畑倉山の忘備録

日々気ままに

西郷・パークス会談

2018年04月06日 | 歴史・文化
その後18日から20日まで、ぎっしりつまったプログラムのもとに薩英の交歓はつづいた。しかしこの盛大な交歓の舞台裏で、西郷とパークスとの間に行なわれたプリンセス=ロイヤル号上での18日の会談はきわめて注目すべきものがあった。この会談には、重大な使命をはたして帰国したばかりの松木弘安も列席した。

まず西郷は、「兵庫の開港は、上は天子より下は万民までをあざむいて外国と協定したので、世界一般に通用する取極といいがたい」と幕府を責めたが、これにたいしパークスは、「日本国内の紛争は決して外国人の干渉すベきことではない、もちろん勅許ということも望んでいない」などと主張した。西郷によると、パークスには、「余程幕臭これあり」とみられ、交渉決裂の形勢にもなろうとしたという。これは、松木提案にもみられるような薩摩藩のパークスにたいする過大な期待とパークスの「中立」政策のずれを端的に示すものであった。そこで西郷が一歩引き下って日本の情勢をくわしく説明し、大いに幕府の失体を説くようになってから、会談は執道に乗ってきた。

それから話題は、昨年パークスら四国代表が兵庫沖ヘ渡来したときのことに転じた。パークスは、そのとき薩摩藩が勅使を外国代表のもとに差向けようとした目的をたずねた。西郷は、薩摩藩士が勅使に随行して外国船に乗りこみ、外国側から回答の期日を延期させておいて、その間に諸大名を京都ヘ集会させ、条約勅許や兵庫開港などの外交問題を幕府の手から切り離し、朝廷の処置にふりかえようとたくらんでいた、と答えた。

つづいてパークスはこの薩摩藩の企図が失敗した理由をきいた。西郷は「幕府の猛烈な反対で、ついに勅使派遣も取止めとなり、見込がすっかりはずれてしまって、まことに残念なことでした」といった。パークスは、「いやはや何とも残念な次第です」と応じつつも、かねて公家が世界の大勢に暗いのをよく知っていたので外交問題が朝廷の処置となったさい、幕吏の代わりに公家衆の談判となってはかなわぬと思い、実際の処置を西郷に問いただした。

西郷「そのときは朝廷から五、六藩の大名が委任されて、処置を引き受け、兵庫港の関税を朝廷におさめ、公正な条約をもうー度結ぶことにするのです。そうしますと、ただいまのような幕吏の腐敗した不公正な処置とは大きに違い、外国にも都合がよくなりましょうし、日本もいよいよこれから開けるというものです」

パークス「まことにごもっともなご議論です。しかし右のようなことを外国人から言い出すと、日本人も不満をもつようになり、大いに不都合なことになりましょう。そこでいずれそのへんのことは、急に手をつけてはよくありませんので、よくよく機会を見計らってご尽力になっていただきたいと思います。それから関税の三分のーだけ、ぜひ天皇におさめられるよう、たびたびこちらから幕府ヘ申立てておきました。そうでなくては、天皇を日本の君主ということはできないわけです。現在、日本では、ミカド・タイクンと二人の君主があるような姿ですが、外国には決してないことです。いずれは、日本も国王ただ一人とならなくてはすまないことと思います」

西郷の意見は、初対面のさい、勝から提示された「賢侯」四、五人の会合の線である。これにたいしてパークスは、慎重に内政干渉の非難を受けるようなことを避けつつ、王政復古の必要を示唆した。いまやかえって西郷が守勢に立たされた。

「何とも外国人にたいして面目もないことです。さて日本と条約を結んでいる諸国は、諸藩と勝手に交際できるよう、幕府に要求していただきたい。すると幕府も、大いにこまることでしょうし、また幕府のいつわりも行なわれぬようになり、おのずと幕府の不条理なことが外国人にわかりましょう」

西郷との会談におけるパークスの言動は、彼が出発直前に受取った訓令(ハモンド書簡)の線の忠実な実践であった。つまり、日本の国内問題ヘの発言は「示唆」にとどめ、日本における改革は日本人のみから出るようにみさせるよう、つとめて留意したのである。

パークスー行は、滞在一週間で、また長崎に向けて出帆した。パークスが別れを告げると、久光は固くパークスの手をとって別離を惜しみ、航路の安全を祈り、再会を期した。薩摩藩は、パークスー行の接待費に二万両または三万両をついやしたといわれるほどの大歓待ぶりであったという。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)