[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

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別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

パールハーバー記念日

2007-12-08 | 歴史カレンダー

1941(昭和16)年12月8日(現地ハワイでは7日)、
日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃し、
3年6ヶ月に及ぶ太平洋戦争が勃発した日。

アメリカ人たちにとっては、この日はリメンバーパールハーバーといって、
全米の生き残った兵隊さんがパールハーバーを訪れて式典を行っている。

今から10数年前の、パールハーバー50周年となる節目の1991年のこの日に、
私はハワイに滞在していた。

そして、パールハーバーの海上に建設されたアリゾナ記念館を訪れた。
海上にある白亜の慰霊塔に立つとすぐ足の下の海の中に、巨大な戦艦アリゾナが
水没しているのをハッキリと見てとることができた。

この記念館から見える真珠湾の景色は、ここで約50年前に惨劇が起こったことなど
信じられないほど穏やかで美しいものだった。

ハワイを訪れたのはホノルルマラソンに出場するためだった。
ホノルルマラソンは毎年12月第2日曜日に開かれている。

当時、大学生だった私は、一度、42.195kmのフルマラソンに挑戦してみたい
と思っていた。そして、どうせやるなら、景色を楽しみ、気持ちよく走りたいと考えた。

しかし、マラソン自体は、ものすごく過酷な暑さの中、楽しむなどという
余裕などなかった。

途中でリタイアせず、何とか完走したというものだった。
タイムなんて、恥ずかしくて恥ずかしくて…

でも、ホノルルで走ってよかったと思うのは、沿道の人たちが
とても温かく声援してくれることだった。

エイドステーションでは、ボランティアの人が飲み物を提供してくれ、
通り過ぎるランナーたちが少しでも暑さをしのげるようにと、
霧状にして水をかけてくれたりなどなど…。

地元の人々が土台を支える、素晴らしい雰囲気の大会であった。


カップヌードル

2007-09-18 | 歴史カレンダー

1971(昭和46年)の今日 9月18日に日清食品がカップヌードルを発売した。

当時の日清の社長でチキンラーメンの開発者である安藤百福が、紙コップで食べられるラーメンをと発案して作られた。
当初の販売価格は1個100円だった。今とほとんどかわらないことにビックリ。

元々、容器の発想はというと、1966年にチキンラーメンの海外進出を目指してアメリカ人バイヤーに売り込んだ際、これらの人々が砕いたチキンラーメンを紙コップに入れ、これに熱湯を注いでフォークで食べていた事がヒントになったとのこと。

また、アルミ箔と紙を貼り合わせた構造の密封性の高いフタは、安藤がアメリカから帰国する際の機内食で出されたマカデミアナッツの密封パックで使われていたものをヒントにしているという。

新たなものを発想しようという思いを強く持つ人は、ヒントとなる物事にたまたま巡り合うんじゃなくて、アンテナの張り方が違うんだなあと思う。

ところで、
「日清食品」の社名、日清といえば、「日清戦争」をイメージする。
社名の由来に何か関連があるのかなあと思い、HPを見ると、

お客様窓口の[よくあるご質問]のページに、Q&Aで記載されていた。

「日々清らかに豊かな味をつくる」という日清食品の創業者である安藤百福の願いから生まれたものです。
なお、「日清戦争」との関係はございません。

とあった。

やっぱりか、同じように考える人が多いからやろなあと、ちょいと喜び…。

他にも興味深いものがあった。

Q、 「日清焼そばU.F.O」の名前の由来を教えてください。
A、 U.F.Oとは、U:「うまい」、F:「太い」、O:「大きい」の頭文字からとっています。

Q、 「日清ラ王」の名前の由来を教えてください。
A、  「ラーメンの王様」からラ王とネーミングしました。
  ( ここには、「北斗の拳」とは無関係ですとは書いてなかった… )

また、もう一つ発見があった。

「どん兵衛」 や 「ごんぶと」など、一部の商品で東西で味付けが違うというのだ。

名古屋地区を「味の境界線(日清のどん兵衛の場合)」として、
西日本用・東日本用と分けて販売しているのだそうだ。ちなみに愛知は東日本用。

東西の見分け方については、 商品のフタ等に(E)または(W)と記号がついている。
Eastの(E)=東日本用、 Westの(W)=西日本用

味の違いはというと、 
東日本向けは「カツオ」を基本味としたのに対して、西日本向けは「昆布」の割合を
多くしている。

細かい配慮があるんだなあ…。

現在は撤去されて、もうなくなってしまったようだが、かつてカップヌードルの広告が、
世界一高額な看板広告であるニューヨークのタイムズスクエアにでかでかと出ていた。

もう一つおまけ:
カップヌードルと『あさま山荘事件』との深いつながりをご存知だろうか。

発売当初は関東地方のみでの販売だったが、販売開始翌年の1972年2月に、あさま山荘事件が起こった。
機動隊員らがカップヌードルを食べる場面が全国に生中継され、各地域から販売希望が多数寄せられ、それが全国販売のきっかけをつくったのだ。
この事件で陣頭指揮を執った佐々淳行の回想によれば、
零下15度にも達する酷寒の中で現場に張り付く機動隊員への給食は困難を極めたが、その場で湯を注ぐだけで暖かい食事ができるカップヌードルは隊員の体力・士気を維持するのに大いに役だったとのことであった。

