畑倉山の忘備録

日々気ままに

日本の精神的起源

2019年01月27日 | 歴史・文化
現在、ものごとは自然のままのとりとめのない状態にある。民のこころは素朴である。彼らは巣にとまり、ほら穴に住んでいる。彼らの風習はただ単にいつものしきたりどおりである。

1945年8月の日本人がそうであり、西暦紀元前660年、いまから2600年の昔、神武天皇が観察したときとそのままだった。

(レスター・ブルークス・井上勇訳『終戦秘話』時事通信社、1968年)

廃仏毀釈

2019年01月27日 | 歴史・文化

京都東山にある泉涌寺は南北朝から安土桃山時代および江戸時代の多くの天皇の葬儀が執り行われた皇室と縁の深い寺である。

明治4924日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃しました。」(佐伯恵達「廃仏毀釈百年」。

淡々と書かれているが、こんな重要なことが何の抵抗もなくなすことができたということに疑問を感じた。

皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。

しばやんの日々


ウォール街が支配する天皇制国家

2019年01月27日 | 歴史・文化
近代日本は明治維新で始まると言えるだろうが、徳川体制の転覆にイギリスが関与していることは否定できない。そのイギリスは18世紀の後半から生産の機械化を進めたものの、巨大市場だった中国で売れない。商品として魅力がなかったということだが、逆に中国の茶がイギリスで人気になって大幅な輸入超過。この危機を打開するためにイギリスは中国へ麻薬(アヘン)を売ることにしたわけだ。

当然、中国側はアヘンの輸入を禁止しようとする。そこでイギリスは1840年に戦争を仕掛けて香港島を奪い、上海、寧波、福州、厦門、広州の港を開港させたうえ、賠償金まで払わせている。これ以降、香港はイギリスやアメリカが東アジアを侵略する重要な拠点になった。

1856年から60年にかけてはアロー号事件(第2次アヘン戦争)を引き起こし、11港を開かせ、外国人の中国内における旅行の自由を認めさせ、九龍半島の南部も奪い、麻薬取引も公認させた。

イギリスが行った「麻薬戦争」で大儲けしたジャーディン・マセソン商会は1859年にトーマス・グラバーを長崎へ派遣し、彼は薩摩藩や長州藩など倒幕派を支援することになる。その邸宅は武器弾薬の取り引きにも使われた。

1863年には「長州五傑」とも呼ばれる井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)が藩主の命令でロンドンに渡るが、その手配を担当したのもグラバー。渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が利用された。こうしたイギリスを後ろ盾とする人びとが作り上げた明治体制は「現人神」の天皇を頂点とする一種の宗教組織で、当初の天皇は飾り物にすぎなかった。

廃藩置県の後に琉球藩をでっち上げるという不自然なことをした後、日本は台湾、朝鮮半島、中国というように侵略していくが、その背後にはイギリスやアメリカの影が見え隠れする。日露戦争で日本はウォール街のジェイコブ・シッフから資金を調達、ウォール街と結びついていたシオドア・ルーズベルト大統領の仲介で何とか「勝利」している。

関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼った日本はウォール街の強い影響下に入るのだが、1932年にその関係が揺らぐ。この年に行われた大統領選挙でJPモルガンをはじめとするウォール街が支援していた現職のハーバート・フーバーが破れ、ニューディール政策を掲げるフランクリン・ルーズベルトを選んだのである。

フランクリンは巨大企業の活動を規制して労働者の権利を認めようとしていただけでなく、ファシズムや植民地に反対する姿勢を見せていた。親戚だというだけでシオドアとフランクリンを同一視するのは大きな間違いだ。

そこで、ウォール街は1933年にクーデターを準備し始めるのだが、この事実は名誉勲章を2度授与された海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将の告発で発覚する。計画についてバトラー少将から聞いたジャーナリストのポール・フレンチはバトラーに接触してきた人物を取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたという。これも議会の記録に残っている。

皇室とウォール街を結ぶ重要なパイプだったのがジョセフ・グルー。1932年から41年まで駐日大使を務め、戦後はジャパン・ロビーの中心的な存在として日本の「右旋回」、つまり戦前回帰を主導した人物だ。

