将軍が依然として主権を保持するか、それとも主権が天皇に移るか、というこの重大な時期にあたり、(1866年)11月のはじめ、パークスは、政治的台風の眼である西日本の情勢をさぐる目的で、(アーネスト)サトウを軍艦アーガス号に乗せて出帆させた。彼はまず長崎に行き、そこで当面の政情を打診したのち、11月27日、鹿児島にやってきた。滞在五日の間、家老新納刑部らと会見し、長州問題などについての薩摩藩の意見を聞いた。
鹿児島を去ったサトウは、12月1日宇和島に来航した。一日おいて3日、藩ではサトウやアーガス号の艦長ラウンド中佐らを招待して盛宴を張り、前藩主伊達宗城(むねなり)、藩主宗徳以下が出席した。藩の実権者である宗城とサトウとの間には、重要な政治問題について意見の交換が行なわれた。
宗城はまず兵庫開港問題について、フランスよりもむしろイギリスとの間に協定のできることを希望して、会談の口火をきった。他藩のように重臣などに任せないで、みずからすすんで会談に乗り出す宗城の態度には、彼が名実ともに藩の実権者であることが示されている。宗城の対英接近のジェスチュアにたいして、サトウは、「フランスは、将軍と条約をむすんだのだから、できるだけ将軍を強化するのがよいという意見をもっているものと信じられますが、わが国の政策はこれと違います。条約は日本と締結されたもので、とくに将軍を相手にしたものではないと、われわれはみています。もしも将軍が相手だとしますならば、現在、実際の将軍がいないのですから、条約は中止状態にあると考えねばなりますまい。われわれは、あえて内政に干渉することを好みませんので、日本人みずから、国内の紛争を解決してくれれば、なんら言い分はないのです」と、イギリスの政策を説明した。それは、さきに、パークスが鹿児島で西郷に示したのと同じ線であった。
しかし、この不干渉政策に宗城はあきたらぬようであった。「もしも内乱が長びくとすれば、貴国の貿易は損害を受けますから、貴国自身のためにも内乱がおさまるようにせねばなりますまい」といって、内乱を早期に終わらせるよう、イギリスの介入を望むかのような口ぶりであった。これにたいしてサトウは、「いや、われわれが干渉して片捧をかつぐようになりますと、事態はさらに十倍も紛糾するでしょうし、外国貿易など、まったく途絕してしまいますからね」と答えて、陰では盛んに突っついておきながら、表面はあくまで日本人自身に国内問題を解決させる態度をくずさなかった。
それからさらにすすんで宗城は、日本が天皇を君主とする連邦帝国となることが理想であり、薩長も同意見である、と語リ、サトウも、「現下の困難を解決する途は、それ以外にはありません。私はかつて横浜の新聞紙にその意味の論説を書いたことがあります」と応じた。すると宗城は、その論説の和訳『英国策論』をさして、「ああ、私もそれを読んだよ」と、いかにも得意そうであった。二人の意見は、『英国策論』に表現された政治構想の線で完全なー致をみたわけである。
これで話はとぎれて盛宴がつづけられた。よっぱらったサトウは、その晩は、家老松根図書の家にとめてもらい、翌日早朝アーガス号の砲声に夢を破られ、あわてて乗りこむ始末であった。
(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)
鹿児島を去ったサトウは、12月1日宇和島に来航した。一日おいて3日、藩ではサトウやアーガス号の艦長ラウンド中佐らを招待して盛宴を張り、前藩主伊達宗城(むねなり)、藩主宗徳以下が出席した。藩の実権者である宗城とサトウとの間には、重要な政治問題について意見の交換が行なわれた。
宗城はまず兵庫開港問題について、フランスよりもむしろイギリスとの間に協定のできることを希望して、会談の口火をきった。他藩のように重臣などに任せないで、みずからすすんで会談に乗り出す宗城の態度には、彼が名実ともに藩の実権者であることが示されている。宗城の対英接近のジェスチュアにたいして、サトウは、「フランスは、将軍と条約をむすんだのだから、できるだけ将軍を強化するのがよいという意見をもっているものと信じられますが、わが国の政策はこれと違います。条約は日本と締結されたもので、とくに将軍を相手にしたものではないと、われわれはみています。もしも将軍が相手だとしますならば、現在、実際の将軍がいないのですから、条約は中止状態にあると考えねばなりますまい。われわれは、あえて内政に干渉することを好みませんので、日本人みずから、国内の紛争を解決してくれれば、なんら言い分はないのです」と、イギリスの政策を説明した。それは、さきに、パークスが鹿児島で西郷に示したのと同じ線であった。
しかし、この不干渉政策に宗城はあきたらぬようであった。「もしも内乱が長びくとすれば、貴国の貿易は損害を受けますから、貴国自身のためにも内乱がおさまるようにせねばなりますまい」といって、内乱を早期に終わらせるよう、イギリスの介入を望むかのような口ぶりであった。これにたいしてサトウは、「いや、われわれが干渉して片捧をかつぐようになりますと、事態はさらに十倍も紛糾するでしょうし、外国貿易など、まったく途絕してしまいますからね」と答えて、陰では盛んに突っついておきながら、表面はあくまで日本人自身に国内問題を解決させる態度をくずさなかった。
それからさらにすすんで宗城は、日本が天皇を君主とする連邦帝国となることが理想であり、薩長も同意見である、と語リ、サトウも、「現下の困難を解決する途は、それ以外にはありません。私はかつて横浜の新聞紙にその意味の論説を書いたことがあります」と応じた。すると宗城は、その論説の和訳『英国策論』をさして、「ああ、私もそれを読んだよ」と、いかにも得意そうであった。二人の意見は、『英国策論』に表現された政治構想の線で完全なー致をみたわけである。
これで話はとぎれて盛宴がつづけられた。よっぱらったサトウは、その晩は、家老松根図書の家にとめてもらい、翌日早朝アーガス号の砲声に夢を破られ、あわてて乗りこむ始末であった。
(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)