今回は、なんか、日清食品の回し者っぽくなってしまったが、
実は、私、カップラーメンがあまり好きではないので滅多に食べない。

少し面倒でも、袋入りインスタントラーメンの方を好む。
少し面倒でも、何か少々具を入れて作る、という方針だ。


国民栄誉賞の日

2007-09-05 | 歴史カレンダー

1977(昭和52)年、2日前の9月3日に通算ホームラン数の世界最高記録を作った王貞治が、
日本初の国民栄誉賞を受賞した。

国民栄誉賞とは、前人未到の偉業を成し遂げ、多くの国民から敬愛され、社会に明るい
夢と希望を与えることに顕著な業績があった人に対して、その栄誉を讃えることを目的と
する」として福田赳夫内閣時代の1977年8月に創設された。

1977年9月3日、後楽園球場はものすごい熱気に包まれていた。そのムードは、当時小
学生だった私の記憶にもうっすら残っているような…。

ジャイアンツの王貞治選手が、メジャーリーグのハンク・アーロン選手が持つ世界記録を
超える,756号ホームランを達成した。

そして前人未踏の756号ホームランが達成された2日後、1977年の今日、国民栄誉賞第
一号が王貞治選手に贈られた。

たゆまぬ努力でホームラン王としての地位を守り、ファンを魅了し続けてきた王選手が
受賞するにふさわしい賞だったと言えるだろう。

そして、つい先ごろ、8月7日、メジャーリーグ史上31年間破られることのなかった
ハンク・アーロンの通算本塁打記録755本が、サンフランシスコ・ジャイアンツの
バリー・ボンズ選手によって更新された。

現在、プロ野球個人通算ホームラン数世界1位の記録は日本の王貞治の868本だが、
個人的には、様々な薬物疑惑のあるボンズ選手に抜かれないでほしいなあと思う。


国民栄誉賞受賞者(全15名) 

王貞治 (野球選手、ホームラン新記録達成の功) 昭和52年9月5日
古賀政男 (作曲家、「古賀メロディー」作曲による業績) 昭和53年8月4日
長谷川一夫 (俳優、真摯な精進 卓越した演技と映画演劇界への貢献の功) 昭和59年4月19日
植村直己 (探検家、世界五大陸最高峰登頂などの功) 昭和59年4月19日
山下泰裕 (柔道選手、柔道における真摯な精進 前人未踏の記録達成などの功) 昭和59年10月9日
衣笠祥雄 (野球選手、野球における真摯な精進 前人未到の記録達成の功) 昭和62年6月22日
美空ひばり (歌手、真摯な精進 歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた功) 平成元年7月6日
千代の富士 (横綱、真摯な精進 相撲界への著しい貢献の功) 平成元年9月29日
藤山一郎 (歌手、歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与えた功 美しい日本語の普及に貢献) 平成4年5月28日
長谷川町子 (漫画家、家庭漫画を通じて戦後の我が国社会に潤いと安らぎを与えた功) 平成4年7月28日
服部良一 (作曲家、数多くの歌謡曲を作り国民に希望と潤いを与えた功) 平成5年2月26日
渥美清 (俳優、映画「男はつらいよ」シリーズを通じ人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた功) 平成8年9月3日
吉田正 (作曲家、「吉田メロディー」の作曲により国民に夢と希望と潤いを与えた功) 平成10年7月7日
黒澤明 (映画監督、数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに世界の映画史に輝かしい足跡を残された功) 平成10年10月1日
高橋尚子 (マラソン選手、2000年シドニーオリンピック女子マラソンで優勝 陸上競技で日本女子選手初の金メダルを獲得し国民に深い感動と勇気を与えた功) 平成12年10月30日

賞の歴史上、現在2名が受賞を辞退している。

まずは、福本豊 プロ野球選手、1983年6月に当時の世界記録となる通算939盗塁を達成。
     中曽根康弘首相から国民栄誉賞の授与を打診されたが、
     「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」と固辞。 

  いい味出してる。なんともカッコいいコメントだ~!

そして、鈴木一朗(イチロー)
     2001年10月、小泉内閣はメジャーリーグで首位打者となったことからイチローに授与を打診。
     「国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいた
     だけるのなら現役を引退した時にいただきたい」と固辞した。
     2004年10月、メジャーリーグのシーズン安打記録を更新したことから再び国民栄誉賞が検討
     されたが、再度固辞した。

  イチローは試合後のインタビューなんかでもお行儀の良すぎるコメントばかりだったが、
  最近は、素直な感情を表に出した人間味あるれることも言うようになった。
  是非、メジャーで福本みたいなヤンチャなことも言って欲しいがなあ…と思うのは私だけ…?


