畑倉山の忘備録

日々気ままに

君主と臣下

2019年01月27日 | 天皇
宮中で「1月1日」に行われている重大な儀式が、「新年祝賀の儀」です。

1日朝(今年は午前10時)から、関係者が次々と天皇・皇后を訪れ、新年のあいさつを行います。最初は皇太子・同妃をはじめとする皇族。次に元皇族、未成年皇族と続きます。

問題はこれからです。午前11時、宮中「梅の間」で天皇・皇后を拝したのは、安倍晋三首相以下閣僚たち。それが終わると部屋を変えて衆参両院議長、国会議員ら国会関係者、さらに部屋を変えて最高裁長官ら司法関係者、そして全国の知事・地方議会議長らと続きます。これが「祝賀の儀」です。

年の始まり「1月1日」の朝に、首相、衆参議長、最高裁長官の「三権の長」はじめ行政、立法、司法の関係者が揃って皇居を訪れ、天皇・皇后に拝謁し、新年のあいさつを行う。ここには天皇と「三権」・地方との関係が象徴的に(それこそ”象徴“的に)表れています。天皇は「三権」・地方の上に立つ国家元首の扱いだということです。

アリの一言

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(わたしのコメント)一日15万人の祝賀を受ける明仁天皇。歴史上最も人気のある天皇と言えよう。この天皇の祈りのおかげで日本は世界に誇れるすばらしい国になった、と言えるか?

日本の精神的起源

2019年01月27日 | 歴史・文化
現在、ものごとは自然のままのとりとめのない状態にある。民のこころは素朴である。彼らは巣にとまり、ほら穴に住んでいる。彼らの風習はただ単にいつものしきたりどおりである。

1945年8月の日本人がそうであり、西暦紀元前660年、いまから2600年の昔、神武天皇が観察したときとそのままだった。

(レスター・ブルークス・井上勇訳『終戦秘話』時事通信社、1968年)

廃仏毀釈

2019年01月27日 | 歴史・文化

京都東山にある泉涌寺は南北朝から安土桃山時代および江戸時代の多くの天皇の葬儀が執り行われた皇室と縁の深い寺である。

明治4924日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃しました。」(佐伯恵達「廃仏毀釈百年」。

淡々と書かれているが、こんな重要なことが何の抵抗もなくなすことができたということに疑問を感じた。

皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。

しばやんの日々


天皇中心の支配体制はつづく

2019年01月27日 | 天皇

アメリカの日本研究の第一人者、ジョン・W・ダワー(マサチューセッツ工科大学教授)は、第二次世界大戦におけるドイツでの欧米人捕虜死亡率は4%であったのにくらべ、日本では30%前後にも達したことをあげ、欧米では日本は「ドイツよりも残虐な敵」であったという感覚が強い。にもかかわらず「日本は、戦争について世界を納得させるほど正直に語れる政治家を一人も輩出できなかった」と指摘した(『朝日新聞』1995年6月11日)。

 

どうして日本はこうなったのか。それは日本が敗戦後、一貫して天皇の戦争責任を追及することをしてこなかったことに最も根源的な理由がある。イタリアでは決起したイタリア人自身の手によって独裁者、ムッソリーニは処刑され、戦争に終止符がうたれた。ドイツでは、独裁者、ヒットラーは東西から攻め入った連合軍の猛攻のなかで自殺し、ドイツの敗北が決まった。

 

イタリア・ドイツの敗北にくらべて日本の特徴は、降伏の唯一条件が「国体の護持」、すなわち天皇制の温存であった。これを、日本を事実上単独占領したアメリカが支持したのである。従って敗戦後も旧支配層内部の勢力交代があっただけで、天皇・皇族・重臣・官僚の全体系が従来のまま中央政権としての統一を保ち、アメリカ占領軍に従属しながら日本の政府として国民を支配しつづけたのである。

 

