畑倉山の忘備録

日々気ままに

なんびとも天皇や皇室を利用してはならない

2017年05月24日 | 天皇

最後に天皇制のこれからについて述べたいと思います。昭和天皇が亡くなって、戦後の新教育を受けられた明仁皇太子が即位したけど、その代替わりによって本質的には何も変わりはしませんでした。大喪の礼から践祚の儀式、神器承継の儀から即位の礼、大嘗祭と、10余の儀礼が行われましたが、それらはすべて天皇=現人神時代の明治時代に編成された「古式の伝統」にのっとったものでした。明治天皇制以来の神道的な本質は少しも改められず、新天皇によって継承されたのです。しかも、それらは一部の国民から違憲だという批判があり、論争になったにもかかわらず、政府はそれを無視して国家儀礼として盛大に実施してしまったのでした。その幻想的で美的なパフォーマンスがテレビなどで好意的に報道されると、多分に若者の心をとらえました。その分だけ天皇制の基礎は安泰となったと言えるでしょう。ただ、新天皇には昭和天皇のようなカリスマ性はなくなりましたので、それだけ「日本国憲法を守り」という誓いの言葉が現実味を増してきました。

しかし、その皇室をとりまく環境は、文部省による日の丸、君が代の実施の強制、靖国神社を特別扱いする問題などを見てもわかるように、依然、保守的傾向が強く、「平成」になったからといって改善されておりません。日本にはまだ「菊のタブー」という自由な言論への制約があり、朝日新聞記者が殺されたり、長崎市長が銃撃されたりして、世間に見えない恐怖をあたえています。彼らは主観的には天皇を日本民族の柱と考え、皇室を大切に思っているのでしょうが、客観的には彼らのそうした暴力的行動は、かえって天皇の意思にそむき、皇室を国民から引き離す結果をもたらしています。それでは本来の「天皇制擁護」の目的も達成できないでしょう。

それでは21世紀に向かって皇室はどうなればいいか、私なりの考えを述べてみます。

まず、天皇や皇室を利用しようとする、いかなる行為も止めるべきです。天皇にはこんどこそ完全に自由な人間、自由な市民になってほしい。そのためには憲法第一章の天皇条項の制約から解放され、皇族も人権を回復することが必要です。天皇は日本国民統合の象徴であることをやめ、その地位も世襲せず、第一章第七条に定められた国事行為からも解放されることがよいのです。今の憲法が天皇に課している煩瑣な国務、大臣や裁判官ら官吏の任免権、大赦、特赦、栄典授与の大権、外国の賓客や大公使らの接見の義務、その他、国の儀式の執行等々の義務を解除し、天皇や皇族を人権を尊重される一市民として自由に振舞えるように、国民大多数が認め、保障することです。それは当然、現憲法の改正をともなうでしょう。

例えば第一章第一条は簡潔に「日本国の主権は国民にある」だけでよいのです。天皇に対して日本国家の元首なみにするような重い義務を課すべきではありません。第二条以下第八条までの天皇条項はすべて不要です。とくに天皇や皇族を、国家枢要の国務である外交に利用するようなことは中止すべきです。また栄誉授与の大権を天皇に託して、その周辺に数万人の藩屏をきずかせるということを廃止すべきです。藩屏とは特権階級を意味し、それは国民平等の憲法の精神に反するからです。

私は、数十年にわたって日本の歴史を研究してきた人間として、天皇や皇室がわが国の歴史にとってどんなに重要な意義をもつ存在であったかを骨身にしみて知っています。とくに日本の文化伝統を維持・継承する面で非常に大きな役割を果たしてきた存在であることも知っています。だからといって、皇室を唯一特別なものと差別視するわけではありませんが、天皇制否定イコール天皇家の意味否定であってはいけないと思うのです。たとえこれまでの天皇の中に、政治、外交、軍事、民政の統治の面で大きな過失を犯した人があったとしても、そのことで天皇存在の意味を全否定することはできません。身近な問題でいえば日本全国にはいたる所に天皇や皇室と関係の深い史跡や文物があり、それを無視しては日本研究も観光を楽しむことも成り立たないという一例を挙げても分かりましょう。1500年もつづいた天皇家とこの国との関係を考えれば、日本文化を皇室と完全に切り離すことは不可能なのです。

