[ 小魔人の小部屋 ] 枚方市の学習塾“ベスト学習会”の別宮利彦の一昔前の回顧録

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別宮利彦の『小魔人の小部屋』
こっそり垣間見てにんまり微笑んでください

■吉田松陰(1830~1859)

2005-10-27 | 歴史カレンダー
今日、10月27日は「松陰忌」。長州藩で松下村塾を開き藩士の子弟を教育した吉田松陰が安政の大獄で捕えられ、この日に処刑された。

吉田松陰は、長州藩萩(山口県萩市)の生まれで、少年時代は兵学の勉強に才能をしめした。21才のとき、長崎などをめぐり、翌年江戸に出て、佐久間象山に洋学を学んだ。時代の流れを敏感に感じとり、いかにして欧米の国々に対抗できる日本国家をつくるかを追究した。

1853年ペリーが来航。鎖国をしていた日本にとって、それまでの平和な世の中に衝撃を与えたこの黒船騒動の中で、松陰は、西洋文明を学ぶことが日本を救う道だと考えた。下田沖に停泊していたペリーの軍艦にむけて、夜小船で漕ぎ出した。軍艦に乗船し米国に連れて行ってもらえるよう懇願した。

さながら、月の世界からかぐや姫を迎えに来た宇宙人に同行するくらいの勇気が必要だったのではないかと思う。

当時、海外渡航は国禁。ペリーは、死罪をも覚悟の行動に心を打たれながらも、幕府との交渉の支障になることを恐れて拒絶した。翌朝自首し、海外渡航を計画した罪で投獄されてしまう。その後、下田―江戸―萩の牢屋を転々とした。松陰は獄中にあっても、そのたくましい生命力と志はいささかもくじけることはなかった。萩の野山獄では、1年2ヶ月収監され、その間618冊の本を読破し、詩作、句作、書道に励み、入獄中の囚人に「孟子」の講義勉強会を開く等、教育者としての道を開く。実家である杉家で謹慎処分の身となってからは、近隣の青少年の教育を始めた。これが「松下村塾」である。
 松下村塾
松陰の教育は、読書をすすめるとともに実行を重んじ、特に個性を重視した指導を徹底した。その名声は世に知れわたり、多くの人に慕われたが、幕政を批判したという理由で再び野山獄に入れられ、江戸送りになってしまう。塾は、その師を失い、わずか2年余りで閉鎖されたが、松陰は獄中からもなお、手紙で塾生を激励するとともに志の継承を訴え続けた。このように松陰は、生涯を通 じ一貫して行動の人であり、困難をものともしない不屈の人であったといえる。

大老の井伊直弼による”安政の大獄”により安政6年10月27日刑死。10月25日死を予知して遺書を書き始め、翌日の暮れにまでおよんだという。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
の句を置き、全編を「留魂録」と命名。その翌日、斬首に処せられる。

彼の思想は、松下村塾での教育や遺書「留魂録」などを通 じて、門下生達に受け継がれ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、幕末維新の激動期に大きな役割をになった人達を育てた。

松蔭は人と言葉を少し交わしただけでその人物の長所・短所・将来どのような方向へ伸びていく可能性があるのかを見抜いてしまう不思議な才能があったといわれている。そうして、その長所をほめて伸ばす、本人すら気づいていない潜在力を引き出していった。

小魔人もかつて山口県にある松下村塾を訪れたことがある。実際に自分の目で、松下村塾の建物を見たときは、「ひえ~!こんなに小さいんや!」  Σ( ̄ロ ̄lll) ガビーン…って感じだった。けれども、この小さい建物から、たくさんの大物が育ったんだと思うと感慨深い。小京都とも言われる萩には、日本がダイナミックに躍動した時代の歴史の足跡が数多く残されていた。そばに、売店があったので寄ってみたが、残念ながら、“煎じて飲むための松蔭の爪の垢”は売っていなかった。

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