畑倉山の忘備録

日々気ままに

天皇家の収入

2016年08月18日 | 天皇
天皇家は国民の税金から生活・収入が保証されています。ほぼ何でも税金です。国賓を招く宮中晩餐会、宮殿の補修、皇居の設備や建設費、生活費、などなど皇居の水道代やNHKの受信料まで何でも税金から支払われます。

天皇家(天皇、美智子、皇太子、雅子、愛子)の年間サラリーは、3億2400万円です。3億円といってもこれには税金(所得税)も健康保険も年金も労働保険もかかりませんから、普通一般の会社員がこれと同額の手取りを稼ごうと思ったら、7億円以上の稼ぎが必要になります。つまり、天皇家の年収は7億円と同義です。

だが、これらは殆ど使う必要がないのです。なぜなら天皇家は衣食住すべてが保証されているからです。

皇族と呼ばれる宮家には4家があります。秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家の4家です。

これらの当主(当主が亡くなった場合、妃殿下が当主扱いになる)の基本定額が3050万円となっています。妃殿下には、半額の1525万円が支払われます。子供たちは、成年の内親王に915万円、未成年の内親王に305万円、成年の王・王女に640万円が支払われます。

つまり、秋篠宮家は当主の文仁親王と紀子さん、子供3人、合わせて6710万円という年間サラリー(収入)になります。

4つの宮家の総額は2億2997万円となります。もちろん、天皇家と同じで税金の心配は必要ありません(ただし公平さが自慢の消費税は別です)。

宮家の人たちはこの収入を使って生活することになります。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれ違うでしょう。

(ー 灼熱 ー)
http://plaza.rakuten.co.jp/heat666/diary/200408230000/

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・宮家数、皇族費などは最新のものにかえました。
・伊藤博文がつくった天皇教の信者さんには不愉快な話題かもしれません、悪しからず。



「一死モッテ大罪ヲ謝ス」

2016年08月16日 | 鬼塚英昭

自殺者は介添人の力を借りる。手間どったり、失敗しないためである。怒りに燃えた阿南は竹下の介錯の申し出を拒否した。阿南は、自分の死が天皇一族の安寧に役立つことを知っていた。自分が「悲しみの引き受け人」であることも知っていた。そこにある深淵は高貴さと卑俗の差であった。天皇族は高貴さというレッテルを自らの体いっぱいに張り付けて生きていた。阿南は、自分の惨めさを知った。

阿南はタタミの上でなく、部屋を縁取っているすべり戸の向こうの板敷きのベランダに座り込んだ。普通の切腹はタタミの上だ。罪を犯した人間は藁の敷き物を敷いた地べたの上だ。阿南は意識してタタミの上を避けた。己を罪人とするためであった。何の罪なのだ。高貴さの連中に敗れた自己の良心に対する罪なのだ。自分の部下たちを多数死に至らしめ、自分の息子をも戦死させた者ヘの怒りを込めた罪の意識だ。「一死モッテ大罪ヲ謝ス」とは、多くの若人や民間人たちを死に至らしめた高貴なる者たちヘの怒りの言葉だ。

人手を借りず短剣を咽喉の右側に突き刺した。突然、血のしぶきがほとばしり出た。死の苦しみの中で阿南は身もだえし、血をはき出し、ゆっくりと死んでいった。皇位につらなる者たちは、すベて、静なる時を持てる日がすぐそこにやってきた。

この切腹場面は私の想像と思うものは思えばいい。私は、人間は最後には心に正直になると思っている。そこに、天皇ヘの恋闕の情はなく、自分の妻や子供ヘの恋慕の情であろうと思う。そして叛乱兵に仕立てられた若い将校ヘの申し訳なさヘの情であろうと思う。

私は、十五日早朝、三笠宮と大喧嘩した阿南に想いを馳せた。そして、阿南をすばらしい人物との認識に達した。“天皇タブー”に果敢に挑戦した人物を失わせる日本に失望した。

こんな日本があの時から半世紀以上も続いているのに、そのことを気づきもせず、嘆きもせず生きている日本人よ、私は君たちに警告したい。もうー度、「神聖悲劇」の時代を迎えるかもしれない、と。危機意識を失った民族は大悲劇に遭遇するのだ。

(鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』成甲書房、2007年)


敗戦責任

2016年08月15日 | 天皇
「終戦の詔書」は全文が詐欺の文章である。筆者はさいきん10回以上、この文章を読んだが、恐るべき文章である。「全文が詐欺の文章」と書いたが、けっしていい過ぎではない。それは、詭弁、すり替え、頬被りの連続で、国体・天皇制を「死守」するためのグロテスクな文章である。

「終戦の詔書」はポツダム宣言受諾・無条件降伏の文書である。裕仁らが無条件降伏をなぜ「終戦」といい替えたのか。降伏や敗戦ならば、裕仁らは戦争責任や敗戦責任を負わねばならぬ。しかし「終戦」にするとその辺はアイマイになる。戦争責任をのがれるためである。

裕仁はNHKの記者会見(1975年10月31日)で、「戦争責任は?」と質問されて「そういう文学方面はあまり研究していません」とにべもなく答えている。しかし「終戦」という言葉を発明して、戦争責任をのがれたあたりは相当に「文学方面」に詳しいといわざるをいえないのだ。

(松浦総三『天皇裕仁と地方都市空襲』大月書店、1995年)

「アメリカのセカンド・ワイフでいい」

2016年08月15日 | 鬼塚英昭
野村秋介(しゅうすけ)という右翼がいた。一九三五年、東京に生まれた。・・・右翼というよりも文芸批評家、あるいはアナーキーな哲学者というほうが野村の風貌にふさわしい。しかも行動右翼であった。河野一郎邸を焼き討ちにして獄に十二年間入った。さらには経団連本部を襲撃して再び六年間の獄中生活を送った。野村秋介は一九九三年、五十八歳のとき、朝日新聞東京本社内で拳銃自殺した。(中略)

野村の言葉を引用する。

「僕はこれまで、南の端から北の端まで、いろんな親分に会ってきたけれど、百人のうち九十八人の親分は、「立派だ」と思う人ばかりだった。逆に教えられることもいっぱいあった。それは、この世界で男を磨いてきたからだ。

僕も若い時分に、親分から可愛がられ、賭場で雑巾掛けや、洗濯をやっていたことがある。電話が入って、時間になると、お客がやってくる。当時は提灯もって「誰々さんお出でです。いらっしゃいませ」って、二階にある賭場にあげて、下駄を揃えたり、おしぼりを出したりした。お客は堅気の人だから、堅気を大事にするという構図が、ここにあった。それで、そのお客が勝てば「ご苦労さん」と、小遣いをくれたりする。その小遣いが欲しいがばっかりに、頭も下げる。

僕がまだ十代だった頃、道の真ん中を歩いていると、「お天道の真ん中を歩いちゃいけないんだ。ヤクザは日陰者なんだから、日陰を歩くものだ」と教えられた。

そういう、古き時代は、本当にあったんだ。」

私はこの野村秋介の文章を読みつつ、幼い頃の自分と重ねていた。私が住み続ける別府という温泉町のヤクザに思いをはせた。そこには全く異質のヤクザたちがいた。田岡一雄の山口組系の「石井組」が別府の町の暴力団だった。私は野村秋介よりも三歳年下である。だから、古き時代のヤクザも見ている。私の見続けたヤクザのほとんどはゴロツキだった。しかし、これは仕方がない。ヤクザの中で生活した者と、傍観者的立場の違いである。私は二十代から三十代にかけてヤクザとよくケンカした。彼らのほとんどは、いつも逃げ出した。田岡一雄の菱紋を身につけていたのに、である。野村秋介は続けて興味あることを書いている。

「日本はアメリカのセカンド・ワイフでいい。そのためには、ナショナリズム抜きの反共団体が必要だった。それが、政府のつくった反共抜刀隊構想という考え方だ。そうして、街宣車をもった、「任侠右翼」が誕生した。本来、右翼には、街宣車なんてなかった。当然、僕だって、もってはいなかった。いわゆる反共抜刀隊構想という考えからすれば、本来、右翼がもっているはずの思想を一変したかったわけだ。そこで一番てっとり早かったのが、ヤクザの親分を右翼にすることだった。そうして、児玉誉士夫氏に言われて、ヤクザの親分が皆、政治結社になった。それが「任侠右翼」の誕生の顚末だ。」

