畑倉山の忘備録

日々気ままに

八百長だったミサイル実験

2017年04月30日 | 国際情勢

レーガンの「戦略防衛構想」が全面的に推進されるようになるのは85年になってのことだが、そのなかのいくつかの重要なプロジェクトについては、それより前から予算が追加されはじめ、まるでSFに出てくるような数々の兵器の開発に予算が与えられた。たとえば、飛来するICBMを撃ち落とすために宇宙空間に強力なレーザー光線兵器を配備する計画や、迎撃ミサイルが傘のような網を広げて、敵の弾道ミサイルを撃破するなどのアイデアだ。

そして、この“傘を広げる”迎撃ミサイルの開発を受け持ったのがロッキードだった。それが「誘導被覆実験」(HOE)と呼ばれるものだ。その概念そのものは、70年代のカーター政権時代からあったが、レーガンの“スターウォーズ計画”演説が行なわれた直後から急にはずみがついて予算がつき、1983年から84年にかけて優先的に研究開発が進められた。そしてその後、「戦略防衛構想」のプログラムの多くが実現性が乏しいことがわかって破棄されたあとも、HOEはミサイル防衛計画に予算を注ぎ込みつづける中心的な役割を果たした。

その大きな理由は、この迎撃ミサイルが標的の模擬弾頭の撃破に成功したからだ。

誘導被覆実験は、1983年に行なわれた実験が3回とも失敗し、実現可能性が疑われはじめた84年6月10日に初めて成功した。今日に至るまで、ロッキード・マーティンはこのときの成功を誇らしげに自慢している。たとえば2009年のパリ航空ショーでは「世界初の、弾頭をつけない迎撃ミサイルの直撃による、弾道ミサイル迎撃の成功25周年記念」と謳(うた)っている。

だがその主張には一つだけ問題があった。そのテストは八百長だったのだ。残念ながらそのいかさまは、会計監査院が10年後に突き止めるまでわからなかった。調査報告によれば、そのときのテストは、迎撃ミサイルが命中しやすいように標的に仕掛けがしてあったのだという。

当時のミサイル防衛計画にかかわっていた関係者の最初の証言によると、そのときのテストで標的に使われた模擬弾頭は、迎撃ミサイルが標的の位置をつかみやすくするために信号を発信していたという。だが、会計監査院が突き止めた事実はそれだけではなかった。調査報告には、「実験が失敗して予算を失うことを防ぐため、迎撃ミサイルのセンサーが標的を捉えやすくするように複数の手段が講じられていた」と書かれている。

その手段の一つは、標的の模擬弾頭を加熱する装置が付いていたことだ。超低温の宇宙空間をバックに横切る標的が熱を発していれば、迎撃ミサイルが標的の位置をつかみやすくなる(赤外線を追尾しやすくなる)。

この仕掛けの効果は、迎撃側のセンサーに標的が実際の2倍以上の大きさに映るのと同じほどあったという。その調査を要請した民主党の上院議員は「これを“効果を高める方法”と呼ぼうが“いかさま”と呼ぼうが、こんなことが行なわれていたことを、10年もの時が過ぎて350億ドルのカネが費やされるまで議会にわからなかったとは、とんでもない話だ」と激怒した。だが、その八百長のために陸軍に協力したロッキードは、追加の数十億ドルを手中に収めた。もしHOE実験が“成功”していなければ、そのカネはおそらく支払われなかっただろう。

だが信じられないことに、実はこれでもまだましだったのだ。ペンタゴンと陸軍はもっとひどいいかさまを考えていた。標的の模擬弾頭に爆発物を仕掛けておき、迎撃ミサイルが命中しなくてもそれを爆発させて命中したように見せかけようという計画があったというのだ。だが会計監査院の報告によれば、最初の3回の実験がニアミスすらしない大はずれの失敗に終わったため、その計画は実行されなかったという。

(ウィリアム・D. ハートゥング 『ロッキード・マーティン 巨大軍需企業の内幕』(玉置悟訳)草思社、2012年)


天皇と皇太子の問答

2017年04月30日 | 天皇

皇太子(明仁)の吹上訪問は、毎週日曜日ということになった。ただし、小金井に学習院が移って、東宮仮御所がそこに完成した後は、1カ月にー度ぐらいとしたい、という条件がついた。

吹上訪問は、限られた時間内ではあったが、親子の気持が相通じるものだったろう。『側近日誌』(昭和20年)11月26日には、天皇(裕仁)と皇太子のこんな問答が残されている。

皇太子「共産党は取締りを要せずや」
天皇「以前は治安維持法等によりて取締りたるが、これは却って彼等を英雄化する事になる。取締らずとも有力化する虞れなし」
皇太子「警察官は随分悪いものが多きにあらずや」
天皇「中には悪い者もあろうが、一概にそー云う訳には行かぬ」
皇太子「共産党が議会にて有力化するにあらずや」
天皇「新聞には色々書くも、有力団体となるとは思わず」