私は天皇制の擁護論者ではなく、これまで述べてきたように批判論者ですが、だからといって日本史における天皇の意味を恣意的に軽く見るつもりはありません。私は、すでにそのような歴史的意味を持ってしまった皇室には、それにふさわしいあり方があるのではないかと考えるのです。率直にいえば、天皇には徳川家累代の居城から出て、一千年のふるさとである京都御所に戻ってもらいたい。私の知るかぎり、それはまた明治天皇の終生変わらぬ願いでもありました。その故郷の地で、天皇には自由な市民として、自由な生き方を楽しんでもらいたい。

どのような道を選ぶかは、特権を捨てた以上、皇族一人ひとりの自由ですが、たとえば次のような道も可能ではないでしょうか。つまり、一文化人として伝統芸術や日本文化の保存継承の仕事をしずかにつづけていくこと。たとえていえば、能楽や花道、茶道に家元があるように、天皇は日本の伝統文化の家元となって、これまでのキャリアを生かす。その結果として、その身辺に旧貴族や天皇信仰者や奉仕者らがあつまったとしても、それが文化の次元にとどまっているかぎり、だれもその平安を妨げることはできない。それどころか日本国民はおそらく、そうした天皇のあり方に好感を持ち、親愛の情を寄せるであろう。そしてこのことは、おそらく当の皇族が心中、もっとも強く願い、深く心に期していることではないだろうか。

繰り返していう。なんびとも天皇や皇室を、どのような理由、どのような形であれ、利用してはならない、と。

それが惨苦の思いで、昭和の全史を生き残ってきた人間の願いである。

(色川大吉『昭和史と天皇』岩波書店、1991年)

 


サンフランシスコ講和条約の調印

2017年05月22日 | 歴史・文化

対日講和条約の米英共同草案がまとまった直後の1951年7月9日、ダレスは、吉田首相に書簡を送り、講和会議に吉田自身が出席してほしいこと、講和全権団の構成は「超党派的なもの」が望ましいことなどの意向を伝えた。

社会党は、平和条約と安保条約をめぐって党内で激論中であった。講和全権への参加要請にたいしては、「平和三原則の党是により参加できない」と政府に返答した。参議院緑風会は参加の方針を決めた。

国民民主党は、三木武夫幹事長以下の野党派が反対、保守連繋派が賛成という複雑な党内情勢で折衝が難航したが、結局、参加の方針を決めた。緑風会も国民民主党も、臨時国会で政府が経過説明を行なうことを要求した。

8月16日から18日までの三日間の会期で臨時国会が開催された。このとき、吉田は、アメリカ軍の日本駐留は日本側から希望したものであると述べた。

購和会議への全権委員は、首席全権吉田茂のほか、自由党の星島二郎と池田勇人、国民民主党の苫米地義三、緑風会の徳川宗敬、日銀総裁一万田尚登が任命された。一行は8月30日に東京を出発した。

9月4日からサンフランシスコ市内オペラハウスで開催された対日講和会議は、講和問題を協議する場ではなく、調印のための儀式にすぎなかった。

トルーマン大統領みずからこの会議に出席して演説し、対日講和は「和解」の講和であること、アメリカ国民は「パール・ハーバー」を記憶しており、両国の友好のためには努力が必要であること、アメリカの最大の関心は日本を侵略から保護するとともに日本が他国の安全を脅かさないようにするという点にあることなどを強調した。

ソ連代表グロムイコは、中国(北京)代表の参加問題を取り上げるように迫り、ポーランドとチェコスロバキアの代表がこれに同調した。議長をつとめたアメリカのアチソン国務長官は、それは議題と関係ないと述ベ、採決によって否決した。

グロムイコは、満洲、台湾を含む中国全土に北京政府の主権を認めること、樺太、千島について全面的にソ連の主権を認めること、小笠原、琉球は日本の主権の及ぶ範囲に含めること、講和発効後90日以内に連合軍は日本を撤退し、いかなる国も日本に軍事基地をおかないことなどを提案した。

グロムイコはまた、日本の軍備は自衛に必要な限度とし、地上軍15万人、海軍2.5万人、7.5万総トン、空軍は戦闘機200機、輸送機など150機、兵力2万人とし、戦車200台とすることなども提案した。

