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畑倉山の忘備録

日々気ままに

天皇という現人神の奴隷

2016年10月29日 | 鹿島曻
絶大な人気をもつ歴史小説家の司馬遼太郎は、筆者の記憶によると、「日本がましな国だったのは日露戦争までだった。あとは、とくに大正7年(1918年)の、シべリア出兵からはキツネに酒を飲ませて馬に乗せたような国になり、太平洋戦争の敗戦でキツネの幻想はついえた」と述べている。彼の史観では明治という国家はそれなりに認められるのであろう。しかし筆者は賛成できない。

明治維新こそ、日本人にとって恥ずべき暗黒の始まりであったと考える。明治維新がなければ日本人は欧米列強の奴隷になっていたという人が多い。そうかもしれぬ。しかし奴隷化されたとしても、それが永久につづくわけではないし、列強の奴隷をまぬがれて天皇の奴隷になるのでは結局同じことではないか。列強の奴隷にならない代わりに戦って異郷の地で屍をさらせというのか。

黒人奴隷は人間の奴隷であったが、日本人は明治以来、天皇という現人神の奴隷であった。黒人奴隷は精神的に反抗することができたが、日本人にはそれもできなかった。

したがって、明治時代を評価するこのような発言こそ国家新生のために有害なのである。明治維新の暗黒面を自覚し反省することから新生日本が始まる。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)


昭和天皇と沖縄

2016年10月28日 | 鹿島曻

1879年、明治政府は廃藩置県を断行し、軍隊を派遣して沖縄を襲い首里の王城を占領した。これを「琉球処分」と呼んでいるが、このとき日本は清国に対して「清が日本と対欧米なみの不平等条約を結んで、日本の便宜をはかるなら、宮古、八重山諸島をゆずろう」と申しいれている。これでは肉屋が牛肉を切り分けてお客に売ることと変わらない。

徳川幕府にかわって急拠権力をにぎり政権というマウンドを踏んだため、明治天皇も明治政府も、国土の尊厳ということを十分に認識していなかったといってよい。

いや、明治政府はじつは沖縄人を正当な日本人とは考えなかったし、沖縄をそもそも日本の国土であるとも考えてなかったのであろう。そしてこのような発想が明治以来、連綿と皇室にも残っていたのであろう。

1947年9月、いわゆる天皇メッセージがアメリカに伝わった。「アメリカが沖縄を25ないし50年、あるいはそれ以上の長期間にわたって租借してもよい」というものだ。

このメッセージは天皇の通訳として知られ『独白録』をのこした寺崎英成を通じて、GHQ政治顧問シーボルトに伝えられ国務省にとどいた。要するに沖縄を軍事基地として提供するというものである。

こういうことをやっては沖縄人に会わす顔がないであう。天皇は結局、沖縄を訪れることがなかった。1987年の国体の沖縄開催にさいして、昭和天皇は沖縄行幸を決定していたが、宮内庁病院に入院して行幸はとりやめとなった。

筆者は先年、那覇市内のホテルで50才くらいのマッサージの女性と話した。その女性は「あの方は命をかけても沖縄に来てほしかった。どうせ人間はー度は死ぬのだし、戦争では私の身内も大勢死んだ。人間はー生にー度くらい命がけにならなければ」といった。

いわゆる本土では米軍との直接対戦はなかったが、沖縄には米軍が上陸し、住民もつぎつぎ犧牲になり集団自決もあった。これらの真相は究明されたとはいえない。日本国内では皇祖皇宗よりもまずまっさきに沖縄の人たちに謝罪してほしかったと思うのは、筆者だけではあるまい。

天皇は生まれてから終戦に至るまで国民に謝罪したという経験もないし、生命をかけたという経験はなかったにちがいない。政治家とくに日本の政治家にとって「生死の美学」は最高の理念であったが、天皇にはそのような感性は存在しなかった。高い地位の日本人としては異例である。

終戦の決断にしても、すでに軍部の力が弱体化したいっぱう、原爆やソ連の参戦で自分の生命が危うくなって、カミカゼがもうー度吹いてからなどといえなくなったために決断したのである。自分の生命をかけて決断したのでなく、自分の生命を大事にしたいから決断したというべきであろう。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)


明治維新の謎(6)

