[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

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別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

クロアチア

2006-06-17 | サッカー最前線

さあ、明日は サッカーワールドカップ2006ドイツ大会
崖っぷちジーコ・ジャパンの第2戦!

対戦相手のクロアチアは、ブラジル戦でも臆すことなく、非常にいい勝負をした。

このクロアチアって、一体どんな国なんだろう?
雑学的なことも含めて紹介する。

クロアチアは、1992年に独立国として認められるまではユーゴスラビアと呼ばれていた。
ユーゴスラビアは、歴史の教科書では、「ヨーロッパの火薬庫」でおなじみのバルカン半島の大部分を占め、
クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツゴビナ、セルビア・モンテネグロ、マケドニアに分裂した。

イタリアとアドリア海を挟んで右対面に位置し、緯度は日本の北海道とほぼ同じ。
国の面積は九州の約1.5倍しかない小さな国土。

その海の美しさは世界有数で「アドリア海の真珠」と呼ばれ、観光客も多く訪れる。
首都のザグレブは、古い建物が並び緑に包まれ、路面電車が縦横に走る、落ち着いた街で、
「小ウイーン」とも言われれている。

クロアチアにまつわるトリビア

◆ 『東方見聞録』で、"黄金の国ジパング"を初めてヨーロッパに紹介したマルコ=ポーロ。
イタリアのヴェネチア生まれという説もあるが、クロアチアではアドリア海の
コルチュラ島で生まれたクロアチア人である、と堅く信じられている。
"マルコポーロの家"は現在も残されていて、博物館になっている。
 
◆ クロアチアはネクタイ発祥の地である
ネクタイという言葉は英語の Necktie で、縮めて Tie と表現することが多い。
英国以外のほとんどのヨーロッパ諸国では、ネクタイのことCravat(クラヴァト)という。
これはクロアチア人を意味するクロアットに由来するのだそうだ。

そもそもは、17世紀前半、クロアチアの騎兵軍団が戦場に出るとき、
妻や恋人が出陣する兵士の無事を祈って首にスカーフを巻いて送り出しことから
が始まり。そして、クロアチアの軍装は、美しいスカーフを首の周りに巻くのが伝統となった。

1656年にクロアチア人の兵隊がパリにやってきた時のこと、彼らが首にリンネル(亜麻の繊維)で
できた布を巻いていたのが、おしゃれ好きなルイ14世の目に止まり、それ以降ファッションとして
登場し流行した。

(ちなみに、日本人初のネクタイということでは、
文献に出てくる、はじめてネクタイを締めた日本人は、漂流した末アメリカ船に助けられ
アメリカにまで渡ったジョン万次郎(中浜万次郎)で、1841(天保12)年のこと。 )

◆ 101匹ワンちゃんで有名なダルメシアン犬の産地である。
クロアチアのダルマチア地方を原産とする中型犬で、
18世紀中頃からダルメシアンの名で知られるようになった。
 
◆ クロアチアにまつわる有名人
柔道、空手、合気道等の日本の武道に対する関心も高く、中でも格闘技、K-1、プライドで
活躍している “ミルコ・クロコップ” は国の英雄。国会議員でもある。
リング上でのパンツは赤白のチェッカー模様。
サッカー代表のユニホームも同じ模様で、中世より使われている、クロアチアの象徴である。

サッカーでは、クロアチアには12のクラブチームがあり、その中の名門「ディナモ・ザグレブ」には
かつて日本のカズ(三浦和良)も在籍していた。このザグレブには、ズラトコ・クラニチャール監督
もかつてFWとして活躍し、英雄的な存在であった。息子で、司令塔のニコ・クラニチャール(21)
も同クラブ下部組織でプレーし、18歳で主将を務めた。

「えこひいき」だという批判の声もあったが、息子のニコ・クラニチャールはしっかりと役割を果たし、
文句を言わせない働きをしている。日本との対決でも、恐ろしい存在となるだろう。


タイムスリップ

2006-06-13 | 日常の1コマ

週末、小学校6年生時代のクラスの同窓会があった。

担任としてお世話になっていた先生が、今春をもって長年の教師生活を終え、
退職したことのお祝いを兼ねての集まりとなった。

最後の同窓会から20年ぶりという、長い隔たりがあったにもかかわらず、
『あれれ…、顔と名前が一致せえへん…、誰やったかなあ…』
ということは全くなく、
全員のことを迷いなく認識できた互いによそよそしさなどはなく、アットホームな雰囲気だった。。

記憶というものは不思議なものだ…
同窓会の前、6年生時代のことを考え、
「どんな仲間がいたっけなあ…、どんなことして遊んだかなあ…」
と思い巡らせても、
その記憶の糸を手繰り寄せることはなかなか容易なことではなかった。

