畑倉山の忘備録

日々気ままに

パークスの鹿児島訪問

2018年04月05日 | 歴史・文化
江戸協約の調印は、イギリス=ブルジョアジーの代表者としてのパークスの大きな功績であった。江戸協約が調印されてからわずか五日しかたたない(1866年)5月18日、バークスは横浜を船出して、薩摩訪問の途についた。パークスは、すでに第二回の訓令(ハモンド書簡)にも接していたので、かの訓令の精神を実行に移す最初の機会である。

パークスの鹿児島訪問の話は急にはじまったわけではない。すでに慶応元年12月、長崎で家老岩下ら薩摩藩士がガワー・グラバーと会見したさい、薩摩藩士との会見を切望するむねのパークスの意向が、薩摩側に伝えられた。その後、慶応2年2月、グラバーは鹿児島におもむいて藩主島津茂久(忠義)と会見した。そのさい、パークスを招待する藩の意向がグラバーに伝えられた。そして3月になって、グラバーは横浜におもむき、パークスに薩摩藩の意向を伝えた。そこでパークスは、すぐグラバーとともに江戸にいって、岩下と会見し、ここにパークスの薩摩訪問が正式に決定したのである。

以上の経過からも知られるとおり、パークスの鹿児島訪問にあたって、仲介者としてもっとも重要な役割を演じたのは、実にグラバーであった。彼は、薩摩をはじめ西南諸藩を大きな取引先としていたので、その利害関係から、かねて西南諸藩にたいする支持をパークスに説いていた。パークスの鹿児島訪問において演じたグラバーの仲介的役割は、グラバーの直接の利害関係から出たのである。

さて横浜を出帆したパークスは途中、下関に寄航した。高杉、伊藤が英艦におもむいてパークスと会見し、帰途藩主と正式会見することにして、パークスはそのまま長崎に向った。これよりさき長州藩でも、幕府とフランスとの交際が日を追うて親しくなるのに対抗して、イギリスとの接近に躍起となり、四月はじめには、高杉・伊藤の意見により、藩主とパークスとの会見の藩議が決定していたのであった。

その後パークスは、しばらく長崎に滞在して情勢をさぐったのち、ここで先発したキング中将指揮下の艦隊と合流し、かのグラバーもー行に加わり、三隻の軍艦に護られて6月16日、鹿児島湾にいかりをおろした。おりから陸上と海上とからー斉にわき起る礼砲のとどろきは、南国の天地にこだました。ちようど三年まえに、荒れ狂う風波のもと、砲煙弾雨のなかで両者が相まみえたのにくらべると、何という変りようであろう。

この日の午後、パークス夫妻・キングらのー行は、上陸して鹿児島市中を見物し、翌日には、まず藩主島津茂久(もちひさ)およびその父で藩の実権者久光らが、プリンセス=ロイヤル号上にパークスやキングをたずねた。「藩主は身体長大、骨格強壮で、おのずから君公の威光を備えている。久光は藩主より身体短小肥大で、その挙動は藩主のごとく威儀正しくないとはいえ、勇武で君主の風がある」というのが、イギリス人のみた藩主父子のすがたであった。

それからパークス・キングらのー行は上陸して、島津家の磯邸をおとずれた。藩主父子は、 パークスとキングに通訳のシーボルトだけを奥座敷に通し、「過去のことは水に流して、将来はおたがいに仲よく交わりたい」と挨拶した。やがて洋風の会場で盛大な宴会が開かれ、一同歓をきわめること五時間におよんだという。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)


「日本における体制の変化は日本人だけから出るような外観を呈しなくてはならない」

2018年04月05日 | 歴史・文化
(イギリス公使)パークスは、イギリスの対日政策を示す重要訓令を受取った。最初のものは、1866年4月9日(慶応2年2月23日)付のクラレンドン外相の訓令で、薩長が連合して反幕的行動をとっているというパークスの報告にたいして発せられたものである。それは、⑴内戦にたいする厳正中立の順守、⑵日本において政治的勢力を求めないで、貿易の発展のみを求めること、⑶幕府の貿易独占の廃棄を軸とする国内諸勢力関係の調整、の三つの要項から成っている。しかし、国内諸勢力間の調整をするということになると、⑴の厳正中立の順守という原則との間に、微妙なずれが出てくる。