戦前の天皇制の専制支配は修正されたが、天皇を中心とした旧支配体制は、一時、軍事力を失っただけで、ほとんど崩壞せずに残ったのである。こうして天皇の戦争責任は免責され、そのことによって、日本では第二次世界大戦前の軍国主義思想が温存され、侵略戦争を正当化し「謝罪しない日本」という醜い体質が今日まで続く大きな原因となった。

 

(中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、1997年)

 

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(わたしのコメント)日本では高学歴のエリートや高給取りのサラリーマン、専門職の人々にいわゆる「尊皇」論者がおおい。日本には天皇が必要だというわけである。現状に満足しており、支配層の教育や情報操作(いわゆる洗脳)の優等生であり、支配者の価値観に染まり、固定観念を疑わないのである。現状に満足している人々はそれで良いとして、そんな境遇にない庶民が支配者の価値観に付き合う必要はないのである。

 

一時、軍事力を失った日本の支配層・財閥は、今や世界有数の軍事力を回復している。安倍晋三は日本の最強の実力者なのか。安倍は日本の支配層・財閥の傀儡にすぎない。明仁天皇が安倍に一人抵抗しているというのはメディアの情報操作である。われわれ庶民はメディアでは報じられない天皇の実像、その人となりや考え方を何一つ知らないのである。


戦前の財閥(4)

2019年01月27日 | 天皇
外地における勢力拡張と併行して、財閥は国内生活に対する支配を強化していった。これはきわめて巧妙な方法で行なわれた。その一つは、「統制組合」で、これは原料、信用、各工場への生産割当を統制する機関であった。

各種統制組合は財閥によって支配され、財閥はその権力を利用して小企業家を押し出してしまった。政府部内の財閥の友人たちは、新しい工場開設の許可は「能率的な」会社、すなわち財閥のものに限って与えられるようにとくに気を配った。

そして軍需省が設置され、特定の会社が「軍需会社」に指定されると、財閥は利益の保証、特定の法律の適用免除、労働者徴用および賃率決定の権利を与えられた。四人の軍需大臣のうち二人までが三井の出身だったことも、べつに驚くには当らない。

最初の機会において、労働組合は解散され、これに代って「産業報国会」が結成されたことも、同様に驚くに当らないことであろう。そして政府は、「労働は国家に対する国民の義務であり、国家に労力を提供するのは名誉であり、・・・・・上長の命に従う服従精神と労働者間の協力精神は昂揚されなければならない」と声明した。

(マーク・ゲイン『ニッポン日記』ちくま学芸文庫、1998年)


戦前の財閥(3)

2019年01月27日 | 天皇
ほとんどすべての財閥は、ーーそしてとくに四大財閥は紛れもなくーー戦争によって巨富を築きあげた。三菱の基礎は日本の台湾侵略によってかたまり、安田は日露戦争の利得で一流の事業家になった。

財閥の機関は日本の軍隊と歩調を揃えて、そしてしばしばその先頭に立って行進した。財閥の在外支店や出張所がしばしば経済的軍事的スパイ行為の中心になっていたことについては、豊富な証拠がある。満鉄の情報網は、軍部と財閥の共同経営のもとに全アジアをカヴァしていた。

上海で、新聞記者でありながら同時に満鉄のスパイの役割をもつとめていた一日本人を私は知っている。1937年、日本の軍隊が中国を攻撃しはじめたとき、その「新聞記者」は陸軍少佐の軍服を着て姿を現わした。しかし諜報行為は、金儲けに伴う副次的なものにすぎなかった。

財閥はあらゆるやり方で侵略を利用して金を儲けた。最近の15年間に、彼らは兵器製造で何十億ドルという金を儲けた。(戦前の相場で換算すれば、約1億8000万ドルの資本をもつ三菱重工業は、1944年には7億500万ドルの純益をあげた。)財閥の銀行は政府に金を貸しつけた。

