[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

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別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

伊藤博文

2007-06-22 | 頭の栄養になるテレビ番組

その時歴史が動いた
「ニッポン外交力誕生~伊藤博文・神戸事件解決~」

激動の明治維新、その直後に起こった「神戸事件」をめぐって、若き伊藤博文が
いかにして欧米列強とわたりあい、一人前の国家として日本を導いたのか。
とても、興味深い番組内容だった。

今回の放送の『その時』は伊藤博文が神戸事件を解決した1868(慶応4)年2月9日。
この事件の解決を機に明治新政府は国際法を基にした外交を展開するようになる。

神戸事件とは、慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸三宮神社前で備前藩(現・岡山県)の
兵が隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させた事件。幕末ので、これを発端に、銃撃戦にまで展開。
これを契機に、一時、欧米列強の軍が神戸中心部を占拠し、列強は神戸占領。港を制覇し、
植民地状態とした。明治政府初の外交問題となった。

そして、長州藩士・伊藤博文がこの事件の解決にあたった。イギリスに留学し、国際経験が
豊富だった伊藤は新政府の代表として立ち向かった。だが、事件関係者の処刑を要求する
列強に対し、江戸時代からの慣習を盾にする備前藩との間で、伊藤は苦しい立場に立たされた。

この6年前には「生麦事件」から薩英戦争にまでなった経緯があるから二の舞は懲り懲りだ
という思いもあったことだろう。

それから、伊藤らは「新国家」のため、当時の国際法「万国公法」を基に備前藩を説得した。
伊藤の活躍で衝突は避けられ、事件関係者の引渡しを備前藩が了承。伊藤は「関係者
の切腹を見届けるように」と約束させ、列強の外交官をその切腹の場に立ち会わせた。

外交官たちがハラキリのシーンを目の当たりにすることによって、日本の覚悟、日本の
武士魂に圧倒されるという狙いがあったのだろう。

番組の中では、切腹のシーンについて詳しくは紹介されていなかったが、この頃の切腹の
作法は実際に腹をグサグサっと斬るわけではなく、刀を腹に押し当てたところで介錯人が
首を落とすのが決まりだった。しかし、大砲隊長の滝善三郎が「切腹の儀」を執り行う際、
古来の作法通り実際に腹を斬り裂いたのだった。

そして、イギリスの新聞がこの事件を報じたため、欧米で「日本のハラキリ」が一大セン
セーションを巻き起こした。だが、当の日本はというと、同年9月元号を「明治」と改めて、
武家社会はいよいよ終焉を迎えていったのだから皮肉なことだ。

まあともあれ、これで列強側も矛を収めることになるのだが、この時、なんと、伊藤博文は
若干27歳であったというから驚きだ。

その後、1868年5月伊藤博文は兵庫県知事となり、神戸を国際都市へと歩むための基盤整備
に尽力した。伊藤は市街清掃班を編成し、自らも率先して街の美化に努めるなど、居留地の
外国人にも評価された。

番組のシメには、条約改正のため岩倉使節団の一員としてアメリカを訪れたときの、サンフラン
シスコでの英語で行ったスピーチ(『日の丸演説』と呼ばれている)を紹介していた。

「日本はまだ誇れるような能力があるわけではない。
しかし今まさに他の文明諸国の歴史に鑑み、
誤りを避けてその良い所のみを採り入れたいと願っている。
我が国の国旗の中央にある赤い丸は、本来、昇る朝日を象徴している。
日本はこれから世界の文明諸国に肩を並べ、そしてついには抜きんでて、
この朝日のように天高くのぼっていくだろう…。」

当時31歳の伊藤博文の新生日本の国造りへの思いが参会者の胸を打ち、
万雷の拍手がしばし止むことなかったという。

幕末から明治にかけて、国のカタチをつくりあげるために
『誇り』を胸に生きた波乱万丈の生涯に触れ、ジーンと胸が熱くなった。

いやあ、いい番組だ~。



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1 コメント

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ゃぁゃぁ (ゅぅヵ)
2007-07-07 18:03:57
http://www.netmarble.jp/

コレダ!!!!
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