「鏡開きの日」

2007-01-11 | 歴史カレンダー

今日、1月11日は「鏡開きの日」。
鏡開きの日には今年1年の一家円満を願いながら、正月に神様に供え、硬くなったお餅を刃物で切らずに、手や槌(つち)で”開”いて、お下がりとして頂くという風習をいう。
鏡餅には歳神様が宿っているので、神様とも縁を切らないように「割る」や「砕く」とは言わず「開く」と、縁起のよい表現を使う。

もともと鏡開きは、1月20日に行われていましたが、徳川三代将軍家光の忌日が20日であったため、幕府が蔵開きの日であった11日に変更し、それが現在に至っているといわれている。

私の幼少の頃にも、日にちはいい加減だったが、鏡開きのようなことをしていたような記憶がある。
手が痛くなるまでチョップをして、ビクともしないのを親に取り上げられる。
そして、割った餅を汁粉や雑煮に入れて食べたものだ。

寂しいかな。
年々、正月らしさというようなものは失われていく。

町並みの風景としての正月…。

ほとんどの家の玄関には注連縄(しめなわ)が飾られていた。
町行くクルマの鼻先にも。

町中がミカンだらけだった。

凧揚げなんて、冬休みは嫌というほどやった。
初めて『ゲイラカイト』を揚げたときの、あの感動たるや…。まさに全身が痺れた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ~! あんなに高く、ほぼ垂直に揚がってるやんけ~。」

指先や映像でなく、全身で感動を味わうことができた。
DSやプレステのない時代に少年時代を過ごしたことを

すごく幸せだったと感じる。


暦が変わった日

2006-11-09 | 歴史カレンダー

11月9日は太陽暦採用記念日

明治時代がまだ始まったばかりの1872年の今日、日本でも太陽暦が採用されることになった。
1872(明治5)年、明治政府が、それまでの太陽太陰暦(旧暦)をやめて、太陽暦(新暦)を採用すると発表し、
明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日とすることになった。

1年が365日という暦は、BC46年にローマ皇帝のジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)によって定められたユリウス暦が最初だ。この時すでに1年を365日とし、4年に一回を閏年とする事も定められた。
現在日本を始め世界の多くで主流となっているグレゴリオ暦はこのユリウス暦を修正したもので、2000年以上も前にこれほど正確な暦を使っていたというのは全く驚きだ。

また、7月は英語で July というがこれはこの月生まれのJulius Caesar(ジュリアス・シーザー)から来ている。彼は大ローマ帝国の礎を作った英雄であるが、クレオパトラとの恋でも有名だ。帝王切開という言葉の由来も彼の名前からだ。

この石膏像の写真は小魔人が所有しているジュリアス・シーザー像である。
高級そうに見えるが、実は100均なのである。

ジュリアス・シーザーは諸国を遠征するのに統一した暦の必要性を感じ、ユリウス暦を作ったのだが、この頃は農耕が始まる3月を1年の始まりとしており、3月から31日の月を大の月、30日の月を小の月として交互に並べた。そして、最後の2月が29日になって、1年を365日とした。閏年の時は2月を30日とした。

しかし、彼の後を継いだ甥のAugustus Caesar(アウグストゥス)が厄介なことをした。
彼はシーザーの後を継いで、ローマ帝国の初代皇帝になった人だが、当時混乱していたユリウス暦を修正し、自らその功績をたたえて自分の生まれ月の8月を自分の名から、Augustとし、2月から一日持ってきて小の月(30日)から31日までの大の月としてしまった。

そして、その後の月の大小も並べ替えてしまって今のような形になった。しかしまあ、2000年も前の人の威光が今も生きていて、月の名称となってしまった上に、1ヶ月の日にちまでも決めてしまうとは・・・

ちなみに、9月以降はSemtember、Octorber、November、Decemberというが、それぞれラテン語で7、8、9、10番目を意味していて、本当の月と2ヶ月ずれている。
これは1年の始まりが3月だった事から来ているのだ。

例えば、10月という言葉は8本足のタコOctopus、また1オクターブに8個の音(ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド)を含むオクターブ(octave)に由来する言葉であるからも8とわかりやすいので、8月のままだったらよかったにと、ホント余計なことをしやがったもんだと思う。


「パソコンの日」

2006-09-28 | 歴史カレンダー

今日9月28日は、「パソコンの日」である。
1979年9月28日に日本電気(NEC)が往年の名器である、PC-8001を発売したのを記念して、「パソコンの日」と言われている。

それから、もう四半世紀が経過した。というより、まだ25年しか経ってないのか…と感慨深く思う。
なんと、発展の速度の速いことか。

当時にしては強力なスペックを誇ったPC-8001は、表示能力も優れていて、8色のカラー表示が出来た。今では携帯電話でもカラーが当たり前だが、当時の国産マシンでカラー表示を標準装備したのは驚きだったという。私の使用している少々古い携帯電話の液晶でも1670万色の表示能力。それが、当時、たった8色で驚愕だったのだから、歴史を感じる。といっても、やはりたった25年前の話なのだ。

16万8千円という価格も手伝い大ヒットを記録し、初のPCブームの火付け役となった。Microsoft社製のBASICを搭載し、初心者でもプログラムが組めるというものだった。国民機とまで呼ばれたPC-9801の祖先でもある。