そこで、4月26日(3月2日)付の外務次官ハモンドからパークスにあてた私信の形で出された第二の訓令は、最初の外相訓令を補完するという意味で注目される。その私信ではまず、・・・日本における諸勢力の関係を調整するには、天皇、大君、大名の三者すべての利益になるように、貿易を極度に発展させる最善の手段を確保することをめざして、三者の間ですべての問題を自由に討議するのがよい、という。ところが厳正中立を保つという原則から、三者の間の討議を促進するにさいして、「外国人は積極的または表面的な役割を演じるベきではない」とされている。

そこで、いま討議を望んでいるのは大名で、幕府はそれを望んでいないことから、パークスが幕閣との会談の席を利用して、ふと貿易の独占を放棄するのがよいということを「示唆」するような方法を提示するのである。そして最後にハモンドは、「日本の国内問題にたいするあまり熱心な干渉」をいましめ、「日本における体制の変化は日本人だけから出るような外観を呈しなくてはならず、どこまでも日本的性格をもっているという印象を与えるようなものでなけれはならない」と結んでいる。

以上二つの重要訓令は、日本国内の対立がいよいよ激化するなかで、パークスのとる行動を規定した。厳正中立を保ちながら、しかも国内諸勢力間の調整をやっていくには「示唆」という方法が用いられた。これはもちろんパークスもやるが、パークスの有能な助手として、諸藩側にたいしてしきりに「示唆」を展開するのがサトウである。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)


一世一元の制

2018年03月04日 | 歴史・文化
岩倉たちの天皇観は、天子という宗教的存在を、いかに具体的に政治化してゆくかにかけられている。その最初の大きな一歩が明治改元であり、「一世一元」の制であった。

慶応四年が九月に明治元年と改元された時、一世一元が太政官布告によって改元された。「天皇制」が天皇の肉体と結びつく「制度」としての性格をもちはじめる上で、「一世一元」の制は画期的だった。元号はそれまで、災異があった、暦法で甲子にあたる等々の理由で、生活者には関係なくしばしば改元されていた。改元が天皇の権限たる限りでは江戸期の天子の仕事ではあるが、複数の候補のなかから幕府の承認をえるのでは実質的にはあまり意味もない。そしてーつの元号は江戸期には平均七・四年しか続かなかった(川口謙二他『元号事典』)。

しかも、元号決定にいたる形式は、儀式のみが肥大化していた。たとえば、元号決定までには、公家によって「難陳」という論議がおこなわれた。「天保」の場合だと、一人が「天保」は「天歩艱難」と音が近いからだめと「難」ずると、別人がいや「天徳をもって万物を保養する」からよろしいと「陳」ずる。そうしたやりとりを「四難五難」四陳五陳、とくりかえした上で、首座の大臣が決定する。岩倉具視はそんな「閑議論」のひまはないといいきった(『岩倉公実記』)。しかし『岩倉公実記』はおそらく意識してそれ以上、書かなかったが、明治の改元はー世一元制への変更であることに、本来は決定的な重要性があったのである。

暦はその主権のおよぶかぎりの全民衆の生活を規定する。天変地異や暦法の吉凶によって元号が変るかぎり、その元号決定が天皇の権限であろうとあるまいと、改元の原理は天皇以外にある。しかし、一世一元となれば、明治という時間の進行は、睦仁というー個人の肉体の存在に全的に支配されることになるわけだ。国民の時間をー人の天皇の肉体と明確に結びつけることが制度として決定されたのである。

一世一元は、たしかに中国でも、明代から採用されてはいた。しかし明治のー世一元は、その後の教育その他の民衆統合の過程で時間の進行と生活の変化がこれまでになく密接に結びついてゆく時、民衆の生活を規定する最大の制度的武器に転化していったのである。天子から天皇への変化は、まずここからはじまっていた。

(飛鳥井雅道『明治大帝』筑摩書房、1989年)


二・二六事件の中心人物

2018年03月04日 | 歴史・文化
栗原中尉は陸相官邸の小部屋で、新聞記者に答えていた。
「新内閣ができたとしても、ケレンスキー内閣だよ」
「それは短命内閣ということですか?」記者は訊いた。
ケレンスキー内閣なロシア革命直後のメンシェヴィキ政権で、すぐにボルシェヴィキに倒されている。暫定内閣、つなぎの政権である。

栗原は蹶起部隊の中心人物である。岡田首相は、おれが襲撃したと、ふっくらした頬の若い中尉は言ってのけた。表情にも数時間前に殺人を犯してきたかげはない。重要人物としてインタビューされるのが嬉しいように、目がきらきらしている。
「真崎さんが首相になっても、一時しのぎの短命内閣、暫定内閣ですか」
「どうだろうね、解釈はまかせるよ」