この野村秋介の説に全く異論はない。ヤクザは、ゴロツキであろうとなかろうと、戦後のある時期までは「日陰者」だった。しかし、日本という国家と児玉誉士夫がタイアップして「任侠右翼」に仕上げた。それは「てんのうはん」のためとされた。「田布施システム」を守ってもらうために、ヤクザを日陰者から解放した。そのよき例を山口組三代目田岡一雄に見ることができる。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


統帥権とは何か

2016年08月14日 | 鬼塚英昭
「陸軍天保銭組」なる言葉があった。大日本帝国がアメリカに敗北するまで、この言葉は一部の軍人たちの間ではよく知られていた。陸軍天保銭組とは陸軍大学校(陸大)卒業者の別称である。陸大卒業生のみが軍服の右胸下に佩(はい)する徽章の形が天保銭(江戸・天保期の百文銭)に似ていることからこの名称が生まれた。(中略)

藤瀬一哉の『昭和陸軍 "阿片謀略" の大罪』(一九九二年)に「天保銭組」について書かれているので引用する。

「天保銭組は中央省部(陸軍省、参謀本部)の要職を独占し、また各級部隊では旅団長、師団長、軍司令官の地位をも彼らが独占してきた。(中略)
天保銭組はエリート意識から功名出世の権力志向が強く、人格、識見、能力において無天組に劣る者が多くいたが、それらの者ほど虚勢をはり、戦略なき愚かな空理空論を掲げた大言壮言に酔い痴れ、驕慢で思考が硬直化し視野狭窄となり天動説的観念に陥っていった。」

この引用文の「虚勢をはり・・・・天動説的観念に陥っていた」を読みつつ、まさに瀬島龍三を見事に描いていると私は思った。日本の敗戦まで軍事極秘とされていた、陸軍大学学生および卒業者のみが読むことを許される『統帥参考』なる軍事教本があった。一九三二年七月、陸軍大学校で学生の統帥教育のために作成されたものである。そのー部を引用する。

統帥権は "陸海軍" と言う特定の国民を対象とし、最高唯一の意志によりて直接に人間の自由を拘束し、かつその最後のものたる生命を要求するのみならず、国家非常の場合においては主権を擁護確立するものなり。これをもって統帥権の本質は力にしてその作用は超法的なり。すなわち、爾他の大権とその本質において大いに趣を異にするものと言わざるべからず。

統帥権とは何かを知るとき、瀬島龍三なる、まことに「虚勢をはり、戦略なき愚かな空理空論を掲げた大言壮言」の男の真実の姿のかなりの部分がみえてくる。敗戦(終戦ではない)前の憲法は「大日本帝国憲法」といわれた。

第一条、大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す。
第三条、天皇は神聖にして侵すべからず。
第四条、天皇は国の元首にして統治権を総覧し此の憲法の条規に依り之を行う。

「統治権を総覧する」天皇は「神聖にして侵すべからざる」ゆえに日本軍隊の唯ーにして絶対なる "統帥権者" であった。従って、天皇の代理人として統帥権を行使する参謀たちは天皇に対してのみ責任を持ち、「最高唯ーの意志によりて直接に人間の自由を拘束し、かつその最後のものたる生命を要求」することができるとした。それゆえ、「統帥権の本質は力にしてその作用は超法的」なるものとなった。やさしく表現するならば以下のこととなろう。

---- 瀬島龍三よ、お前は軍事作戦の参謀となった。日本人を生かすも殺すもお前の自由である。統帥権がお前に強大な権力を授けた。天皇の名を最大限に利用して、大量の兵士ならびに国民を戦場に送りこむがいい。何ら良心の可責に悩むことはない。