このグルーの親戚、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻。またグルーの妻、アリス・ペリー・グルー(ペリー提督の末裔)は大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后(九条節子)と華族女学校(女子学習院)で親しくなっている。言うまでもなく、昭和天皇は貞明皇后の子どもであり、昭和天皇はウォール街と結びついていたということにもなる。

戦後、「日米同盟」の仕組みを作り上げる上で昭和天皇が重要な役割を果たしていたことを豊下楢彦教授は明らかにしたが、その背景にはこうした事情もあった。吉田茂首相とマッカーサー司令官ではなく、天皇とワシントンとの間で軍事同盟の青写真が描かれていったのである。「悪いのは全て軍部だった」で内務官僚をはじめとする役人、学者、新聞記者などは責任を回避、その結果が現在の日本につながっている。

(櫻井ジャーナル 2014.12.24)


明治初期の自由民権運動

2019年01月27日 | 歴史・文化
民権論者たちは、五か条の誓文を国会開設への志向と結びつけ、維新の変革を人民の自由の拡大への第一歩だとみるかぎりでは明治維新を高く評価しながらも、河野広中のことばを借りていえば、その後の明治政府のやり方は、形だけの開化であり、真の開化の精神はそこにはなく、それはあたかも金や玉でできた箱に、馬の糞や牛の小便を入れたようなものだ、とみた。

自由民権運動によって人民の自由や民権をかちとろうとする人々は、維新の奥深い原動力であった民衆の、真にめざしたところを継承しているものは、この自分たちであり、明治政府はこれを歪曲し、かえって民衆から遊離した、得手勝手な私利を図る政府にほかならない、とみていたのである。

(田中彰『未完の明治維新』三省堂新書、1968年)


なぜ虚偽の上に虚偽を積み重ねるのか

2019年01月27日 | 歴史・文化
なぜ権力ないし体制側が必死の執念といってよいほどに、科学としての歴史を拒否し、真実の歴史が民衆に浸透するのを恐れるのか。

権力を握っている体制側は、虚偽の上に虚偽を積み重ね、支配のカラクリのなかで民衆を戦争や困窮に追いこんできた。この支配の歴史の虚偽性が暴露されることがもっとも恐ろしいのだ。

一見、権力に無力な民衆の歴史が、実は一挙にその体制をくつがえす力を秘めていることを民衆が自覚することがこわいのだ。だからあらゆる手をつかって歴史の真実をおおい隠そうとしているのである。

(田中彰『未完の明治維新』三省堂新書、1968年)


パークスの助言に「西郷大いに驚愕」

2018年10月22日 | 歴史・文化
江戸城無血開城は、通説では西郷と勝の会見において、西郷の肚(はら)によって決定したことになっている。しかし西郷は武力討伐を主張しつづけた張本人である。それが最後になって妥協したのは、よくよく事情があったにちがいない。結論をさきにいえば、それは日本の国内秩序を一日もはやく回復させ、貿易の発展によってその利潤を期待するイギリス公使パークス(40)の助言によるところが大きかった。

『戊辰日記』によれば、「西郷吉之助(隆盛)かつて英国公使に会せしに、公使徳川公の処置を問ふゆゑ、西郷答へに、大逆無道罪死にあたるを以てす。公使いはく、万国の公法によれば、一国の政権をとりたるものは、罪するに死をもってせず、いはんや徳川公これまで天下の政権をとりたるのみにあらず、神祖以来数百年太平をいたすの旧業あり、徳川公をして死にいたらしむるは公法にあらず。新政にこの挙あらば、英仏合同徳川氏をたすけて新政府をうつべしといへり。西郷大いに驚愕して、爾後宥死の念をおこせり」という話がつたえられている。

(圭室諦成『西郷隆盛』岩波新書、1960年)