栗原はあごをなでた。ひげだ、伸びている、とつぶやいた。
「あなた方は真崎大将を首班に推していると聞いています」
「首班は陛下がお決めになることですよ」
「中尉、そんな風にいうことはないでしょう。キング・メーカーはずっと西園寺公だった。それが気にいらなかったんじゃありませんか」
「真崎閣下にはその気はないようだよ。閣下は、近衛さんか、山本栄輔海軍大将を推していると聞いている」
「海軍も山本栄輔海軍大将案に傾いているらしいですね」
「そうかね? もっと画策しているところがあるだろう」
「参謀本部とか?」
「それこそ西園寺公とか」

「西園寺公は興津の別荘にはいませんよ。探していますが、襲撃がこわくて逃げているらしく、何処にいるのかわからない。参謀本部は真崎大将案に反対でしょう?」
「当然だろう。そんな連中だ。やつらには兵隊など人的資源にすぎない。死なせることをなんとも思っていない。そのくせ大臣が何人か倒されると大騒ぎする。そう思わないか」
「左翼の本でも読んでいるんですか」
「上層部は嫌うが、軍人なら革命戦の本ぐらい読んでおくべきだよ。きみは自分の持っているその頭脳で考えたらどうなんだ。参謀本部の連中も、兵士は陛下の赤子だという。大臣もひとりの赤子だ。兵と大臣に差などない。その兵士が政治家、官僚、軍閥の失政のために、家族の悲惨を嘆きながら満州に行かなければならない。かしこくも・・・・・」

栗原は姿勢を正した。軍刀ががちゃりと鳴った。記者も背筋を伸ばした。かしこくも・・・・・とくれば万世一系の天皇とつづき、天皇という言葉には威儀をたださなくてはならない。
「かしこくも陛下のご命令なら、兵はー命を捧げる覚悟でいる。だったら、なぜ政治を正しくし、兵の家族が安心して暮せるようにしてくれないのだ。我々は軍の内部での派閥闘争をしているのではない」
「蹶起された気持ちは、わかりました。ですが、成功すると思いますか?」
「成功させなくてはおかない。そういう覚悟でいる」
「それではですね。新内閣が暫定内閣なら、その次の本格的な政権はどうなるのです?」
「天皇御親政。天皇のより直接的な統治だ」
「首班は? 構想があるのでしょう?」
「そこまではなんとも言えないさ」

中尉は眉を寄せるように微笑した。無垢な微笑だと記者は思った。老練な政治家たちの腹に一物を隠した歪んだ微笑ではない。

(笠原和夫『2/26』集英社文庫、1989年)


二つの右翼

2018年02月18日 | 歴史・文化

問題は明治維新という英国に日本が侵略されたことにあるのだ。宮廷ユダヤ人ロスチャイルドは世界の王様にカネを貸して操る段階から、ステップを上げて、国の王を創作する段階に入った。それが明治維新の明治天皇の創作である。

明治天皇が誕生すると明治天皇を守る『右翼』と呼ばれる人種が同時に誕生した。それが今、日本にちょっと出て来た、シナ人は悪い!朝鮮人は悪い!とヘイトスピーチする東アジア分断の英国製明治天皇の流れの右翼である。

また明治維新とは260年間も禁教とされたイエズス会の逆襲だともいえる。天皇を現人神(カルト神)として、「天皇陛下万歳!」と叫んで殉教死するのは、イエスキリストのために殉教死するのが一番正しい!と間違った信念を持っているイエズス会から来たものだろう。

さて英国が創った現人神天皇を守る右翼と関東軍は180度違う。英国製天皇教の右翼は東アジアの分裂を目的にしている。だから「朝鮮人は悪い!シナ人が悪い!」というのが口癖である。英国製天皇教右翼は元々は英国の利益のために行動する。もっと広い視野で言えば、英国製天皇教右翼は欧米の利益のために行動する。

しかし1920年代後半から時代の主役に躍り出た関東軍は英国製天皇教右翼とは180度違う姿勢であった。日本人・朝鮮人・漢民族・蒙古人・満州人の祖先は同じで、この5民族の故郷は満州の大地である!という考え。それは大本教から来るのであった。

満州国の「皇帝・溥儀」以下、全ての幹部は紅卍字会や道院の会員であったが、紅卍字会と道院は大本教の別働隊であり、満州国の国教は実質、大本教であったのだ。大本教がいかに満州国に影響を与えていたか?それを隠しているのが御用学者だが、御用学者の仕事とはウソを守ることであるのでしょうがない。

