[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

ベスト学習会 www.bestkai.com
別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

「世界を見る目が変わる50の事実」

2006-04-30 | 頭の栄養になるテレビ番組

毎週土曜日放送の 『世界一受けたい授業』 は、毎回講師の先生をスタジオに招き、その先生の研究内容の発表して、いかにみんなに楽しんでもらえるか、興味を示してもらえるか。個々の先生方が思考を凝らした授業内容で毎回楽しみにしている。

今回4月29日の3時限目の講師は、イギリスの国営放送BBC(日本でのNHKのようなもの)で、ジャーナリストとして活躍しながら報道番組のプロデューサーでもあるジェシカ・ウィリアムズ先生だった。

世界にある問題点をいかに広く知ってもらえるか、インパクトのある統計や数字を集め、そのデータを通じて事実を知ってもらい、多くの人に「何かやらねばならない」という考えを持ってほしいと力説していた。


彼女の著書で紹介されている、【50の事実】を挙げてみる。ゆっくり目を通してみて下さい。

1 日本女性の平均寿命は八四歳。ボツワナ人の平均寿命は三九歳
2 肥満の人の三人に一人は発展途上国に住んでいる
3 先進国で最も妊娠率が高いのは、米国と英国の一〇代
4 中国では四四〇〇万人の女性が行方不明
5 ブラジルには軍人よりも化粧品の訪問販売員のほうがたくさんいる
6 世界の死刑執行の八一%はわずか三カ国に集中している。中国、イラン、米国である
7 英国のスーパーマーケットは政府よりも多くの個人情報をもっている
8 EUの牛は一頭につき一日二・五ドルの助成金を受け取る。年額にすると世界旅行が可能だ
9 七〇カ国以上で同性愛は違法、九カ国で死刑になる
10 世界の五人に一人は一日一ドル未満で暮らしている
11 ロシアで家庭内暴力のために殺される女性は、毎年一万二〇〇〇人を超える
12 二〇〇一年、何らかの形成外科手術を受けたアメリカ人は一三二〇万人
13 地雷によって、毎時間一人は死傷している
14 インドでは四四〇〇万人の児童が働かされている
15 先進国の国民は年間に七キロの食品添加物を食べている
16 タイガー・ウッズが帽子をかぶって得るスポンサー料は、一日当たり五万五〇〇〇ドル。その帽子を作る工場労働者の年収の三八年分
17 米国で摂食障害を患っている女性は七〇〇万人、男性は一〇〇万人
18 英国の一五歳の半数はドラッグ体験済み。四分の一は喫煙常習者
19 ワシントンDCで働くロビイストは六万七〇〇〇人。連邦議員一人に対し一二五人
20 自動車は毎分、二人を殺している
21 一九七七年以降、北米の中絶病院では八万件近い暴力事件や騒乱が起きている
22 マクドナルドの黄色いアーチがわかる人は八八%。キリスト教の十字架はたった五四%
23 ケニアでは家計の三分の一が賄賂に使われる
24 世界の違法ドラッグの市場規模は四〇〇〇億ドル。製薬市場とほぼ同じ
25 アメリカ人の三人に一人は、エイリアンがすでに地球に来たと信じている
26 拷問は一五〇カ国以上で行なわれている
27 世界では七人に一人が日々飢えている
28 今日の米国に生まれる黒人新生児の三人に一人は刑務所に送られる
29 世界で三人に一人は戦時下に暮らしている
30 二〇四〇年に原油は枯渇するかもしれない
31 世界の喫煙者の八二%は発展途上国の国民
32 世界の人口の七〇%以上は電話を使ったことがない
33 近年の武力紛争の四分の一は天然資源がらみ
34 アフリカのHIV陽性患者は約三〇〇〇万人
35 毎年、一〇の言語が消滅している
36 武力紛争による死者よりも自殺者のほうが多い
37 米国で、銃を持って登校し退学になる生徒の数は、平均して週に八八人
38 世界には「良心の囚人」が少なくとも三〇万人いる
39 毎年、二〇〇万人の女性が性器切除される
40 世界中の紛争地帯で戦う子供兵は三〇万人
41 英国では総選挙の投票者数よりも、テレビ番組でアイドル選びに投票した人のほうが多い
42 米国のポルノ産業の規模は年間一〇〇億ドル。海外援助額と同じである
43 二〇〇三年、米国の防衛費は約三九六〇億ドル。「ならず者国家」七カ国の防衛費総計の三三倍
44 世界にはいまも二七〇〇万人の奴隷がいる
45 アメリカ人が捨てるプラスチック・ボトルは一時間に二五〇万本。並べると、三週間分で月に達する
46 ロンドンの住民は、監視カメラで一日三〇〇回撮影される
47 毎年、西欧向けに人身売買される女性は一二万人
48 英国で売られるニュージーランド産キウイは、その重量の五倍の温室効果ガスを排出している
49 米国は国連に一〇億ドル以上の未払い金がある
50 貧困家庭の子供たちは、富裕家庭の子供たちに比べて、三倍も精神病にかかりやすい