日本の陸軍がアジアの地図の上にさらにもう一歩の前進を開始したとき、政府は時を移さず「開発」会社を創設したが、これには財閥がとてつもない巨額の投資をした。「開発」会社は、侵略地域の組織的掠奪に没頭した。

(マーク・ゲイン『ニッポン日記』ちくま学芸文庫、1998年)


戦前の財閥(2)

2019年01月27日 | 天皇
皇室は財閥の同一型の一部であった。したがって財閥とともに掠奪事業の哲学を共有していた。天皇の側近が内閣総理大臣を選ぶのだったから、封建的全体系は国策がこの哲学に順応せしめられるとの保証を与えられていた。これに対して財閥は、皇室の神話のもっとも熱心な製作者だった。この神話こそ、彼らの政策を国民の抗議から保護するもっとも有効な手段の一つだった。

財閥をふとらせるためにアジア大陸の戦野に赴こうと志すものはおそらくいなかったろう。しかし、天皇のためといわれれば、何百万かの人が敢然として戦いに赴いた。かくて、何百万円という財閥の金が、神道の神社に、プロパガンダの費用に、また日本の「使命」という破壊的な観念を売りつける運動に注ぎこまれたのであった。

が、この皇室と財閥の結合は、もっと緊密なものがあった。住友は皇族の連枝の後裔であると主張し、三井は天皇を献じた封建貴族の末裔であると主張している。友好と婚姻を通じて、財閥は天皇の側近たちや全封建制度網と固く同盟した。

住友は、60年にわたる「内閣製造者」西園寺公と結びつき、三井は一連の宮廷政治家とかたく結合した。その中には、最近の宮内大臣二人も入っている。三菱は幸いにも、ある天皇の顧問の支援を得て、自分の代表を天皇の最側近におくことができた。

(マーク・ゲイン『ニッポン日記』ちくま学芸文庫、1998年)


戦前の財閥(1)

2019年01月27日 | 天皇
第三の特徴は、財閥と皇室との親密な結びつきである。天皇自身も現在「等身大の財閥」といわれている。彼は確かに日本最大の金持である。13週間前、日本政府はマックアーサー元帥への報告において皇室財産を17億円たらずと評価している。

用いられた算定方法のゆえにこの数字はアメリカの通貨に換算することはできない。が、ある総司令部の専門家はこう言った、「天皇の財産は5億ドルから10億ドルのあいだだろう。このひらきは、われわれの到着直前に彼の財産のどれだけが隠匿されたかというわれわれの知らない、またたぶん将来も知りえない事実によって生じるものである」

皇室は、三井住友を含む財閥の銀行への一大投資家だった。また永年にわたって郵船会社の最大の株主で、同社を支配する三菱よりも多くの株数をひとまとめにして所有していた。が、見事な公平さをもってNYKの随一の競争相手、大阪商船株式会社の莫大な株数も所有していた。

天皇は三菱信託、その保険会社、三井炭坑、製紙会社、台湾製糖および同海運、北海道拓殖銀行、勧銀、などへの投資家で、また今はアメリカの「高級将校」の宿舎になっている帝国ホテルにまで投資していた。

皇室は日本銀行の発行株数の60パーセントを所有する最大の株主で、残りは当然財閥が所有していた。財閥と同様に皇室も、征服の儲けの分け前にあずかっている。開戦の前夜、皇室は横浜正金銀行の株の22パーセントをもっていたが、同銀行の主たる関心は、日本の占領地域ないしは狙いをつけた地域の搾取にあった。そしてその政策は財閥を代表する人々で構成する取締役会で決せられるのであった。

財閥とともに皇室はまた、南満洲鉄道株式会社の大株主だった。これは往年の英国の東インド貿易会社の日本版として悪名高いものだった。朝鮮銀行や台湾銀行のような植民地搾取機関にも皇室の円がたくさん投下されていた。

(マーク・ゲイン『ニッポン日記』ちくま学芸文庫、1998年)