江戸無血開城

2018年10月22日 | 歴史・文化
3月15日の江戸総攻撃の中止をきめた直前の勝・西郷会談は、あまりにも有名である。けれどもこの時、西郷が徳川氏処分についての一定の妥協と攻撃中止にふみきった直接の契機に(イギリス公使)パークスからの圧力があったことは、あまり知られていない。3月13日、内戦を懸念して横浜にいたパークスは、西郷の使者にたいし、新政府は居留地の安全にもかかわる戦闘を準備しながら、外国に正式通告さえしていない無政府の国だときめつけた。また、ひとたび恭順し降伏した者を追討し処刑するのは、「万国公法ノ道理」に反すると警告した。西郷は、これが勝の入説の結果だろうとは承知しながらも、イギリスの駐留軍や外交的干渉の増大をおそれざるをえなかったのである。

しかも西郷は、帰京して協議をすませたうえ、徳川氏処分など江戸開城への新政府側の条件をもって帰任する途上、横浜でパークスと会見し、パークスに処分方針への同意をもとめている。これはまったく、内政問题にかんする外国側への"事前通告"と外国による"事前承認"にほかならないが、このような内政干渉がまかりとおったのである。ともあれ一方、イギリス側からみれば、この事態は、日本の上からの平和的、改良的な変革によるイギリスの影響力の増大という政策が、さらに一歩前進したことを意味していた。

(芝原拓自『世界史のなかの明治維新』岩波新書、1977年)


権勢と反逆を生む山口県(3)

2018年10月22日 | 歴史・文化
山口県の特色は、ジャーナリストと相撲とりがあまり出ないこと、古い民謡、俚謡といったようなものがほとんどないことである。その時の、あるいは近い将来の権力にむかって直線コースを進もうとするものにとって、そういうものは不必要なのだ。文筆家などというものは、大きなことをいっても、弱者のかよわいレジスタンスにすぎないというのであろう。

かくて岸首相をはじめ山口県人の多くは、いつでも二頭立ての馬車で、いや、左右どっちにでもハンドルのきれるタンクで、権力にむかって進んでいるのだ。

長藩では、毎年元旦の未明に、城中正寝の間で、君公ひとりが端坐していると、その御前に家老職が恭しくまかり出て、
「幕府ご追討の儀はいかがでござりましょうか」
と問うと、君公は、
「いや、まだ早かろう」
と答える。これを正月の挨拶として二百何十年もつづけたあげく、ついに幕府を倒すことができたのだ。

夢物語だが、代々木の共産党本部の第一書記室でも、今年の元旦あたり、志賀氏がまかり出て、
「資本主義打倒の武装蜂起はいつにしましょうか」
というと、野坂氏は、
「いや、まだまだ、どこからもそういう指令は来ていない」
と答えているかもしれない。

(大宅壮一「権勢と反逆を生む山口県」『文藝春秋』昭和33年3月。同『無思想の思想』文藝春秋、1991年より引用)


権勢と反逆を生む山口県(1)

2018年10月22日 | 歴史・文化
毛利藩は、下関と大阪で米の売買などをおこなって、莫大な利益をあげた。これを"別途金"として貯え、非常時にそなえていたが、幕末、天下の風雲急を告げるとともに、江戸や京都への往来が激しくなり、これを藩の機密費、謀略費としてつかった。"志士"と称する連中が、いろいろと口実をもうけてはこれを手に入れて、あちこちかけずりまわったのである。しかもその大部分が、正当な旅費、日当というよりは、飲食遊興費に用いられたことは、かれらの日記、手紙などに出ている通りである。いや、かれらのご乱行はそれをはるかに上まわるものだったにちがいない。今の言葉でいうと"藩用族"だ。

かれらはほとんど例外なしに、江戸、京都、下関などの花柳界に、独占もしくは半独占の女をもっていた。高杉晋作の小りか、桂小五郎(木戸孝允)の幾松、井上聞多(馨)の君尾などは、あまりにも有名であるが、これらのほかにもどれだけかくし女がいたかわからない。

洋学や洋式兵術を学ぶ資金をもって遊興したりするのはまだいい方で、御用商人と結託し、藩の購入する武器や軍艦の頭をハネたりしたものだ。"俗論党"と"正論党"の争いといっても実はこの機密費の争奪戦にすぎないという半面もあった。

(大宅壮一「権勢と反逆を生む山口県」『文藝春秋』昭和33年3月。同『無思想の思想』文藝春秋、1991年より引用)