いろいろと考えさせられる…。


象の日

2006-04-28 | 歴史カレンダー

4月28日は 「象の日」です。

江戸時代の1729(享保14)年のこの日、交趾国(現在のベトナム)からの献上品として、清の商人によって長崎に渡来した象(徳川吉宗が中国商人に象の輸入を注文していた)が、中御門天皇の御前で披露された。

その後、江戸に運ばれ、5月27日に将軍徳川吉宗は、象を江戸城に召し、大広間の前庭において観覧した。その後10年以上にわたって浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で幕府が飼育にあたった。

徳川吉宗は、紀州藩主として治世に努力し、賢候として好い評判を得ていた。正徳2年(1712年)に6代将軍・徳川家宣が51歳で病死。後を継いだ4歳の家継も、享保元年(1716年)に8歳で病死し、徳川宗家の血統は絶え、吉宗が8代目の将軍となる。

江戸幕府8代将軍の徳川吉宗といえば、「享保の改革」を行った幕府中興の英主として知られている。質素倹約を重んじ、緊縮政策をとった。しかしながら、徳川吉宗が海外のものに強い関心を持った進取果敢な精神の持ち主でもあり、享保という時代が、鎖国体制下にありながら日本人の海外への関心が高まった時代でもあった。

生きた象が日本に渡来したのは、この享保期が初めてではなかったが、徳川吉宗自らが発注し求めたものであった。象は長崎から江戸まで陸路で運ばれ、民衆に至るまで多くの人が目にする事ができ、熱狂的な歓迎を受けた。象の糞を乾燥させ、幕府の許可を得た上で、薬として売り出しもしたともいわれている。そして、象をあしらった関連グッズ販売等、各分野で象ブームが巻き起こるなど、室町期などの過去の象の渡来とは画期的に異なるものであった。


小魔人は、かつてタイに旅行に行った折、アユタヤを訪れた。悠々と流れるチャオプラヤ川の恵みを受けるアユタヤは、17世紀には日本との朱印船貿易により、1500人が住む日本人町も形成され、山田長政が傭兵隊長として名を馳せた土地である。遺跡の宝庫ともいわれるアユタヤは、ユネスコの世界遺跡に指定されている。

そのアユタヤで、名物ともなっているエレファント・ライディングを体験した。
駅の切符売り場のような感じのところでお金を支払う。
象の背中は地面からの高さが、2メートルくらいあるので、階段を登り、
「象乗り場」と書かれたプラットホームから象に乗る。

象の首の部分に、象使いのお兄さんが座って掛け声をかけながら、象を操る。
象使いのお兄さんは、先が金属で尖ったカギ棒のような形の道具をもっていて、
象の動きを制御していた。耳の後ろやオデコのあたりを小突いて刺激するで…、
ちょっと痛そうだった。「お兄さん、急がなくていいから、そっと歩かせたげて…」と
言葉が通じるなら言いたかったのだが。

象の背中の腰掛け(鞍みたいに据え付けられたベンチ)に座った乗り心地は…。

ぽっこん、ぽっこん。ゆら~、ゆら~。
左右に激しく揺れるので、落ちないように体を支えるのが大変だった。

象の大きさを実感する。象が一歩足を運ぶ度に、体が大きく揺れる。

約30分の象乗りだったが、遺跡の点在する中を、ドシン、ドシン、と練り歩く。
象の背中の高い視線から見下ろす風景。

何とも言えない特別な感慨であった…。 


所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!