マーク・ゲインが見た昭和天皇

2019年01月27日 | 天皇
1946年3月25日 群馬県

やがて郊外の小さな駅に着いた。大勢のMPが私たち一行を門のところで遮った。私たちは最も厳粛な表情をして、「われわれは天皇から同行するようにとの招待を受けたのである」といって通りすぎた。私たちは天皇の乗車するのを見さだめてから、すぐ後ろの車輛に乗り込んだ。

宮内省の役人がやってきて、痛ましい声で説明した。「新聞社用の列車があったのですが、仕方ありませんからこれにお乗りくださっても結構です。ただこれを先例になさらぬように願います」

万国博覧会か何かの出品物で見た覚えはあるが、こんな列車が実際に動くところは見たことがなかった。それは入念に手入れされた1890年型で、窓にも金属の部分にも坐席にも塵一つ止めていなかった。バネも上等だった。発車してしばらくすると、給仕が茶と煙草をもってきた。

沿線の村々は天皇奉迎のため総出のかたちだった。(あとで知ったのだが、食糧や燃料の配給を支配する隣組を通じて警察の命令が下されたのだそうだ。)どの駅でも駅員の全部が硬直した気をつけの姿勢をとっていたし、踏切りには黒山の群衆ーー旗を手にした村民、子供、女たちが遮断機に固く身を押しつけていた。

畑の百姓は顔をあげて列車をながめ、たちまち腰低く最敬礼するのだった。御召列車を見分けるのは容易なことにちがいなかった。おそろしくみがきたてられて、横っ腹には皇室の菊の紋章がついているのだから、一般民衆の乗る窓ガラスもないすし詰めのボロ車輛とは間違えようがなかった。

最初の停車駅は高崎だった。天皇のすぐあとについて駅前の広場に出た。天皇が姿を現わすと、バンザイの波がおこった。天皇は会釈しながら、待っていたメルセデスーー二台目のーーに乗り込んだ。私たちは軍が準備しておいてくれたトラックに乗り込んだが、そのトラックは、どうやら万事を監督する役目を授けられていたらしかった。

昼食のため、ある紡績工場で休んだ。米軍の対諜報部隊の男が、「ここの女工たちがこの床を三日も洗いこすらされた光景を見せたかったよ」と言ったが、女工たち自身も洗いこすられたようにきれいになっていた。かいこをとり出すため熱い湯の中にしょっちゅうつっこむので、まるでうですぎたハムのようになった彼女らの手だけが、彼女らの職業を暴露していた。

天皇はただ一人で昼食をとった。天皇以外のわれわれは、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので、話しをしようと思って戸外に出た。彼女らは恥かしそうにクスクス笑うだけでだれも答えてくれそうもなかった。が、とにかく彼女らは「15歳」ーー最低就労年齢ーーで、一日9時間半働き、一日3円ないし5円支払われていることを聞き出した。そこへ、天皇が出て来たので、彼女らは最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女らの専制君主を見ようとして首を伸ばすのであった。

またわれわれは果てしなく進んで行った。もとの飛行場を畠に開墾したところでしばらく止った。農夫たちは鍬をもったままほぼ整列し、農場経営者が進み出て車を降りる天皇を迎えた。天皇が降りるために運転手が自動車のドアをあけようとしたちょうどそのとき、われわれの車はそこに着いたのだが、呻き声が耳に入り、農場経営者がうしろに倒れかかるのが見えた。

彼は目がくらんだような様子だったが、額の傷からは血が流れ出していた。最敬礼をしようとしたとき運転手のあけたドアが彼の額にぶつかったのだ。人々が集まって来て繃帯をしてやったが、痛みと驚愕から彼は唇をふるわし、緑色の作業服にかかった血は、あたたかい陽ざしに黒ずんで見えた。

