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畑倉山の忘備録

日々気ままに

敗戦直後の憲法学者

2017年05月10日 | 憲法

政府に憲法問題調査委員会が設置されたのは1945年10月25日のことであった。

委員会の中で・・・論客は美濃部と若き宮沢であった。

宮沢俊義は、はやくも1945年9月28日に外務省で「『ポツダム』宣言に基く憲法、同付属法令改正要点」と題する演題で、講演を行い、ここで宮沢は「具体的方策」として「帝国憲法ハ民主主義ヲ否定スルモノニ非ズ。現行憲法ニテ十分民主的傾向ヲ助成シ得ルモ、民主的傾向ノ一層ノ発展ヲ期待スルタメ改正ヲ適当トスル点次ノ如シ」として緊急勅令などをあげていた。宮沢にとって、明治憲法は「民主的傾向ヲ助成シ得ル」と判断し、「憲法ノ改正ヲ軽々ニ実施スルハ不可ナリ」と考えていた。

宮沢は、『毎日新聞』でも同様の見解を述べており(10月19日)、さらに美濃部達吉も『朝日新聞』(10月20日から22日)の論説で「形式的な憲法の条文の改正は必ずしも絶対の必要ではなく、・・・・・・法令の改正及びその運用により、これを実現することが十分可能であることを信ずる・・・・・・随って少くとも現在の問題としては、憲法の改正はこれを避けることを切望して止まないのである」と述べていた。

これに対し、宮沢とともに後に憲法改正にあたり、国民に大きな影響力を発揮する金森徳次郎は、いくらか後のことになるが、しかし憲法改正問題がいまだGHQの影響が表れない時点の1946年2月に出された著書『日本憲法民主化の焦点』(協同書房)で「私自身としては、確信的に信仰的に—合理論を超越して—此の国体の原理を尊重すること我々の先人例えば本居宣長と同様である」。なんとも、「合理論を超越して」、まさに「信仰的に」天皇主義を、国体の原理を唱えたのであった。

これが当時の1930年代の法制局長官であり、のちの吉田内閣で憲法問題担当大臣を務めて、平和や民主主義を唱えた権威ある学者の見解であったのである。それはまた、これら日本を代表する憲法学者が、この戦争を決して「敗戦」とは考えず、「終戦」と見てきたことをも意味していたといえよう。

しかし、当時在野にあって戦前からの民権派憲法の研究者であり、日本政府より早く憲法改正案を発表した鈴木安蔵は、上記のような憲法学者を痛烈に批判している。「いまなほ日本の憲法そのものは民主主義的である、今日までの軍部、官僚の専制警察憲兵の悪政がなされたのは、憲法の解釈、運用を誤ったからである、この解釈運用さヘ改め悪法令さへ廃止するならば、現行憲法はそのままでも民主主義は実現できるといっている人々もいる。果たしてさうであらうか。かりにー歩をゆずって、日本憲法そのものは決して封建的専制主義のものではないとしても、そのやうな誤つた解釈や運用を生ぜしめる間隙、欠陥のある憲法は、そのやうな悪法令、悪制度を存在せしめたところの憲法は、すでにそれだけで今日、根本的に改正されねばならないことは明白である」(『民主憲法の構想』1946年)。

鈴木はその後も当時の「専門的な憲法学者たちが、憲法改正について、また『国体』、天皇制について、きわめて慎重というよりは消極的保守的であった」と指摘している。

鈴木はこの書物が刊行される前後に民間の憲法草案「憲法研究会案」を発表している。この憲法草案の内容とGHQ案に与えた影響については、本書52頁で紹介したが、鈴木のような憲法への展望を持っていた識者は、当時も極めて少数であったのである。 

(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫、2017年)


憲法改正をなぜ急いだか

2017年05月10日 | 憲法

マッカーサーは、なぜ、徹夜で(憲法改正)草案を作らせるほど急いだのだろうか。

連合国はミズーリ号艦上で降伏文書に署名はしたものの、占領下日本の管理は事実上、米国の単独統治の感があった。45年12月、米英ソ三国外相会議がモスクワで開かれ、米国独占を排除するためワシントンに極東諮問委員会の設置を決めた。その後、極東委員会(FEC)と改められ、拒否権がある米英ソ中4ヵ国のほか計11ヵ国で構成され、ワシントンに置かれた。FECとセットのかたちで東京に対日理事会が設けられた。第1回会議が(46年)2月26日ワシントンで開かれ、それに間に合わせようとしたのである。占領行政の主導権はFECに移ってしまい、下手をすればマ司令官の天皇温存策という目論見は、崩れてしまうのだ。

それに大事件が起きた。2月27日の『読売報知』に「皇族方は挙げて賛成 陛下に退位の御意思 摂政には高松宮を 宮廷の対立明るみへ」いうトップ記事が出たのである。筆者はAP通信のラッセル・ブラインズで、東久邇宮のインタビューをもとに書いたのだ。内容は、天皇自身は適当な時期に退位したい、理由は自分には道徳的、道義的な戦争責任があるからだ、というものだった。

皇族で首相を務めた人物が天皇の心情を公にしたことは、マッカーサーにとって大打撃だった。

3月5日、木下(道雄侍従次長)はマッカーサーが憲法案の作成を急がせるのは、「天皇退位の件」がもとだということを聞いた。(中略)

『芦田均日記』にも、「退位反対は幣原と宮相のみだとか(東久邇宮が)申されたことは、マッカーサーに一大打撃である、と総理は繰り返し言われた」とあり、米国側は11日迄は待てぬ、米国側の原案を採用するか、それでなければ天皇のpersonも保障できぬ、とまで言ったと、木下(『側近日誌』)と同じ内容の記述がある。

新聞の天皇退位説を読んで、天皇は自分の気持ちを3月6日、木下に語っている。

「それは退位した方が自分は楽になるであろう。今日の様な苦境を味わわぬですむであろう」が、退位して皇太子が即位すれば摂政がいる。秩父宮は病気、高松宮は開戦論者、三笠宮は若くて無理である。「東久邇さんはこんな事情を少しも考えぬのであろう」と宮の軽率な言動を非難した。

根拠のない退位説が広く知られれば、マ司令官の意図とは大きく違い、天皇制の否定につながる。第一、米国務省内にも天皇が退位すれば戦犯として逮捕するという意見もあったほどだ。FEC構成国11ヵ国の中には、拒否権があるソ連ばかりではなく、オーストラリアも天皇戦犯・廃止説を唱えており、ほかにもオランダなど同調する国が出るおそれがあった。だから一刻も早く憲法に明記して天皇制を安定させたかったのである。

憲法はポツダム宣言にある通り「自由に表明されたる国民の意思に基づ」いて作られた。天皇の軍事大権は廃され、政治的な活動・発言さえしない。戦前の姿から一変した天皇像を前文に続く第一章に書き込み、第二章では戦争放棄を謳っている。日本は軍備を放棄し、日本民族の象徴として"人間天皇"を戴いている。天皇を温存しても国際平和には何の差障りもないことを、マッカーサーは天皇戦犯説を採る国々に示すのが狙いだった。

2回目のFEC総会は3月6日だった。出来立ての日本国憲法を持って、ハッセーが特別軍用機でワシントンに飛んだ。各国代表から質問があれば、それに応対するのが彼の役目であった。(中略)マッカーサーは第一条と第九条をセットにして、中央突破を図ったのだ。だから絶対変更は許さないと言ったのである。こうした動きは東京裁判の開廷が近づき、天皇無罪論に備える“潔白の証明”づくりなどとも連動するものであった。

(高橋紘『昭和天皇 1945-1948』岩波現代文庫、2008年)