2006-04-25 | 頭の栄養になるテレビ番組

所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ! (テレビ大阪で金曜21:00から放送)

子供の頃に学校では教えてくれなかったことや、恥ずかしくて今更聞けないことなどを中心に、所ジョージがつくり出す自由で知的な空間で一緒に学ぶ。"々"は単独では何と読むのかなど、身近で素朴な疑問を取り上げ、解明していく。

先日の放送で取り上げられたテーマの中も「ん~!なるへそ!」と思ったものがあった。

Q:ランドセルの横についている金具は何に使うのか?
A:日本のランドセルの始まりは、明治時代中期、内閣総理大臣であった伊藤博文が、皇太子殿下(大正天皇)の学習院初等科入学を祝し、箱型で革製の頑丈な革製の背負いカバンを特別に作らせ献上した。それが現在のランドセルの原型。その背負いかばんのもとになったのは、西洋式の軍隊の背嚢(はいのう)。その背嚢には、横に手榴弾をぶら下げるための金具がついていた。その名残でも、いまでもランドセルにはものをぶら下げるための金具がついている…つまりあの金具は、爆弾をぶら下げるためのものだったというから驚き!

ちなみに、ランドセルの語源は、背負いカバンを意味するオランダ語「ransel(ランセル)」からきている。


Q:アイスクリームにはなぜ“賞味期限”が書かれていないのか?
A:ほとんどの市販のアイスクリームは、製造から流通までマイナス20℃以下の温度が保たれている。家庭の冷凍庫でも平均マイナス18℃ほど。この低温では細菌が繁殖することはない。また、アイスクリームは原材料がシンプルで、均等に混ぜ合わされているため性質が非常に安定している。そのため、いつまでたっても性質が変化することなく安全なので、特に賞味期限を定めなくてもよいとされている。

食品には、種類によって「賞味期限」と「消費期限」とある。どう違うのだろうとだれしも疑問に思ったことがあるだろう。

その違いはというと、
「賞味期限」は「おいしく食べられる期間」のこと。比較的品質の劣化が遅い食品に表示される。
その食品を提供するメーカーが推奨する、もしくはその食品の味わいが楽しめる期間のこと。保存状態が良好であれば、賞味期限を過ぎても食べることは出来る。
(私はあまり気にしない。色と臭いと直感で判断する。)
 
「消費期限」は「安全に食べられる期間」のことを指す。弁当などのように、いたむスピードの速い食品に表示される。
表示期間のうちに食べないと、安全性に問題を生じる可能性があるというものなので、「消費期限」の過ぎた食品を食べることは、控えた方が賢明。
(しかし、私は翌日は青信号、翌々日は黄信号、3日後は赤信号という法則を勝手につくっているのだ)

さすがの私も、麒麟の田村のように「落として3秒以内はセーフ!」というようなことはできない…。


ちょっと気になるCM

2006-04-24 | ちょっと気になる最近の話題

リクルートの求人情報誌『FromA フロムエー』の赤鬼と青鬼が出てくるCM。

夜、電気のひもを相手にシャドーボクシングをする、暇そうな若者。
突然野太い声で呼びかけられる。驚いて振り返ると、押入れの中に赤鬼と青鬼が…。
「バイト、バイト」とつぶやきながら、若者を軽々と抱え、揺り動かす2人。
ナレーションの決めセリフ「バイトしないと食べちゃうぞ~」とともに、
その巨体を生かして迫力たっぷりにフリーターにバイトを迫るコミカルな内容。

ニートに対して、屈強な鬼が“喝”を入れる。現代の世相を反映したメッセージも
盛り込まれているような感じもある。

初めて見たときは「なんじゃこれ?」って感じだったが、不思議なインパクトがある。

多くの人は、青鬼の方は、迷いなくチェ・ホンマン(218cm/160kg)だと認識できたと思う。

けれども、赤鬼の方は…???