各国代表の演説を終わり、9月8日に調印式が行なわれた。日本を除いて51カ国が会議に参加したが、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドの三カ国が署名を拒否し、48カ国が署名した*。

署名した国の数は多いが、連合国側に同調した中南米諸国やドイツと戦争をした関係で日本にも宜戦したヨーロッパ諸国などが多数を占めていた。日本と直接戦火を交えた国は、アメリカ、イギリスおよび英連邦諸国、オランダなどと若干の東南アジア諸国に限られていた。中国は大陸側・台湾側のいずれの政府も招請されず、インドとビルマは、前述のように、中国代表権問題などにたいする不満を表明して会議に参加しなかった。

平和条約調印式終了後、同じ9月8日のうちに、サンフランシスコ市内のアメリカ第六軍司令部で日米安全保障条約の調印が行なわれた。日本側は吉田首相一人が署名、アメリカ側はアチソン、ダレスなど四人が署名した。吉田は、平和条約以上に安全保障条約には反対の空気が強いことを考慮して、自分一人が責任を負うかたちにした。(中略)

1952年1月26日、アメリカからラスク特使が来日し、日米安保条約に関連する行政協定の交渉が開始された。野党は行政協定反対の共同声明を出し、国会での審議を提案したが、2月に衆参両院で否決された。2月28日、行政協定が調印され、安保条約の基礎が固められた。このときの行政協定は、国会の審議・承認なしに安保条約発効と同時に発効することになった。

アメリカの上院が対日平和条約と日米安全保障条約を承認したのは1952年3月20日であった。

* 日本以外の調印国は以下のとおり。アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カンボジア、カナダ、セイロン、チリ、コロンビア、コスタリカ、キューバ、ドミニカ、エクアドル、エジプト、サルバドル、エチオピア、フランス、ギリシャ、グァテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インドネシア、イラン、イラク、ラオス、レバノン、リベリア、ルクセンブルグ、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パキスタン、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、サウジアラビア、シリア、トルコ、南アフリカ連邦、イギリス、アメリカ、ウルグアイ、ベネズエラ、ベトナム。

(正村公宏『戦後史(上)』筑摩書房、1985年)


昭和天皇とマッカーサー

2017年05月10日 | 天皇

(木下道雄侍従次長の)『側近日誌』は天皇退位について、「これが折角いままで努力したMの骨折を無にする事になるので、M司令部はやっきとなり」と記している。この「Mの骨折」とは、言うまでもなくマッカーサーによる天皇の戦争責任を免責するための「骨折」である。

英連邦構成国のオーストラリアが天皇を戦犯リストに加えて連合国戦争犯罪委員会に提出した(1946年1月22日)のに対し、マッカーサーは、1月25日、天皇が日本の政治上の決定に関与した証拠はない、との進言を本国政府に送ったのだった。

もちろん、この内容は直ちに天皇側に伝えられず、伝えられたのは3月20日であったが、3月はじめとは、マッカーサーにとって5月から始まる東京裁判に備えて、天皇を起訴することなく、戦犯から除外するためのもっとも重要な時期でもあった。もちろん天皇側にとっても最も緊張した時期であったにちがいない。

3月2日には各国検事・検事補からなる執行委員会が組織され、4日から最初の執行委員会の会議が行われ、翌5日には被告人の人数は20名を超えず15名が望ましいとの合意ができ、11日の会議から被告人選定がはじまった。

さらにまた、昭和天皇は、たぶん東京裁判に出廷させられた場合の準備と思われるが、3月18日から、側近で宮内省御用掛の寺崎英成らに自己の戦争との関わりを語り、口述させていた。寺崎の3月18日の日記には「陛下病臥中ナリ」とあるほど、切羽詰った中での聞き取りだった。

こうして、憲法改正問題を同時進行する東京裁判問題あるいは連合国の情勢と重ね合わせてみるとマッカーサーにとって、憲法改正草案要綱は一日でも遅らすことのできないものだったことがわかる。それは天皇に象徴という地位を与え、退位を思いとどまらせるためだけではなく、連合国に対して、とくに極東委員会と東京裁判のために必要だったのである。しかも、それは天皇が将来に向かって自ら積極的に平和と人権を尊重した憲法をつくろうとしていることの証として、日本国民に対するとともに、連合国に対しても必要な憲法であったのである。