一人ぽつんと恥かしげに天皇は、彼を注視している人たちの円陣の真中に立った。お供からは完全に引き離され、誰一人話しかける者もなかった。痙攣が彼の顔面に現われ、彼はおずおず足を踏みかえていた。経営者の繃帯が終って農場の状態の報告をはじめるまでには、たっぷり十分間ぐらいかかった。彼の声は驚くほど明瞭で大きかった。天皇は何の質問もしなかった。

(マーク・ゲイン『ニッポン日記』ちくま学芸文庫、1998年)


「天皇を人民に売りつけなければいけない」

2019年01月27日 | 天皇
マーク・ゲイン『ニッポン日記』
1946年7月2日 東京

ワシントンからの最高機密指令・・・・ この指令は去る4月半ばにSWINCC (国務、陸軍、海軍協調委員会)からマックアーサー元帥宛に発せられたもので、・・・・ワシントンからの命令の主旨は次のとおりである。

「米国は究極においては日本における共和政体の樹立に賛成するものではあるが、日本国民自身は明白に天皇制を支持している。したがって、マックアーサー元帥は、立憲君主制の発展並に天皇制の維持について日本国民を援助するよう指示される。天皇制に対する直接の加撃は民主的要素を弱め、反対に共産主義並に軍国主義の両極端を強化する。故に総司令官は、天皇の世望をひろめかつ人間化することを極秘裡に援助するよう命令される。以上のことは日本国民に感知されてはならない。」

さるアメリカの将官・・・・はこう説いている。「広告をしなければいけない。天皇を人民に売りつけなければいけない」

われわれが勝利をえた直後の時期には、日本国民をわれわれの命令に服従させるために裕仁を方便として利用する必要があったかもしれない。しかし今度の命令は、方便の領域をはるかに超えて、長期にわたる最高政策の性格をもつものであって、とまれ私には非民主主義的なーーはやり文句を使えばーー非アメリカ的な印象を与える。

(マーク・ゲイン『ニッポン日記』ちくま学芸文庫、1998年)

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(わたしのコメント)昭和天皇は昭和21年から29年にかけて全国各地を旅行して回った。全行程は3万3000キロ、東京・ロサンゼルス間を2往復する勘定で、一日平均200キロの強行軍だったという。この旅行には御召列車や御料車(メルセデス・ベンツ・770)が使われたが、どれだけ費用がかかったかは不明である。この旅行がマッカーサーのサポートのもとで行われたことは言うまでもない。

マーク・ゲインはアメリカの新聞社『シカゴ・サン』の東京支局長として占領下の日本を取材した。『ニッポン日記』の原書は1948年に、その翻訳本は1951年に出版された。紹介した文庫本は1963年に出版された翻訳第2版を文庫化したものです。


天皇と内閣の君臣関係

2019年01月27日 | 天皇
内奏とは、所管大臣が天皇に国政上の報告をすることである。内奏は天皇と大臣の2人だけで行われる密室の会話となる。その内容は外部に漏らさないのが大原則である。

1948年3月、内閣総理大臣になった芦田均は、新しい憲法で天皇は政治に参画しなくなったので、内外情勢の説明にはいかないことにしたところ、天皇に「ときどき来てくれ」といわれ内奏すると、天皇は米ソ関係などについてくわしい質問をした。昭和天皇の「総覧者意識」はそう簡単には抜けなかったのである。

芦田は、内奏はすべきに非ずという考えであったが、吉田茂は違った。吉田は内奏の回数が多いばかりでなく、他の閣僚に対しても積極的に “政情奏上” をするように命じた。1953年8月だけでも、本人を含め保利茂農相以下8人が内奏に上がった。

さて、内奏が政治問題化したのが「増原発言」であった。田中角栄内閣の防衛庁長官である増原恵吉が内奏に上がったところ、昭和天皇は「近隣諸国に比べ(日本のもつ)自衛力がそんなに大きいとは思えない。なぜ国会で問題になるのか」「防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところは真似せず(自分が最高司令官だったことを忘れて他人事のように…)、良いところをとり入れてしっかりやってほしい」と発言した。そのことを増原が記者団に紹介したのである。