日本の政商(3)

2018年05月13日 | 歴史・文化
海運における三菱にたいする政府の保護は、古今無類であった。旧土佐藩士岩崎弥太郎は、廃藩のさい後藤象二郎とくんで、土佐藩の債権・債務ともすべて岩崎がひきうけると称して、本来なら国有とされるべき土佐藩所有汽船を岩崎のものとし、三菱会社という海運会社をおこした。

明治7年、佐賀で江藤新平が叛乱したとき、三菱は政府の軍事輸送をひきうけた。このときから岩崎弥太郎は政府首脳とくに大久保利通・大隈重信と深くむすびつき、日本近海航路を独占して、三井が政府の保護をうけてつくっていた郵便蒸気船会社を倒した。

同年、政府が台湾に遠征したとき、政府はその軍事輸送のため13隻の新鋭大型汽船を買い入れ、それを三菱にあずけて輸送に当たらせた。戦後もひきつづきその汽船を政府は無料で三菱に貸し、そのうえさまざまの名目で巨額の補助金をあたえ、三菱をしてイギリスのP・O汽船会社と競争して、これに勝たせた。

この海運保護政策は、経済貿易の必要からなされたものではなかった。政府は台湾遠征にあたり、軍事輸送はアメリカ公使のあっせんで、アメリカ汽船をあてにしていたが、開戦まぎわにアメリカが中立をとなえて汽船を貸すのをことわったので、政府は大商船隊を日本自身でもつ必要性を痛感した。そして戦時動員の便宜を考えると、その商船隊を有力有能な一会社にまかせるほうが有利としたのである。このことは、軍事目的の産業育成と特権資本家の育成とは不可分なことを、典型的に示している。

(井上清『明治維新 日本の歴史20』中公文庫、1974年)


日本の政商(2)

2018年05月13日 | 歴史・文化
鉱山については、明治6年に「日本抗法」をつくり、外国人の鉱山所有と経営への参加を認めず、また特定の例外——別子銅山など——をのぞいて鉱山採掘権は政府の独占とし、従来から官営の佐渡・生野のほか院内銀山、釜石鉄山、三池炭鉱・高島炭鉱などを官営とした。その経営のため外国人技師がやとわれ、機械が輸入された。

その労働者は、土地を失って流浪する農民や被差別民らで、ざんこくな苦役を強制された。そのため高島炭鉱では、明治5年には——まだ官営ではなく、イギリス人が経営していた——坑夫の大暴動がおこった。6年、官営になってからは囚人労働が用いられ、他の労働者もそれに准じて、古代奴隷にもまがう苦役にしばりつけられた。最新の文明の技術と奴隷的な労働の結合、これが当時の日本資本主義の象徴的な姿であった。

これらの工業・鉱業でも、商業・金融・運輸業におけると同様に、政府とごく少数の大商業資本家はかたく結びついていた。たとえば別子銅山のような日本最大最良の銅山は、徳川時代から住友が採掘していたが、その所有主は幕府であったから、政府は当然これを国有にすべきであったのに国有にせず、明治6年の「日本抗法」は、前記の通り、民間の鉱山採掘権をみとめないとしながら、やはり住友に採掘させ、いつのまにか住友の私有物にされた。

(井上清『明治維新 日本の歴史20』中公文庫、1974年)


日本の政商(1)

2018年05月13日 | 歴史・文化
明治4年末から5年にかけて、政府は大蔵省証券(680万円)と北海道開拓使兌換証券(250万円)という内国公債を発行した。その発行業務いっさいは三井組に請け負わせたが、三井組はその代わりに、証券発行年限中にその総額の2割を、大蔵省に兌換準備金を納めることなく自家の用に供する特権をえた。

これではあまりにも三井にもうけさせすぎるとの非難が高くなったので、三井が自家のために発行した大蔵省証券の抵当として、それと同額の通貨を大蔵省に預けさせ、大蔵省はその抵当金に利子をはらうことにした。三井は大蔵省から無利子の借金をして、その抵当には利子をつけてもらったわけである。

