[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

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別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

モンスターに遭遇

2008-09-15 | あるある探検隊


連休の真ん中の日曜日、和歌山に出掛けたときのこと…


和歌山ラーメンの代名詞ともいえる、
『 井出商店 』 に赴いた。


「TVチャンピオン」で2年連続して「日本一うまいラーメン」に賞された店で、
和歌山ラーメンブームを作った立役者でもある。


混みそうな時間を外して行ったが、店の前には20名ほどの行列。

列に並んで、店の壁に書かれたメニューの一覧をボーっと眺めていると、

一台の目立つ黒いトラックが店の前の道に横付けされた。

車のリアには、 『 ALL JAPAN PRO-WRESTLING 』 と
丸くかたどられたロゴがあった。

おもむろに開いた扉から屈強な男が現われた。

うっわ!

鈴木みのる、や!」 と心の内でつぶやいた。

《世界一性格の悪い男》という異名を持つレスラーだが、

「おらおらああ、雑魚ども~! ドケドケ~い!」
などというようなことはなく、

お行儀よく列の最後尾について、
同伴の後輩たちとニコニコとした表情で談笑していた。

リングの上での愚連隊の姿とは違って、
やたら胸板の分厚い、気のいいオニイチャンだった。

で、

井出商店のラーメンは、初めてのようでしたが、
お味の程はいかがだったのでしょうかねえ。

私は、大盛中華そば(麺2玉)を食べた。

美味かった!


南河内へ歴史を訪ねる

2008-09-08 | あるある探検隊

南河内へ、歴史探訪に…。


【大阪府立近つ飛鳥博物館】 
ここは平成6年にオープンしていたのだが、訪ねたいと思いながらなかなか行く機会がなかった。
だが、やっと訪れることができた。

はるばるという距離だが、期待以上の満足度だった。

この博物館の『近つ飛鳥』という呼び名は、『古事記』の中に記載があるのだが、大陸との本格的な窓口が難波の港に設けられた頃、難波宮からみて近い方の飛鳥(河内の飛鳥)ということで、現在の大阪府南河内郡辺り一帯を言ったものである。奈良県の明日香村を遠い方の飛鳥(大和の飛鳥)ということで「遠つ飛鳥」といった。
こちらは、ただ「飛鳥」と呼ばれるようになる。


その「飛鳥」に対して、当時劣らない文化を持っていたということで『近つ飛鳥』と呼ばれていたようだ。



そびえ立っているのは、「黄泉の塔」というものらしい。
階段状のへんてこな豪華な建物。もしや、アンドー?と思ったが、
入館してリーフレットを見てみると、案の定、安藤忠雄の設計によるものだ。

この博物館、展示物の案内をしてくれる音声ガイドを無料で貸し出ししている。
これはありがたい。いいとこだ。

でも、説明がとても細かく、ゆったりしたアナウンス。
1.5倍速とかないんかよ~って思った。

博物館の周辺一帯は、近つ飛鳥風土記の丘という史跡公園になっており、
日本を代表する規模の群集墳「一須賀古墳群」がある。



上の写真は復元されたレプリカの古墳の一つだ。こんなのがあっちこっちにあった。


次に、大阪芸術大学や上宮太子高等学校が近くにある、南河内郡太子町の
『 叡福寺 』を訪れた。
ここには聖徳太子(厩戸皇子)の墓所がある。

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聖徳太子の没後、伯母さんにあたる推古天皇が土地建物を寄進し、
墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。






この寺のずっと奥にある、叡福寺北古墳。
ここに聖徳太子本人とその母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)、
太子の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が眠っているとされている。

 聖徳太子御廟




聖徳太子にまつわる伝説や聖徳太子虚構説など、様々な論争があるが、
今後の教科書ではどうなることやら…


ぶらり京の散策

2008-08-17 | あるある探検隊

夏期休暇のひととき、久し振りに京都に出かけた。

のんびり一人であっちこっち…

まずは、昼下がりの本能寺へ。
「敵は本能寺」で名高いところだ。
創建は応永22年(1451)。何度か移転をし、
天正10年(1582)の『本能寺の変』の舞台となったのは、
四条西洞院にあったときのこと。
その後、豊臣秀吉により現在の土地に移転した。

敷地内にある、『本能寺大寶殿宝物館』にも足を運んだ。

織田信長愛用の品々、狩野派の絵画などが展示されていた。

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また、境内の奥には織田信長一族や森蘭丸などの供養塔があった。




