畑倉山の忘備録

日々気ままに

戦争とギャンブルは同じようなもの

2017年08月12日 | 歴史・文化
私は今でも「教育勅語」はそらで言えるし、そらで書けます。「教育勅語」だけでなく、1908(明治41)年に出た「戊申詔書」というのも、だいたいそらで覚えています。「戊申詔書」とは・・・・天皇の「教育勅語」に続く「天皇のおことば」ですね。もちろん、明治天皇ですよ。

私が小学1年に入った年の二学期の初めにこの「戊申詔書」が書かれて、いよいよ学校に来たのが10月。そして校長がそれを朗読ではなく、奉読といったんです、昔は。読み奉ると。生徒を全部講堂に集めて、校長がその「戊申詔書」を奉読して、「天皇陛下は、国民に勤倹節約をせよと仰せられている。国民はその誓旨(せいし)を奉戴(ほうたい)し、天皇の御心(みこころ)を捧持(ほうじ)奉って、倹約貯蓄に励まなければならない」と。その内容説明をしたんですね。

私、大和の田舎生まれですからその頃は農家のいちばん末っ子として、もう学校から帰ると農業を手伝ってました。だからそういう中で、それ以上どのように倹約できるのか、天皇はまちがっている、と思いました。(中略)

私、子ども心に天皇はまちがっていると思いましたね。なぜ、私たちにそれくらいの勤倹貯蓄を強(し)いなければいけなくなったのかというと、日露戦争の疲弊(ひへい)のためです。日露戦争は勝った、あのロシア大国を負かした、日本は大勝利だ、明治大帝の下に日本は世界的な強国になったんだ、と言ってるけれども、裏へまわれば、米英に20億の借金を背負ったんです。イギリスとアメリカから20億の借金をしなければ、日露戦争は到底勝ち目がなかったんです。戦(いくさ)に勝つか勝たないかは、結局、軍資金が続くか続かないかですからね。

日露戦争に勝つための20億の借金。その当時はまだ朝鮮は合併していませんでしたから、日本の人口は5,000万人といったんです。同胞すべて5,000万人。20億の借金を5,000万人の肩に割り振ってみると、赤ん坊にいたるまで、40円の借金になるわけです。だから、米英に向けて利子を付けてそれを返さなくちゃならない。また、戦死した家には補償しなければならない。日露戦争の後、どれだけ日本は疲弊したか、戦(いくさ)に勝ってもそれだけの借金が残る。それが戦争ですね。(中略)

戦争とギャンブルというのは、これはもう同じものですね。どこが同じか。何年間やってもそれは浪費であって、一本の大根も人参も生えてこないということです。生産に全然つながらない。戦争もギャンブルも全部が浪費であるということで、これは同じものなんです。

(住井すゑ「さよなら天皇制」かもがわブックレット23、かもがわ出版、1989年)

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(参考)日露戦争直前の国家予算は一般会計歳出合計が約2億7000万円(1901〜03年平均)。一方、日露戦争臨時軍事費は15億円余であった(石井寬治『日本経済史(第2版)』東京大学出版会、1991年)。

最後の陸軍大臣・阿南惟幾(5)

2017年08月12日 | 歴史・文化
竹下(正彦、陸軍中佐)の『機密作戦日誌』に書かれている天皇から阿南への国体護持の“確証”という言葉は、この(8月13日の)参内の時のものであろう。阿南が、陸軍としては国体護持に不安がある以上、このまま(ポツダム)宣言を受諾していいとは考えられません、と上奏したのに対し、「阿南、心配スルナ、朕(ちん)ニハ確証ガアル」と、かえって阿南を慰めるような言葉をかけたという。竹下はこれに続けて、「通常は“陸軍大臣”とお呼びになるのだが、“阿南”という姓を呼ばれるのは侍従武官時代のお親しい気持ちの表現だそうだ」と書いている。

天皇はその後も何度か「国体護持には“確証”がある」といったが、それはどのような情報に基づくものであったのか。戦後三十余年がすぎ、アメリカ側の資料も次々に公表されたが、天皇の“確証”と結びつくものはなかった。謎というほかない。しかし「天一」主人矢吹勇雄の次のような証言もあり、天皇と宮中は政府や軍部に負けないほど豊富な情報をもっていたという想像もできる。

「後藤隆之助さん(近衛文麿のブレーン)のお宅の地下室に秘密の短波受信装置があり」と矢吹は語る。「外国の情報を受信しているのを、私は知っていました。ある日、後藤さんのお宅で石渡宮内大臣に紹介されましたが、そのわけはあとでわかりました。後藤邸でとった情報を宮中へ届けるお使い役に、私が選ばれたのです。なにしろ天ぷら屋のおやじですから、自転車に天ぷらの材料を積んで行けばツーツーに通れました。宮中では黒の制服を着た宮内官に情報をお渡ししました。私の記憶では、ポツダム宣言が出た直後からのことでした」