このとき井上馨が大蔵大輔で最高責任者、渋沢栄一が大蔵省三等出仕で井上の片腕になっていた。かれらが三井にたいしてこの種の特典をあたえるのは、ずっと昔からのことであった。それゆえ、岩倉大使らがアメリカへ向けて出発のさいの送別宴で、西郷隆盛は井上馨に、「三井の番頭さん、一杯いかがです」と、あたりはばからずに言ってのけたのである。

(井上清『明治維新 日本の歴史20』中公文庫、1974年)


サトウ・西郷会談

2018年04月07日 | 歴史・文化
(1866年)12月6日、サトウは兵庫に到着した。当時、小松・西郷・大久保など、薩摩藩の実力者が京阪地方に集まっていたので、サトウはこれらの人々と接触するため、ここに来たのであった。

まもなく西郷が大阪からやってきた。前年、サトウは、兵庫港に停泊している薩摩の船のなかで寝ている西郷を見たことはあったが、直接面談するのは、これがはじめてであった。「型どおりの挨拶をかわしてからも、その人物はすこぶるのっそりしていて、話をしようともしないので、私はいささか、やり場に困った。けれど大きな黒ダイヤのようにかがやく眼をしていて、口をきくとき浮ベる微笑には、大ヘん親しみがあった」というのが、このときのサトウの印象である。

ここでサトウは、西郷からはじめて慶喜が将軍に任命されたことを知らされた。京都で大久保らの画策している大名会議が成功して将軍制廃止に向うことを期待していたサトウにとって、これは意外なニュースであった。ついで話は、慶喜の将軍に任命された事情から、長州征伐のあと始末や兵庫開港など、重要な政治問題にすすんだ。サトウは、得意の日本語でとうとうと弁じたてた。

「日本の内紛は、今年中に解決されることがもっとも重要なのですから、この点、大名会議の開催されなかったことは非常に遺憾です。われわれは日本と条約を結んだので、特別の個人を相手にしているのではありません。またわれわれは、貴国の内紛の解決に干渉するつもりはありません。日本が天皇に統治されようと、幕府に支配されようと、または個々の領邦の集合した連邦になろうと、それは、われわれにとってどうでもよいことですが、誰が真の主権者であるかを知りたいのです」

それからサトウは、生麦事件や下関海峡における外艦砲撃事件、そして最後に幕長戦争における長州の勝利をあげて、幕府の権威に重大な疑惑をもっていることをのベたのち、つぎのようにいった。

「こんなふうですから、われわれは、幕府の主権を信じかねるようになり、大名会議がこの難局を打開するのを期待していたのです。外国側が予定どおりに来年、兵庫開港を要求する場合、大名がこれに反対するならば、幕府はふたたび苦境におちいるでしょう」

彼は、日本の内紛に干渉するつもりはない、とことわりながら、外国の兵庫開港要求を合図に、大名が立上って幕府を苦境におとしいれる戦術を指示した。楽屋では盛んに指図をしておきながら、舞台には日本人を立たせるというのが、外相の訓令にもあるように、イギリスの対日政策であった。

兵庫開港問題について、西郷はつぎのように答えた。

「私の主人としては、兵庫開港そのものには反対せぬが、幕府だけの利益のために開かれるのに反対します。兵庫に関するすべての問題を五、六人の大名の委員会に委ねれば、幕府が私腹を肥やすため、自分勝手に行動するのを防ぐことができましょう。兵庫はわれわれにとって大いに重要です。われわれは、みな大阪の商人に借金があって、この借金の支払いに毎年国産を送らねばならぬ。それでもし兵庫が横浜と同じしかたで開かれるとしたら、われわれの財政は大混乱をきたすでしょう」

五、六人の大名の委員会という案は、鹿児島におけるパークスとの会談で、西郷が示したところと同じであり、それはさかのぼれば、勝が西郷に教えた「賢侯会議」につらなるであろう。薩摩藩は、西南諸藩にとってきわめて重要性をもつ兵庫港を、この委員会の監理のもとにおき、そこでの貿易を幕府の独占から防ごうとしたのである。

