畑倉山の忘備録

日々気ままに

山田盟子という人

2018年01月29日 | 歴史・文化
これまでわたしが一貫して描いてきたのは、からゆき、戦中慰安婦、戦後慰安婦などの、いわば娘子軍である。こうした命題を抱えて生きてきたことには、もちろん理由がある。

明治維新のわが家では、伊達藩の要職にあった曾祖父が苦悩のはてに若死にをし、その妻えつはある日、夜這いに襲われた。気丈なえつは、その場で「食えば喰う 食わねばならぬ 上の口」と即座にしたため、男に差しだした。これを見て、下の句がつけられずにいたその男は退散したという。

城山の桜の下で、私が藩の老女からそのことを聞かされ、「下の句はあなたがつけてやれ」といわれたのが女学生二年のときである。

えつにとって奥羽にやってきた東征軍の狼藉は目にあまるものがあった。伊達藩では50人にのぼる越元の凌辱がおこなわれ、そして14人の自害があった。会津藩では322人もの凌辱と自決があり、そして生き残った婦女子のなかには明治2年にアメリカに渡ったものもいたが、やがてからゆき娼婦に墜ちる運命が待っていた。維新のときをむかえたえつには、女の性と人権は大変な問題であったといえる。

私は太平洋戦争中をセラウエシのマカッサル研究所で過ごした。この地に赴任した直後、私は「花嫁の涙(アイルマタ・プガンテン)」と名付けられた花に覆われたからゆきの墓群をながめ、その場所のはてには軍隊の慰安所があるのを見いだした。悲しき「獣獄の花嫁」たちを覆う真珠の玉のような「花嫁の涙」の花を見ながら、いたましい女たちの宿命に、私のなかのえつが慄然とした。それいらい、花と女たちは私の胸内に原点の風景としてはりついた。

あの戦争は明治よりこのかた、植民地拡大の夢をみた日本がドラをうって進出した日清・日露戦争の帰結として起きたものであり、慰安婦は侵攻した兵士にさしだされる供犠の女であった。

愛しき人のためにあらねばならない女の性が、皇軍の生け贄として、さしだされるような慰安婦の歴史は二度とくり返されてはならないだろう。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)


天皇一族のための戦争

2018年01月29日 | 歴史・文化
昭和16年12月4日入隊の津山章作が、北京から保定にいたる易県の、涞水見城にあった第十一中隊でのこと。北方トーチカまで四里の道を行軍すると、兵舎の前に朝鮮慰安婦がいた。

まさか第一線で兵と慰安婦が宿舎をともにしているとは、とても信じられなかった。涞水城内にも慰安婦がいて、本部へも自由に出入りしだした。

(中略)二年目に山東省南部の討伐後、本部に近い娼家をたずねた。

戦地の9割以上が朝鮮慰安婦だった。・・・・・・行為の間、頬をこすりつけてきたぐらいで声もださず、とりみだしもせず、息もあらげず、物足りないより哀れであった。未熟の果物のかたさが消えない子だった。(『戦争奴隷』津山章作)

「18年に北支那慰問にでかけたアラカンこと嵐寛寿郎は、元帥以下将校が、夜な夜な芸者を抱いているのをまのあたりみて、戦争は負けやと、確信した」(『聞書アラカン一代』竹中労)

昭和19年の京漢作戦に、第十二軍の四コ師団が参加したとき、稲村大隊長は部下の将校と下士官を集め、猛烈な訓示を行なった。

「何がなんでも洛陽は一番乗りをしなければならぬ。洛陽にはいったら、私は両手でトウモロコシを取って、一度に処女を三人ずつ強姦してやる・・・・・」

大隊長は自己の部隊が一番乗りをするために、部下に気迫を叩きこみ、狂気を掻きたてるべく、中国婦女子への強姦を、公然と教唆したのだった。(『戦争奴隷』津山章作)

慰安婦を男意識で叙情的な礼賛で書かれる作家もおられるし、兵の記録にもそれがみられることがある。また、命令の前には木の葉よりも軽い生命の兵に、荒れを防ぐ意で慰安婦の必要悪が主張もされる。

だが、皇軍といわれた兵に、殺生働きを命じたあの戦争は、だれのための、なんのための、戦争だったのだろう。そのみきわめのないことには、慰安婦必要悪の主張は、戦争の肯定者となるのではなかろうか。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)


一旗商人と南京虐殺

2018年01月29日 | 歴史・文化
軍の許可のほかに、特高の許可も要った。一人一人の女の戸籍謄本やら、警察の許可証やら、予防注射も三つぐらいうって、長崎港から長崎丸、上海丸に乗せて女を運んだ。

上海の旅館に泊め、まず上海見物を女たちにさせた。ガーデン・ブリッジを渡って租界も見物させた。観光させても、従来の業者を見習えば、女の前借りにくりこむのだから気は楽であった。

慰安婦の行く先は南京と指定されていた。

南京で営業がみとめられた背景には、虐殺や暴行の限りをつくした兵士の鬼行を再爆発させたくない軍側の意向もあった。彼らは南京城外の下関(シャーカン)にある第六師団管区内の下関兵站に慰安所をあてがわれた。

占領当時の下関は、『野戦郵便旗』の著者の眼をかりると、
「南京下関の支那郵便局は、堂々たる大建造物である。江岸には帰蕩せられた敗残兵の死骸が累々として、道路と岸壁の下と水打ち際に重なり合っている。いかなる凄惨もこれには及ばない。長江の濁流に呑まれ押し流された者が、このほか幾何(いくばく)あるかわからぬ。私は関東の大震災のとき本所の緑町河岸で、たくさんの人が折り重なって死んでいるのを見たが、これにくらべればものの数ではない。生命を奪った銃弾と銃剣とが、これをものすごくしている。半裸になっているものがある。石油をかけて焼かれ焦げたのがある。傍に陸揚げされた菰(こも)被りの酒ダルが、戦捷(せんしょう)祝いをするもののごとく山積みされ、上に兵隊が歩哨に立っている。先勝国と亡国とのあまりにも深刻な場面である」