世間話めくが、宮中にはこういう情報網もあった。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)


最後の陸軍大臣・阿南惟幾(4)

2017年08月12日 | 歴史・文化
応召中の作家司馬遼太郎はこのとき栃木県佐野にいた。東部軍の管内である。彼は『街道をゆく6』に、書いている——

「このころ、私には素人くさい疑問があった。私どもの連隊(戦車部隊)は、すでにのべたように東京の背後地の栃木県にいる。敵が関東地方の沿岸に上陸したときに出動することになっているのだが、そのときの交通整理はどうなるのだろうかということである。

敵の上陸に伴い、東京はじめ沿岸地方のひとびとが、おそらく家財道具を大八車に積んで関東の山地に逃げるために北上してくるだろう。当時の関東地方の道路というと東京都内をのぞけばほとんど非舗装で、二車線がせいいっぱいの路幅だった。その道路は、大八車で埋まるだろう。そこへ北から私どもの連隊が目的地に急行すべく驀進(ばくしん)してくれば、どうなるのか、ということだった。

そういう私の質問に対し、大本営から来た人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で——かれは温厚な表情の人で、決してサディストではなかったように思う——轢(ひ)っ殺してゆけ、といった。このときの私の驚きとおびえと絶望感とそれに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか」

軍人勅諭はじめ、軍人の任務を規定し、または教えたものの中に「国民を守る」という一項はなかったのか。「それを明記した箇所はありません」と林三郎(元陸軍大佐、阿南陸相秘書官)は答えた。あまりに当然のことなので、わざわざ書く必要もなかった——と解釈することは出来ない。現実に即して問いただせば、「轢(ひ)っ殺してゆけ」という以外の答えはなかったのだ。

だが、国民の生命を守る方策が講じられている面もなくはなかった。一例を挙げれば——陸軍軍医学校は空襲被害者対策として二つの救護班を編成した。第二救護班は皇居だけを担当し、一般国民とは無関係である。「皇居を除く都内全域」を担当する第一救護班は、軍医9人と看護婦11人の編成であった。昭和20年には民間医療機関の機能は麻痺状態におちいっていた。3月10日の東京空襲を例にとると罹災者は約百万人であったが、彼らの救護が僅か9人の軍医にゆだねられるという実状であった。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)


最後の陸軍大臣・阿南惟幾(3)

2017年08月12日 | 歴史・文化
7月初めのある暑い朝、陸軍の係官が迫水(久常、内閣)書記官長の許に、「いよいよ本土決戦の時が近づいた。ついては、国民義勇隊に使わせる兵器を別室に展示したので、閣議が終わったら、総理大臣はじめ全閣僚に見てもらいたい」と申し入れた。

国民義勇隊とは、敵が上陸した場合に、一般国民によって組織される戦闘隊のことで、軍の管轄下にはいることになっていた。去る6月の国会を通過した義勇兵役法によると、男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から40歳までが服役を義務づけられていた。

閣議が終わった後、兵器が展示してある部屋にはいった閣僚たちは唖然(あぜん)とした。そこには弓と矢、竹槍、江戸時代の火消しが使ったような鉄の棒などが並べられていた。銃もあるにはあったが、銃口から火薬を包んだ小さな袋を棒で押しこみ、そこへ鉄の丸棒を輪切りにした“タマ”を入れて発射するという原始的なシロモノであった。近代兵器の粋によって武装した米上陸軍を相手に、日本の民衆はこんなものを持たされて立ち向かうことを義務づけられていた。迫水は「私は狂気の沙汰だと思った」と書いている。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)


最後の陸軍大臣・阿南惟幾(2)

2017年08月12日 | 歴史・文化
4月9日——東郷(茂徳)が鈴木(貫太郎首相)から戦争終結実現への白紙委任状をとりつけて外相に就任した日——陸軍は本土決戦のための陸軍高級人事を発表した。前陸相杉山元元帥は第一総軍(東北、関東、東海、総司令部は東京市ヶ谷台)の司令官に、畑俊六元帥は第二総軍(近畿、中国、四国、九州、総司令部は広島)の司令官に、河辺正三(まさかず)大将は航空総軍司令官に、河辺虎四郎中将は参謀次長に、それぞれ任命された。参謀総長は昭和19年7月以来引き続き梅津美治郎大将である。

このとき軍務局長に就任した吉積(よしずみ)正雄中将は、参謀本部第一(作戦)部長である宮崎周一中将に、「勝利の目途如何(いかん)」と質問したところ、宮崎は「目途なし」と答えた。「然らば速やかに終戦に持っていくべきではないか」との質問に対して、宮崎は統帥部は継戦あるのみ、統帥部自ら戦争を放棄することは出来ない」と答えたという。

作戦の責任者である第一部長が「勝つ見込みは全くない」と言い切っているこのとき、国民は竹槍で敵と闘う訓練を強制されて、空襲の度に栄養失調の弱い足をひきずって逃げまどい、多くが無惨な死を遂げていた。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)