「なるほど、これであなたがたが兵庫開港を重視されるわけがよくわかりました。兵庫は、あなたがたの最後の切札なんですね。兵庫開港以前に、貴国の内紛が解決されないのは、はなはだ残念です」

サトウは、内紛解決の方法について、もう一度、だめを押した。これこそ、まさに『英国策論』に示されているような平和的幕府解消策の線である。

サトウは、こうしてパークスの触手としての役割を完全にはたし、西郷との会談の翌日、兵庫を出帆して横浜に向った。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)


サトウ・伊達会談

2018年04月07日 | 歴史・文化
将軍が依然として主権を保持するか、それとも主権が天皇に移るか、というこの重大な時期にあたり、(1866年)11月のはじめ、パークスは、政治的台風の眼である西日本の情勢をさぐる目的で、(アーネスト)サトウを軍艦アーガス号に乗せて出帆させた。彼はまず長崎に行き、そこで当面の政情を打診したのち、11月27日、鹿児島にやってきた。滞在五日の間、家老新納刑部らと会見し、長州問題などについての薩摩藩の意見を聞いた。

鹿児島を去ったサトウは、12月1日宇和島に来航した。一日おいて3日、藩ではサトウやアーガス号の艦長ラウンド中佐らを招待して盛宴を張り、前藩主伊達宗城(むねなり)、藩主宗徳以下が出席した。藩の実権者である宗城とサトウとの間には、重要な政治問題について意見の交換が行なわれた。

宗城はまず兵庫開港問題について、フランスよりもむしろイギリスとの間に協定のできることを希望して、会談の口火をきった。他藩のように重臣などに任せないで、みずからすすんで会談に乗り出す宗城の態度には、彼が名実ともに藩の実権者であることが示されている。宗城の対英接近のジェスチュアにたいして、サトウは、「フランスは、将軍と条約をむすんだのだから、できるだけ将軍を強化するのがよいという意見をもっているものと信じられますが、わが国の政策はこれと違います。条約は日本と締結されたもので、とくに将軍を相手にしたものではないと、われわれはみています。もしも将軍が相手だとしますならば、現在、実際の将軍がいないのですから、条約は中止状態にあると考えねばなりますまい。われわれは、あえて内政に干渉することを好みませんので、日本人みずから、国内の紛争を解決してくれれば、なんら言い分はないのです」と、イギリスの政策を説明した。それは、さきに、パークスが鹿児島で西郷に示したのと同じ線であった。

しかし、この不干渉政策に宗城はあきたらぬようであった。「もしも内乱が長びくとすれば、貴国の貿易は損害を受けますから、貴国自身のためにも内乱がおさまるようにせねばなりますまい」といって、内乱を早期に終わらせるよう、イギリスの介入を望むかのような口ぶりであった。これにたいしてサトウは、「いや、われわれが干渉して片捧をかつぐようになりますと、事態はさらに十倍も紛糾するでしょうし、外国貿易など、まったく途絕してしまいますからね」と答えて、陰では盛んに突っついておきながら、表面はあくまで日本人自身に国内問題を解決させる態度をくずさなかった。

それからさらにすすんで宗城は、日本が天皇を君主とする連邦帝国となることが理想であり、薩長も同意見である、と語リ、サトウも、「現下の困難を解決する途は、それ以外にはありません。私はかつて横浜の新聞紙にその意味の論説を書いたことがあります」と応じた。すると宗城は、その論説の和訳『英国策論』をさして、「ああ、私もそれを読んだよ」と、いかにも得意そうであった。二人の意見は、『英国策論』に表現された政治構想の線で完全なー致をみたわけである。

これで話はとぎれて盛宴がつづけられた。よっぱらったサトウは、その晩は、家老松根図書の家にとめてもらい、翌日早朝アーガス号の砲声に夢を破られ、あわてて乗りこむ始末であった。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)


西郷・パークス会談

2018年04月06日 | 歴史・文化
その後18日から20日まで、ぎっしりつまったプログラムのもとに薩英の交歓はつづいた。しかしこの盛大な交歓の舞台裏で、西郷とパークスとの間に行なわれたプリンセス=ロイヤル号上での18日の会談はきわめて注目すべきものがあった。この会談には、重大な使命をはたして帰国したばかりの松木弘安も列席した。

