畑倉山の忘備録

日々気ままに

沖縄密約

2017年09月23日 | 国内政治

72年5月の沖縄返還に際して、日本は3億2000万ドルをアメリカに差し出した。このほか密約で、さらに取られた。

核抜き本土並みの正体を日本国民は今も知らない。新聞テレビが真実を伝えないからだ。事実は沖縄にあった、もはや使いものにならない固定した大陸間弾道弾の撤去費用などにも、血税を使った。固定した核の基地は、時代遅れとなっていたのだ。移動式の多弾頭の核兵器の時代に移っていた。

米国は、撤去を口実に日本から大金をせしめたのだ。しかも、非常事態には核を持ち込む、通過させるとの密約も認めさせた。売国奴外交も極まっていた。笑いの止まらないワシントンが、沖縄返還の真相である。

今も変わらない。普天間移転にからめて米海兵隊をグァムに移転するという米産軍体制の計画を、日本の金でやる、というのだ。

沖縄に海兵隊を駐留させる理由などない。万が一のことが起きれば、一瞬にして死滅する部隊であることがわかっている。グァム移転を普天間問題にからめて、日本の金で、がワシントンの狙いなのだ*。

「アメリカというずる賢い泥棒に身ぐるみはがされる日本かな」という戦後の日本外交なのだ。

余談だが、沖縄返還時にナベツネはワシントン特派員をしていた。当時、衆院予算委員長の中野四郎がワシントンを訪問すると、待ち構えていたナベツネと日経の神末佳明特派員が、当時の日本では禁じられていた「エロ映画館」に案内している。

欧米勤務の外交官の主たる任務は、東京からのバッジ組を売春宿に連れてゆくものだった、と何度も聞いたことがある。日本の外交官・政治屋・特派員もこのレベルだった。「ワシントン帰りが、政府・議会・言論界の中枢を占める日本かな」である。

2013年9月20日8時30分記

(本澤二郎)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52047529.html

* グアム移転に必要な経費は92億ドルで「その3分の2(約6,000億円)を日本側が負担します」と2006年当時の自民党政権が約束している。米議会が関連予算を認めないため、移転事業は進んでいないが、日本政府はすでに500億円以上を米国政府に送金している。(http://www.asahi.com/special/wikileaks/TKY201105030472.html)。


白洲次郎伝説

2017年09月18日 | 鬼塚英昭

白洲次郎が彼の死後にどうして復権してきたのか。それは、不利益な歴史を消去し、一般大衆を洗脳し、自分たちに都合のよい歴史を創作しようとする不埒(ふらち)な連中がいるからである。

私はここまで書いてきて、奴隷制度がいまだに、この日本には残存しているのではないかと思った。私は生存のために、私自身と私の家族のために必要最小限の富を求め、そしてそれを得て半ば満足して生きてきた。しかし、白洲次郎ブームを見て、人は、商業的利潤を追求し、人為的な搾取に成功した者に支配されることに自ら進んで身も心も投げ出している、そう思わずにいられなかった。

私は低次元の我欲のみの尊大な利己心の持ち主だと白洲次郎を思い、描いてきた。そして、その埋由の一つに、彼が「私たち」とか、「私たち日本人は」という言葉を使わず、「彼ら」という言葉を使い続けたことを挙げた。彼は私たち日本人を家畜と考えていた。そのために、虚栄心を持ち続け、利己的な人間であった。私はそうした彼の心の中にユダヤ人の心を見た。私は彼をユダヤ人と断定した。彼の心の中にエゴイズムの姿を見た。もう一度、読者に一つの問いを出して、本来のストーリーに返る。

――あなたは白洲次郎伝説を長いあいだ反復して聞かされ、ついに白洲伝説がひとつの真理となっていませんか。

(鬼塚英昭『白洲次郎の嘘』成甲書房、2013年)

 


近衛文麿公爵

2017年09月18日 | 歴史・文化

近衛公は近衛篤麿(あつまろ)公の長男として生まれたが、近衛家系で250年ぶりに正妻から生まれた世継ぎであった。文麿の誕生を喜んだ曾祖父は、喜びのあまり数多くの詩を詠んだのだった。母親は彼の誕生後8日目に産褥熱(さんじょくねつ)で死んだ。しかし文麿は青年になるまで、母親の妹が父の後妻になっているのを、実の母だと思い込んでいた。後年、文麿は「実の母でないことを知ったとき、私は、この世は嘘だらけだと思うようになった」と語っている。

近衛はアメリカをあまり好まなかったが、長男の文孝(ふみたか)をニュージャージー州ローレンスビル校とプリンストン大学に留学させた。近衛は和服を好み着物についてなかなかやかましかったが、洋服もじょうずに着こなした。彼は恋愛結婚をしていながらも、芸者上がりの妾を寵愛した。そして、彼は二度、近衛家の伝統を破った。一つは本宅に二号、三号、四号の妾の部屋を設けなかったこと(「たった一人の妾をもつことは許されるでしょう?」と近衛は言った)で、第二には、家族日誌をつけなくなったことであった(「自分に不利なことをありのままに書くなどということはできない」と彼は言った)。

近衛は天皇に対して個人的に近親感を抱いていて、むしろ親しく接した。天皇の前では、他の人々は椅子の端にかたくかしこまってすわったが、近衛は気楽に手足を伸ばした。もちろん、かれがそうしたのは天皇を軽んじていたためではなく、天皇を親しく感じていたからである。天皇に拝謁する者に、「陛下にどうぞよろしくお伝えください」と言うとき、それはふざけて言っているのではなく、きわめて自然なことであったのである。近衛は、自分が天皇家とほとんど同格の家柄の出であると感じていたのだった。

(ジョン・トーランド、毎日新聞社訳『大日本帝国の興亡』ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2015年)