後生善処とも云へり。既に上に『是の法を聞き已(お)はって』と説けり。聞は名字即の凡夫なり。妙法を聞き奉る所にて即身成仏と開くなり。『若し能く持つこと有らば即ち仏身を持つなり』とは是なり。聞の故に持ち奉る、持ち奉るが故に三類の強敵(ごうてき)来たる、来たるを以て現世安穏の記文(きもん)顕はれたり。法華の行者なる事疑ひ無きなり。法華の行者はかゝる大難に値ふべしと見えたり。大難に値ふを以て後生善処の成仏は決定(けつじょう)せり。是豈(あに)現世にして安穏なるに非ずや。後生善処は提婆品に分明に説かれたり。所詮現世安穏とは法華経を信じ奉れば、三途八難の苦を離れ、善悪上下の人までも皆教主釈尊同等の仏果を得て自身本覚の如来なりと顕はす自身の当体、妙法蓮華経の薬草なれば現世安穏なり。爰(ここ)を開くを後生善処と云ふなり。妙法蓮華経と云ふは妙法の薬草なり。所詮現世安穏は色法、後生善処は心法なり。十界の色心妙法と開覚するを現世安穏後生善処とは云ふなり。所詮法華経を弘むるを以て現世安穏後生善処と申すなり云云」(御書1838)
と御教示です。御本尊様を受持信行したときの功徳を仰せで、持つことで三類の強敵が出現して現世安穏と知り、大難に値うことで後生善処は疑いないことを確信するよう御指南です。三類の強敵や大難に値うことで、強靭な精神が身に付き、御本仏日蓮大聖人の御境界へと近づくことが出来るのです。
 信心をしなければ、現実の生活に起こりうる苦難も、何故起きるのか理解に苦しみ、どのように解決すればよいのか迷うところですが、信心することにより、人生の障害物となる苦難を、成仏の糧に全て活かしていきます。
 具体的には、大聖人が御指南される修行、勤行唱題と折伏を行うことで、自然と現当二世といわれる、現世安穏・後生善処が現実になるのであります。


妙法の四力「信力と行力」

2005-11-21 | 手引書⑩

 御本尊様を受持し信心する上で、「信力と行力」が大事です。「信力と行力」がなければ、御本尊様から有り難い御利益や功徳を頂くことが出来ません。第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
  「『但法華経を信じ』とは、即ちこれ信力なり。『南無妙法蓮華経と唱う』とは、即ちこれ行力なり」(御書文段200)
と『当体義抄』を釈され、信力と行力について御指南です。信力とは、御本尊様を信じる心。行力が余事を雑えず御題目を唱える修行です。「信力と行力」により、御本尊様の尊い「仏力と法力」に浴することが出来、功徳が頂けます。
 更に日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
 「所謂『信力』とは一向に唯この本尊を信じ、この本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち『信力』と名づくるなり。天台の所謂『但法性を信じて、其の諸を信ぜず』とはこれなり。『行力』というは、日出すれば燈詮なし、雨降るに露は詮なし。今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。故に余事を雑えず、但南無妙法蓮華経と唱うるは即ちこれ『行力』なり」(御書文段228)
と重ねて御本尊様を受け持つときに、「信力と行力」が大切であると御指南で、末法という現代は、三大秘法の御本尊様だけに御題目を唱えることが大事です。
 日蓮大聖人は『生死一大事血脈抄』に、
  「日蓮先づ粗(ほぼ)弘め候なり。相構(あいかま)へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。信心の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益なり」(御書515)
と仰せのように、強盛な信力があっても、「信心の血脈」から外れた信力では、無益であることを御指南です。時の御法主上人猊下の御意に、信伏随従した「信力と行力」が実を結び、成仏の境涯へと繋がります。
 日寛上人は「信力と行力」だけではなく、御本尊様の「仏力と法力」が必要であることを『観心本尊抄文段』に、
 「花は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。当に知るべし、蓮華は水に依って生じ、我等が信力、行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水なくんば則ち蓮華生ぜず、若し法力なくんば何ぞ信行を生ぜん。この故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし。水に依って蓮華を生ずと雑も、若し日光を得ざれば則ち翳死疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず。」(御書文段228)
と仰せのように、日光と水を意味する「仏力と法力」がなければ、「信力と行力」が実りません。この日光の仏力と水の法力とは、総本山大石寺に在す、本門戒壇の大御本尊様です。この御本尊様に私達の「信力と行力」を強盛にすることが大切なのです。その上で、寺院の御本尊様や家庭に御安置されている御本尊様に、御題目を唱えることが大事です。それが日蓮正宗七百年間の伝統です。否定する人は、信心に対する浅識を恥じるべきでしょう。
 故に、総本山大石寺登山の重要な意味は、最高の「仏力と法力」を頂いて、私達の「信力と行力」が退転しないよう、不動の信行にするための登山です。
 日蓮正宗の信心は、他力本願ではなく、「信力と行力」を強盛に励むところにあり、その姿に御本尊様が、私達に有り難い功徳を施して下さるのです。