瀬島龍三が「思考が硬直化し視野狭窄となり天動説的観念に陥った」のはごくごく必然の成り行きであったといえるのである。

この戦争(大東亜戦争であり、太平洋戦争ではない、と瀬島は主張し続けた)の責任はどこにあるのか、と現代史家の保阪正康は犯人捜しを続けている。そして、その戦争責任の第ーの犯人として瀬島龍三を挙げて声高らかに叫び続けている。この戦争が天皇を最高指導者としてなされたのに、保阪が天皇を追及することは決してない。まことに、日本という国は天皇が唯一絶対の統帥権者であったということを故意に忘れさせようとしている。

鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』(成甲書房、2012年)


暗黒裁判

2016年08月12日 | 鬼塚英昭
瀬島龍三と四元義隆がいかに中曽根康弘のために陰で働いてきたかを私は書いた。それは、中曽根を首相に仕立てて、「田布施システム」のために働かせることであった。中曽根康弘は救われた。田中角栄はそのために犠牲となった。中曽根が内閣総理大臣となっていく物語の前に、一つの論文を引用することにする。

「われわれの中で、外国の報道機関、外国の物書き、外国人の法律学者などなど、法律に接触する人々に、次のことをけっして漏らしてはならない。

<田中角栄被告は、ただの一度も最重要証人に反対尋問する機会を与えられることなく、有罪を宣せられたのである>

それを聞いた文明国の人は、百人が百人、千人が千人、万人が万人、一人残らず日本はそんな野蛮国であったのか、と仰天することであろう。われわれはそんな国の恥を、世界に晒すことはないのである。」
(「『角栄裁判』は東京裁判以上の暗黒裁判だ!」渡辺昇一「諸君!」昭和五十九年一月号)

貴あれば賎あり。時の権力者ありて、その恩恵が国の民草に及ぶ。しかして、田中角栄は殺されにけり。憶!

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)




内奏

2016年08月12日 | 鬼塚英昭
戦後も「田布施マネー」を擁して迫水久常、三浦義一らが「田布施システム」を維持管理し、「てんのうはん」のために尽くしてきた。その二人の維持管理人が死んだ後も、瀬島龍三、四元義隆が後を継いだ。しかし、この万全の処置に綻びが見える事件が起きた。それがロッキード事件である。

昭和天皇(以下天皇)と田中角栄の戦いこそがロッキード事件の真相である、と私は考えている。しかし、天皇がロッキード事件に関わっているとする本は高橋五郎の『天皇の金塊』(2008年)しかない。この本については後述する。もう一冊、ロッキード事件で天皇が登場する本がある。平野貞夫の『昭和天皇の「極秘指令」』(2007年)である。この本は直接に天皇がロッキード事件に関与したとは書かれてはいない。ただ、天皇がいかに田中角栄を嫌っていたかについて書かれている。(中略)

私たち日本人は天皇が戦後、「象徴」となり、政治に関与しなくなったと思っている。しかし、(当時の侍従長入江相政の『入江日記』にあるように…引用者)、天皇は首相はじめ各大臣を呼びつけ、細部にわたり質問し、指図していたのである。(中略)

「国家という巨大な権力機構」の中枢に天皇がいるのを、なぜか日本国民は忘れている。私は田中角栄首相も内奏させられていた、と書いた。それも普通は一時間以上である。私は三木武夫首相も「ロッキード事件」で内奏させられていたと思う。それも一度や二度ではなかったであろう。このロッキード事件での田中角栄の逮捕・裁判はまさに、小室直樹が書いているように、デモクラシーの死であった。(中略)

私はあるルートで妙なことを聞いた。それは、三木武夫首相が天皇に呼び出されたとき、天皇は首相に次のように言ったのだ。

「どうしても田中角栄を逮捕してほしい。彼は、私のファミリーのスキャンダルを種に脅しをかけた。私は彼を赦せないのだ」

三木武夫首相はフォード親書について説明した後だった。「どうすればいいのでしょうか」と三木は天皇に尋ねた。天皇は答えた。

「フォード大統領に私の親書を渡してほしい。そして、『よろしく頼む』と伝えてほしい」(中略)

高橋五郎の『天皇の金塊』という本には、田中角栄が天皇マネーに手を出したので、天皇がロッキード事件を仕掛けた、と書いてある。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