まず西郷は、「兵庫の開港は、上は天子より下は万民までをあざむいて外国と協定したので、世界一般に通用する取極といいがたい」と幕府を責めたが、これにたいしパークスは、「日本国内の紛争は決して外国人の干渉すベきことではない、もちろん勅許ということも望んでいない」などと主張した。西郷によると、パークスには、「余程幕臭これあり」とみられ、交渉決裂の形勢にもなろうとしたという。これは、松木提案にもみられるような薩摩藩のパークスにたいする過大な期待とパークスの「中立」政策のずれを端的に示すものであった。そこで西郷が一歩引き下って日本の情勢をくわしく説明し、大いに幕府の失体を説くようになってから、会談は執道に乗ってきた。

それから話題は、昨年パークスら四国代表が兵庫沖ヘ渡来したときのことに転じた。パークスは、そのとき薩摩藩が勅使を外国代表のもとに差向けようとした目的をたずねた。西郷は、薩摩藩士が勅使に随行して外国船に乗りこみ、外国側から回答の期日を延期させておいて、その間に諸大名を京都ヘ集会させ、条約勅許や兵庫開港などの外交問題を幕府の手から切り離し、朝廷の処置にふりかえようとたくらんでいた、と答えた。

つづいてパークスはこの薩摩藩の企図が失敗した理由をきいた。西郷は「幕府の猛烈な反対で、ついに勅使派遣も取止めとなり、見込がすっかりはずれてしまって、まことに残念なことでした」といった。パークスは、「いやはや何とも残念な次第です」と応じつつも、かねて公家が世界の大勢に暗いのをよく知っていたので外交問題が朝廷の処置となったさい、幕吏の代わりに公家衆の談判となってはかなわぬと思い、実際の処置を西郷に問いただした。

西郷「そのときは朝廷から五、六藩の大名が委任されて、処置を引き受け、兵庫港の関税を朝廷におさめ、公正な条約をもうー度結ぶことにするのです。そうしますと、ただいまのような幕吏の腐敗した不公正な処置とは大きに違い、外国にも都合がよくなりましょうし、日本もいよいよこれから開けるというものです」

パークス「まことにごもっともなご議論です。しかし右のようなことを外国人から言い出すと、日本人も不満をもつようになり、大いに不都合なことになりましょう。そこでいずれそのへんのことは、急に手をつけてはよくありませんので、よくよく機会を見計らってご尽力になっていただきたいと思います。それから関税の三分のーだけ、ぜひ天皇におさめられるよう、たびたびこちらから幕府ヘ申立てておきました。そうでなくては、天皇を日本の君主ということはできないわけです。現在、日本では、ミカド・タイクンと二人の君主があるような姿ですが、外国には決してないことです。いずれは、日本も国王ただ一人とならなくてはすまないことと思います」

西郷の意見は、初対面のさい、勝から提示された「賢侯」四、五人の会合の線である。これにたいしてパークスは、慎重に内政干渉の非難を受けるようなことを避けつつ、王政復古の必要を示唆した。いまやかえって西郷が守勢に立たされた。

「何とも外国人にたいして面目もないことです。さて日本と条約を結んでいる諸国は、諸藩と勝手に交際できるよう、幕府に要求していただきたい。すると幕府も、大いにこまることでしょうし、また幕府のいつわりも行なわれぬようになり、おのずと幕府の不条理なことが外国人にわかりましょう」

西郷との会談におけるパークスの言動は、彼が出発直前に受取った訓令(ハモンド書簡)の線の忠実な実践であった。つまり、日本の国内問題ヘの発言は「示唆」にとどめ、日本における改革は日本人のみから出るようにみさせるよう、つとめて留意したのである。

パークスー行は、滞在一週間で、また長崎に向けて出帆した。パークスが別れを告げると、久光は固くパークスの手をとって別離を惜しみ、航路の安全を祈り、再会を期した。薩摩藩は、パークスー行の接待費に二万両または三万両をついやしたといわれるほどの大歓待ぶりであったという。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)