マンゴーしいたけのつぶやき

いわゆる団塊の世代です。40年余の東京暮らしを経て、生まれた古里で織りなす珍道中の「つぶやき」になりそうです。

遥かなる旅路~青春の池上線~

2020年12月05日 15時25分00秒 | 日記

宮崎ではニワトリと人のダブルで暗い師走 そんななか当方は 高齢者講習を自動車学校で受けての免許更新が済みました 地方都市の外れに住んでいると 前期高齢者でもクルマはまだ必需品 ゴールドですが あと暫くは安全運転で乗りたいと思っています

さて今回は学生時代 新婚時代を過ごした池上線の振り返り 思い出辿り 「読者さん」に幾らかホッとするブログになれば幸いです なお写真などはネットより拝借しました 当時はカメラも高嶺の花で印画紙での手持ちもありませんので

下は路線図と緑色だった車両と駅風景

 

では蒲田駅より

同郷の先輩は専門学校に 私はバイトに通うための駅でした 前回書いたキャバレーのバイト 支配人がいて黒いスーツのメンバーが数人いて 私達ウエイターがいて 入り口にはドアボーイ そして専属バンドに歌手といった布陣でした 店名は「グランドキャバレーNO1」 一緒にバイトした別の先輩は 神社の跡取りで 神主の勉強で東京の大学に来たという異色の人 メンバーには高倉健みたいな人がいて 張りつめた「社風」だったのを覚えています 100名を超す社交さんには「同伴出勤」する方も多く ドアボーイはやはりベテランでないと務まりません 蒲田駅のイメージ=バイト そんな感じです

石川台駅より大崎広小路駅までの思い出は尽きません

石川台駅・・・長女が生まれて1Kながらも新居を構えた所 トナリの洗足池が庭みたいな公園でしたが 小生 昼と夜の仕事かけ持ちで生活費を稼いでいました その夜の仕事がマイクロ複写 当時のデータの保存の主流が8ミリまたは16ミリのマイクロフイルムでの撮影 ゼロックスも普及していない時代でした 多摩川の巨人のグランドも近く 春先には3人で練習を見に行ったものです 長嶋 定岡のいたころでした

長原駅・・・勤めていた朝日新聞長原専売所があった駅 住まいは先輩と2人で「栗山方」2階六畳間 1階が確か喫茶店 僅かな給料日には1個18円の「江戸っ子ラーメン」を1箱購入 昼食用でした 朝と夕食は新聞店の賄があり助かりました トナリの八百屋でモヤシ買ったり 魚屋で「うちの猫にやるので・・」と魚のあらをタダ同然にもらったりしてラーメンに入れる生活  同居の先輩はパンの耳をよく買ってましたっけ 今でも配達のルートは頭に残っていますが 正月になるとお年玉を頂いた家は忘れられません 集金も当時は現金でしたが 表札の「御手洗さん」を読めなくて往生したこともあります

旗の台駅・・・初めて一人で住んだ「平井方」3畳間  

荏原中延駅・・・ここはオデオン座という映画館があって「人間の条件」なんぞをオールナイト2人で見ていました

戸越銀座駅・・・買い物に便利だったなというイメージです

大崎広小路駅・・・大学(下)のあった駅 駅から正門までの途中に色っぽい専門の映画館がありました 学割でたまに道草をくったもの 今も覚えてる映画の題名に「未亡人下宿 上も貸します 下も貸します」 旗の台駅からの帰りなかなか「平井方」には辿りつけず 駅前の養老の滝ののれんをくぐったものです 多感な年代でした?

思いつくままに記しました まとめきれませんが悪しからず

青春の1ページでした

♫池上線という歌謡曲もありますので よかったらYouTubeで

ではどちら様もお気を付けてお過ごしください 

 

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