最後の陸軍大臣・阿南惟幾(1)

2017年08月12日 | 歴史・文化
昭和20年にはいって、日本本土に対する空襲は激化の一途をたどっていた。2月25日、東京は「気象台開設以来第二位に記録される30センチの積雪」という大雪のなかで、大空襲を受け、神田一帯は火の海となった。続いて3月10日零時過ぎからB29、334機(大本営発表130機)により、東京は夜間初の焼夷弾による大空襲を受け、約25万戸が焼失し、死傷2万、罹災者100余万という被害を受けた。

10日は陸軍記念日だった。陸軍当局は軍楽隊を繰り出し、煙と悪臭と焼死体が残る焼野原の大通りに、髪を焼かれ眉をこがした避難者やリヤカーが往(ゆ)きまどう中を縫って大行進を行った。どういう神経がさせた行為であったのか。

その後も12日名古屋、14日大阪、17日神戸と、息つくひまもなく大空襲は続く。米軍は占領したばかりの硫黄島を、B29を掩護する戦闘機や中型爆撃機の基地として、日本本土空襲の威力を一段と強めていた。

3月18日、天皇は東京の戦災地を巡視した。身一つに焼け出された住民は遠ざけられていたものの、一望の焼野原は、常に生命の危険にさらされている国民の絶望的な状態を如実に示していた。

(角田房子『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』ちくま文庫、2015年)




悠久の生命哲学

2017年08月11日 | 歴史・文化

沖縄の民話を読んでいて「オヤ?」と思うことがある。ただ食っては寝ている怠け者が、思わぬことから幸運を手に入れて安楽な生涯を過ごし、勤倹力行して労働に励んでいる者が思わぬ災害で大損をする、という小話が幾つも出てくるので、働くことが最上の美徳だとマジメに育ってきたわたしなどは、なにかバカにされたようで気に引っかかてしまうのである。

しかしよく考えてみると、長い年月の間、大自然の猛威に耐え、薩摩や大陸からの征服者に屈従を強いられながら生き抜いてきた沖縄人にとっては、真面目に働きさえすれば幸運が訪れるというのは、全くナンセンスな幻想でしかなかっただろう。

彼らはそうした現実に無理に逆らおうとはしない。力を持つ者には從っていればいい。金を持ってる者からは貰えばいい。だからといって、その権力者たちがどんなに威張ったところで、沖縄の土は自分たちのもので、この土の上に住む〈主人〉はオレたちなのさ——といった悠久の生命哲学のようなものがどっしりと根を下ろしているようである。

(笠原和夫『破滅の美学』ちくま文庫、2004年)

 


生死を睹けた対決

2017年08月11日 | 歴史・文化

人は交通事故などでは呆気なく昇天してしまうが、人の力で〈殺す〉となると、これは大変な仕事になる。日本刀で一刀で斃(たお)すというのは、据物でないかざり、どんな名人でも不可能に近い。

第一刀で刃こぼれが生ずるし、血の脂がついてしまうので、第二撃以後は斬ることも突くこと出来ない。斧のように叩きつけて使うしかない。

ピストルの場合も、やくざの話では、45口径以下ではー発で致命傷を与えるのは至難の業であるという。小口径のピストルは5メートル離れたら、めったなことでは当らない。それで乱射乱戟になってしまう。

〈殺人〉の現場が往々にして目をそむけるような凄惨な光景になるというのも、加害者の方が恐怖感に襲われて、盲目状態に陥ってしまうからである。人間の生命力というのは、それほど強靭なものだ。

生死を睹けた対決というのは、全生涯のエネルギーを数秒間で使い果たしてしまうほど、激しい気力を必要とする。

戦時中、大陸や南方を転戦した陸軍の中隊長だった人に聞いた話では、内地から補充できた新兵がはじめて鉄砲で敵兵を射ち斃すと、どういうわけか死体の側にあぐらをかいて、煙草を一服するものだ、と言う。ハンター気取りでポーズをとっているわけではない。生きていることと死んだことの画然とした認識が喪われてしまい、敵兵である死者に奇妙な愛着が生じて、離れ難くなってしまうためらしい。一種の酩酊状態で、それもやはり〈殺人〉という異常な行動が、どれほど人のエネルギーを奪うかのひとつの証左だろう。

(笠原和夫『破滅の美学』ちくま文庫、2004年)


海軍中将・大西滝治郎

2017年08月09日 | 歴史・文化

歴史上の人物を探してみても、悲劇的な末路を遂げた人物の多くは勝利を夢みつつ失敗してしまった連中ばかりで、たとえば西郷隆盛なども破滅を意識して鹿児島で挙兵したわけではない。こうして、厳密に選んでゆくと、「破滅の美学」にふさわしい事例はじつは皆無ではないかとさえ思われてしまうのだが、わたしの知る限り、たったひとり、そうとしか呼びようのない人物がいる。