河原町通に抜ける細い裏口、こちらもなんだかいい雰囲気だ。




その後、新風館、高台寺、と、ぶーらぶ-ら。
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まきふん公園

2008-04-27 | あるある探検隊


噂の聖地に行ってきました。



『 ホームレス中学生 』で有名になった、麒麟 田村裕 の家。

休日に豊中まで出かける用事があり、
「あっ、そういえば…」
とネットで検索してみると、
近い場所のようなので、行ってみた。

通称:まきふん公園

公園の正式名称は「山田西第2公園」。イズミヤに隣接する中規模の公園。
(実際、イズミヤを目指して探し当てた…)

地元のチビッ子たちのための公園

ある程度予想はしていたが、現在、この場所は観光名所化しており、
カメラ片手の人が多かった。

「この場所はかつて…」などという看板でも立ってるのかなとも思っていたが
やはり公共のものだけあって、そんなものは一切存在しなかった。



残念なことに、観光名所化して落書きが増えているようだ。
これは吹田市民の宝であり、田村氏の故郷なんだから、
来訪の記念に、などと落書きなどとんでもないことだ。



しかし、このまきふんの滑り台。
もひとつ構造がよくわからない。

戯れているビギナーのチビッ子たちは、みな「???」。
まあ、ありきたりではなく不思議な感じがいいのかもしれない。

人知れず寝れそうかなって感じはなんとなくわかった。


車塚公園

2007-02-14 | あるある探検隊

知らない間にどんどん変容していく「車塚公園」一帯。

今日、初めて、『輝きプラザきらら』と『中央図書館』を訪れた。

「ひょえー、立派な設備やなァ」というのが第一印象。

ベストの図書館前校のすぐ近くにあるから、いつでも行けるわと思ってて、
ずっと行かずじまいだった。

『輝きプラザきらら』の2Fの文化財展示コーナーでは、

   発掘でわかる枚方
ー枚方に古墳が築かれたころー

と題する展示が行われていた。

発掘された、さまざまな土器や生活道具が展示されていた。

また、中央図書館にある「平和資料室」では、
戦時中大きな火薬製造所が2ヶ所(現香里団地と中宮団地周辺)あったが、
多くの犠牲者が出た、禁野火薬庫の2度にわたる大爆発の展示資料などが充実していた。

いろいろと勉強になった…。

まだ行ったことのない方も、ぜひ足を運んでみてください。


歴史探訪 ~ 四天王寺again ~

2006-03-22 | あるある探検隊

爽やかな青空が広がるお彼岸の3月21日、四天王寺を訪れた。

以前から、「お大師さん」の日に行ってみたいと思っていたが、
これまでなかなかその機会がなかった。

「お大師さん」とは、空海(弘法大師)の命日の日、 毎月21日に、 境内に露店が並び、 たくさんの
参詣者が訪れるのだ。空海は延暦6年 (787) に 四天王寺に借住し、西門で西の海に沈む夕陽を拝して、西方の極楽浄土を観想する「日想観」と呼ばれる修行を行ったといい伝えられている。

そして、毎月21日は大師会(だいしえ)として、 特に江戸時代以降にお詣りが盛んになったようだ。

この日は、 中心伽藍が無料開放されている。金堂や講堂の内壁に描かれた壮麗な壁画には、足を止めてしばし見入った。

五重塔の正面に行ってみると、「五重塔最上階回廊特別開扉」と看板が立っていた。これはいい機会だと、志納100円を箱に入れ、スリッパに履き替え、階段を登っていった。内部は非常に狭い階段で、灯台のような感じだった。回廊となっている階段を数えてみると、89段であった。最上階のところが展望台という感じになっているのだが、ここも狭く、あっちこっちに「頭上注意」の張り紙があった。しかし、私は、4回頭をぶっつけた。なぜか、頭をぶつけて、「イテっ!」っと見上げたら、そこに「頭上注意」の張り紙が…っていう感じだった。

(五重塔の回廊を登りきった最上階の展望スペースより)



また、境内一円には、食べ物屋や日常品、 アンティーク(ガラクタ?)のお店などの露店で大賑わいだった。
そして、概ねここは物価が安いのだ。大丈夫かなあと思いながら、100円のお好み焼きも食べてみたが、なかなかの味だった。