10月4日、GHQは「一切の政治犯の釈放、特高警察の廃止、思想取締及び政治犯に関するー切の法令の撤廃」を指令した。これに沿って日本共産党幹部16人が、10日釈放された。雨上がりの東京・府中刑務所前には、幹部の釈放を歓迎しようと、多くの家族や同志、報道陣が詰めかけていた。

午前10時、"獄中十八年"の徳田球一、志賀義雄らが刑務所の門から出て来た。午後、直ちに東京・新橋の飛行館で開かれた「自由戦士出獄歓迎大会」に出席、運動に倒れた同志の思い出に涙を流しはしたが、今や共産主義の時代が来ると絶叫し、天皇制打倒を訴えた。

1922年の結党以来、「君主制の廃止」を網領に掲げてきた共産党は、長い非合法時代をくぐって、初めて公然と天皇制糾弾の声を挙げることができた。その後押しをしてくれたのがGHQであった。歓迎大会の後デモ行進に移ったが、お濠端のGHQ前まで来ると、「マッカーサー元帥万歳」を叫んだ。

労働争議が多発し、赤旗とムシロ旗が各地で林立した。共産党指導のデモには、必ず「天皇制打倒」の文字があった。六年生の皇太子も、共産党に関心を持つのは当然であった。

(木下道雄(著) 高橋紘(編)『側近日誌 侍従次長が見た敗戦直後の天皇』中公文庫、2017年) 


終戦当時11歳だった東宮の御日誌文

2017年04月30日 | 天皇

八月十五日

新日本の建設

昭和二十年八月十五日、この日、我が国三千年の歴史上始めての事が起りました。そしてこの日が日本人に永久に忘れられない日となりました。おそれ多くも天皇陛下が玉音で英米支蘇四ヶ国の宣言を御受諾になるといふ詔書を御放送なさいました。私はそれを伺つて非常に残念に思ひました。無条件降服といふ国民の恥を、陛下御自身で御引受けになつて御放送になつた事は誠におそれ多い事でありました。

今度の戦で我が忠勇な陸海軍が陸に海に空に勇戦奮闘し、殊に特攻隊は命を投げ出して陛下の御為笑つて死んで行きました。又国民も度々の空襲で家を焼かれ、妻子を失つても歯をくいしばつてがんばりました。このやうに国民が忠義を尽してー生懸命に戦つたことは感心なことでした。けれとも戦は負けました。それは英米の物量が我が国に比ベ物にならない程多く、アメリカの戦争ぶりが非常に上手だつたからです。初めの内は準備が出来なかつたので敗戦しましたが、いざ準備が出来上ると猪武者のやうな勢で攻めて来ました。その攻め方も上手でなかなか科学的でした。数百隻の軍艦、数千機の飛行機、数万噸の爆弾を以つて攻めて来ました。遂には原子爆弾を使つて何十万という日本人を殺傷し、町や工場を破壊しました。それで我が海軍はほとんどなくなり、飛行機を作るアルミニュームの製産も十八年頃に比ヘて四分の一にヘつて大事な飛行機が作れなくなり、遂に戦争が出来なくなりました。その原因は日本の国力がおとつてゐたためと、科学の力が及ばなかつたためです。それに日本人が大正から昭和の初めにかけて国の為よりも私事を思つて自分勝手をしたために今度のやうな国家総力戦に勝つことが出来なかつたのです。

今は日本のどん底です。それに敵がどんなことを言つて来るかわかりません。これからは苦しい事つらい事がどの位あるかわかりません。どんなに苦しくなつてもこのどん底からはい上がらなければなりません。それには日本人が国体護持の精神を堅く守つてー致して働かなければなりません。日本人一人とアメリカ人一人を比べれば、どんな点でも日本人の方がすぐれてゐます。唯団体になると劣るのです。そこでこれからは団体訓練をし科学を盛んにして、一生懸命に国民全体が今よりも立派な新日本を建設しなければなりません。殊に国が狭まくなつたので、これからは農業をー層盛んにしなければなりません、それが私達小国民の役目です。

今までは、勝ち抜くための勉強、運動をして来ましたが、今度からは皇后陛下の御歌のやうに、つぎの世を背負つて新日本建設に進まなければなりません。それも皆私の双肩にかかつてゐるのです。それには先生方、傳育官のいふ事をよく聞いて実行し、どんな苦しさにもたヘしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、もつともつとしつかりして明治天皇のやうに皆から仰がれるやうになつて、日本を導いて行かなければならないと思ひます。

(木下道雄(著) 高橋紘(編)『側近日誌 侍従次長が見た敗戦直後の天皇』中公文庫、2017年)