そのあと増原は「防衛2法の審議をまえに勇気づけられた」と話したため、「天皇の政治利用」として糾弾され、5月29日には辞任に追いこまれた。天皇は事件をしって「もう張りぼてにでもならなければ」と嘆いたという。

佐藤長期政権を経て自民党政権で定着した天皇と内閣の「君臣関係」は、白紙に戻されることもなく、昭和天皇の死ぬ直前の竹下登内閣までつづけられてきた。

内奏ができなくなったら「自分は張りぼて」にでもなるのかと嘆いた昭和天皇に、はたして日本国憲法の基本精神が理解できていたのかといえば、まったく無理・無縁であった。というより彼は新憲法を理解することよりも「自分の立場」=「天皇家の安寧と幸福」を最優先し、最重要視する皇室的価値観だけが問題であった。

昭和天皇にそうしむけた「臣茂」の封建思想にも問題があり過ぎるものの、なんといっても、裕仁自身の時代錯誤性が最大・最難の問題であった。息子の代(明仁天皇)になってからも「天皇と内閣の君臣関係」に変化はない。

日本国はそうした天皇を象徴に戴いている。

(社会科学者の随想)

ウォール街が支配する天皇制国家

2019年01月27日 | 歴史・文化
近代日本は明治維新で始まると言えるだろうが、徳川体制の転覆にイギリスが関与していることは否定できない。そのイギリスは18世紀の後半から生産の機械化を進めたものの、巨大市場だった中国で売れない。商品として魅力がなかったということだが、逆に中国の茶がイギリスで人気になって大幅な輸入超過。この危機を打開するためにイギリスは中国へ麻薬(アヘン)を売ることにしたわけだ。

当然、中国側はアヘンの輸入を禁止しようとする。そこでイギリスは1840年に戦争を仕掛けて香港島を奪い、上海、寧波、福州、厦門、広州の港を開港させたうえ、賠償金まで払わせている。これ以降、香港はイギリスやアメリカが東アジアを侵略する重要な拠点になった。

1856年から60年にかけてはアロー号事件(第2次アヘン戦争)を引き起こし、11港を開かせ、外国人の中国内における旅行の自由を認めさせ、九龍半島の南部も奪い、麻薬取引も公認させた。

イギリスが行った「麻薬戦争」で大儲けしたジャーディン・マセソン商会は1859年にトーマス・グラバーを長崎へ派遣し、彼は薩摩藩や長州藩など倒幕派を支援することになる。その邸宅は武器弾薬の取り引きにも使われた。

1863年には「長州五傑」とも呼ばれる井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)が藩主の命令でロンドンに渡るが、その手配を担当したのもグラバー。渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が利用された。こうしたイギリスを後ろ盾とする人びとが作り上げた明治体制は「現人神」の天皇を頂点とする一種の宗教組織で、当初の天皇は飾り物にすぎなかった。

廃藩置県の後に琉球藩をでっち上げるという不自然なことをした後、日本は台湾、朝鮮半島、中国というように侵略していくが、その背後にはイギリスやアメリカの影が見え隠れする。日露戦争で日本はウォール街のジェイコブ・シッフから資金を調達、ウォール街と結びついていたシオドア・ルーズベルト大統領の仲介で何とか「勝利」している。

関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼った日本はウォール街の強い影響下に入るのだが、1932年にその関係が揺らぐ。この年に行われた大統領選挙でJPモルガンをはじめとするウォール街が支援していた現職のハーバート・フーバーが破れ、ニューディール政策を掲げるフランクリン・ルーズベルトを選んだのである。

フランクリンは巨大企業の活動を規制して労働者の権利を認めようとしていただけでなく、ファシズムや植民地に反対する姿勢を見せていた。親戚だというだけでシオドアとフランクリンを同一視するのは大きな間違いだ。