南京で何がなされたかについて、京都第十六師団長中島今朝吾中将は、
「捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることなしたれども、千、五千、一万の群集となれば、之を武装解除することすら出来ず、唯彼等が全く戦意を失い、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、これが一端騒擾せば始末に困るので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、十三日夕はトラックの大活動を要したり。しかしながら戦勝直後のことなれば、中々実行は敏速に出来ず・・・・・佐々木部隊だけにて処理せしもの、15,000人、太平門において守備の一隊長が処理せしもの1,300人、其仙鶴門付近に集結せしもの7〜8,000人を片付くるには、相当大なる壕を要し、中々み当たらず一案としては、100、200に分割したる後、適当の箇所に誘きて処理する予定なり」(『歴史と人物』1984年)

仙台第十三師団山口旅団第六十五連隊会津両角部隊は、烏龍山、幕府山付近山地での捕虜14,777名と発表した。22棟の大兵舎に収容しても、食事用の椀を15,000集めることもできず食わすこともできないので、北岸送りをして、逃亡者を撃ちだし、皆殺しをしたと言っている。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)


慰安婦問題はねつ造ではない

2018年01月29日 | 歴史・文化
日支事変にも太平洋戦争にも、軍の性囚にされた慰安婦の9割は、植民地朝鮮からの女たちだった。輪姦された女は、推定で20万人説までいろいろある。

「大東亜戦争中の連行朝鮮人は、内外あわせて600万、そのうち行方不明は一般労働者をふくめて20万人」と、報道もされている。

トラック島一つをとっても、朝鮮人人夫だけで17,000、そのうち4,000人が死亡している。

朝鮮慰安婦について日本側では、荒船清十郎代議士の口からついてでた数字はこうである。昭和40年(1965年)11月21日、荒船氏は、秩父軍恵連盟招待会を、秩父厚生会館で開き、参加者400名の前で講演をぶった。

「戦時中、朝鮮に貯金をさせ、終戦でフイにした金は1,100億あった。徴用工に連れてきて兵隊として使ったが、この中で57万6,000人が死んでいる。それから朝鮮慰安婦が14万3,000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。合計90万も犠牲になっているが、なんとか恩給でも出してくれと言ってきた・・・・・」

日本はアジア侵攻に、植民地の男女を強制連行し、兵に軍夫に、女は性囚ガールに追いこんだ。

また仁義なき戦争にかりたてられた日本の兵たちは、「糧は敵に拠る」こととし、食い扶持からして野盗働きをしなければならなかった。

なんのための戦争なのか、かかげた聖戦などは、討伐に名をかりた強盗であり、殺し、犯しが実状だった。兵たちは戦場垢をつけなければ、強い兵として通らなかった。それはまともな人間を喪失していくことだった。野生本能をよびこまないかぎり、侵略の先陣を駆けることはできなかった。荒(すさ)みの淘(よな)げ薬に組み込まれた慰安婦は、まさしく地獄の花嫁であった。

弾除けにされた一般兵の慰めには慰安婦があてられた。機関銃つきのトラックで、財閥企業の人足や物資を略奪させた軍権者たちには、企業のもてなしで高官料亭での酒肴と将官用慰安婦の接待があった。

軍寄生の性業主たちも、軍部との道行きを楽しむ受益者であった。性業主にとってのねらいは、資本なしに利をあげられる植民地の一本玉であった。

朝鮮は産物ならぬ、性の大兵站基地とされ、女子愛国奉仕隊、女子挺身隊と、つぎつぎに淫獄の花嫁に狩りこまれていった。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)


韓国の「英雄」

2018年01月29日 | 歴史・文化

金九(キムグ、1876〜1949、号は白凡、本貫は安東)こそは大韓民国建国をめぐって中心的な役割を果たした民族の巨頭である。

金九が韓国でかぎりない尊敬を集めているのは、彼の自叙伝である『白凡逸志(ペクボムイルジ)』に記された「わたしが願うわが国」と題された次の言葉による。この言葉は、解放後の韓国の方向性を規定する最高水準の名文とされている。

「わたしはわが国が世界でもっとも美しい国になることを願う。もっとも富強な国になることを願うのではない。わたしは他者による侵略に胸が痛んだ人間であるから、わが国が他国を侵略することを願わぬ。われわれの富の力はわれわれの生活をゆたかに満足させればそれで良いし、われわれの武力は他国からの侵略を防ぐ程度で足りる。ひたすらにかぎりなく願うのは、高い文化の力を持ちたいということだ。文化の力はわれわれ自身を幸福にし、さらに他者にも幸福を与えることになるからだ。いま人類に不足しているのは武力ではない。経済力でもない。自然科学の力はいくら多くてもよいが、人類全体を見れば、現在の自然科学だけでも安らかに暮らすには不足でない。人類が現在不幸である根本の理由は、仁義の不足であり、慈悲の不足であり、愛の不足のためである。」

韓国において金九は英雄であるから、つねに「金九先生」と呼ばれ、尊敬される。だか韓国人が尊敬する「金九先生」のイメージは、実際の金九をかなり変形させたものである。金九が若いころ殺人を犯したこと、「解放空間」における極度の政治的混乱の責任は金九にもあることなどは、韓国ではおぼろげに知られていてもまともに議論される対象ではない。金九という「英雄」は韓国において一種の「聖域」となっている。

(小倉紀蔵『朝鮮思想全史』ちくま新書、2017年)