しかもそのためには、戦争放棄条項が盛り込まれたこの草案要綱を、東京裁判の被告人選定の段階で、直接天皇の言葉である勅語を付して発表する必要があったのである。この意味では戦争放棄条項は、天皇を戦犯から除外するための戦略として憲法に盛り込まれたといえよう。

マッカーサーが草案要綱を連合国に知らせることをいかに急いでいたかは、できあがった要綱をGHQは「当日直ちに飛行機でアメリカの極東委員会に送り、関係国に交付」した、と楢橋書記官長から聞いた話として入江が書いていることからもあきらかである。

(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫、2017年)

 


THAADの目的

2017年05月10日 | 国際情勢

THAADはヨーロッパに配備されたミサイル・システムと同じで、アメリカの支配システムを維持するために中国とロシアを恫喝することが目的。核戦争を仕掛ける準備だ。

アメリカやイスラエルの基本戦術は狂犬、あるいは凶人を装って相手を屈服させるというもの。脅せば屈すると信じ、大多数の国に対しては機能した。が、中国とロシアには通じない。通じない相手を核戦争で脅していると、どこかの時点で本当の核戦争になる。

そうした政策を推進しようとしていたのがヒラリー・クリントンだった。選挙戦の時点ではそうした事態を避けようとしていたトランプだが、大統領就任から100日も経たないうちに核戦争を望まない人びとはホワイトハウスから排除されてしまった。

(櫻井ジャーナル)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201705020000/


米国政府と天皇制

2017年05月10日 | 天皇
米国政府にとって、天皇制を残すか否かの問題は、同時に東京裁判に昭和天皇を起訴するか否かの問題であり、米国政府内でも結論は日本の敗戦が決まった時点でも未決定であった。不起訴決定は、現在の研究では1946年の1月末のマッカーサーの決断によるとされている。

マッカーサーが、明治憲法の改正をいかに急ぎ、東京裁判の動向に意を用いていたのかがわかる。しかし、だからといって米国政府が対日政策ヘの具体策をまったく持っていなかったわけではない。

米国政府の最高政策決定機関であったSWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)は、1946年1月7日「日本の統治体制の改革」(文書番号・SWNCC228)と題する政策決定を行い、マッカーサーに11日に送付している(なお、SWNCCはその後、NSC(国家安全保障会議)と組織替えされ、現在も米国の最高政策決定機関である)。

そのなかで天皇制に関して「わが(米国)政府は、日本人が、天皇制を廃止するか、あるいはより民主主義的な方向にそれを改革することを、奨励支持したいと願うのであるが、天皇制維持の問題は、日本人自身の決定に委ねられなければならない」とした。

この政策決定からは、最終決定を避けつつも、天皇制の「維持」の方向を示していた。そしてその際の条件を「日本における(軍と民の)『二重政治』の復活を阻止し、かつ、また国家主義的軍国主義的団体が太平洋における将来の安全を脅かすために天皇を用いることを阻するために安全装置が、設けられなければならない」として、以下のような安全装置を掲げていた。

(1)天皇は、一切の重要事項につき、内閣の助言にもとづいてのみ行動するものとすること、
(2)天皇は、(明治)憲法第1章中の第11条(陸海軍の統帥権)、第12条(陸海軍の編制権、軍費決定権)、第13条(宣戦布告、講和条約締結権)および第14条(戒厳令布告権)に規定されているような、軍事に関する権能をすべて剥奪されること、
(3) 内閣は、天皇に助言を与え、天皇を補佐するものとすること、
(4)一切の皇室收入は国庫に繰り入れられ、皇室費は、毎年の予算の中で、立法府によって承認されるべきものとすること。

この政策決定を読むと確かに天皇制を認め、それを前提にしていないにもかかわらず、なんとその後のGHQの憲法案、さらには日本国憲法の天皇条項そのものであることが判り、このSWNCC228は、米国政府の対日政策の基本文書であることをあらためて知らされるのである。 

(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫、2017年)