当時の私は、まだチビっこだったので、「パソコン」が売り出され、ヒットしたという記憶は皆無に等しい。
当時は、パソコンと言わず、マイコンという呼び方しか、世間では浸透していなかったと思うのだが…。

あの頃は、ビデオゲーム(テレビゲーム)にしても、「ブロックくずし」しかない世の中に「インベーダー」が登場して衝撃を受けたものだった。

私は、パソコンを利用するようになる前、ワープロの方が永く使ってきた。
現在は、ワープロってものが全く市場から消え去ってしまい、その姿を見ることもできなくなっている。
その展開もまた、ものすごい速さだ。

現在、パソコンは仕事上、欠かせないものとなっている。プライベートにおいても不可欠だ。

テストの作成、成績管理、セーフティメールなどなど、数え切れない恩恵を受けている。

文字も数字も、そして、写真、映像、音声も音楽も全てデジタル信号でつながり、一連のものとなっている。

その進化の早さについていくのも一苦労だが、頑張らねば…。


象の日

2006-04-28 | 歴史カレンダー

4月28日は 「象の日」です。

江戸時代の1729(享保14)年のこの日、交趾国(現在のベトナム)からの献上品として、清の商人によって長崎に渡来した象(徳川吉宗が中国商人に象の輸入を注文していた)が、中御門天皇の御前で披露された。

その後、江戸に運ばれ、5月27日に将軍徳川吉宗は、象を江戸城に召し、大広間の前庭において観覧した。その後10年以上にわたって浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で幕府が飼育にあたった。

徳川吉宗は、紀州藩主として治世に努力し、賢候として好い評判を得ていた。正徳2年(1712年)に6代将軍・徳川家宣が51歳で病死。後を継いだ4歳の家継も、享保元年(1716年)に8歳で病死し、徳川宗家の血統は絶え、吉宗が8代目の将軍となる。

江戸幕府8代将軍の徳川吉宗といえば、「享保の改革」を行った幕府中興の英主として知られている。質素倹約を重んじ、緊縮政策をとった。しかしながら、徳川吉宗が海外のものに強い関心を持った進取果敢な精神の持ち主でもあり、享保という時代が、鎖国体制下にありながら日本人の海外への関心が高まった時代でもあった。

生きた象が日本に渡来したのは、この享保期が初めてではなかったが、徳川吉宗自らが発注し求めたものであった。象は長崎から江戸まで陸路で運ばれ、民衆に至るまで多くの人が目にする事ができ、熱狂的な歓迎を受けた。象の糞を乾燥させ、幕府の許可を得た上で、薬として売り出しもしたともいわれている。そして、象をあしらった関連グッズ販売等、各分野で象ブームが巻き起こるなど、室町期などの過去の象の渡来とは画期的に異なるものであった。


小魔人は、かつてタイに旅行に行った折、アユタヤを訪れた。悠々と流れるチャオプラヤ川の恵みを受けるアユタヤは、17世紀には日本との朱印船貿易により、1500人が住む日本人町も形成され、山田長政が傭兵隊長として名を馳せた土地である。遺跡の宝庫ともいわれるアユタヤは、ユネスコの世界遺跡に指定されている。

そのアユタヤで、名物ともなっているエレファント・ライディングを体験した。
駅の切符売り場のような感じのところでお金を支払う。
象の背中は地面からの高さが、2メートルくらいあるので、階段を登り、
「象乗り場」と書かれたプラットホームから象に乗る。

象の首の部分に、象使いのお兄さんが座って掛け声をかけながら、象を操る。
象使いのお兄さんは、先が金属で尖ったカギ棒のような形の道具をもっていて、
象の動きを制御していた。耳の後ろやオデコのあたりを小突いて刺激するで…、
ちょっと痛そうだった。「お兄さん、急がなくていいから、そっと歩かせたげて…」と
言葉が通じるなら言いたかったのだが。

象の背中の腰掛け(鞍みたいに据え付けられたベンチ)に座った乗り心地は…。

ぽっこん、ぽっこん。ゆら~、ゆら~。
左右に激しく揺れるので、落ちないように体を支えるのが大変だった。

象の大きさを実感する。象が一歩足を運ぶ度に、体が大きく揺れる。

約30分の象乗りだったが、遺跡の点在する中を、ドシン、ドシン、と練り歩く。
象の背中の高い視線から見下ろす風景。

何とも言えない特別な感慨であった…。 


今日は何の日 ~ アラスカが買収された日 ~

2006-03-30 | 歴史カレンダー

1867年のこの日、財政難のロシアからアメリカが720万ドルでアラスカを買収した。アラスカを譲渡する条約に調印したのが、日本では大政奉還が行われ、江戸から明治に変わった年のこの日だった。

「アラスカ」という州名は、イヌイット語で「広大な大地や半島」を意味する"Alakshak"に由来する。

ヨーロッパ人として初めてアラスカを探検したのはオランダのベーリングで、1741年、シベリアから海を渡ってアラスカに到達した。彼の名前から、シベリアとアラスカの間の海峡は「ベーリング海峡」と命名されている。

