畑倉山の忘備録

日々気ままに

マーク・ゲインが見た昭和天皇

2019年01月27日 | 天皇
1946年3月25日 群馬県

やがて郊外の小さな駅に着いた。大勢のMPが私たち一行を門のところで遮った。私たちは最も厳粛な表情をして、「われわれは天皇から同行するようにとの招待を受けたのである」といって通りすぎた。私たちは天皇の乗車するのを見さだめてから、すぐ後ろの車輛に乗り込んだ。

宮内省の役人がやってきて、痛ましい声で説明した。「新聞社用の列車があったのですが、仕方ありませんからこれにお乗りくださっても結構です。ただこれを先例になさらぬように願います」

万国博覧会か何かの出品物で見た覚えはあるが、こんな列車が実際に動くところは見たことがなかった。それは入念に手入れされた1890年型で、窓にも金属の部分にも坐席にも塵一つ止めていなかった。バネも上等だった。発車してしばらくすると、給仕が茶と煙草をもってきた。

沿線の村々は天皇奉迎のため総出のかたちだった。(あとで知ったのだが、食糧や燃料の配給を支配する隣組を通じて警察の命令が下されたのだそうだ。)どの駅でも駅員の全部が硬直した気をつけの姿勢をとっていたし、踏切りには黒山の群衆ーー旗を手にした村民、子供、女たちが遮断機に固く身を押しつけていた。

畑の百姓は顔をあげて列車をながめ、たちまち腰低く最敬礼するのだった。御召列車を見分けるのは容易なことにちがいなかった。おそろしくみがきたてられて、横っ腹には皇室の菊の紋章がついているのだから、一般民衆の乗る窓ガラスもないすし詰めのボロ車輛とは間違えようがなかった。

最初の停車駅は高崎だった。天皇のすぐあとについて駅前の広場に出た。天皇が姿を現わすと、バンザイの波がおこった。天皇は会釈しながら、待っていたメルセデスーー二台目のーーに乗り込んだ。私たちは軍が準備しておいてくれたトラックに乗り込んだが、そのトラックは、どうやら万事を監督する役目を授けられていたらしかった。

昼食のため、ある紡績工場で休んだ。米軍の対諜報部隊の男が、「ここの女工たちがこの床を三日も洗いこすらされた光景を見せたかったよ」と言ったが、女工たち自身も洗いこすられたようにきれいになっていた。かいこをとり出すため熱い湯の中にしょっちゅうつっこむので、まるでうですぎたハムのようになった彼女らの手だけが、彼女らの職業を暴露していた。

天皇はただ一人で昼食をとった。天皇以外のわれわれは、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので、話しをしようと思って戸外に出た。彼女らは恥かしそうにクスクス笑うだけでだれも答えてくれそうもなかった。が、とにかく彼女らは「15歳」ーー最低就労年齢ーーで、一日9時間半働き、一日3円ないし5円支払われていることを聞き出した。そこへ、天皇が出て来たので、彼女らは最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女らの専制君主を見ようとして首を伸ばすのであった。

またわれわれは果てしなく進んで行った。もとの飛行場を畠に開墾したところでしばらく止った。農夫たちは鍬をもったままほぼ整列し、農場経営者が進み出て車を降りる天皇を迎えた。天皇が降りるために運転手が自動車のドアをあけようとしたちょうどそのとき、われわれの車はそこに着いたのだが、呻き声が耳に入り、農場経営者がうしろに倒れかかるのが見えた。

彼は目がくらんだような様子だったが、額の傷からは血が流れ出していた。最敬礼をしようとしたとき運転手のあけたドアが彼の額にぶつかったのだ。人々が集まって来て繃帯をしてやったが、痛みと驚愕から彼は唇をふるわし、緑色の作業服にかかった血は、あたたかい陽ざしに黒ずんで見えた。

一人ぽつんと恥かしげに天皇は、彼を注視している人たちの円陣の真中に立った。お供からは完全に引き離され、誰一人話しかける者もなかった。痙攣が彼の顔面に現われ、彼はおずおず足を踏みかえていた。経営者の繃帯が終って農場の状態の報告をはじめるまでには、たっぷり十分間ぐらいかかった。彼の声は驚くほど明瞭で大きかった。天皇は何の質問もしなかった。

(マーク・ゲイン『ニッポン日記』ちくま学芸文庫、1998年)