多くの人が同じように ? になったことと思う。

マーク・ハントっぽいけど、違うなあ…
私は、何となくではあるが、極楽トンボの山本かいな??と思った。
でも、それにしちゃあ、体格がガッチリし過ぎてる。
極楽山本だったら、もっとブヨブヨのハズだ…。

で、気になったので検索してみると、

HERO'Sのサイトに出ていた。

謎の赤鬼は、
青鬼の『チェ・ホンマン』と共にK-1所属のファイターである、ロシア人の『アラン・カラエフ』(200cm/180kg)選手であった。

腕相撲世界選手権8連覇、アマチュア相撲世界選手権元優勝者という、
怪力自慢のプロフィールの持ち主。
握力は150キロ、リンゴを軽々と握りつぶして力をアピールする。

この先、格闘技のリングで「チェvsアラン」というカードが実現すれば、「さあ、赤鬼 対 青鬼の対決です!」なんていうふうに実況されるのでしょうか…


夏、到来?

2006-04-18 | 日常の1コマ

今日の中1Sクラスの授業でのこと。
いつも元気満開のT君、今日はTシャツ姿で登場。

「えェ~、マジで!?」

Σ(||゜ロ゜)ヒィィィィ

アリエナ~イ!
寒がり屋の私は、見てるだけで寒気がした。
私は、コーヒーもサムガリヤ・コーヒーを飲んでるくらいだから…

私の衣替えは、毎年ゴールデンウィーク。

それまでは、スーツの下に、長シャツ・パッチを着用している…。
 ( あまり大きな声では言えないけど… )

腹巻もあれば、波平かバカボンのパパになるんですけどね。

オッサンになったからそんなものが必要になったという訳ではない。

実は、中学生の頃からウインターシーズンは長シャツ・パッチ
だった。
(〃ノд`)キャッ


アートな一日

2006-04-16 | 日常の1コマ

「神坂雪佳(かみさか・せっか)展-宗達、光琳から雪佳へ-」 を見に行った。

神坂雪佳(1866-1942)は、京琳派の画家、デザイナーとして明治から昭和にかけて活躍した人だ。

日本ではあまり名を知られず、忘れられかけたアーティストだったが、外国の美術愛好家がその価値を見出し、高い評価を与え世界に紹介したことから日本にも再認識されるようになったのだそうだ。
そんな雪佳の世界が紹介されていた。

雪佳が影響を受けた、彼の源流である俵屋宗達、本阿弥光悦、酒井抱一、尾形光琳、乾山ら、江戸初期の琳派の最盛期の作品に始まり、神坂雪佳の絵画・工芸・意匠まで約80点で展開されていた。

休日のひと時、しばし、悠久の時を過ごしたのあった。


なんと、小魔人が世界ランキング42位に…

2006-04-11 | 小魔人が歩んできた歴史

この度、私、小魔人が、な、な、なんと、世界ランキング42位に輝きました。

すげぇ~  ( ̄ー ̄)ノ▲▲▲おめで島♪▲▲▲ヽ( ̄ー ̄)

え、何が何が…って感じでしょ。

実は、

「ギザジュウ・コレクション」なんです。

こちら、
リアルギザジュウコレクター世界ランキング のサイトに登録されています。

※ギザ10【ギザジュウ】とは、
昭和26年~昭和33年(昭和31年は製造していないので、7年間)に発行された10円玉で、周囲にギザギザが入っているモノの通称。
特に、昭和33年の「ギザ10」は、発行枚数がわずか約2500万枚と少ないので、なかなか手に入らない。
                     右の写真は、我が昭和33年モノ →

この歳になって、世界ランキング登録のため、集めてきた我がギザジュウをちまちまと年代ごとにカウントしたときには、さすがにチョッピリ寂寥の思いがこみ上げた。と同時に、大変な作業だった。

小魔人(Japan代表) キザ10現在保有枚数

26年   46枚
27年  290枚
28年  295枚
29年  324枚
30年   71枚
32年   35枚
33年    6枚

合計 1067枚 どうじゃい!