2016年09月24日 | 鹿島曻

我々はかくのごとき日本の悲劇が、岩倉、大久保、伊藤たちの情報独占と歴史偽造の延長であり、その当然の結果であったことを指摘しなければならない。

わかりやすくいえば、明治維新は孝明天皇父子を暗殺してその死屍のうえに築かれたものであり、その犯人であった元老たちが歴史を偽造して事件を隠蔽したために、日本国の進路には常に孝明天皇の呪いが影をおとしたのである。このことは我々も、我々の子孫も常に心に銘記しなければならない。

かくのごとく歪みきった維新を礼賛し、明治を聖代だといってその延長上に現代の繁栄を考えようとする錯誤は是正されなければならない。朝鮮国の王妃であった閔妃を虐殺し、屍姦して、その国土を略取するという不法行為を、それで合法的であったなどという政治家は歴史を理解していないのである。たしかに閔妃は朝鮮民族のために理想的な王妃とはいえなかったが、そんな他国のことはどうでもいいのである。日本に内政干渉する権利はなかったではないか。

従軍慰安婦の問題にしてもこの閔妃屍姦事件と同列であって、要するに、天皇制のもとで差別され奴隷扱いにされた日本人が帝国主義戦争に参入して、アジア人を差別してついに奴隷のごとく扱ったことが問題なのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(5)

2016年09月24日 | 鹿島曻

ゴルバチョフによるソ連改革の試みは、戦争によっては失うものが余りに大きいという核戦争の実状によってなされたことは否定しえないが、われわれは天皇ヒロヒトの独裁時代に八方美人で何も決断できない近衛やゴマすり男の東条だけが権力の中核を占め、一人のゴルバチョフもいなかったことが悔やまれてならない。

このことは明治以降、西南の役で軍旗を奪われたために、追放されて然るべき乃木のごき軍人が将軍として旅順攻撃の指揮を任せられ、その結果余りにも膨大な戦死者を出した、というひたすら忠誠重視の国体から生まれたのである。ライプニッツは「すべて高貴なるものは困難であり稀である」といったが、この時代に天皇に対する忠誠は珍奇なものであったからこそ重用されたのであった。

だからこの間の歴史を大観すると、こののち日本の国策を転換できたのは、憲法上、参謀本部を自己の指揮下において軍の最高指導者であった天皇ヒロヒトただ一人であったが、その天皇は独裁の座に酔い、軍機の秘密といって情報を独占し、戦闘能力を失ってゴマスリ競争だけに励んだ将軍たちに囲まれていた。

そのために、日本はノモンハン戦争においてソ連を攻撃ししかも全滅して、自己の軍事力の劣化に気づきながら、突如としてソ連に侵攻したヒットラーの戦力を天の助けとして他力依存して、なお戦争をつづけるというキ印的な戦略に逃避した。そしてそれは問題の解決でなく、ただ大破綻の先のばしにすぎなかったのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(4)

2016年09月24日 | 鹿島曻

ソビエトが共産主義の失敗を戦争によらず、国際資本主義に屈服して資本主義グループに参加するという形で国家の存続を図ったのに比べて、日本は帝国主義の矛盾を戦争によって先にのばした。この国の無能なる政治家たちは国家の存続を考えることなく、常に問題の解決を先のばしして保身を計ったからである。

このことを、モスクワ大学教授のガブリール・ポポフは、
「革命は新しい体制をつくり出すが、本来、革命が目指すものとは無縁の体制が革命の担い手になることは、フランス革命の歴史が証明している。しかも革命後の新制度は旧体制の制度の中から生まれてきたもので、過去にあったものとの妥協の産物だ。社会主義の七〇年余の歴史を振り返ると、社会主義理論が目指した社会主義を実現できなかった現在の社会主義は行政的社会主義、全般的国家社会主義とでも呼ぶべきもので、旧体制の破壊には有効だったが新体制の創設では有効ではなかった。我々は現在の社会主義を克服せねばならない。社会主義の基本理念は過去七〇年間に大きく傷ついた」と主張した(「朝日新聞」89/11/8)。

ポポフが「革命後の新制度は旧体制の制度の中から生まれてくる」といったことは、明治革命による新政府が旧体制の北朝官僚に依存し、その過去の手法によって情報を独占し、国民には必要な情報をー切与えず、ただただ官僚の命ずるままに諾々として奉仕するという、あたかも奴隷制のごとき封建制の不法を復活させたことで明らかであろう。吉田松陰が叫んだ解放の大義は捨てられて、朝鮮人やシナ人がおのれの系図を偽造し、歴史をデッチアゲた「倭の大乱」以降の大侵略時代が、その本国に向って侵略者の姿となって出現したのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(3)