自民党は呪われたようにダメだ。第一にTPPがトランプ大統領によって否定されたこと。第二に白紙領収書問題など自民党の体質は税金万引き体質だとバレた。第三に安部総理は次の米大統領はヒラリーだと思ってた、その前の見えなさがヤバイ。

日本会議とは現憲法を改正して天皇を明治のように再び現人神にするということだが、今の天皇にその考えを否定されている。明治政府(長州政府)が英国の傀儡だったように自民党も米国ヒラリー派の傀儡であったのであり、トランプ大統領出現によって何もかも終わったのである。

日本会議とは成長の家の総裁の谷口雅春の思想だが、それは単純なる天皇を神として崇拝するもの。谷口雅春は天皇の正体を見えなかった。しかし谷口雅春の一時的な師であった出口王仁三郎は天皇はニセモノであることは解っていた。王仁三郎が崇拝していたのはスサノオであったから。スサノオとはバアルのユーラシア大陸的な呼び名である。

(サーティンキュー)


山田盟子という人

2018年01月29日 | 歴史・文化
これまでわたしが一貫して描いてきたのは、からゆき、戦中慰安婦、戦後慰安婦などの、いわば娘子軍である。こうした命題を抱えて生きてきたことには、もちろん理由がある。

明治維新のわが家では、伊達藩の要職にあった曾祖父が苦悩のはてに若死にをし、その妻えつはある日、夜這いに襲われた。気丈なえつは、その場で「食えば喰う 食わねばならぬ 上の口」と即座にしたため、男に差しだした。これを見て、下の句がつけられずにいたその男は退散したという。

城山の桜の下で、私が藩の老女からそのことを聞かされ、「下の句はあなたがつけてやれ」といわれたのが女学生二年のときである。

えつにとって奥羽にやってきた東征軍の狼藉は目にあまるものがあった。伊達藩では50人にのぼる越元の凌辱がおこなわれ、そして14人の自害があった。会津藩では322人もの凌辱と自決があり、そして生き残った婦女子のなかには明治2年にアメリカに渡ったものもいたが、やがてからゆき娼婦に墜ちる運命が待っていた。維新のときをむかえたえつには、女の性と人権は大変な問題であったといえる。

私は太平洋戦争中をセラウエシのマカッサル研究所で過ごした。この地に赴任した直後、私は「花嫁の涙(アイルマタ・プガンテン)」と名付けられた花に覆われたからゆきの墓群をながめ、その場所のはてには軍隊の慰安所があるのを見いだした。悲しき「獣獄の花嫁」たちを覆う真珠の玉のような「花嫁の涙」の花を見ながら、いたましい女たちの宿命に、私のなかのえつが慄然とした。それいらい、花と女たちは私の胸内に原点の風景としてはりついた。

あの戦争は明治よりこのかた、植民地拡大の夢をみた日本がドラをうって進出した日清・日露戦争の帰結として起きたものであり、慰安婦は侵攻した兵士にさしだされる供犠の女であった。

愛しき人のためにあらねばならない女の性が、皇軍の生け贄として、さしだされるような慰安婦の歴史は二度とくり返されてはならないだろう。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)


天皇一族のための戦争

2018年01月29日 | 歴史・文化
昭和16年12月4日入隊の津山章作が、北京から保定にいたる易県の、涞水見城にあった第十一中隊でのこと。北方トーチカまで四里の道を行軍すると、兵舎の前に朝鮮慰安婦がいた。

まさか第一線で兵と慰安婦が宿舎をともにしているとは、とても信じられなかった。涞水城内にも慰安婦がいて、本部へも自由に出入りしだした。

(中略)二年目に山東省南部の討伐後、本部に近い娼家をたずねた。

戦地の9割以上が朝鮮慰安婦だった。・・・・・・行為の間、頬をこすりつけてきたぐらいで声もださず、とりみだしもせず、息もあらげず、物足りないより哀れであった。未熟の果物のかたさが消えない子だった。(『戦争奴隷』津山章作)

「18年に北支那慰問にでかけたアラカンこと嵐寛寿郎は、元帥以下将校が、夜な夜な芸者を抱いているのをまのあたりみて、戦争は負けやと、確信した」(『聞書アラカン一代』竹中労)

昭和19年の京漢作戦に、第十二軍の四コ師団が参加したとき、稲村大隊長は部下の将校と下士官を集め、猛烈な訓示を行なった。

「何がなんでも洛陽は一番乗りをしなければならぬ。洛陽にはいったら、私は両手でトウモロコシを取って、一度に処女を三人ずつ強姦してやる・・・・・」

大隊長は自己の部隊が一番乗りをするために、部下に気迫を叩きこみ、狂気を掻きたてるべく、中国婦女子への強姦を、公然と教唆したのだった。(『戦争奴隷』津山章作)