事実と認識(3)

2016年08月10日 | 歴史・文化
日本の戦争責任があいまいになったもうーつの理由は、アメリカの国益を最優先させた日本占領政策のなかにある。

GHQ(連合国軍総司令部)は日本占領のコストを軽くするために、当時まだ大きな力をもっていた天皇の権威を利用しようと考え、彼の戦争責任を免責した。また、日本の官僚機構を温存し、占領統治に利用した。一方で民主改革を要求しながら、他方で天皇や官僚の責任を不問にするこうした矛盾した政策が、戦争責任の追及をさまたげたことはたしかである。

くわえて日本政府が、文部省の教科書検定などに見せたように、戦争についての公平な、世界史のなかに日本を置いて過去を見直すという歴史教育を排除し、むしろ日本の大陸侵攻を「侵略」ではなく「進出」と教えさせるなど、歪(ゆが)んだ教育を強制してきた。そのことが、戦後世代に大きな歴史認識の欠陥と空白をもたらした。(中略)

日本政府は第二次世界大戦中の戦争責任を十分に認識し、その犠牲者ヘの国家的補償を十分に行なおうとする意志を持たなかった。それどころか、国の内外からの批判を永い間、かたくなに忌避してきた。しかし、近年「従軍慰安婦」にされた韓国婦人はじめアジア諸国の女性たちから告発されて、はじめて政治課題となり、国内でも論争の焦点となっている。こうしたことは「慰安婦」問題にとどまらない。日本が怠ってきた戦争による多くの未解決の問題を浮上させている。

核廃絶の問題にしてもそうであろう。日本は唯ーの被爆国でありながら、国際舞台で積極的に核廃絶の運動のリーダーシップをとろうとしてこなかった。それどころか、米英など核大国の側に立って、核爆弾の全廃を求める第三世界の国連総会ヘの動議に反対票を投じてきた。こうした態度も戦後の日本のあり方からきているものといわざるをえない。

日本が世界から尊敬される国家になるためには、こうした問題解決を21世紀に先送りしてはならない。この点で日本の政府がいつまでもしっかりした自覚と対策をもたないのは、それを監督する主権者たる人民がしっかりした歴史認識をもって、政府に実行を迫らないからである。

今からでも遅くない。日本の近代の戦争と戦後の歴史を、世界史のなかに置いて、しっかりと学び直そう。そのとき、いちばん大切なことは国家指導者や政治家や評論家などの国家本位の言動にまどわされることなく、民衆の視点に立って歴史を見直すことだと私は思う。

21世紀のこの国の運命や人類の未来は、若い人びとの肩にかかっているのだから、まず若い人びとの学び直しと、その行動力に期待したい。

色川大吉『近代日本の戦争』(岩波ジュニア新書、1998年)

事実と認識(2)

2016年08月10日 | 歴史・文化
日本国民は1941年、アメリカの経済制裁(日本にたいする全面的な石油の禁輪など *)にあって止むなく開戦し、その後、本土大空襲、原爆投下、ソ連軍の侵攻などによってひどい目にあった。そうした被害者としての感情をもっている。その「被害」の面と、日本国家や将兵らが実際に行なった「加害」の面とを歴史的に関係づけて、しっかりと認識することをしていない。(中略)

こうした被害者感覚は、敗戦のときの国家指導者の中に、その原形が早くもはっきりとあらわれている。興味深い史料がある。

1945年8月14日、日本降伏の発表(玉音放送)の前日、当時の内閣情報局総裁の下村海南が、報道機関の代表を集め、「大東亜戦争終結交渉に伴う国民世論をどう指導するか」指示したものである。そこには、次のようにある。「この未曾有(みぞう)の国難を招来したことについては、国民ことごとくが責任を分かち、上(かみ)陛下に対し奉り深く謝し奉」らなくてはならないと。また、「この敗戦の混乱に伴って、共産主義的・社会主義的言論は厳重に取り締まるべし。軍及び政府の指導者に対する批判はー切不可とする」と。

そして、敗戦の理由について、下村総裁は次のように明確に断じていたのである。「敗戦は残虐な原子爆弾の使用とソ連のー方的条約破棄という、敵の理不尽によってもたらされた民族の悲運である」と。