過ぐる太平洋戦争末期に、悪名高き「特攻」(特別攻撃隊=人間爆弾)を発案し実行したといわれる、海軍中将・大西滝治郎その人である。

大西は、「特攻」は捷一号作戦のみに限る、と言明していたが、敗勢打開の妙策を持たない陸海の首脳は、大西の尻馬に乗って「特攻特攻」と念仏のように唱えつづけた。

結果、陸海併せて五千人もの若者たちが「特攻」死した。大西はそのすべての責任は自分にあると、自覚していた。その自覚はやがて「二千万人特攻」論に発展していった。

〈大西の思想〉を探るため、・・・・児玉誉士夫氏に取材を要請した。児玉氏は晩年の大西中将に形影相伴うごとく仕え、戦後には淑恵未亡人を自宅に引き取って世話を看つづけた人である。児玉氏は快諾して下さり、数時間にわたって終始謹厳誠実な口調で、大西中将の苦衷を語ってくれた。

「二千万人特攻論は当時でも狂気の沙汰と言われて、大西さんは戦後も狂信的な徹底抗戦派の首魁にされてしまったが、合理主義者の大西さんがそんなことを心底から考えるわけがない。だいいち二千万人もの人間を特攻にだすほどの飛行機も兵器も日本にはなかった。大西さんの直意は、天皇陛下(昭和天皇)に最前線に立って玉砕していただきたい、ということだったと思う。その際は大西さん自身はもちろん、海軍大臣も軍令部総長も首相以下の閣僚も、すべて陛下に供奉して死を倶(とも)にする。そうなってこそはじめて戦争に終止符を打ち、新生日本を誕生させることが出来る。皇統は皇太子(現天皇)がご健在だから心配ない。とにかくこの戦争に責任を持つ成人男子のすべてが死ななければ、民族の蘇生など出来ない、というのが大西さんの結論だった。二千万人特攻論はそのための名目だった。なん千人もの部下将兵を特攻に送り出した大西さんとしては、そう考えなくては居ても立ってもいられなかったのでしょう。」

上(かみ)御一人に御盾として身命を擲(なげう)つのが本分である軍人が、その至尊に「死」を慫慂(しょうよう)するのは大不忠である。末代まで辱(はじかし)めを受けても甘んじなければならない。それでもそれを主張しなければ、「天皇陛下」の御名のもとに「特攻」を命じた大西としては、軍人であるより以前に、男として、人間として、一歩も引けなかったのであろう。

自分の命はもちろんのこと、海軍も、国家も、天皇のお命までもすべてを賭けて、民族の再生という後世の「勝利」を掴もうとした大西の情念は、アナーキーといえるほど純化されたものであった。これを「破滅の美学」と言わずしてなんと呼べるだろうか。

しかし大西の主張は軍首脳にまったく黙殺され、生き残り得た天皇の御聖断によって一気に大戦の幕は閉ざされた。

敗戦の比の翌日、昭和20年8月16日、大西は渋谷区南平台の官邸二階の八畳間で、古式にのっとり、軍刀で腹十文字に掻き切り、咽喉と心臓部も刺して自刃した。だが絶命したのはそれから十数時間後であった。苦悶の息のうちで大西は駆けつけた児玉たちに、「生き残るようにはしてくれるな」と語気鋭く叱った、という。

(笠原和夫『破滅の美学』ちくま文庫、2004年)



「原爆投下は天佑だ」(2)

2017年08月08日 | 鬼塚英昭

原爆投下は完全に避けられた。少なくとも、ポツダム宣言が出たときに、天皇がマイクの前に立ち、国民に詫びの言葉を述べ、「わが身がどうなろうとも、この戦争を敗北と認め終戦としたい。ポツダム宣言を無条件で受け入れる」と言えばよかった。

どうして言えなかったのか。天皇と皇室と上流階級は、その甘い生活をやめられなかった。それで、スティムソン陸軍長官らの“影の政府”と交渉した。天皇制護持を条件に原爆投下を受け入れた。彼らの条件の最大のものは、天皇・皇室、上流階級および重臣たちが、原爆投下の非難の声をあげないこと、および日本国民をそのように誘導することであった。

数々の交渉がヨハンセン・ルートでなされた。天皇と重臣は第一の原爆投下の地を広島と決定した。たぶん米内光政のルートで、畑俊六第二総軍司令官のもとに依頼が入った。八月三日から、学徒、兵隊を入れた大動員がなされた。八月六日、第二総軍は壊滅した。

ここに、終戦反対を叫ぶ最も恐れた第二総軍は消えた。残すのは第一総軍(杉山元司令官)のみとなった。天皇と皇室と上流階級は偽装クーデターを起こし、第一総軍を中心とする反乱を未然に防いだ。かくて鶴の一声が全国津々浦々まで鳴り響き渡る時を迎えることができた。