慰安婦を男意識で叙情的な礼賛で書かれる作家もおられるし、兵の記録にもそれがみられることがある。また、命令の前には木の葉よりも軽い生命の兵に、荒れを防ぐ意で慰安婦の必要悪が主張もされる。

だが、皇軍といわれた兵に、殺生働きを命じたあの戦争は、だれのための、なんのための、戦争だったのだろう。そのみきわめのないことには、慰安婦必要悪の主張は、戦争の肯定者となるのではなかろうか。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)


一旗商人と南京虐殺

2018年01月29日 | 歴史・文化
軍の許可のほかに、特高の許可も要った。一人一人の女の戸籍謄本やら、警察の許可証やら、予防注射も三つぐらいうって、長崎港から長崎丸、上海丸に乗せて女を運んだ。

上海の旅館に泊め、まず上海見物を女たちにさせた。ガーデン・ブリッジを渡って租界も見物させた。観光させても、従来の業者を見習えば、女の前借りにくりこむのだから気は楽であった。

慰安婦の行く先は南京と指定されていた。

南京で営業がみとめられた背景には、虐殺や暴行の限りをつくした兵士の鬼行を再爆発させたくない軍側の意向もあった。彼らは南京城外の下関(シャーカン)にある第六師団管区内の下関兵站に慰安所をあてがわれた。

占領当時の下関は、『野戦郵便旗』の著者の眼をかりると、
「南京下関の支那郵便局は、堂々たる大建造物である。江岸には帰蕩せられた敗残兵の死骸が累々として、道路と岸壁の下と水打ち際に重なり合っている。いかなる凄惨もこれには及ばない。長江の濁流に呑まれ押し流された者が、このほか幾何(いくばく)あるかわからぬ。私は関東の大震災のとき本所の緑町河岸で、たくさんの人が折り重なって死んでいるのを見たが、これにくらべればものの数ではない。生命を奪った銃弾と銃剣とが、これをものすごくしている。半裸になっているものがある。石油をかけて焼かれ焦げたのがある。傍に陸揚げされた菰(こも)被りの酒ダルが、戦捷(せんしょう)祝いをするもののごとく山積みされ、上に兵隊が歩哨に立っている。先勝国と亡国とのあまりにも深刻な場面である」

南京で何がなされたかについて、京都第十六師団長中島今朝吾中将は、
「捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることなしたれども、千、五千、一万の群集となれば、之を武装解除することすら出来ず、唯彼等が全く戦意を失い、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、これが一端騒擾せば始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、十三日夕はトラックの大活動を要したり。しかしながら戦勝直後のことなれば、中々実行は敏速に出来ず・・・・・佐々木部隊だけにて処理せしもの、15,000人、太平門において守備の一隊長が処理せしもの1,300人、其仙鶴門付近に集結せしもの7〜8,000人を片付くるには、相当大なる壕を要し、中々み当たらず一案としては、100、200に分割したる後、適当の箇所に誘きて処理する予定なり」(『歴史と人物』1984年)

仙台第十三師団山口旅団第六十五連隊会津両角部隊は、烏龍山、幕府山付近山地での捕虜14,777名と発表した。22棟の大兵舎に収容しても、食事用の椀を15,000集めることもできず食わすこともできないので、北岸送りをして、逃亡者を撃ちだし、皆殺しをしたと言っている。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)


慰安婦問題はねつ造ではない

2018年01月29日 | 歴史・文化
日支事変にも太平洋戦争にも、軍の性囚にされた慰安婦の9割は、植民地朝鮮からの女たちだった。輪姦された女は、推定で20万人説までいろいろある。

「大東亜戦争中の連行朝鮮人は、内外あわせて600万、そのうち行方不明は一般労働者をふくめて20万人」と、報道もされている。

トラック島一つをとっても、朝鮮人人夫だけで17,000、そのうち4,000人が死亡している。

朝鮮慰安婦について日本側では、荒船清十郎代議士の口からついてでた数字はこうである。昭和40年(1965年)11月21日、荒船氏は、秩父軍恵連盟招待会を、秩父厚生会館で開き、参加者400名の前で講演をぶった。

「戦時中、朝鮮に貯金をさせ、終戦でフイにした金は1,100億あった。徴用工に連れてきて兵隊として使ったが、この中で57万6,000人が死んでいる。それから朝鮮慰安婦が14万3,000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。合計90万も犠牲になっているが、なんとか恩給でも出してくれと言ってきた・・・・・」