けれども、ひとたび昔の仲間と顔を合わせ、その声を聞けば、
驚くくらい鮮明な記憶が、次々と蘇ってきた。

それぞれの昔の思い出の断片が折り重なり、話題は尽きず
とても時間が短く感じられた。

心なしか、自分もちょっぴり若返ったような気がした。


日本サッカーリーグ

2006-06-06 | 小魔人が歩んできた歴史

いよいよサッカーのワールドカップが近づいてきたが、

1965年の今日、6月6日はJリーグの前身となる
日本サッカーリーグが誕生した日である。

当時、全国的規模のリーグ戦はプロ野球以外にはなく、
日本アマチュアスポーツとしては初の全国リーグとなった。

サッカーの黄金時代の幕開けとなる1964年、東京オリンピックが開催され、
中でもチケットの取りやすかった(試合数が多くかつマイナーだったので)
サッカーを見る人が多く、そして、7位と好成績を収めた日本代表の影響もあり
サッカーブームが到来したのである。

そして、その時のコーチであるクラマーさんの助言によって、
1965年にいつかはプロに・・・という願いを込めて、日本サッカーリーグが誕生した。

これが1968年のメキシコオリンピック 銅メダルの原動力となったのだった。

1960年代から1970年代にかけては東洋工業、ヤンマーが実力的な中心的存在で、
釜本邦茂選手はリーグを代表するストライカーだった。

私、小魔人はずっとサッカー少年だったのだが、
少年時代には今とは違って、サッカーをテレビで放送していたのを
見た記憶はほとんどなく、釜本・奥寺(ドイツに移籍)くらいは選手も知ってはいたが、
~選手に憧れてというようなこともあまりなかったと思う。

やはり、プロ組織があるとないとでは全く世界が違うのだろう。

学生時代、クラブ活動でずっとサッカーをやってきた。大学を出て、
ベスト学習会で教鞭を執るようになってからも、サッカーが恋しくなり、
高校時代のクラブの仲間を集めてオッサンチームをつくった。

草野球みたいな「草サッカー」といったところであろうか…。

そして、本格的に公式のリーグに参加しようと、
この、日本サッカーリーグ、いわゆる社会人リーグに加盟したのだ。

ピラミッド型になっている組織の頂点にJリーグが君臨し、その下にJFLから5部までの
下部組織の広がりとなっていた。

もちろん5部からスタートなのだが、その行く末にはJリーグが存在するという、
万人が夢を見ることのできるような構造になっていた。

別の見方をすれば、その組織のタッカイ会費は、上納されていたのだろう…
と勝手な解釈をし、
「俺らがJリーグを支えてんねや…」などと、好きなように言っていたものだ。

そして、リーグ戦では、第3者チームが持ち回りで審判をするのだが、
そのための審判グッズもきちっと揃えなければならなかった。

あの真っ黒な審判ユニフォームやホイッスル、ラインズマン・フラッグなどを
購入した際には、家で試しに身に付けて、レッドカードとイエローカードを
振り回したものだった…。(「ばっかみたい」、という声が聞こえてきそうだが…)

しかし、残念ながら、実際の試合で審判をしたときには、ついに
レッドカードもイエローカードも使用することはなかった。
私の心の中の悪魔はささやきで、
「いっぺん、軽はずみにでも出してみたいなあ…」
という衝動はあったのだが、もう一つの、心の中の天使が食い止めた。

いろんなグランドで練習し、試合でいい汗を流し、とても充実した
オッサンサッカーチームだった。

しかし、それから数年が経ち、
体力の衰えを感じ始めた頃(今のジダンの心境ってとこか…、(。。;) \(゜o゜#; んなエエもんかッ!)

膝の痛みを感じ出し、精密検査をしてみると関節に腫瘍ができていて、
切開手術をして除去せねばならないと言われた。

というようなわけで、呆気なく終焉の時が訪れたのである。

今も…、ユニフォームやスパイク、審判グッズなどひっそりと眠っている。

「夏草や兵どもが夢のあと」

これからのワールドカップ開幕が楽しみだ。


大阪府の人口 3位に…

2006-06-02 | ちょっと気になる最近の話題

大阪府の人口が、神奈川県に抜かれ、都道府県で人口3位に転落した。

・大阪府の推計人口は、882万1085人
・神奈川県の推計人口は、882万3227人
2142人の差で逆転され、大阪は、人口3位に転落してしまった。
今まで、大阪は、「人口は頭から2番、面積はケツから2番」っていう覚えやすい位置にあったのになあ…。

この逆転によって、現在の人口ランキングがどうなっているのかと調べてみたら、

1位 東京→2位 神奈川→3位 大阪→4位 愛知→5位 埼玉
 →6位 千葉→7位 北海道→8位 兵庫→9位 福岡→10位 静岡
という順になっていた。

ベスト10を見ても、やはり関東は強いなあと再認識する。

大阪と神奈川の人口逆転の背景にどのようなことがあったのかというと、
大阪府の方は、各企業の本社機能を東京に移転する動きが目立ち、企業の動きに合わせて従業員なども転出し、出生や転入などによる人口増を含めても、全体ではわずかな増加傾向にあるだけ。

一方、神奈川県の方は、ドーナツ化現象による東京のベッドタウン化が依然として継続中で、どんどん人口は増加しつつある。この結果、大阪府は2位の座を明け渡すことになってしまった。

いずれにしても、これまでのランキングは増え方でどうかというものであったが、日本全体の人口がピークを迎えた。日本の人口は明治維新以後の140年で4倍に、昭和の初めからの75年間で2倍になった。
それが今後は、人口減少社会となる。

少子高齢化…、労働力不足…、消費の縮小…、一体どうなっていくのだろう。