原爆投下は、天皇・皇室・上流階級にとってまさに“天佑”そのものであった。

(鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』成甲書房、2007年)


「原爆投下は天佑だ」(1)

2017年08月08日 | 鬼塚英昭

八月六日に広島に原爆が落とされた(中略)。その八月六日必然説を追ってみよう。(中略)
纐纈厚の『日本海軍の終戦工作』からその糸口をさぐっていこうと思う。

「宮中グループが本音として終戦工作をどう捉えていたかを知るうえで、どうしても引用しなければならない証言がある。それは岡田や近衛と並び、終戦工作に深い関わりを持ち続けた米内光政の次の発言だ。

私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦が或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなくて収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。(「米内海相直話」昭和二〇年八月一二日)」

ここには、「聖断」による戦争終結を急いだ宮中グループや鈴木内閣の本音が語られている。しかも、東条内閣打倒工作から戦争終結のシナリオを設定し、リードしてきた海軍穏健派と目されてきた代表的人物の口から発せられた意味はきわめて重大だ。

私はクーデターを書いてきた。あの偽装クーデターは、天皇を中心とする権力機構を敗戦後も温存するために必要だった。ただ、天皇はその温存の方法が、確実に未来ヘとつながる方法が見つからず、終戦ヘの努力を無為にすごしていた。そこで大きな外圧を受けて、その外圧を利用して国内の終戦工作を有利にしようとした。そこで最大限に利用されたのが原子爆弾であった。米内光政海相はそれを天佑だと言うのである。原子爆弾が数多くの人々を一瞬のうちに殺してしまったことを!

(鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』成甲書房、2007年)


君は天皇を見たか(4・完)

2017年08月06日 | 鬼塚英昭

昭和天皇とその一族、そして天皇に仕えた高級官僚や軍人たちは、原爆の被害の実態をマッカーサーにさえ知らせようとはしなかった。

ジュノーはスイスの赤十字国際委員会に電報を打ち、原爆患者を救うべく、医薬品を大量に送らせる準備をした。しかし、広島と長崎に医薬品が送られることはなかった。ジュノーの闘いは突然に終わりを告げた。日本赤十字社(日赤。当時の総裁は高松宮)がジュノーの申し出を拒否したからである。日本赤十字社の言い分は「医薬品は必要ありません」という簡単な理由によった。

奇跡的に生き残った原爆被爆者たちは、天皇一族により殺されていったのだ。私はそう思う。これが日本国家の偽らざる姿なのだ。

A級戦犯のある者は死刑となり、ある者は釈放された。彼らは全てCIAの要員となった。「ポドム」のコードネームは正力松太郎だが、他の連中にもコードネームが付いているはずである。ある者は朝鮮戦争のための物資調達係となり、ある者は政治家となり、多額の金をCIAから与えられ続けた。「ポドム」はマスコミの世界でアメリカのために働いた。

ジュノーは天皇に裏切られ、帰国を前にマッカーサーから声がかかった。ジュノーはマッカーサーの言葉を書き残している。

「現在の武器と、開発中の武器とで、新たな戦争が起これば、価値あるものは何一つ残らないだろう」

マッカーサーも軍人である。世界の権力を握る一部の人々には逆らえなかったのである。

マッカーサーがジュノーに「開発中の武器」と言ったとき、まだ原子力発電所は存在していなかった。第ニ次世界大戦後に発明された武器で最も大きな恐怖を生み出したものは、間違いなく、平和目的のために造られた核燃料発電所である。私たちは原子力発電所という言葉をそろそろ捨てたほうがいい。

講和条約が締結され、日本が独立した後も広島の原爆患者はABCCで採血され続けたのである。厚生省が協力し続けたのだ。

原爆写真家・福島菊次郎が、私をジュノーに会わせてくれたのであった。

私がこの項のタイトルにつけた「君は天皇を見たか」は、実は児玉隆也の『君は天皇を見たか』(1975年)からの借用である。児玉隆也は、赤提灯の「六歌仙」というー杯飲み屋に行き、その店を経営する原爆被爆者、高橋広子さんにインタビューしている。長い文章だから、ほんの終わりのところのみ記すことにする。昭和天皇の広島巡幸の場面である。

「あの人(昭和天皇)は、帝王学かなんかしらんが、自分の意思をいわん人やと聞いた。あの人に罪はない、原爆病院行くかわりに、自動車会社ヘ行かせた県や宮内庁の役人が悪いという人もいる。それならば、なぜ、戦争やめさせたのはあの人の意思やという “歴史” があるのですか。「神やない、おれは人間や」というたのですか。美談だけが残って、なぜ責任は消えるのですか。

うちゃあ情のうて、へも候(そうろう)や。」

日本の現代史はー杯飲み屋の女将さんの疑問に答える力を持たない。半藤一利、奏郁彦を頂点とする現代史家はこの女性の問いに答える力量を持っていない。あえて実名を書いて彼らに挑戦する。