今度は、京都の東寺で毎月21日に行われている「弘法さん」に行ってみたい…。


エジソンと石清水八幡宮

2006-01-08 | あるある探検隊

前回のブログの続きというような記述ですが…

さて、タイトルをごらんになって「なんじゃこれ?」と思ったかもしれない。
しかし、石清水八幡宮に参詣したことのある人ならピンと来たでしょう。

初詣に行ったとき、まず、京阪電車の八幡駅前のロータリーに、エジソンの胸像を見つけた。

 ちょっと怒っているような表情だった…


ロータリーの中央には、竹と白熱電球のオブジェの非核宣言都市のモニュメントもあった。
しかも、この駅前のお土産店などが軒を連ねる商店街は「エジソン通り」と呼ばれている。

お参りを終えた後、立ち寄った男山山頂付近の神苑内にある食堂や売店などがあるレストハウスがある広場の一角に、デーン!と『エジソン記念碑』があった。

 立派な記念碑の後ろにも竹が生い茂っていた

エジソンは、生前、最大の発明は何かとの質問に、彼は白熱電球と電気システムであると答えたそうだ。その白熱電球の実用化にこの地の竹が貢献した。

エジソンは、幼いころから人一倍好奇心が旺盛で、“なぜ?どうして?”を連発し、大人を困らせたようだ。1876年、ニユージャージー州に研究所を建て、1878年に「エジソン電灯会社」を設立し、白熱電球の研究に取り組んだ。そして32歳のとき、綿糸を炭素フイラメントにした白熱電灯が45時間も輝き、人々の顔をはっきりと照らした。

実用化のためには長時間灯し続ける必要があると考えてたエジソンは、フイラメントの改良に取り組み、全世界から集められた6000種類にも及ぶいろんな材料を炭にして実験をしていた。ある日、偶然机の上にあった竹の扇子を見つけた。その竹をフイラメントに使ってみると、200時間も灯った。フィラメントの材料に竹が適していることを知った。そして、当時の金額で10万ドルをかけ、全世界へ材料を探すため20人の竹採りハンターたちが派遣された。

1880年、エジソンの助手のウイリアム・H・ムーアーが日本に来日。時の首相伊藤博文、山県外務大臣と会い、「竹なら京都へ」とのアドバイスされた。そして、八幡男山付近の竹が約2450時間も灯り、最もよい成績であることを発見した。この地域は、鉄分が豊かな土質のもと、柔軟で堅固な竹を産していた。

その後、八幡の竹は1894年に セルローズのフィラメントに取って代わられるまで 10数年にわたりエジソン電灯会社に輸出され、八幡の竹を用いた白熱電球が毎年何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けた。

身近な場所に、偉大な人物の足跡があったものだ…。

エジソン記念碑には、彼のあの有名な言葉がされていた。ヽ(^_^)ノ


Genius is one per cent inspiration and ninety-nine per cent perspiration.


天才とは1%のひらめきと99%の汗の結晶である。”

Thomas Alva Edison


 


京都散策~文化の秋~

2005-11-06 | あるある探検隊

休日を利用して、久々にのんびりと京都を訪れる機会となった。

まずは、京都市美術館。ここは昭和8年に、東京都美術館に次ぐ日本で二番目の大規模公立美術館として設立されたもので、建物自体もかっこいい。この美術館を訪れるのは今回で3度目となる。「関西文化の日」なので、たくさんの人出でにぎわっていました。

次に、平安神宮の鳥居を挟んで向かい合う、京都国立近代美術館へと向かった。こちらは今回が初めてである。うっとりしながら、悠然と時を過ごすことができた。
  
次に、この2つの美術館からも歩いて少しの距離にある、無鄰菴〔むりんあん〕に立ち寄った。ここは、前の『吉田松陰』のブログ記事でも紹介した『松下村塾』の出身でもある、明治の元勲・山県有朋が別荘とした庭で、近代的庭園のはじまりとされる庭である。
  
庭園の傍らにはちょっと不釣合いな洋館があり、かつて、ここで明治36年(1903)4月21日、元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小林寿太郎等の錚々たるメンバーによる日露開戦直前の外交方針を決める「無鄰庵会議」が開かれた。その部屋のテーブルやイスはそのままの状態で保存されていた。

夕刻、どこか紅葉をライトアップしているお寺に夜間特別拝観に行こうと考え、今まで訪れたことのない圓徳院に行った。ここは、豊臣秀吉の妻、北政所ねねが、秀吉の没後に伏見城の化粧御殿とその前庭を移築して移り住み、彼女の終焉の地となった地である。