日本はアジア侵攻に、植民地の男女を強制連行し、兵に軍夫に、女は性囚ガールに追いこんだ。

また仁義なき戦争にかりたてられた日本の兵たちは、「糧は敵に拠る」こととし、食い扶持からして野盗働きをしなければならなかった。

なんのための戦争なのか、かかげた聖戦などは、討伐に名をかりた強盗であり、殺し、犯しが実状だった。兵たちは戦場垢をつけなければ、強い兵として通らなかった。それはまともな人間を喪失していくことだった。野生本能をよびこまないかぎり、侵略の先陣を駆けることはできなかった。荒(すさ)みの淘(よな)げ薬に組み込まれた慰安婦は、まさしく地獄の花嫁であった。

弾除けにされた一般兵の慰めには慰安婦があてられた。機関銃つきのトラックで、財閥企業の人足や物資を略奪させた軍権者たちには、企業のもてなしで高官料亭での酒肴と将官用慰安婦の接待があった。

軍寄生の性業主たちも、軍部との道行きを楽しむ受益者であった。性業主にとってのねらいは、資本なしに利をあげられる植民地の一本玉であった。

朝鮮は産物ならぬ、性の大兵站基地とされ、女子愛国奉仕隊、女子挺身隊と、つぎつぎに淫獄の花嫁に狩りこまれていった。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)


韓国の「英雄」

2018年01月29日 | 歴史・文化

金九(キムグ、1876〜1949、号は白凡、本貫は安東)こそは大韓民国建国をめぐって中心的な役割を果たした民族の巨頭である。

金九が韓国でかぎりない尊敬を集めているのは、彼の自叙伝である『白凡逸志(ペクボムイルジ)』に記された「わたしが願うわが国」と題された次の言葉による。この言葉は、解放後の韓国の方向性を規定する最高水準の名文とされている。

「わたしはわが国が世界でもっとも美しい国になることを願う。もっとも富強な国になることを願うのではない。わたしは他者による侵略に胸が痛んだ人間であるから、わが国が他国を侵略することを願わぬ。われわれの富の力はわれわれの生活をゆたかに満足させればそれで良いし、われわれの武力は他国からの侵略を防ぐ程度で足りる。ひたすらにかぎりなく願うのは、高い文化の力を持ちたいということだ。文化の力はわれわれ自身を幸福にし、さらに他者にも幸福を与えることになるからだ。いま人類に不足しているのは武力ではない。経済力でもない。自然科学の力はいくら多くてもよいが、人類全体を見れば、現在の自然科学だけでも安らかに暮らすには不足でない。人類が現在不幸である根本の理由は、仁義の不足であり、慈悲の不足であり、愛の不足のためである。」

韓国において金九は英雄であるから、つねに「金九先生」と呼ばれ、尊敬される。だか韓国人が尊敬する「金九先生」のイメージは、実際の金九をかなり変形させたものである。金九が若いころ殺人を犯したこと、「解放空間」における極度の政治的混乱の責任は金九にもあることなどは、韓国ではおぼろげに知られていてもまともに議論される対象ではない。金九という「英雄」は韓国において一種の「聖域」となっている。

(小倉紀蔵『朝鮮思想全史』ちくま新書、2017年)


近衛文麿公爵

2017年09月18日 | 歴史・文化

近衛公は近衛篤麿(あつまろ)公の長男として生まれたが、近衛家系で250年ぶりに正妻から生まれた世継ぎであった。文麿の誕生を喜んだ曾祖父は、喜びのあまり数多くの詩を詠んだのだった。母親は彼の誕生後8日目に産褥熱(さんじょくねつ)で死んだ。しかし文麿は青年になるまで、母親の妹が父の後妻になっているのを、実の母だと思い込んでいた。後年、文麿は「実の母でないことを知ったとき、私は、この世は嘘だらけだと思うようになった」と語っている。

近衛はアメリカをあまり好まなかったが、長男の文孝(ふみたか)をニュージャージー州ローレンスビル校とプリンストン大学に留学させた。近衛は和服を好み着物についてなかなかやかましかったが、洋服もじょうずに着こなした。彼は恋愛結婚をしていながらも、芸者上がりの妾を寵愛した。そして、彼は二度、近衛家の伝統を破った。一つは本宅に二号、三号、四号の妾の部屋を設けなかったこと(「たった一人の妾をもつことは許されるでしょう?」と近衛は言った)で、第二には、家族日誌をつけなくなったことであった(「自分に不利なことをありのままに書くなどということはできない」と彼は言った)。