私は『原爆の秘密(国内篇)』を書いているとき、一つの疑問を持つにいたった。取材も最後になっていた。長崎の原爆資料館でたくさんの本や資料を読んだが謎は解けなかった。長崎で原爆の本を書いている人に会い質問したが無駄だった。その日がいつだったのかは思い出せないが、ある晩、一人の少女が寝ている私に声をかけた。

「おいちゃん、あのね、あのね、アメリカの兵隊さんをね、私がね、原爆が落ちるから危ないからね、安全なところヘ連れていったの」

「どこへなの」

「裏山なの、友達みんなとー緒に連れていったの」

いまだに、そしておそらく生涯、この少女の顔も声も忘れることは断じてない。

私の謎が解けたー瞬だった。

その謎とはこうだ。原爆が8月6日の広島に、次いで8月9日には、長崎の三菱の巨大な兵器製造工場の真上で炸裂した。多くのオランダ兵、イギリス兵らの捕虜たちが収容所にいて死んでいった。アメリカ兵もたくさんいて、前日までは同じ工場で働いていた。しかし、アメリ力兵はー人も死ななかった。この謎を私は解こうとしていた。彼らは間違いなく、原爆投下を前にして、おそらく日本の軍艦で安全な場所に連れていかれたのだと知った。その場所を探すべく再び長崎ヘと旅立った。これが戦争なのだ。

私は原爆について、尻切れトンボのようだがこれ以上は書かない。突然、昭和天皇のことを書く気がしなくなった。私は天皇が原子炉の中を覗く場面を読みつつ、あの原爆少女の顔と声を突然思い出した。少女よ、君だったのか、天皇の手をひいて原子炉を覗かせたのは。

君は天皇を見たか?

(鬼塚英昭『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』成甲書房、2011年)


君は天皇を見たか(3)

2017年08月06日 | 鬼塚英昭
私は『ヒロシマの嘘』を読み、福島菊次郎という原爆写真家に会い、大いなる疑問が私の胸の中に浮かぶのを抑えることができなかったのである。「国家は戦争でボロ布のように国民を使い捨て、奇跡的に生き残った国民の命さえ守ってくれなかった……」

私は何かに憑(つ)かれたように、幾度も広島の街の中をうろついた。もちろん、原爆の痕跡をとどめるものはない。広島市内の古書店で、たくさんの関連書を買い込んだ。そして、広島の図書館にも行ってたくさんの本を読み、重要と思える本のコピーを取った。その過程で、私はドクター・ジュノーに偶然にもめぐり合うのである。

私は本だけでなく、いろんな雑誌にも注目していた。あるとき、中島竜美の雑誌論文「<ヒロシマ>その翳りは深く、被爆国の責任の原点を衝く」(1985年)に偶然巡り合い、初めてドクター・ジュノーを知ったのである。

マルセル・ジュノー(1904-1961)は赤十字国際委員会・駐日主席代表として、1945年8月19日に日本に着いた。戦火の旧満州・新京(現在の長春)から日本軍機で羽田に着いた。日本にいる捕虜の身体保全と傷病兵の救護が目的だった。ジュノーは米軍による原爆投下については何も知らなかった。この日本の東京で、ジュノーは原爆を知って驚くのである。

私は中島竜美を通してジュノーを知り、彼の著書『ドクター・ジュノーの戦い』(1981年。スイスでの原書出版は1947年)を読んだ。ジュノーは「日本も他の理由から、彼らに敗北をもたらした大破壊については、全く沈黙を守っていた。東京の新聞は、人々を降伏に備えさせる為、数日間原爆の破壊について大きく報道していたが、それが一切禁止された後では、大破局の実際の規模についての正確な報告は全くなされていなかった」と書いている。

ジュノーは広島の惨状を知るべく外務省を訪れるが、外務省はジュノーに原爆の情報を何ら伝えなかった。広島の惨状をジュノーに伝えたのは一人の日本の警官であった。9月2日、ジュノーは数枚の写真と、東京の検閲査証が押されていない電報の写しを与えられる。「……恐るべき惨状……町の90%壊滅……全病院は倒壊又は大損害……」

ジュノーはこの電文を携えて、マッカーサーが執務室を設けていた横浜商工会議所に出向くのである。4人の将官たちが彼と協議した。「この電報をお借りします。マッカーサー将軍に見せます」と約束した。マッカーサーはジュノーに15トンの医薬品と医療機材を提供し、その管理と責任をジュノーの赤十字に一任した。日本の天皇は、広島と長崎の惨状をマッカーサーにさえ隠そうとしていたのである。

ジュノーは9月8日、2人の将軍、物理学者モリソンと一緒に、広島から25キロ離れた岩国飛行場に着陸した。他の5機も近くに着陸した。15トンの医療品と共に。ここでジュノーは広島の医師・本橋博士と東大の外科医・都築正男と一緒に広島に入る。ドクター・ジュノーは次のように書いている。