この考えこそ日本を被害者、受難者とするものであり、そこには「侵略」ヘの反省などかけらもない。こうした考え方は日本軍国主義の徹底的除去を指示したポツダム宣言に反するので、占領下ではきびしく否定された。だが、講和成立(占領統治の終了)後はたちまち保守勢力によって復活され、今でも生き残っている。国家の戦争責任の公認拒否、戦犯追放者の復権、旧軍人らヘの恩給復活(その総支払い額は20兆円に達する)もそのー例である。

敗戦の受けとめ方がドイツなどとたいへん違うのはこの点である。その結果、日本は天皇制の国体を残し、本土や官僚機構や主要産業の壊滅的な破壊をまぬがれ、天皇家をはじめ旧支配勢力を温存することになった。日本の軍部や大政翼賛会も、ドイツにおけるナチスのような徹底的な処罰をまぬがれた。また天皇は開戦責任も敗戦責任も問われることなく、かえって国民が「一億総懺悔(ざんげ)」して、天皇に敗戦の罪を詫(わ)びるという逆立ちした意識を残した。

「一億総懺悔」といったのは、敗戦時の内閣の東久邇宮(ひがしくにのみや)首相であったが、国民すべてが天皇にたいしてお詫びせよといっているのであって、その逆ではない。また、日本がしかけた戦争の犠牲となった中国人民やアジアの民衆に詫びているのでもない。

色川大吉『近代日本の戦争』(岩波ジュニア新書、1998年)

* 実は石油や軍需物資は裏で供給されていた。

事実と認識(1)

2016年08月10日 | 歴史・文化
かつて日本は中国にたいする15年間にわたる戦争を「満州事変」「支那事変」などとよび、その侵略を「東亜新秩序の建設」「東洋永遠の平和」のためだと美化した。

また、アメリカ・イギリス・オランダなどのアジアの植民地に侵攻した戦争を「大東亜戦争」とよび、それを白人の帝国主義支配からアジアの民衆を解放する正義の戦い(「聖戦」)だといい、「大東亜共栄圏の確立」のためだと主張した。こうした考えは、日本が戦争に負け、極東国際軍事裁判(東京裁判)によって詳細な証拠をあげて否定されたが、日本の指導者の中にはそれを「勝者による一方的な裁き」だとして反発し、認めないものが現在でも多数いる。国民の中にも、その意見に同調するグループがあり、その人びとが力を持っていることもたしかである。

もちろん、勝利した連合国による「東京裁判」には重大ないくつもの欠陥がある。自分を裁いていないー面的なところや、国益のために追及を途中で止めてしまっている課題もある。だからといって、膨大な実証を積み重ねて行なった、その基本的な認定をすべて否定することはできない。裁判だけではない。その後の日本や中国や韓国や東南アジア諸国の歴史研究者によって、さらに日本の侵略の事実は立証され、確認されている。日本の指導者がどんなに「過去」を自分の都合のよいように解釈しても消し去ることのできない事実は残るのである。

こうした事実を無視して、戦後50年経ってなお、あの戦争は日本の正義の戦い、大東亜解放戦争だと唱えている保守的な人たちは、素直にまた公平に歴史を認識する努力をしなくてはなるまい。

このことは、当時の一部の日本の国民や兵士たちが、「アジア解放」という与えられた理想を信じ、止むに止まれぬ「自衛の戦い」だと真剣に思い込んで、祖国のために勇敢に戦ったということとは、別問題である。日本国家が行なった侵略と抑圧の客観的な事実と、国民や兵士の個人的な戦場体験や主観的な願望とを混同して、自分の感情だけから歴史判断をしてはならないと思う。

私も、上官の命令に従い、任務を遂行するうえで、日本の兵士が勇敢であったということと、「祖国の防衛」と「アジア解放」の理想を信じて戦った人びとがいたということを疑うものではない。それにもかかわらず、日本にとってあの戦争は、朝鮮民族にたいしては35年間にわたる植民地支配を強要したこと(台湾の植民地支配は50年)であり、また中国にたいしては、満州事変以来15年にわたる侵略戦争であって、それを否定することはできない。そして中国との戦争の最終段階になって、行き話まりを打開するために「自存自衛」と「大東亜共栄圏の確立」という名目を掲げ、太平洋戦争を起こしたのである。

