畑倉山の忘備録

日々気ままに

日本の政商(2)

2018年05月13日 | 歴史・文化
鉱山については、明治6年に「日本抗法」をつくり、外国人の鉱山所有と経営への参加を認めず、また特定の例外——別子銅山など——をのぞいて鉱山採掘権は政府の独占とし、従来から官営の佐渡・生野のほか院内銀山、釜石鉄山、三池炭鉱・高島炭鉱などを官営とした。その経営のため外国人技師がやとわれ、機械が輸入された。

その労働者は、土地を失って流浪する農民や被差別民らで、ざんこくな苦役を強制された。そのため高島炭鉱では、明治5年には——まだ官営ではなく、イギリス人が経営していた——坑夫の大暴動がおこった。6年、官営になってからは囚人労働が用いられ、他の労働者もそれに准じて、古代奴隷にもまがう苦役にしばりつけられた。最新の文明の技術と奴隷的な労働の結合、これが当時の日本資本主義の象徴的な姿であった。

これらの工業・鉱業でも、商業・金融・運輸業におけると同様に、政府とごく少数の大商業資本家はかたく結びついていた。たとえば別子銅山のような日本最大最良の銅山は、徳川時代から住友が採掘していたが、その所有主は幕府であったから、政府は当然これを国有にすべきであったのに国有にせず、明治6年の「日本抗法」は、前記の通り、民間の鉱山採掘権をみとめないとしながら、やはり住友に採掘させ、いつのまにか住友の私有物にされた。

(井上清『明治維新 日本の歴史20』中公文庫、1974年)