アラスカの面積は1,530,686平方km(日本の約4倍)でアメリカ合衆国の州の中では最も広い。
また、人口は60数万人で、枚方市の人口の1.5倍しか住んでいないのである。もったいないというか、何と言うか…。

かつて、ロシアの捕鯨従事者や毛皮商人がアラスカに定住し、アラスカは帝政ロシアの植民地となっていた。 しかし、クリミア戦争後の苦しい財政状況にあったロシアはアラスカを売り渡すことにした。アメリカのスワード国務長官は、720万ドルでアラスカを買い取った。1平方キロメートル当たり5ドルに相当。

720万ドルは、現在の価値に換算するとおよそ9000万ドルである。だいたいの目安で言えば、スポーツ選手で毎年年収ランキングで1、2を競っている、タイガーウッズの1年分の収入に相当する。また、別の例では、日本の芸能人長者番付1位のみのもんたと2位のSMAP中居正広の年収を足せば買えるのだ。さらに、ホリエモンが自家用ジェット機の購入に支払った金額があれば、アラスカを5つも買うことができる。そんな金額でアメリカはロシアから買い取ったのだ。

当時、毛皮資源は乱獲のため激減し、アラスカは利用価値のない、役立たずの土地と考えられていたため、多くのアメリカ人は、この交渉をまとめたスワード国務長官を揶揄して、アラスカのことを「スワードの氷冷蔵庫」と呼んだ。

1880年に金鉱が発見されたことから、「役立たず」だと思われていた土地に、多くの人々が一攫千金を目指し移住した。その後も各地で大規模な金鉱脈が発見され、ゴールドラッシュの時代を迎えた。

そして、現在のアラスカは、石油と天然ガスの一大生産基地となっている。アメリカ全土の原油生産のうち、なんと25%はアラスカである。

ロシアは、さぞ悔しがっていることだろう。

ちゃっちゃか♪ ちゃちゃ♪ ちゃちゃちゃちゃ ちゃ…………♪♪ ちゃっちゃか♪ ちゃちゃ♪ ちゃちゃちゃちゃちゃ…………♪♪

♪ ロシアが、ア~メリカにィ、大安売りしたアラスカは~、
宝の山~で~した~ ♪
ちっくしょーっっ!!!!by 小梅太夫


坂本龍馬

2006-01-26 | 歴史カレンダー

Tomuo殿、コメントありがとうございます。
Tomuoも聖地である「霊山護国神社」に行ってたとは、なかなかやるなあ…


  若き日の小魔人のハズカシpictureその1


こんな感じで、部屋の壁には、桂浜を訪れたときに買った
龍馬のポスターがあり、なぜかパジャマ姿で龍馬の格好をしている。


「長い刀は実践の役に立たぬ! わしゃあ、これじゃき…
と言って短い刀をすすめ、次に会った時には、懐中から

「今の時代はこれじゃき…」と、ビーフジャーキーを取り出して、ひとかぶり ...


などと、馬鹿なこととしていた。
            ( -_-)ノビシ*)゜O゜) あぅ

これも桂浜で買ったかなあ。
一度、落っこちて“ポキッ”とクビがとれたことがありましたが、
なんとか接着剤で引っ付けて、
現在もほこりを被って、毅然と立ってます。


薩長同盟の日

2006-01-21 | 歴史カレンダー

江戸時代末期の1866年の1月21日、薩摩藩(現在の鹿児島)と長州藩(現在の山口)との間で、政治的・軍事的同盟が結ばれた。


ペリーの黒船が浦賀に来航してから10年。幕府の権威は地に落ち、強い影響力を持った藩である薩摩藩と長州藩は倒幕の思想では共通していたが犬猿の仲であった。西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864年、会津藩と組んで長州を京都から追放するクーデタを起こしたり(八月十八日の政変)、これに対して反撃した長州を大敗させたり(禁門の変)、第一次長州征伐で薩摩が長州を屈服させたりするなどし、両藩は感情的に対立していた。


そこで薩摩・長州双方に縁のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎が間に入る形で、双方の実力者の会談をあっせんし、手を握らせようと考えた。下関での会談を西郷隆盛が直前に拒否するという事態もあったが、1866年1月21日に、京都の薩摩藩邸で薩摩の西郷隆盛と家老の小松帯刀、長州の桂小五郎(木戸孝允)が、倒幕運動で幕府との開戦・非開戦および勝敗いずれの局面においても両藩が協力すべきことで協力するなど6か条の同盟が成立した。

双方のしこりと疑念をなんとか晴らそうとした龍馬は、長州藩の「武器」、薩摩藩の「米」という、互いに不足しているものを贈りあうという、独創的な仲介によって、最も険悪な仲であった両藩が高い垣根を越え手を結ぶこととなった。

