畑倉山の忘備録

日々気ままに

日本の政商(3)

2018年05月13日 | 歴史・文化
海運における三菱にたいする政府の保護は、古今無類であった。旧土佐藩士岩崎弥太郎は、廃藩のさい後藤象二郎とくんで、土佐藩の債権・債務ともすべて岩崎がひきうけると称して、本来なら国有とされるべき土佐藩所有汽船を岩崎のものとし、三菱会社という海運会社をおこした。

明治7年、佐賀で江藤新平が叛乱したとき、三菱は政府の軍事輸送をひきうけた。このときから岩崎弥太郎は政府首脳とくに大久保利通・大隈重信と深くむすびつき、日本近海航路を独占して、三井が政府の保護をうけてつくっていた郵便蒸気船会社を倒した。

同年、政府が台湾に遠征したとき、政府はその軍事輸送のため13隻の新鋭大型汽船を買い入れ、それを三菱にあずけて輸送に当たらせた。戦後もひきつづきその汽船を政府は無料で三菱に貸し、そのうえさまざまの名目で巨額の補助金をあたえ、三菱をしてイギリスのP・O汽船会社と競争して、これに勝たせた。

この海運保護政策は、経済貿易の必要からなされたものではなかった。政府は台湾遠征にあたり、軍事輸送はアメリカ公使のあっせんで、アメリカ汽船をあてにしていたが、開戦まぎわにアメリカが中立をとなえて汽船を貸すのをことわったので、政府は大商船隊を日本自身でもつ必要性を痛感した。そして戦時動員の便宜を考えると、その商船隊を有力有能な一会社にまかせるほうが有利としたのである。このことは、軍事目的の産業育成と特権資本家の育成とは不可分なことを、典型的に示している。

(井上清『明治維新 日本の歴史20』中公文庫、1974年)