地味やなあ、なんて言うな!

私の誇る、立派なコレクションなんじゃ。

今や、ギザジュウは、ネットオークションなどにも出品されているのだから驚きだ。


私がまだ、黄色いザルそばを食べていた少年時代の、たしか小学校2年生の時だったと思う。私は親が営んでいた蒲鉾屋の手伝いに(というか、できたての蒲鉾や天婦羅をつまみに)店に出入りしていて、釣り銭の中にタマに混じっている、古ぼけた周りがギザギザの10円玉の存在になんとなく興味(愛着?)を持った。

やがて、世の中から失われていく → 希少価値 → 置いておけば価値が上がる → 儲かる

というような単純な図式も頭に浮かばないでもなかった。

そして、遠い昔のことなので、どのようなきっかけでいつ決心したのかは定かではないが、ある日を境に全く使わずに、貯めておくようになった。そういえば、ギザ10の形の貯金箱を今でも持っているのだが、それを手に入れたときがきっかけだったのかも知れない。

それからというもの、自動販売機でもコンビニでも何か買い物をしたときに、釣り銭として受け取った10円玉の側面をチェックする日々が始まった。見つけたら、家に持ち帰るまでジーパンの右前のポケットの、さらに内側のちっこいポケットに大切にしまった。あのポケットはギザジュウのためにあったのだろう…。

そして、雨の日も風の日も、ひたすら側面をチェックした。
血と汗のにじむトレーニングにより、(何もにじんどらんか…)
ポケットの中で盲牌によって確認することができるまでの腕前にもなった…。

見つけたときの『 プチ幸福感 』はなんとも言えないものだった。

AMラジオ全盛期の時代、私が中高生だった頃によく聞いていた番組で、『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』だったか『ヤングタウン』だったかで、ギザジュウのコーナーなるものもあった。それが今や、ギザジュウやツルジュウなんて言葉すら認知度が非常に低くなった。

たかが10円、されど10円…

かれこれ20数年を経て、今やすっかりオッサンになってしまったが、この間ギザ10に対する熱い想いは冷めることなく継続した。途中で、額面金額以上の価値はほとんど期待できないものなんだということも漠然と理解した。それでも、もうそんなことはどうでもよく、「今更、こいつらとは離れられねえよ…」ってな具合で、ずっと続いている。

そしてこれからも続くだろう…。フレーヾ( ̄0 ̄ゞ)( 尸ー ̄)尸_フレー


「その時歴史が動いた」 ~白洲次郎~

2006-04-08 | 頭の栄養になるテレビ番組

私、小魔人が愛好するテレビ番組の「その時歴史が動いた」が7年目に突入した。

先日の放送は、「マッカーサーを叱った男 ~白洲次郎・戦後復興への挑戦~」
というテーマだった。

この 白洲次郎 は、非常に魅力的な人物で、番組を楽しみにしていた。
期待通り、とても興味深い内容だった。

彼は、現代のなよなよしたイケメンとは違って、ダンディなサムライっていう感じだ。
185cmの体躯で丹精な風貌…。日本で最初にジーンズをはいたといわれる抜群のファッションセンスを備えていた。

17才で単身イギリスに留学。名門ケンブリッジ大学で学んだ。26才までイギリスで過ごし、高級なスポーツカーを乗り回しつつ、Queen's Englishと英国流のマナー・着こなし・コミュニケーションを身につけた。裕福な商家だった実家が破産して帰国し、英字新聞の記者を経て貿易関係の職に就いたが、太平洋戦争の参戦当初より日本の敗戦を見抜き、東京町田に江戸時代に建てられた古い農家と田畑を求め、農業に従事した。