私、小魔人もかつて訪れたことがあるが、東山の急な登り坂を突き進んだところに霊山歴史館がある。ここには多くの幕末関係物が展示されており、新選組関連の展示もある。また、この博物館に隣接する所には、京都霊山護国神社という、幕末から明治維新にかけて、国事に紛争した志士たちを祀る神社がある。山の斜面におびただしい数の墓がある。中でも特に目を見張るのは、銅像のすぐそばにある標坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓だ。ファンからの千羽鶴やお供え物がいつも絶えないようで、龍馬の根強い人気が感じられた。


     世の人は 我を何とも 言はばいへ
       我が成すことは 我のみぞ知る

これは坂本龍馬が19歳のときに詠んだと伝えられる歌だ。
「他人に何と言われようが関係なく、自らが信じるところを成す」・・・自分の可能性を信じて、精一杯に生きる、龍馬自身の生き方を物語っている歌だといえる。

たしか、『その時、歴史が動いた』でも、この歌で締めくくってたなあ…。(^▽^)ゞ


754年 唐の高僧・鑑真が来朝

2006-01-16 | 歴史カレンダー
754年の今日、1月16日に、唐の高僧・鑑真が遣唐副使・大伴古麻呂に伴われて日本にやってきた。5度の航海失敗で失明し、6度目にしてやっとその思いをかなえることができた。

なぜ、鑑真が国禁(当時は国外に出ることは禁じられていた)と命の危険を冒してまで、日本に渡ったのか。また、それをなぜ、弟子でなく高齢で地位も確立した鑑真に望んだのか。中学の歴史の教科書にもそのような記載はなく、ただ、盲目になりながらも日本に渡航した偉いお坊さんというように紹介されているだけだ。

日本に仏教が伝えられてから200年経った、天平文化で有名な聖武天皇の時代には鎮護国家の思想の下、中央に東大寺・薬師寺などが、地方に国分寺・国分尼寺が建立されて、仏教は大いに栄えていた。しかし、そのような時においても、なお日本にはまだ正式な僧侶は存在しなかった。何故かというと、仏教において正式な僧侶となるためには、三師七証(3人の僧と7人の証人)による授戒が必要であるが、戒律(仏教において守らなければならない、道徳規範や規則)を伝え、それに基づいて僧侶の認定を出来る資格を持った僧が日本にいなかったからである。国家仏教を完成させるためには、中国(唐)から日本に授戒僧を招くことが必要であり、聖武天皇は強くそれを望んだ。

鑑真は、唐の揚州江陽県の生まれで、14歳のとき出家。今で言えば中学2年生にして出家したということになる。当時律宗が盛んで、鑑真もあちらこちらと高僧を歴訪して研鑽を重ねていた。733年の遣唐使とともに入唐した興福寺の僧・栄叡と大安寺の僧・普照は、中国各地を旅し授戒僧の派遣を懇請したが、目的を達することなく、むなしく10年が経過した。揚州に入り、大明寺の高僧鑑真に会い、授戒僧の日本への派遣を懇請した。しかし、鑑真の弟子たちは、誰一人、この要請に応じる者はいなかった。日本行きは国禁を犯す重罪であるばかりでなく、日本への渡海は、航海技術の未熟な当時においては、命懸けの危険なものであったからである。その時、鑑真は既に55才と高齢であったが、留学僧たちの熱心な懇願に、「誰も行かぬなら我行かん」と決然と応えたという。

しかし、日本へ渡ることを決意したものの、鑑真の徳望を惜しむ皇帝の反対や、暴風・盗賊などの難にあい5度にわたり失敗し、ついに潮風に侵されて失明した。第6回目は密かに遣唐使の船に便乗し、753年12月、数々の苦難を経て、渡航を志してから12年目にして九州に到着した。東大寺大仏開眼の次の年であった。ときに鑑真67歳。度重なる困難にも負けず初志を貫徹した鑑真等の不撓不屈の精神力は驚くべきものである。

翌年1月平城京に到着。勅命(天皇の命令)により東大寺に居を定め、戒壇(僧侶に戒律を授けるために設けた壇)の建立と授戒伝律を一任された。

同年4月には、東大寺大仏殿前に戒壇院を設け、上皇から僧尼まで400名に戒律を授けた。759年に、わが国唯一の戒律専修道場として、唐招提寺を創立した。

鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。そして、763年、76歳で波乱の生涯を終えた。

私、小魔人は、国宝になっている、鑑真の弟子の忍基がつくった鑑真和上坐像をこの目で見てみたいと、かつて唐招提寺を訪れたことがある。が、ちょうどそのとき、唐招提寺の本殿の大改装工事が行われている最中だった。

入り口の受付のおばちゃんに、「今、改装中ですから~、残ネ~ン!」みたいなことを言われた。

 ( ー_ー)_中☆{{{Д}}} カ・ル・ロ・ス ゴーン!!

  <(゜0゜;)> え…マジ? 

