畑倉山の忘備録

日々気ままに

江戸無血開城

2018年10月22日 | 歴史・文化
3月15日の江戸総攻撃の中止をきめた直前の勝・西郷会談は、あまりにも有名である。けれどもこの時、西郷が徳川氏処分についての一定の妥協と攻撃中止にふみきった直接の契機に(イギリス公使)パークスからの圧力があったことは、あまり知られていない。3月13日、内戦を懸念して横浜にいたパークスは、西郷の使者にたいし、新政府は居留地の安全にもかかわる戦闘を準備しながら、外国に正式通告さえしていない無政府の国だときめつけた。また、ひとたび恭順し降伏した者を追討し処刑するのは、「万国公法ノ道理」に反すると警告した。西郷は、これが勝の入説の結果だろうとは承知しながらも、イギリスの駐留軍や外交的干渉の増大をおそれざるをえなかったのである。

しかも西郷は、帰京して協議をすませたうえ、徳川氏処分など江戸開城への新政府側の条件をもって帰任する途上、横浜でパークスと会見し、パークスに処分方針への同意をもとめている。これはまったく、内政問题にかんする外国側への"事前通告"と外国による"事前承認"にほかならないが、このような内政干渉がまかりとおったのである。ともあれ一方、イギリス側からみれば、この事態は、日本の上からの平和的、改良的な変革によるイギリスの影響力の増大という政策が、さらに一歩前進したことを意味していた。

(芝原拓自『世界史のなかの明治維新』岩波新書、1977年)