2016年09月24日 | 鹿島曻

アメリカ合衆国憲法の父と呼ばれたジェームス・マディソンは、「人民が情報をもたず、情報を入手する手段をもたないような人民の政府は、喜劇ヘの序章か悲劇ヘの序章か、あるい双方ヘの序章にしかすぎない。知識をもつ者が無知な者を永久に支配する・・・・・」と述べている。

この言葉は敗戦という日本国の悲劇を、天皇ヒロヒトの「御聖断」が国を救ったとする日本国の喜劇を、明確に予言したものであった。だから、ありていにいえばのちに天皇ヒロヒトを作り出した明治維新は失敗以外のなにものでもない。

明治天皇は自ら南朝の末孫であるのにその事実をかくすことを求められた。すなわち自分が政治を委託した人びとに裏切られて、一生涯鉄仮面をつけていつわりの人生を強要されたのである。それは格子なき牢獄の人というべく、家族と絶縁させられ、全く自由がないという意味ではさながら囚人と変わらないものでもあった。

天皇が自らの出自をかくし、家族や旧友たちと絶縁したら南朝革命は存在しなかったことになる。兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川は、夢となって老いたる天皇の枕頭に現れたであろう。天皇もついにそんな人生にたえられず、その晩年には、南朝正系論によって自ら出自を明かそうとしたが、このときー人の側近も天皇を助けようとはしなかった。

時に側近の学奴たちは多くいたもののすべて虎の威を借りる狐ばかりで、自分が権力の分け前にあずかれば余計なことはしないというのである。孝明天皇と睦仁が臣下に裏切られたのと同じように、明治天皇もまた、いやそれ以上に臣下から裏切られたのである。

それゆえに、明治天皇を完全なる手本としてそれを修正できなかった天皇ヒロヒトの治政は、ゴマスリ東条や長い間北朝に仕えた家柄の近衛などにかこまれて、敗戦という悲劇によって「聖戦」を終了せざるをえなかったのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(2)

2016年09月24日 | 鹿島曻

このように過去を作りかえて合理性を否定した国家が、啓蒙主義の洗礼を受け、異なった歴史によって異なった文明を築いた欧米国家と接触したとき、あたかも今日の我々がUFOUの侵略を受けたかのごとく、異常極まるショックを感じたことは当然であろう。

今にして思えば、戦国時代と明治維新とはともに異なった二つの文化、文明の対決であった。それが戦国時代には鎖国によって日本の文化を守ろうとし、明治維新には日本の文化が独自性を捨てて西欧文明の中に埋没するという形で終わったのである。

しかし、ひとくちに文化といい文明といってもそれにはウラとオモテがある。日本側に優れた指導者がいれば、日本が受容した西欧文明はオモテの部分の優れたものだけが対象となったはずであろうが、維新の指導者は酒と女に溺れて革命の大義を放棄し、自分たちが孝明天皇父子を殺し天皇をすりかえた犯罪をひたかくしにして、日本的な腐敗の源泉であった北朝系官僚システムと妥協したため、日本が受容した西欧文明は奴隷主義、帝国主義、植民地主義などによって腐敗したヨーロッパの裏文化、すなわち差別イデオロギーそのものであった。

あえていうならば、日本は欧米という吸血鬼ドラキュラに血を吸われて、自らも吸血鬼と化したのである。そしてこのことを可能にしたのは情報を独占して国民に何も知らせないという手法であった。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(1)

2016年09月24日 | 鹿島曻

日本には国民の歴史は存在しない。歴史とは常に天皇家のための歴史であった。しかもこの歴史がー貫してデッチアゲであったのは修史の動機が不純だったから、すなわちシナや朝鮮から逃亡してきた人びとが己れの恥ずべき過去を天皇信仰という宗教によって抹殺しようとしたからである。

少年時代朝鮮海峡を密航してやって来たあと、パチンコで成功したキヨッポウが何故か理由はわからないが、「オレは日本で生まれた」と頑強にいい張るように、古墳時代のキヨッポウも日本の歴史を抹殺したあと自己の出自を偽造し、朝鮮三国(新羅、百済、駕洛)の歴史を合成して日本史らしきものを創作するという、今にして思えばまことに不可解な犯罪を強引に遂行した。

そしてそのために情報を独占し、抵抗するものを皆殺しにしたため、そののちこの国の偽造された歴史に対して合理的な批判がまったく発生しないようになった。そして同じ渡来者の子孫であった源平武士団の政権のもとでも、この不法なる状況は変更されなかった。