そこで、ウォール街は1933年にクーデターを準備し始めるのだが、この事実は名誉勲章を2度授与された海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将の告発で発覚する。計画についてバトラー少将から聞いたジャーナリストのポール・フレンチはバトラーに接触してきた人物を取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたという。これも議会の記録に残っている。

皇室とウォール街を結ぶ重要なパイプだったのがジョセフ・グルー。1932年から41年まで駐日大使を務め、戦後はジャパン・ロビーの中心的な存在として日本の「右旋回」、つまり戦前回帰を主導した人物だ。

このグルーの親戚、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻。またグルーの妻、アリス・ペリー・グルー(ペリー提督の末裔)は大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后(九条節子)と華族女学校(女子学習院)で親しくなっている。言うまでもなく、昭和天皇は貞明皇后の子どもであり、昭和天皇はウォール街と結びついていたということにもなる。

戦後、「日米同盟」の仕組みを作り上げる上で昭和天皇が重要な役割を果たしていたことを豊下楢彦教授は明らかにしたが、その背景にはこうした事情もあった。吉田茂首相とマッカーサー司令官ではなく、天皇とワシントンとの間で軍事同盟の青写真が描かれていったのである。「悪いのは全て軍部だった」で内務官僚をはじめとする役人、学者、新聞記者などは責任を回避、その結果が現在の日本につながっている。

(櫻井ジャーナル 2014.12.24)


差別の胴元を「千代に八千代に」

2019年01月27日 | 天皇
天皇裕仁が死の病床にあった1988年10月、台湾の反日デモのプラカードに「天皇が一言も謝罪しないのは、(主権者)日本人の恥」と書かれていた事実は、戦争責任意識を欠落、放置した戦後日本の民主化路線の本質を見事に射抜いたものである。

ほんらい戦争責任意識と国民主権の確立は不可分の関係にあるのに、民主化推進の担い手たちは、民主化が自動的に過去の克服・贖罪につながるものと漠然と考えるだけにとどまっていた。

しかも、戦後日本の民主化といっても、それは「皇室典範」で身分差別・女性差別・障害者差別を規定した象徴天皇制との共存であり、この日本社会の差別の総元締めには一指も触れることは出来なかった。

それどころか、日本は21世紀に向けてこの差別の胴元をなお「千代に八千代に」保持しようというのである。

(安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』高文研、2000年)


明治初期の自由民権運動

2019年01月27日 | 歴史・文化
民権論者たちは、五か条の誓文を国会開設への志向と結びつけ、維新の変革を人民の自由の拡大への第一歩だとみるかぎりでは明治維新を高く評価しながらも、河野広中のことばを借りていえば、その後の明治政府のやり方は、形だけの開化であり、真の開化の精神はそこにはなく、それはあたかも金や玉でできた箱に、馬の糞や牛の小便を入れたようなものだ、とみた。

自由民権運動によって人民の自由や民権をかちとろうとする人々は、維新の奥深い原動力であった民衆の、真にめざしたところを継承しているものは、この自分たちであり、明治政府はこれを歪曲し、かえって民衆から遊離した、得手勝手な私利を図る政府にほかならない、とみていたのである。

(田中彰『未完の明治維新』三省堂新書、1968年)


なぜ虚偽の上に虚偽を積み重ねるのか

2019年01月27日 | 歴史・文化
なぜ権力ないし体制側が必死の執念といってよいほどに、科学としての歴史を拒否し、真実の歴史が民衆に浸透するのを恐れるのか。

権力を握っている体制側は、虚偽の上に虚偽を積み重ね、支配のカラクリのなかで民衆を戦争や困窮に追いこんできた。この支配の歴史の虚偽性が暴露されることがもっとも恐ろしいのだ。

一見、権力に無力な民衆の歴史が、実は一挙にその体制をくつがえす力を秘めていることを民衆が自覚することがこわいのだ。だからあらゆる手をつかって歴史の真実をおおい隠そうとしているのである。

(田中彰『未完の明治維新』三省堂新書、1968年)