敗戦直後の憲法学者

2017年05月10日 | 憲法

政府に憲法問題調査委員会が設置されたのは1945年10月25日のことであった。

委員会の中で・・・論客は美濃部と若き宮沢であった。

宮沢俊義は、はやくも1945年9月28日に外務省で「『ポツダム』宣言に基く憲法、同付属法令改正要点」と題する演題で、講演を行い、ここで宮沢は「具体的方策」として「帝国憲法ハ民主主義ヲ否定スルモノニ非ズ。現行憲法ニテ十分民主的傾向ヲ助成シ得ルモ、民主的傾向ノ一層ノ発展ヲ期待スルタメ改正ヲ適当トスル点次ノ如シ」として緊急勅令などをあげていた。宮沢にとって、明治憲法は「民主的傾向ヲ助成シ得ル」と判断し、「憲法ノ改正ヲ軽々ニ実施スルハ不可ナリ」と考えていた。

宮沢は、『毎日新聞』でも同様の見解を述べており(10月19日)、さらに美濃部達吉も『朝日新聞』(10月20日から22日)の論説で「形式的な憲法の条文の改正は必ずしも絶対の必要ではなく、・・・・・・法令の改正及びその運用により、これを実現することが十分可能であることを信ずる・・・・・・随って少くとも現在の問題としては、憲法の改正はこれを避けることを切望して止まないのである」と述べていた。

これに対し、宮沢とともに後に憲法改正にあたり、国民に大きな影響力を発揮する金森徳次郎は、いくらか後のことになるが、しかし憲法改正問題がいまだGHQの影響が表れない時点の1946年2月に出された著書『日本憲法民主化の焦点』(協同書房)で「私自身としては、確信的に信仰的に—合理論を超越して—此の国体の原理を尊重すること我々の先人例えば本居宣長と同様である」。なんとも、「合理論を超越して」、まさに「信仰的に」天皇主義を、国体の原理を唱えたのであった。

これが当時の1930年代の法制局長官であり、のちの吉田内閣で憲法問題担当大臣を務めて、平和や民主主義を唱えた権威ある学者の見解であったのである。それはまた、これら日本を代表する憲法学者が、この戦争を決して「敗戦」とは考えず、「終戦」と見てきたことをも意味していたといえよう。

しかし、当時在野にあって戦前からの民権派憲法の研究者であり、日本政府より早く憲法改正案を発表した鈴木安蔵は、上記のような憲法学者を痛烈に批判している。「いまなほ日本の憲法そのものは民主主義的である、今日までの軍部、官僚の専制警察憲兵の悪政がなされたのは、憲法の解釈、運用を誤ったからである、この解釈運用さヘ改め悪法令さへ廃止するならば、現行憲法はそのままでも民主主義は実現できるといっている人々もいる。果たしてさうであらうか。かりにー歩をゆずって、日本憲法そのものは決して封建的専制主義のものではないとしても、そのやうな誤つた解釈や運用を生ぜしめる間隙、欠陥のある憲法は、そのやうな悪法令、悪制度を存在せしめたところの憲法は、すでにそれだけで今日、根本的に改正されねばならないことは明白である」(『民主憲法の構想』1946年)。

鈴木はその後も当時の「専門的な憲法学者たちが、憲法改正について、また『国体』、天皇制について、きわめて慎重というよりは消極的保守的であった」と指摘している。

鈴木はこの書物が刊行される前後に民間の憲法草案「憲法研究会案」を発表している。この憲法草案の内容とGHQ案に与えた影響については、本書52頁で紹介したが、鈴木のような憲法への展望を持っていた識者は、当時も極めて少数であったのである。 

(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫、2017年)


ミサイル防衛システム

2017年05月10日 | 国内政治
元自衛隊陸将補「同時に100発撃たれたら50発は撃ち落とせない」

大砲の弾を大砲で撃ち落とすという話はあまり聞かない。

ミサイルになるとそんなに簡単に撃ち落とせるのか?