妙法の四力「仏力と法力」

2005-11-21 | 手引書⑩

 「仏力」とは、仏が衆生を救う誓いを立て、その成就を願うことです。「法力」が、妙法にそなわる広大深遠な利益のことです。
 真の「仏力と法力」に、末法時代に生まれた人は、値うことが非常に困難です。日蓮正宗に縁し、信心できる私達は、常に感謝しなければいけません。勤行唱題と折伏をして、恩を報じることが大事です。
 第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
 「但本尊を信じて妙法を唱うる則は、所信所唱の本尊の仏力・法力に由り、速かに観行成就するなり」(御書文段200)
と御教示です。私達の「信力と行力」が、御本尊様に境智冥合するとき、「仏力と法力」が働き、観行成就という信心修行が成就していきます。
 日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
  「『法華の当体』とは即ちこれ法力なり。『自在神力』とは即ちこれ仏力なり」(御書文段200)
と『当体義抄』を釈され、「仏力と法力」を御指南です。更に同抄では、
  「『本門寿量文底の教主』とは即ち人の本尊、仏力なり。『金言』とは、これこの要の法華経・意の法華経・下種の法華経、即ち法の本尊、法力なり」(御書文段200)
と御教示のように、「人の本尊」が仏力を意味し、「法の本尊」が法力を意味しています。つまり、「人法一箇の御本尊」のことです。三大秘法の御本尊様には、「仏力と法力」が具わっていることになります。
 日寛上人は同抄に、
 「但文底下種の本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱うる則んば、仏力・法力に由り即ち観行成就することを。若し不信の者は力の及ぶ所に非ざるなり」(御書文段201)
と仰せの如く、信じない人には、当然、御本尊様の「仏力と法力」はありません。素直に信じ、純粋な気持ちで御題目を唱えれば、御本尊様の「仏力と法力」が働くのです。
 日寛上人は同抄に、「仏力と法力」について御相伝による御指南をされています。
  「『法力』というは既に迹中化他の三世の諸仏の図果の功徳を以て、本地自行の妙法五字に具足す。故にこの本尊の力用化功広大、利潤弘深なるは即ちこれ『法力』なり。『仏力』というは久遠元初の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足円満の妙法五字を『我本立誓願』の大悲力を以ての故に、一幅の本尊に図顕し、末法の幼稚に授与する時、我等この本尊を受持すれば、自然に彼の自行化他の因果の功徳を譲り与え、皆成く我等が功徳と成し、『如我等無異』の悟りを開かしめたまうは、偏にこれ『仏力』なり。」(御書文段228)
と仰せです。日蓮正宗では、宗祖日蓮大聖人已来、御歴代上人の御相承により、今現在に伝えてきており、未来においても広宣流布の暁まで、正しく伝えていくのであります。血脈相承を信じるところに、御本尊様の有り難い「仏力と法力」が私達の身心に功徳として頂くことが出来るのです。
 毎日の朝夕における勤行と唱題行で、御本尊様から「仏力と法力」を冥益として頂くことが出来ます。寺院での唱題行は、唯一御本尊様から「仏力と法力」を頂ける大事な修行です。