近衛は天皇に対して個人的に近親感を抱いていて、むしろ親しく接した。天皇の前では、他の人々は椅子の端にかたくかしこまってすわったが、近衛は気楽に手足を伸ばした。もちろん、かれがそうしたのは天皇を軽んじていたためではなく、天皇を親しく感じていたからである。天皇に拝謁する者に、「陛下にどうぞよろしくお伝えください」と言うとき、それはふざけて言っているのではなく、きわめて自然なことであったのである。近衛は、自分が天皇家とほとんど同格の家柄の出であると感じていたのだった。

(ジョン・トーランド、毎日新聞社訳『大日本帝国の興亡』ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2015年)


戦争とギャンブルは同じようなもの

2017年08月12日 | 歴史・文化
私は今でも「教育勅語」はそらで言えるし、そらで書けます。「教育勅語」だけでなく、1908(明治41)年に出た「戊申詔書」というのも、だいたいそらで覚えています。「戊申詔書」とは・・・・天皇の「教育勅語」に続く「天皇のおことば」ですね。もちろん、明治天皇ですよ。

私が小学1年に入った年の二学期の初めにこの「戊申詔書」が書かれて、いよいよ学校に来たのが10月。そして校長がそれを朗読ではなく、奉読といったんです、昔は。読み奉ると。生徒を全部講堂に集めて、校長がその「戊申詔書」を奉読して、「天皇陛下は、国民に勤倹節約をせよと仰せられている。国民はその誓旨(せいし)を奉戴(ほうたい)し、天皇の御心(みこころ)を捧持(ほうじ)奉って、倹約貯蓄に励まなければならない」と。その内容説明をしたんですね。

私、大和の田舎生まれですからその頃は農家のいちばん末っ子として、もう学校から帰ると農業を手伝ってました。だからそういう中で、それ以上どのように倹約できるのか、天皇はまちがっている、と思いました。(中略)

私、子ども心に天皇はまちがっていると思いましたね。なぜ、私たちにそれくらいの勤倹貯蓄を強(し)いなければいけなくなったのかというと、日露戦争の疲弊(ひへい)のためです。日露戦争は勝った、あのロシア大国を負かした、日本は大勝利だ、明治大帝の下に日本は世界的な強国になったんだ、と言ってるけれども、裏へまわれば、米英に20億の借金を背負ったんです。イギリスとアメリカから20億の借金をしなければ、日露戦争は到底勝ち目がなかったんです。戦(いくさ)に勝つか勝たないかは、結局、軍資金が続くか続かないかですからね。

日露戦争に勝つための20億の借金。その当時はまだ朝鮮は合併していませんでしたから、日本の人口は5,000万人といったんです。同胞すべて5,000万人。20億の借金を5,000万人の肩に割り振ってみると、赤ん坊にいたるまで、40円の借金になるわけです。だから、米英に向けて利子を付けてそれを返さなくちゃならない。また、戦死した家には補償しなければならない。日露戦争の後、どれだけ日本は疲弊したか、戦(いくさ)に勝ってもそれだけの借金が残る。それが戦争ですね。(中略)

戦争とギャンブルというのは、これはもう同じものですね。どこが同じか。何年間やってもそれは浪費であって、一本の大根も人参も生えてこないということです。生産に全然つながらない。戦争もギャンブルも全部が浪費であるということで、これは同じものなんです。

(住井すゑ「さよなら天皇制」かもがわブックレット23、かもがわ出版、1989年)

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(参考)日露戦争直前の国家予算は一般会計歳出合計が約2億7000万円(1901〜03年平均)。一方、日露戦争臨時軍事費は15億円余であった(石井寬治『日本経済史(第2版)』東京大学出版会、1991年)。

最後の陸軍大臣・阿南惟幾(5)

2017年08月12日 | 歴史・文化
竹下(正彦、陸軍中佐)の『機密作戦日誌』に書かれている天皇から阿南への国体護持の“確証”という言葉は、この(8月13日の)参内の時のものであろう。阿南が、陸軍としては国体護持に不安がある以上、このまま(ポツダム)宣言を受諾していいとは考えられません、と上奏したのに対し、「阿南、心配スルナ、朕(ちん)ニハ確証ガアル」と、かえって阿南を慰めるような言葉をかけたという。竹下はこれに続けて、「通常は“陸軍大臣”とお呼びになるのだが、“阿南”という姓を呼ばれるのは侍従武官時代のお親しい気持ちの表現だそうだ」と書いている。