色川大吉『近代日本の戦争』(岩波ジュニア新書、1998年)

「昭和の終焉」(色川大吉)

2016年08月10日 | 歴史・文化
私は1925年に生まれた。従って私にとって昭和の歴史は私の人生のすべてであり、自分史を通して、この時代を内側から検証できる立場にある。私が生まれた時、日本帝国はアジア最強の軍事大国であり、私が小学校に入学した時、日本の満州占領は終わっており、中学に入った時、中国との全面戦争が始まった。私の住む関東の小さな田舎町の駅頭でも、出征兵士を見送る旗の波や万歳の声が絶えることなく、それは私が同じ駅から見送られる時までつづいていた。

私が念願の高等学校に合格した昭和16年の12月8日(駅頭では遺骨の出迎えの方が多くなった頃)突然「朕の陸海軍将兵は全カを振って米英との交戦に従事せよ」との大元帥陛下の命令で、国民は大戦争に突入した。

この瞬間から私の運命も確実に狂い、正常な勉強はおろか、青春の享楽も絶望となった。修業年限は短縮される。大学進学の喜びもつかのま、徴兵猶予を停止され、私も「学徒出陣」の名目で軍隊入りを強いられた。

そして大空襲、艦砲射撃、原爆を浴び、再び天皇の命令によって私たちは銃を棄てた。私は兵営を出、超満員の列車で、一面の焼け野原と化した廃墟の東京に帰ったが、多くの学友は二度と学園に戻ることはなかったのである。

この時まで深く天皇の高い道徳性を信じていた私は、天皇が率直に内外の国民に「悪かった、すまなかった」と詫びてくれることを願っていた。

しかし、昭和21年1月の詔書では「朕と爾(なんじ)等国民との間の紐帯(ちゅうたい)は終始相互の信頼と敬愛とに依(よ)りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず」と述べられ「現御神(あきつかみ)」を「架空なる観念」と否定し、戦前の神国史観による「国体明徴」教育の事実を無視した他人事のような説明に終始された。この時の失望の深さは、私の日本観を根本から変えるものとなった。

私たちにとって、戦前の天皇は疑うことを許されない「現人(あらひと)神」であり、つねに軍服を着た皇帝であり、颯爽(さっそう)と白馬にまたがっていた大元帥であった。

当時の国民が天皇に人間としての親愛の情を寄せるなど不可能なことであり、学校で礼拝される一枚の写真ですら「御真影」といって神格をあたえられていた。この写真を火災から救い出すために何人もの校長や教員が焼死し、美談とされた。

こうした天皇と国民との関係を「架空の観念」とか、神話に依らない人間間の「終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ」たものとみなすことは事実に合わない。

また、終戦の「聖断」を当時の歴史情況から切り離して文学的に解釈し、天皇は国民の命を救ってくれた恩人だと力説して、ポツダム宣言受諾を遅延させ、原爆投下やソ連侵攻を招いた責任の方を不問にすることは歴史の真実に反する。

私はなぜ日本人があれほどまでに皇国思想や天皇に捉(とら)われたかを解明したいと思って、歴史学徒の道を進んだ。(中略)

・・・天皇は地方巡幸の旅の中にあった。それは国民ヘの謝罪の旅ではなかったのだが、心優しい民衆は背広に着がえた天皇を身近に見て、到る所「陛下万歳」の歓呼で彼を迎えた。その時ほど、天皇が国民に守られていたことはなかったろう。その圧倒的な国民の支持を見ては、天皇を「東京裁判」の法廷に喚問せよと主張していた者たちも断念せざるを得なかった。天皇はこうして二度目の危機をも乗り切った。この時も沖縄を犧牲としてーーー。

色川大吉「昭和の終焉」『毎日新聞』1989年1月12日付(色川大吉『自分史 その理念と試み』講談社学術文庫に収録)