「都築教授は、きらきらと光る眼をした熱血漢であった。彼は英語を話し、彼の考えはしばしば短い激烈とも言える言葉で表現され、それに身振りが加わって強調された。

『広島……ひどいもんだ……私にはわかっていた。22年も前に……』」

『ドクター・ジュノーの戦い』の「訳者あとがき」に、都築正男教授についての説明が付されている。

「原爆投下の22年も前に行われた都築正男博士のウサギを用いた先駆的実験が、学問的にはデトロイトで学会報告がなされていたにも拘わらず、国家権力によっては、その学問的成果が人道的にまったく生かされえなかった事実を、今日の国家の指導者も強く反省すべきである。この都築博士の実験報告こそは、アメリカの原爆投下が国際法違反であるという立場に、十分な論拠を与えるものである。」

核物質の危険性は既に知られていた。都築正男がその先駆者であった。だが、原爆は秘密裡に造られたのである。前述したヴィクター・ロスチャイルドの強制力が、チャーチル首相、ルーズヴェルト大統領を動かして。マンハッタン計画を知っていたのは、アメリカでは、ルーズヴェルト大統領、スティムソン陸軍長官、グローブス将軍、モーゲンソー財務長官と、物理学者たちであった。

トルーマン副大統領も、ウィリアム・リーヒ提督、マッカーサー、アイゼンハワーらの司令官も全く知らされていなかった。マンハッタン計画に従事した数万の人々も、自分達が何を造っているのかを知らされていなかった。このマンハッタン計画とその後の原爆実験で、アメリカでは広島・長崎を遥かに上回る数の人々が被曝して、今も苦しんでいるのである。

(鬼塚英昭『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』成甲書房、2011年)


君は天皇を見たか(2)

2017年08月06日 | 鬼塚英昭
私は2008年に、『原爆の秘密(国外篇・国内篇)』を世に問うた。取材中のあるとき、報道写真家・福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』(2003年)を読んだ。2007年秋、私は彼に会った。このことは「国内篇」の中で詳しく書いた。もうこれきりで帰ろうとしたときであった。福島菊次郎が突然叫ぶように言った。今も忘れることができないほどに私の胸をえぐったのである。

「君、スリーマイル島原発事故のことを知っているか」

私が会った時、福島は86歳。しかもガンの手術を3回もして痩せ細っていた。私はあのとき、原爆を書くことに熱中していたが、そこまでは頭が回らなかった。彼は突然に喋りだした。私は取材ノートに記録した。ABCC(原爆傷害調査委員会)のことについても知らなかった。彼は次のように語ったのである。このことは『原爆の秘密 (国内篇)』の中で書いたので引用する。

「君、あのとき(1979年のスリーマイル島原発事故)、アメリカ政府が放射能予防薬5万人分を急遽現地に急送した、という臨時ニュースが流れた。俺はそのニュースを聞いてピンと来たんだ。広島・長崎で10万人のモルモットから抽出した放射能障害の予防薬と分かったんだ。

俺は厚生省の役人に言ったんだ。「至急米国政府と交渉しろ。予防薬をとりよせろ」と。そいつは何と言ったと思うか。「国立予防医学研究所だ」というんだ。

俺はな、核禁団体、被爆者団体、そしてマスコミまで回って説いたんだ。

「てめえら命がおしくねえのか」と怒鳴ったんだ。

いいか、君、ABCCで抽出された薬はガンや発育障害を予防する薬として広くアメリカで売られているんだ。チェルノブイリ原発事故のときにも使われたんだ……。」

ABCC(原爆障害調査委員会) については、週刊朝日編集部編『1945-1971 アメリカとの26年』(1971年)に詳しく書かれている。要約する。

太平洋米軍総司令部の軍医などの主張によって、終戦後アメリカはいち早く広島に学術調査団を送り込んだ。この調査団が広島と長崎に研究所を設立した。厚生省の国立予防研究所が協力してできたのがABCC。1971年時点でもABCCは継続されている。

原爆患者の治療をしたのではない。患者の血を抜いたのである。その血をアメリカ人は結晶化し、薬に仕立てたというわけである。吉川清は『「原爆一号」といわれて』(1981年)の中で「治療は一切しないばかりでなく、検査の結果も何一つ知らせなかった。それではモルモットではないか、というのでした」と書いている。

被爆者が死んだときにはABCCは必ずやってきた。遺体を解剖させてくれというわけだ。1951年になると、ABCCは規模を拡大し、設備を充実して広島郊外の比治山(ひじやま)の上に幾棟かのかまぼこ型の施設を作って移転した。

広島に住む詩人・深川宗俊の主張を聞こう。

「占領軍が駐留していた頃は被爆者をもてあそんでいたくせに、今になって手のひらを返したように『世界人類のため』などとゴタクを並べて協力を要請する。そもそも原爆を落とした国が被害を受けた国に乗り込んで調査研究をやるというのは、人道上許せないことではないでしょうか」