天皇はその後も何度か「国体護持には“確証”がある」といったが、それはどのような情報に基づくものであったのか。戦後三十余年がすぎ、アメリカ側の資料も次々に公表されたが、天皇の“確証”と結びつくものはなかった。謎というほかない。しかし「天一」主人矢吹勇雄の次のような証言もあり、天皇と宮中は政府や軍部に負けないほど豊富な情報をもっていたという想像もできる。

「後藤隆之助さん(近衛文麿のブレーン)のお宅の地下室に秘密の短波受信装置があり」と矢吹は語る。「外国の情報を受信しているのを、私は知っていました。ある日、後藤さんのお宅で石渡宮内大臣に紹介されましたが、そのわけはあとでわかりました。後藤邸でとった情報を宮中へ届けるお使い役に、私が選ばれたのです。なにしろ天ぷら屋のおやじですから、自転車に天ぷらの材料を積んで行けばツーツーに通れました。宮中では黒の制服を着た宮内官に情報をお渡ししました。私の記憶では、ポツダム宣言が出た直後からのことでした」

世間話めくが、宮中にはこういう情報網もあった。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)


最後の陸軍大臣・阿南惟幾(4)

2017年08月12日 | 歴史・文化
応召中の作家司馬遼太郎はこのとき栃木県佐野にいた。東部軍の管内である。彼は『街道をゆく6』に、書いている——

「このころ、私には素人くさい疑問があった。私どもの連隊(戦車部隊)は、すでにのべたように東京の背後地の栃木県にいる。敵が関東地方の沿岸に上陸したときに出動することになっているのだが、そのときの交通整理はどうなるのだろうかということである。

敵の上陸に伴い、東京はじめ沿岸地方のひとびとが、おそらく家財道具を大八車に積んで関東の山地に逃げるために北上してくるだろう。当時の関東地方の道路というと東京都内をのぞけばほとんど非舗装で、二車線がせいいっぱいの路幅だった。その道路は、大八車で埋まるだろう。そこへ北から私どもの連隊が目的地に急行すべく驀進(ばくしん)してくれば、どうなるのか、ということだった。

そういう私の質問に対し、大本営から来た人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で——かれは温厚な表情の人で、決してサディストではなかったように思う——轢(ひ)っ殺してゆけ、といった。このときの私の驚きとおびえと絶望感とそれに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか」

軍人勅諭はじめ、軍人の任務を規定し、または教えたものの中に「国民を守る」という一項はなかったのか。「それを明記した箇所はありません」と林三郎(元陸軍大佐、阿南陸相秘書官)は答えた。あまりに当然のことなので、わざわざ書く必要もなかった——と解釈することは出来ない。現実に即して問いただせば、「轢(ひ)っ殺してゆけ」という以外の答えはなかったのだ。

だが、国民の生命を守る方策が講じられている面もなくはなかった。一例を挙げれば——陸軍軍医学校は空襲被害者対策として二つの救護班を編成した。第二救護班は皇居だけを担当し、一般国民とは無関係である。「皇居を除く都内全域」を担当する第一救護班は、軍医9人と看護婦11人の編成であった。昭和20年には民間医療機関の機能は麻痺状態におちいっていた。3月10日の東京空襲を例にとると罹災者は約百万人であったが、彼らの救護が僅か9人の軍医にゆだねられるという実状であった。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)


最後の陸軍大臣・阿南惟幾(3)

2017年08月12日 | 歴史・文化
7月初めのある暑い朝、陸軍の係官が迫水(久常、内閣)書記官長の許に、「いよいよ本土決戦の時が近づいた。ついては、国民義勇隊に使わせる兵器を別室に展示したので、閣議が終わったら、総理大臣はじめ全閣僚に見てもらいたい」と申し入れた。

国民義勇隊とは、敵が上陸した場合に、一般国民によって組織される戦闘隊のことで、軍の管轄下にはいることになっていた。去る6月の国会を通過した義勇兵役法によると、男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から40歳までが服役を義務づけられていた。

閣議が終わった後、兵器が展示してある部屋にはいった閣僚たちは唖然(あぜん)とした。そこには弓と矢、竹槍、江戸時代の火消しが使ったような鉄の棒などが並べられていた。銃もあるにはあったが、銃口から火薬を包んだ小さな袋を棒で押しこみ、そこへ鉄の丸棒を輪切りにした“タマ”を入れて発射するという原始的なシロモノであった。近代兵器の粋によって武装した米上陸軍を相手に、日本の民衆はこんなものを持たされて立ち向かうことを義務づけられていた。迫水は「私は狂気の沙汰だと思った」と書いている。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)