秋のこの時期は、春の桜の時期と同様に、ライトアップの施設を備えた多くの寺院で夜間特別拝観が行われるのだが、まだ、半数以上は次の週くらいからだった。それは圓徳院の門をくぐってからうなずけた。な、なんと、紅葉と呼べるような感じではなく、緑・黄がほとんどだった。『せめて、赤いライト当てろや~』という思いがチラッとよぎった。もちろん、そんなもの誰も望んでいないであろうけれど。

秋の京都はやっぱりいい!今年は夏の暑さのせいか、残念なことに、まだ紅葉が目立たなかったが、「日本の秋は京都に限る!」ということを再認識した。満喫できた一日であった。


三内丸山遺跡

2005-09-03 | あるある探検隊

かねてから機会があれば是非訪れてみたいと思っていた土地を訪れることができました。
まず驚いたのは、そのスケールの大きさ、遺跡の規模は、全体で約38ヘクタールあります。 これは東京ドーム約7個分くらいになります。

  広~!

三内丸山遺跡は、縄文時代の前期から中期(約5500年前から4000千年前)の約1500年間もの間継続して縄文人が暮らしていたという、日本でも例を見ない大集落の遺跡です。600棟もの竪穴住居跡や大量の土器などが出土しています。復元された建物や発掘された展示品に興奮して見入っていました。

  

「コリゃ~!誰じゃい!さっきからピンポン・ダッシュしとんのは…!」  
えっ、謎の縄文人? いや、小魔人? (・_;☆\(-_-)ナンデヤネンッ!

中でも、一際目立ったのが歴史の教科書に必ず登場する大型掘立柱建物です。写真のとおり、柱を組合わせただけのものなのですが、高さは4階建てのビルに匹敵するそうで、一体何のために作られたのか、祭事場か、はたまた物見やぐらか、ランドマーク(境界標)なのかと、学者によって諸説あるようです。

 

真ん中に、ちっこく見えるのが小魔人です…。残念ながら登れませんでした。

まさに、タイムカプセルに入り込んだようで、当時の人々の技術の高さや知恵などが時空を越えて伝わってくるようでした。

  

「こ、ここは、水道まで、縄文土器でできとるとです…。」
投稿ヒロシのコーナーかよっ!?
 ポカッ (._+ )☆\(-.-メ) ォィォィ

『地下に真実、地上にロマン』
これは、発掘を担当する人たちの間で語り継がれている言葉だそうです。

  

縄文服に身を包み、ドキドキしながら土器をつくる小魔人…。(^^;

いやあ…歴史って深いなあ…。この場を訪れたことで改めて、悠久のときを越えて語りかける「太古のロマン」を感じました。


歴史探訪 ~ 四天王寺 ~

2005-06-14 | あるある探検隊

 日曜日、四天王寺を訪れました。トム男が薬師寺か…、負けてられへん!というわけのわからぬ対抗意識もたったかどうか…。まあ、それはともかくとして、十数年ぶりに訪れた四天王寺は、とても懐かしい、そして輝かしい空間でした。 
 四天王寺は、今から1400年以上も前、飛鳥時代の推古元年(593)に聖徳太子が日本最初の官寺として創建した寺院で、日本仏教発祥の地という意味で、「和宗総本山」を名乗っています。
 広大な境内を歩いていて目に留まったのですが、西門には石ノ鳥居(重要文化財)があります。昔は坂を下りたあたりがもう海であったようで、鳥居のむこうの西に広がる瀬戸内海と西方浄土を一体視し、極楽浄土への入り口とも考えられていたようです。最寄り駅「四天王寺前夕陽が丘」の夕陽が丘という地名は、この鳥居から坂の下に広がる海に夕日が沈んでいく姿が、いかにも極楽に通じていると感じさせたことに由来するようです。お寺なのに鳥居があるなんてとも思うのですが、鳥居は聖地結界の四門として古来インドより建てられたもので、神社に限ったものではないそうです。極楽浄土への入り口にふさわしいものだったのでしょうね。

 また、六時堂の前に「亀の池」という池があるのですが、その名前のとおりなんですが、たくさんの亀が所狭しと甲羅干しをしていて、陽の当たる場所の確保のために押し合いへし合いして仲間を情け容赦なく突き落としていました。うじゃうじゃという言葉はこのためにあるのかと思うほど亀の数は半端ではありませんでした。    
     ♪ 仲間に 押されて ダイビング… ♪ 
           
ハイ、ハイ、ハイハイハイ ワオ!
        あるある探検隊! あるある探検隊!
                   ┌|゜_゜|┘└|゜o゜|┐