このABCCを告発し続けたのが、私が前述した福島菊次郎だった。『ヒロシマの嘘』の中で彼は次のように書いている。

「政府は原子爆弾の被害に驚き、被爆直後に広島・長崎両市に『臨時戦災援助法』を適用した。しかし現地の惨状を無視して、わずか3カ月後の11月には同法を解除して30万被爆者を焦土のなかに野晒しにした。国家は戦争でボロ布のように国民を使い捨て、奇跡的に生き残った国民の命さえ守ってはくれなかった」

私はこの文章を読み返し、今、昭和天皇のことをいろいろと考えている。昭和天皇が「……天皇はご自分で原子炉の周りにあった柵を取り払って中に入り、階段を登って、原子炉の炉心部を、直接、ご覧になったんです……」

そうか、天皇も放射能を直接浴びたのか、それも自らの意思なのか……。

(鬼塚英昭『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』成甲書房、2011年)


君は天皇を見たか(1)

2017年08月06日 | 鬼塚英昭

1959年5月5日、東京・晴海で「第3回東京国際見本市」が開かれた。以下、この記述は佐野眞一の『巨怪伝』をもとに書くことにする。この見本市の目玉商品は、アメリカ出展の原子力特設館にしつらえた実働原子炉だった。

「出力0.1ワットと超小型ながら、昭和32年8月27日、茨城県東海村で我が国初の臨界に達したJRR-Ⅰ 原子炉に次いで、臨界を記録したこの原子炉が歴史の闇の中に沈み込んでしまったのは、多分、会期中の18日間しか稼動しなかったためだろう」

「原子力平和利用の世論づくりは、旧内務省の出先機関とも言える東京都の中で開花し、同時に、“天覧” 原子炉という、正力にとって願ってもないシーンを手繰り寄せる推進力となった」

和製原発マフィア第1号、正力松太郎は内務省出身だった。正力はやはり内務省出身者の、当時、東京都経済局長だった江藤彦武を使い、「都立アイソトープ総合研究所」をつくらせた。

原発マフィア第1号は選挙演説中にいつも、「恐るべき原子力のエネルギーも農業、工業などに利用すればこれ程役立つものはなく、肺結核、ガンの治療も可能である」と原子力の平和利用を説いたのだ。しかし、正力は原子力委員会の席上で、或る委員の「核エネルギー」についての質問に、「ガイエネルギーは……」と答えたような男である。原子力は読めたが、「核」を「カク」と読めなかった男なのだった。

昭和天皇に話を戻そう。『巨怪伝』から引用する。

「昭和天皇が晴海の会場に姿を見せたのは、5月12日午前9時40分だった。工作機械などを展示した1号館、2号館、玩具、皮革製品などを展示した3号館を視察した後、天皇はドイツ特設館、チェコスロバキア特設館、ゴム工業特設館、プラスチック工業特設館、アメリカ商工特設館、そして原子力特設館を見て回り、皇居に帰着したのは予定より17分遅れの12時30分だった。」

「17分遅れ」たのは、昭和天皇がわざわざ、原子炉の中をしばし覗いていたからである。

天皇の後ろに田中角栄が写っている写真があったと、『巨怪伝』は書いている。田中角栄は1957年に成立した第1次岸信介内閣で、39歳の若さで郵政大臣に就任していた。天皇の説明役は元・近畿大学教授兼理工学部研究所所長・三木良太。彼の証言を『巨怪伝』に見ようではないか。私も諸君も昭和天皇を知るために。

「天皇と私の距離は2メートルくらいでした。最初、天皇は原子炉の内部を覗き込む予定はなかったんです。それで原子炉の上に、幅2メートル、高さ1.5メートルくらいの大きな鏡を45度くらいの角度に立て掛けて、下からでも見えるように工夫をしておいた。ところが、天皇はご自分で原子炉の周りにあった柵を取り払って中に入り、階段を登って、原子炉の炉心部を、直接、ご覧になったんです。

原子炉タンクの天井にはフタがあり、フタを取ると中が見える。無論、運転するときはフタをしめます。陛下がおいでになったときは、ちょうど運転休止中で、フタの開いている状態でした。」

天皇が覗いた原子炉はアメリカン・スタンダード社製であった。会期中はアルミの1円玉を放射能化して、それにガイガーカウンターを近づけて放射能を測定するなどのデモンストレーションをしていたのだ。前述したように出力0.1ワットとはいえ、臨界に達していた原子炉の真上から天皇はその中を見たのである。

昭和天皇を崇拝してやまぬ人々には誠に申し訳ないが、原爆で被爆した幾万の人々が天皇を誘導したと私は思いたい。この世の向こうに死霊の住む世界があろうとも、無かろうとも、私はそのように考えたい。

(鬼塚英昭『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』成甲書房、2011年)