日本はシナや朝鮮と同じくきわめて多民族から成る国家であり、縄文人、弥生人、古墳人は皆別種であって、外来の朝鮮人やシナ人は先住民と異なる言葉を用いていたから、かれらが縄文時代の港川人やオロッコ(自称ウヱッタ)、ギリヤック、千島アイヌなどに対して、真実を語らずして情報を独占しえたことは容易に理解できるであろう。まことに情報の独占こそ先住民統治のための魔法の杖であった。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


人間対人間という関係

2016年09月16日 | 鹿島曻

歴史は人類に神の意思を教え、価値と理想を教え、そして未来の希望を与えてきた。しかし歴史の偽造者 -----「歴史の女神」を裏切った者には女神の怒りが与えられた。

日本列島は縄文晩期以降、屢々大規模な民族移動を受け容れ、民族それ自体も変質してきた。ところが、唐の帰化人であった藤原氏は、倭人の中国支配史を抹殺して、「われわれは日本列島が大陸から分離して以来、常に単一民族であった」という虚構の史書を作り、良く言えば民族の同一性を保つことができた。しかし、このような歴史は、努力すればするほど、あがけばあがくほど、周辺諸族を差別して、軋轢をおこすことになる。

一部の者は、「譬え嘘の歴史であっても、それを信じつづけたことが重要である。今さら本当の歴史を持ち出す必要はない。この程度の国民にはこの程度の歴史でいいではないか」などという。一見理論的な意見のようだが、こういった人に限って、文化勲章をもらった某教授曰く、とか言って悦び、自分の説がムダになるような新しい学問を生理的に嫌う。

日本史は『書紀』と『古事記』だけで十分だとか、『古事記』は人類最高の思想書だなどと言って、他のー切を読もうとしない。しかし調べてみると、中国史や朝鮮史は漢字が多くて読めないだけなのである。歴史学における近隣諸国史の重要性を説明しても、聞く耳もないし、突然怒り出したりする。要するに受け売り屋、ダイジェスト文化人なのである。

そもそも海陸シルクロードにおける民族移動の歴史は、われわれにとって周辺諸族との連帯の記憶であり、友好の根源であった筈だ。

いかなる人類も移動する生物であった。人類が移動の歴史を捨てることは、人類が人類であることを否定することである。田中事件で見るように、先祖の地や近隣諸国の人々の憎悪を生み、排日の嵐を激化させている現状は、「嘘の歴史」が作り出した常識がつづく限り、決してやむことはない。そこでは、日本人対異民族という関係だけが存在し、人間対人間という関係は成立しないのである。

今日、国家の絶対性は急速に薄くなっている。

江戸時代、藩の外には別の法律があり、国家とは藩であり、幕府とは今日の国連のような性格であった。しかし、内外経済の変化はー瞬にして藩幕体制を崩壊させてしまった。今日の国家もやがて同じ運命を辿るであろう。

具体的に云うと、世界連邦を作らなければ核の脅威は絶滅しない。人類に未来と希望を取りもどせないのである。そして世界連邦を作るためには、古代世界文明を集約することに成功した日本の歴史が理想的な先例であり、日本人が「本当の歴史を取り戻す」ことが人類にとって今日ほど必要な時代はないのである。

ところが、日本の史学界は多分に芸能的でいわば家元制度が確立している。家元の作品が無価値になるような作品が決して生まれないように、シャーマニズムによって築かれた日本史の大系が、実はまったくのペテンであり、『日本書紀』は包装紙に日本史と書いただけの、別の国の歴史だということを、家元の徒弟である現在の大学教授たちに認めさせるのは、それこそ八百屋でバイブルを求めるようなのものでしかない。

明治以降、日本のアカデミイは欧米文明に追いつくため驚くべき業績をあげた。しかし、このなかで日本史の教授たちだけは、学問の進歩に抵抗し、文明を退化させるために努力しつづけたのである。

このような抵抗のなかで歴史的真実を追求することは、個人の能力を超えるものである。しかし人々が、虚構の歴史と歴史学者を見捨てさえすれば、歴史的真実は僅かずつでも近づくであろう。真実は常に人類のものであり、学問は常識を否定することによって進歩してきたのである。

(鹿島曻『日本ユダヤ王朝の謎(続)』新国民社、1984年)