鑑真和上像を見られないのなら、お寺だけを見てもなあ…と、結局、中に入らずに、薬師寺に行った。その後、まだリベンジを果たせぬままである…。


■吉田松陰(1830~1859)

2005-10-27 | 歴史カレンダー
今日、10月27日は「松陰忌」。長州藩で松下村塾を開き藩士の子弟を教育した吉田松陰が安政の大獄で捕えられ、この日に処刑された。

吉田松陰は、長州藩萩(山口県萩市)の生まれで、少年時代は兵学の勉強に才能をしめした。21才のとき、長崎などをめぐり、翌年江戸に出て、佐久間象山に洋学を学んだ。時代の流れを敏感に感じとり、いかにして欧米の国々に対抗できる日本国家をつくるかを追究した。

1853年ペリーが来航。鎖国をしていた日本にとって、それまでの平和な世の中に衝撃を与えたこの黒船騒動の中で、松陰は、西洋文明を学ぶことが日本を救う道だと考えた。下田沖に停泊していたペリーの軍艦にむけて、夜小船で漕ぎ出した。軍艦に乗船し米国に連れて行ってもらえるよう懇願した。

さながら、月の世界からかぐや姫を迎えに来た宇宙人に同行するくらいの勇気が必要だったのではないかと思う。

当時、海外渡航は国禁。ペリーは、死罪をも覚悟の行動に心を打たれながらも、幕府との交渉の支障になることを恐れて拒絶した。翌朝自首し、海外渡航を計画した罪で投獄されてしまう。その後、下田―江戸―萩の牢屋を転々とした。松陰は獄中にあっても、そのたくましい生命力と志はいささかもくじけることはなかった。萩の野山獄では、1年2ヶ月収監され、その間618冊の本を読破し、詩作、句作、書道に励み、入獄中の囚人に「孟子」の講義勉強会を開く等、教育者としての道を開く。実家である杉家で謹慎処分の身となってからは、近隣の青少年の教育を始めた。これが「松下村塾」である。
 松下村塾
松陰の教育は、読書をすすめるとともに実行を重んじ、特に個性を重視した指導を徹底した。その名声は世に知れわたり、多くの人に慕われたが、幕政を批判したという理由で再び野山獄に入れられ、江戸送りになってしまう。塾は、その師を失い、わずか2年余りで閉鎖されたが、松陰は獄中からもなお、手紙で塾生を激励するとともに志の継承を訴え続けた。このように松陰は、生涯を通 じ一貫して行動の人であり、困難をものともしない不屈の人であったといえる。

大老の井伊直弼による”安政の大獄”により安政6年10月27日刑死。10月25日死を予知して遺書を書き始め、翌日の暮れにまでおよんだという。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
の句を置き、全編を「留魂録」と命名。その翌日、斬首に処せられる。

彼の思想は、松下村塾での教育や遺書「留魂録」などを通 じて、門下生達に受け継がれ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、幕末維新の激動期に大きな役割をになった人達を育てた。

松蔭は人と言葉を少し交わしただけでその人物の長所・短所・将来どのような方向へ伸びていく可能性があるのかを見抜いてしまう不思議な才能があったといわれている。そうして、その長所をほめて伸ばす、本人すら気づいていない潜在力を引き出していった。

小魔人もかつて山口県にある松下村塾を訪れたことがある。実際に自分の目で、松下村塾の建物を見たときは、「ひえ~!こんなに小さいんや!」  Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン…って感じだった。けれども、この小さい建物から、たくさんの大物が育ったんだと思うと感慨深い。小京都とも言われる萩には、日本がダイナミックに躍動した時代の歴史の足跡が数多く残されていた。そばに、売店があったので寄ってみたが、残念ながら、“煎じて飲むための松蔭の爪の垢”は売っていなかった。

秋分の日(Autumnal Equinox Day)

2005-09-23 | 歴史カレンダー

今日は秋分の日です。夕方6時を過ぎると空も暗くなり、夏のような明るさもいつの間にかなくなっています。
理科の問題にもよく登場しますが、秋分の日は、太陽は天の赤道上にあり、真東から出て真西に沈みます。春分の日と同様、昼と夜の時間がほぼ同じになる日ですね。

カレンダーでは、春分の日・秋分の日は固定しておらず、それぞれ3月21日頃、9月23日頃となっており、年によって1日ずれるときがありますよね。素朴に「何でやろ?」と思ったことありますか。
 
 太陽の公転周期が、約365.2422日と半端な日数になるので、その端数の分が影響して日付がずれることがあるのです。ただ、4年に1度の閏年は元々この半端な日数を整数で近似するために設けたものなので、4年ごとにはほぼ同じパターンが繰り返されます。

真東から太陽が昇り、真西に太陽が沈む、春分・秋分の日の日の太陽の南中高度は、「90°-観測地点の緯度」となります。

今後、日の出はだんだんと真東より南から昇るようになり、日が短くなっていきます。

ところで、全く逆に、北極・南極付近で夏至、冬至の前後に起こるの白夜(日が沈まない)や極夜(日が昇らない)って、どういう気分なのか、一度経験してみたいなあと思いますね。ずっと住むのは嫌ですけど(^~^;)ゞポリポリ