敗戦後、ビジネスマン時代に知己を得た吉田茂に請われて、その右腕としてGHQとの交渉にあたった。憲法制定に深く関与する等、戦後日本の立て直しにおいて大きな役割を果たした。政治家も官僚もみんなGHQにペコペコしていた中、『戦争には負けたけど、奴隷になったわけではない』と、当時アメリカ人と対等に渡り合った唯一の日本人であった。GHQ側の印象は「従順ならざる唯一の日本人」というものだった。

サンフランシスコ講和条約締結の場では、英語の演説原稿を直前に巻紙に書いた日本語に差し替えさせ、羽織袴姿で吉田茂に読み上げさせるなど、負けん気の強さを遺憾なく発揮した。吉田内閣で貿易庁長官を努め、通産省創設にも手腕を発揮しながらも「性に合わない」と、戦後処理が終わった後はあっさりと政界から身を引き、経済界に転身。

その後は東北電力会長・大沢商会会長等の職務を歴任した。公職引退後も80才過ぎまでポルシェを乗り回し、友人であったミヤケイッセイのモデルを引き受けるなど、悠々自適に暮らす。晩年まで長く理事長を務めていた軽井沢ゴルフ倶楽部では、数多くいた入会待ちの人間に対して、たとえそれがどんな政財界の大物であっても便宜は図らない等、その運営に徹底的なフェアプレイ精神を貫き通した。一方で、自分を支えてくれている従業員にはあたたかく接していた。キャディーさんや、工事現場の作業員はじめ、弱い立場にいる人に心から敬意を払っていた。弱いものに徹底的に優しく、私利私欲を持って付き合う人間を極端に嫌い、どこへ行っても地元の子供たちになつかれた人物であった。

白洲次郎の主なエピソード

・昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、ぞんざいに扱われたために憤激して持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。

・戦争直後、GHQの高官に「キミは英語がなかなか上手だね。」と、ケンブリッジ仕込みの英語をほめられると、返す刀で「あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ。」とやりこめた。

・ある時、時の首相が軽井沢ゴルフ倶楽部でのプレイを要望してきたが、
「プレイしたければまず会員になれ!」

・ある日倶楽部にやって来た会員が、乗ってきた車の運転手に自分のゴルフシューズの紐を結ばせているのを目にして・・・
「テメェには手がないのか!」

・自分の信じた『原則(プリンシプル)』には忠実で、「まことにプリンシプル、プリンシプルと毎日うるさいことであった」と正子夫人は語る。遺言は「葬式無用、戒名不用」であった。享年83才。

エピソードはまだまだあるが、私は、20世紀の『格好いい大人』の日本を代表する一人であると思う。権威には卑屈にならない。弱い立場にいる人間に心から敬意を払った。白洲次郎の下で最下層で働く人たちは、雲の上の人、白洲次郎が、自分たちのところまで降りてきて、実に親切にくれたことを、涙を流しながら回顧する。弱いものに徹底的に優しいという、まるで、どこかの漫画の主人公のような人物であった。


最近も、中3の授業で、敬語をテーマとものがあった。聞いてみると、お店で買い物をしたときに、店員の人に対して、「お金を払う」「買ってあげてる」立場なのだから、客の方は敬語なんて使う必要ないよなどと考えている者も少なくなかった。

それは違うだろう。年上の人、あるいはそんなことは関係なく、人とのコミュニケーションにおいて、相手に対する敬意は必要だと説いた。

私は、お客の立場として、店員さんに注文したり、何かを問い合わせたりするときはもちろんのこと、見ず知らずの人と会話をするときは、立場に関係なく、必ず敬語を使うよう心掛けている。年上の人に対してはなお更である。

レジでお金を支払うときも、「こちらは金を出してるんだから」なんて態度ではなく、必ず「ありがとう」という言葉は欠かさない。

自分と相手との関わりや立場など意識せず、お互い気持ちよく接することが大切だと思うから…

まあ、私なりの小さなダンディズムかも知れませんが…