三十数年前の日本人

2016年09月14日 | 鹿島曻

日本人は東南アジアの嫌われ者である。

「エコノミック・アニマル」「イエロー・ヤンキー」に始まって、最近では「アロガント・ジャパニーズ(傲慢尊大な日本人)」と言われだした。

正月の毎日新聞(昭和59.1.10)を読んでいると、「日本は自分の利益極大化だけを追い求める。現地社会のしきたりや宗教など文化には気配りどころか、目配りさえしない。加えて外国語が上手な日本人は少ないから、話す言葉はぶっきらぼう、命令形を多用しがちとなる。話しかけられた外国語に自分がついていけないと、相手が白人ならテレ笑いでごまかすのに、現地の人の場合は口をむすんだままの見下すような表情。東南アジアの人々はこんな日本と日本人をアロガントと感じたに相違ない。

そんな彼らの感情がー九七四年、田中首相(当時)が東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々を歴訪したさい、バンコク、ジャカルタにおける大衆、学生の日本大使館襲撃、日本車焼き打ちなどの反日行動につながった」という記事が眼についた(編集委員・小木曽功)。

一九七四年一月十日、時の首相田中角栄は、バンコックを訪問したが、宿舎エラワンホテルを数千人の大学生に包囲されて「田中カエレ」のシュプレヒコールを浴びた。翌十一日田中首相はタイの学生代表と会談し、例によってポンポン数字を並べて煙にまこうとしたが、タイの学生たちは日本の選挙民より頭が良いらしく、誠意が感じられないと批判した。

同様の事件はジャカルタでも発生し、日本の評論家は、日中友好(田中首相が進めた国交正常化---引用者)を嫌ったアメリカの陰謀だなどと論じたが、それは問題のすりかえであろう。

こんなことは田中事件に限らない。ある商社のエリート社員が、ブルー・シャトウというバンコックの高級クラブでホステスに振られた腹いせに、「あの女は病気がある」と云いふらしたため、ホステスは商社員をピストルで殺し、自分も警察のジープの中で自殺したという事件もあった。

また、ある上場会社の元社長がバンコックに住んで、ハウス・ボーイに盗みの疑いをかけたため、翌日ピストルで射殺されたという事件もあった。タイの人々にとって、名誉は死を以って償わせ死を以って守るべきもので、それがタイ人のアイデンティティなのである。

バンコックに在住する私の友人は、「こんな事件は氷山のー角に過ぎない」と云う。

マイアミ、アカプルコ、ロングビーチなどと並び称される国際的避暑地パタヤビーチに体育館のようなセックス・ハウスがある。吉原などのイメージと異って、地方の女の子がぶらりと来ては何日か働いているのだが、この女の子がホールに並んでいるところに、観光バスでノーキョー・グループが大声で騒ぎながら入ってくる。

案内するのは現地ガイドだが、これがタイ人と結婚した日本女性である。そして、驚くなかれ観光グループの中に中年の女たちもいて、男たちに「あんたはどの子にする?」などと言いながら、ペット・ショップの子猫でも選ぶように、タイ女性を指さすのである。

確かにドイツ人などもへそくりを蓄めてバンコックにやって来るが、一人の男性としてガール・ハントする。会話ができなければ、手まねをしても女性の考えを識ろうとする、というのである。

これで反日感情がおきなかったらどうかしているではないか。CIAが反日運動をやらせたなどという以前の問題なのだが、机の前で考える人たちには判らないのかもしれない。

さて、『日本書紀』には神武の軍団に大来目がいたと書いてあるが、大来目とは古代メコン河の流域を支配したクメール族のことだ。

だから、日本人とタイ民族の間には切っても切れない血のつながりがある。クメール族はかつてメコン川流域を支配していたが、上流のバンチェン地域には世界最古の青銅文明が生まれ、オリエントーインダスの文明と殷文明をつなぐ役割を担い、人類史の焦点に位置した。

単独では旅行もできないという恥をさらしながら、金魚のウンコ式に観光バスで廻るにしても、まず、バンコック博物館に行って、偉大な共通の祖先が生んだ、バンチェンの文明を学んだらどうか。第二次世界大戦のあと、ドイツ占領のアメリカ兵は、ドイツ文明を祖先のものとして尊重したというではないか。思うに、このような日米の違いは、神国日本といった誤った歴史観が創造した虚構のアイデンティティによるのだが、恐らく将来に亘って、極めて重大な問題を引きおこすに違いない。

(鹿島曻『日本ユダヤ王朝の謎(続)』新国民社、1984年)