その他、過去の今日の出来事

海王星の日
1846年の今日、ベルリン天文台のJ・G・ガレが海王星を発見しました。
1781年の天王星の発見以降、その軌道がニュートンの天文力学に合わないのは、その外側にさらに惑星があるためだと考えられていました。
そのためいろいろな科学者が天王星の軌道の乱れ等を元に未知の惑星の大きさや軌道・位置を計算しました。
そして、パリ天文台のル・ベリエが計算で予言した場所に新しい惑星が発見されました。
イギリスのアダムスもその場所を突き止めていたため、ル・ベリエとアダムスが共同発見者とされています。
なおルベリエは,天気予報の基礎を築いた人としても知られています。

万年筆の日
1809年の今日、イギリスのフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが金属製の軸内にインクを貯蔵できる筆記具を考案し、特許をとりました。


時の記念日

2005-06-10 | 歴史カレンダー
6月10日は「時の記念日」です。天智天皇が、近江大津京の内裏に漏刻(ろうこく)を設置して、鐘や鼓を鳴らして時刻を知らせたと日本書紀の記述にあります。これが日本における最古の時報ということになります。歴史で習う有名な人物ですが、中臣鎌足ととともに蘇我氏を滅ぼし、大化の改新を行い、律令国家体制の基礎をかためた中大兄皇子(=即位後・天智天皇)でしたね。

漏刻とは水時計のことで、その構造は、全部で五つの階段状に並んだ水槽からなり、水が一定の速度で水海とよばれる壺(つぼ)に貯まり、水海の水位から時刻を測るというものです。

この漏刻の採用には、たいへん大きな意味がありました。そこには「時空」をも支配しようとする当時の朝廷の政治改革の理念が、象徴的に示されています。

「時の記念日」にまつわるオマケとして、「時」に関する雑学を紹介します。

*時計の針はなぜ右回りか?
「時計回り」という言葉があるくらいですが、時計の針が右回りに動くというのは、エジプトで初めて作られた日時計の「針」つまり、地面に投影された太陽の影が右回りに動くことに由来するからです。太陽の運動は東→南→西なので、その影は西→北→東という右回りになります。機械式の時計もこの運動に合わせたのです。もし、南半球で日時計が誕生していたら、左回りになっていたかも知れませんね。

*なぜ時計の文字盤には0の数字がないのか?
モノサシでも体重計でも、計測器は何でも0から始まるのに、時計の文字盤は12から始まります。これは、時計の発明よりも「0」の発見の方が遅かったということなのです。インドで「0」が発見されるよりもずっと前に時計は発明されており、文字盤のついた日時計や水時計がすでにあったのです。

*現在のような時計はいつ日本にもたらされた?
日本に初めて機械時計(歯車の置時計)が渡来したのは、スペインの宣教師フランシスコ=ザビエルによって大内義隆に献上されたのが最初とされている。時打ち装置をもつこの時代の時計は自鳴鐘と呼ばれていました。

*サマータイムとは?
「サマータイム」は、夏期、時計を1時間すすめるというものです。現在、世界中で70以上もの国がこの制度を実施しています。日本も戦終に4年間だけ導入したことがあります。「サマータイム」のメリットはというと、夏の日光をたくさん浴びることにより、健康によい。夜は早く寝るようになるので、電気が節約できる。明るいうちに仕事が終わるから、遊ぶ時間が増えることにより消費が増え、景気がよくなるとも言われています。エコな私は、日本もこの制度を導入すればいいのにと思います。

児島惟謙と大津事件

2005-05-27 | 歴史カレンダー
1891年の今日<5月27日>、大津事件でロシア皇太子を斬りつけた津田三蔵に対して、大審院が政府の大逆罪適用の要求を退けて、一般人への謀殺未遂罪を適用し無期懲役判決としました。

これは中3社会科の公民で勉強する「司法権の独立」に関する最も代表的な事件です。

1891年(明治24年)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライに、滋賀県大津市で沿道警備中の巡査(警察官)である津田三蔵が突然サーベルを抜き、斬りかかったのでした。

津田巡査はすぐ取り押さえられ、皇太子は額に2ヶ所傷を負っただけで命に別状はありませんでしたが、あとの日程をキャンセルして数日後帰国しました。逮捕された津田三蔵巡査は、ロシアの強圧的な態度を不快に思っており、皇太子に一太刀を加えて、「彼ノ心ヲ寒カラシメントセリ」と動機を述べました。

当時日本はまだ国際舞台に登場してから30年の弱小国、相手は世界屈指の軍事力を擁するロシア帝国ということで政府は震え上がり、津田三蔵を死刑にしないとロシアと戦争になると恐れて裁判所に圧力を掛けました。

法的に見ると被害者が日本の皇族であれば死刑を宣告することが可能でしたが、相手は外国の皇族であり、法律上は一般人と同じ扱いになります。従って怪我を負わせただけなのに死刑を宣告することは法的には無理がありました。そして、大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙(これかた)は法治主義の立場から政府の圧力をはねつけ、法定刑内で「無期懲役」の判決を下しました。この事件により、児島が政府の圧力に屈せず、司法の独立を守った事件として語り継がれることになりました。

児島惟謙は、私の母校である関西大学(前身は関西法律学校)の創立者でもあり、私は大学時代、法学部の学舎へ通う道すがら、毎日彼の銅像を目にして大志を抱いていたものでした。