すごいなミサイル防衛システム。実戦で試してないから、なんとでも言えるけど・・・・。

実戦では100発のうち5、6発撃ち落とせたら上出来だろう。

憲法改正をなぜ急いだか

2017年05月10日 | 憲法

マッカーサーは、なぜ、徹夜で(憲法改正)草案を作らせるほど急いだのだろうか。

連合国はミズーリ号艦上で降伏文書に署名はしたものの、占領下日本の管理は事実上、米国の単独統治の感があった。45年12月、米英ソ三国外相会議がモスクワで開かれ、米国独占を排除するためワシントンに極東諮問委員会の設置を決めた。その後、極東委員会(FEC)と改められ、拒否権がある米英ソ中4ヵ国のほか計11ヵ国で構成され、ワシントンに置かれた。FECとセットのかたちで東京に対日理事会が設けられた。第1回会議が(46年)2月26日ワシントンで開かれ、それに間に合わせようとしたのである。占領行政の主導権はFECに移ってしまい、下手をすればマ司令官の天皇温存策という目論見は、崩れてしまうのだ。

それに大事件が起きた。2月27日の『読売報知』に「皇族方は挙げて賛成 陛下に退位の御意思 摂政には高松宮を 宮廷の対立明るみへ」いうトップ記事が出たのである。筆者はAP通信のラッセル・ブラインズで、東久邇宮のインタビューをもとに書いたのだ。内容は、天皇自身は適当な時期に退位したい、理由は自分には道徳的、道義的な戦争責任があるからだ、というものだった。

皇族で首相を務めた人物が天皇の心情を公にしたことは、マッカーサーにとって大打撃だった。

3月5日、木下(道雄侍従次長)はマッカーサーが憲法案の作成を急がせるのは、「天皇退位の件」がもとだということを聞いた。(中略)

『芦田均日記』にも、「退位反対は幣原と宮相のみだとか(東久邇宮が)申されたことは、マッカーサーに一大打撃である、と総理は繰り返し言われた」とあり、米国側は11日迄は待てぬ、米国側の原案を採用するか、それでなければ天皇のpersonも保障できぬ、とまで言ったと、木下(『側近日誌』)と同じ内容の記述がある。

新聞の天皇退位説を読んで、天皇は自分の気持ちを3月6日、木下に語っている。

「それは退位した方が自分は楽になるであろう。今日の様な苦境を味わわぬですむであろう」が、退位して皇太子が即位すれば摂政がいる。秩父宮は病気、高松宮は開戦論者、三笠宮は若くて無理である。「東久邇さんはこんな事情を少しも考えぬのであろう」と宮の軽率な言動を非難した。

根拠のない退位説が広く知られれば、マ司令官の意図とは大きく違い、天皇制の否定につながる。第一、米国務省内にも天皇が退位すれば戦犯として逮捕するという意見もあったほどだ。FEC構成国11ヵ国の中には、拒否権があるソ連ばかりではなく、オーストラリアも天皇戦犯・廃止説を唱えており、ほかにもオランダなど同調する国が出るおそれがあった。だから一刻も早く憲法に明記して天皇制を安定させたかったのである。

憲法はポツダム宣言にある通り「自由に表明されたる国民の意思に基づ」いて作られた。天皇の軍事大権は廃され、政治的な活動・発言さえしない。戦前の姿から一変した天皇像を前文に続く第一章に書き込み、第二章では戦争放棄を謳っている。日本は軍備を放棄し、日本民族の象徴として"人間天皇"を戴いている。天皇を温存しても国際平和には何の差障りもないことを、マッカーサーは天皇戦犯説を採る国々に示すのが狙いだった。

2回目のFEC総会は3月6日だった。出来立ての日本国憲法を持って、ハッセーが特別軍用機でワシントンに飛んだ。各国代表から質問があれば、それに応対するのが彼の役目であった。(中略)マッカーサーは第一条と第九条をセットにして、中央突破を図ったのだ。だから絶対変更は許さないと言ったのである。こうした動きは東京裁判の開廷が近づき、天皇無罪論に備える“潔白の証明”づくりなどとも連動するものであった。

(高橋紘『昭和天皇 1945-1948』岩波現代文庫、2008年)


憲法改正をなぜ急いだか

2017年05月03日 | 歴史・文化
マッカーサーは、なぜ、徹夜で(憲法改正)草案を作らせるほど急いだのだろうか。

連合国はミズーリ号艦上で降伏文書に署名はしたものの、占領下日本の管理は事実上、米国の単独統治の感があった。45年12月、米英ソ三国外相会議がモスクワで開かれ、米国独占を排除するためワシントンに極東諮問委員会の設置を決めた。その後、極東委員会(FEC)と改められ、拒否権がある米英ソ中4ヵ国のほか計11ヵ国で構成され、ワシントンに置かれた。FECとセットのかたちで東京に対日理事会が設けられた。第1回会議が(46年)2月26日ワシントンで開かれ、それに間に合わせようとしたのである。占領行政の主導権はFECに移ってしまい、下手をすればマ司令官の天皇温存策という目論見は、崩れてしまうのだ。

