八濱漂泊傳

ダラシナイデラシネ記

糸島昔話 享保の大飢饉

2009-04-21 22:31:54 | 今宿

 

本日は!

享保の飢饉 の話。

 

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享保十七年(1731年)

西日本一帯を飢饉が襲い、

福岡・佐賀では人民の3分の1が

餓死したという。

 

元岡村の浜地利兵衛の手記

『享保十七壬子大変記』 によると

 

 「二月から雨がたびたび降り続き、

 博多、福岡近郊も狂犬病が流行した。

 狂犬にかまれて人や牛馬が多く死んでしまった。

 六月下旬から田に虫(ウンカ)がつき作物が

 腐っていった。

 虫田に鯨油一合程度入れると虫よけによい

 というので、そのとおりにした。

 八月に入ると飢人がだんだん増えて・・・

 十一月に入ると飢人はいよいよ増えて

 道に倒れて相果ててしまう者が沢山でてきた。

 志摩郡一万八千六十四人のうち三千八百人が

 冬から夏にかけて餓死してしまった。」

 

という。

 

 

黒田藩は救済のため幕府から

二十七回、総計二万三千六百石の米を借り受けた。

 

大坂から今宿横浜に幕府の廻米を積んだ

おたすけ船 が来るといううわさが広がり

近郊の人々は今宿に集まってきた。

 

しかし無常にも、

おたすけ船 は今宿沖を素通りして

伊崎の永蔵に入船する。

 

 

飢えた人達に廻米は届かず、

今宿は餓死者であふれた。

 

 

糸島郡史に

 

 「村の東方の者は 松原に合葬し、

 地蔵堂を建ててこれを祭る。

 村の西方の者は上町に合葬し、

 観音堂を建ててこれを祭る。」

 

とあり、

今宿で享保大飢饉を記憶する場所は

 

東松原地蔵堂

  

上町天満宮境内にある観音堂

 

徳正寺にある飢人地蔵

 

上ノ原の六地蔵 ・・・・などがある。

 

 

 

 

 


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