それに大事件が起きた。2月27日の『読売報知』に「皇族方は挙げて賛成 陛下に退位の御意思 摂政には高松宮を 宮廷の対立明るみへ」いうトップ記事が出たのである。筆者はAP通信のラッセル・ブラインズで、東久邇宮のインタビューをもとに書いたのだ。内容は、天皇自身は適当な時期に退位したい、理由は自分には道徳的、道義的な戦争責任があるからだ、というものだった。

皇族で首相を務めた人物が天皇の心情を公にしたことは、マッカーサーにとって大打撃だった。

3月5日、木下(道雄侍従次長)はマッカーサーが憲法案の作成を急がせるのは、「天皇退位の件」がもとだということを聞いた。(中略)

『芦田均日記』にも、「退位反対は幣原と宮相のみだとか(東久邇宮が)申されたことは、マッカーサーに一大打撃である、と総理は繰り返し言われた」とあり、米国側は11日迄は待てぬ、米国側の原案を採用するか、それでなければ天皇のpersonも保障できぬ、とまで言ったと、木下と同じ内容の記述がある。

新聞の天皇退位説を読んで、天皇は自分の気持ちを3月6日、木下に語っている。

「それは退位した方が自分は楽になるであろう。今日の様な苦境を味わわぬですむであろう」が、退位して皇太子が即位すれば摂政がいる。秩父宮は病気、高松宮は開戦論者、三笠宮は若くて無理である。「東久邇さんはこんな事情を少しも考えぬのであろう」と宮の軽率な言動を非難した。

探拠のない退位説が広く知られれば、マ司令官の意図とは大きく違い、天皇制の否定につながる。第一、米国務省内にも天皇が退位すれば戦犯として逮捕するという意見もあったほどだ。FEC構成国11ヵ国の中には、拒否権があるソ連ばかりではなく、オーストラリアも天皇戦犯・廃止説を唱えており、ほかにもオランダなど同調する国が出るおそれがあった。だから一刻も早く憲法に明記して天皇制を安定させたかったのである。

憲法はポツダム宣言にある通り「自由に表明されたる国民の意思に基づ」いて作られた。天皇の軍事大権は廃され、政治的な活動・発言さえしない。戦前の姿から一変した天皇像を前文に続く第一章に書き込み、第二章では戦争放棄を謳っている。日本は軍備を放棄し、日本民族の象徴として"人間天皇"を戴いている。天皇を温存しても国際平和には何の差障りもないことを、マッカーサーは天皇戦犯説を採る国々に示すのが狙いだった。

2回目のFEC総会は3月6日だった。出来立ての日本国憲法を持って、ハッセーが特別軍用機でワシントンに飛んだ。各国代表から質問があれば、それに応対するのが彼の役目であった。(中略)マッカーサーは第一条と第九条をセットにして、中央突破を図ったのだ。だから絶対変更は許さないと言ったのである。こうした動きは東京裁判の開廷が近づき、天皇無罪論に備える“潔白の証明”づくりなどとも連動するものであった。

(高橋紘『昭和天皇 1945-1948』岩波現代文庫、2008年)


治安維持法

2017年05月03日 | 国内政治

明治憲法の「表現の自由」条項をみると、「第二十九条 日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」とある。ここでは「法律ノ範囲内ニ於テ」と、つまり、「法律の範囲内」で人権制限をする法律をつくれば、「言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」という規定は意味を有しないことになり、「法律で」人権制限は可能となる。現実に治安維持法は、戦後はまるで悪法の典型のように見られてきたが、明治憲法から見れば憲法に違反してはいない法律であった。

1925(大正14)年につくられた治安維持法はその後「国体ヲ変革スルコトヲ目的卜シテ結社ヲ組織シタル者」を最高で死刑とし、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」と、いまだ目的を遂行していないが「為(ため)ニスル行為」も処罰の対象とされ、ついに、第二次大戦直前の1941年に法律は全面改正され、犯罪を「犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、つまり「予防拘禁」まで可能になったのである。

(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫、2017年)