畑倉山の忘備録

日々気ままに

日本国憲法の成立過程

2016年05月09日 | 国内政治

日本国憲法は、一時的に誕生したものではなかった。日付の順序にしたがって、敗戦の年、四五年におけるいくつかの大きなグループの動きを追うと、次のようになる。

まず初めに声をあげたのは文化人グループであった。敗戦翌月の九月二十七日、辰野隆・正宗白鳥・山田耕筰・山本実彦・村岡花子たちが日本文化人連盟発起人会を開き、文化の民主主義化を促進するよう会合を持った。(中略)大原孫三郎が創立した大原社会問題研究所所長だった高野岩三郎が、十月二十九日に、この日本文化人連盟発起人会に参加して、これが日本国憲法を生み出す文化人の気運を生み出す第一歩となり、十一月十三日に連盟が発足した。

これに続いて動いたのが近衛文磨グループであった。四五年十月四日に第二回目の近衛・マッカーサー会談がおこなわれ、マッカーサーが憲法改正によって自由主義を取り入れる必要性を近衛に申し伝えた結果、近衛のもとで、憲法学者・佐々木惣一博士、高木八尺博士、ジャーナリストの松本重治などが、アメリカ国務省と連絡を取りながら憲法草案の作成に着手した。ところが、戦争犯罪者の近衛文磨が憲法作成にかかわっていることに内外から痛烈な批判が起こり、ニューヨーク・タイムズが、「近衛が憲法を起草する適任者であるというなら、ナチスのゲーリングを連合国のトップに据えるべきである」と酷評したのを受けて、十一月一日にはGHQが「近衛に憲法改正を頼んだ覚えはない」と声明して、自ら近衛との関係を断ち切った。十一月二十四日に休々木惣一草案が発表されたが、十二月六日にGHQがA級戦犯として近衛文磨逮捕命令を出し、十二月十六日に近衛が服毒自殺を遂げたためこの憲法草案は雲散霧消した(近衛に擬せられたナチス・ドイツ国家元帥ヘルマン・ゲーリングも、ニュールンベルク裁判後、死刑執行二時間前の四六年十月十五日に服毒自段した)。

第三の動きは、松本烝治グループであった。四五年十月十一日に、幣原喜重郎首相・マッカーサー会談がおこなわれ、新任総理大臣の挨拶に来た幣原に対してマッカーサーが憲法の自由主義化と人権の確保を口頭で要求したのである。この結果、十月二十五日に国務大臣・松本松本烝治を委員長として、政府の憲法問題調査委員会が設置されたが、単なる「調査」委員会であり、憲法改正の意志をまったく持たないグループであった。

第四の動きが、最も重要な鈴木安蔵グループであった。十月十五日に憲法学者の鈴木安蔵が自由憲法の必要性について三日間にわたって講演し、新聞に連載されたことがきっかけとなって、十一月五日に先の文化人グループの高野岩三郎のほか、杉森孝次郎・室伏高信・岩淵辰雄・馬場恒吾・森戸辰男が加わって七人が憲法研究会を東京で結成した。彼らは、言論の自由、男女平等、生存権、平和思想など、現在われわれが生きる民主国家の屋台骨となる思想を骨子として、具体化のための議論を開始した。たびたびの議論を経て、十二月二十五日に鈴木安蔵が執筆して、憲法草案を完成し、十二月二十六日に鈴木安蔵の憲法草案を憲法研究会が最終案として確定した。骨子は、「日本国の統治権は国民より発する。国民感情を考慮して天皇制廃止には踏みこまないが、天皇を儀礼的存在に後退させる」とし、十二月二十七日に憲法研究会の「憲法草案要網」として発表したところ、十二月二十八日の毎日新聞一面に鈴木安蔵草案が褐載され、これがGHQの憲法草案の土台となったのである。

第五の動きとして、十一月八日、政党のトップを切って日本共産党が第一回全国協議会を開催し、新憲法の骨子を決定。十一月十一日には、共産党が人民主権の憲法草案「新憲法の骨子」を発表した。以後、各政党による憲法草案づくりがはじまったが、全体に、各政党の草案づくりは時期的にも内容的にも、非常に後れたものであった。

つまり、四五年内に生まれた憲法草案は三つだけで、共産党案が最も早く、続いて佐々木惣一草案が出て、翌月に憲法研究会草案(鈴木安蔵草案)が出た。しかし共産党は天皇制の廃止を求める行動に出たため、当時の日本の世情では、支持される可能性が低かった。マッカーサーもその世論を考慮して、占領政策を容易にするため天皇制維持による方針を固めていたので、共産党案には最初から育つ芽がなかった。佐々木惣一草案は、自由主義者の高木八尺博士や、ジャーナリストの松本重治も議論に加わったので、民主化についてはー部に進歩的な面を含んでいた。高木博士は、実父が高名な英学者の神山乃武、養祖父が幕臣時代からの経済学者として地租改正に取り組んだ神田孝平で、平和主義者の柳宗悦らのグループにあったし、関西財界の重鎮・松本重太郎の養孫にあたる松本重治も現代まで国際親善と平和活動に従事してきた人物である。しかし、天皇の統治権を維持するという佐々木の封建思想がひどく時代後れで、近衛の自殺と佐々木の頑迷さのため、こ草案は完全に空中分解した。残るは年末に登場した鈴木安蔵草案しかなかったのである。

アメリカは、十二月六日にGHQの弁護士で民政局法規課長のマイロ・ラウエルが「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」を作成していたが、日本人の動きを見て、大晦日に連合軍通訳翻訳部(ATIS)が鈴木安蔵ら憲法研究会草案の翻訳に取りかかったのは、当然であった。

あと一つは、アメリカではない連合国グループが動いていた。十二月にモスクワで連合国のアメリカ・イギリス・ソ連の三国外相会議が開催され、戦争に敗北した日本を連合国が占領するにあたり、アメリカ主導のGHQだけに憲法など日本の改革を任せることに反対していたからである。そこで十二月二十六日、日本を管理するための政策機関として十一ヶ国で構成される極東委員会を翌年二月二十六日に発足させることを決定し、翌日モスクワ宣言として発表した。十一ヶ国は、ニュールンベルク裁判の裁判国アメリカ・イギリス・ソ連・フランスの四ヶ国に、オランダ・オーストラリア・カナダ・フイリピン・中国(中華民国)・インド・ニュージーランドが加わり、GHQは極東委員会の決定に従わなければならないとした。

こうして四五年を送り、明けて四六年以後が、有名な、世に論じられてきた憲法制定の議論だが、すでにこの段階で、現在まで戦後の日本経済と平和を守ってきた民主的憲法の骨格は決まっていたのである。

それを決定した鈴木安蔵グループの七人は、どこから出てきたか。

実は七人の侍のなかで最も若いのが、全員のとりまとめをおこなった鈴木安蔵であった。福島県生まれの安蔵は若くして治安維持法違反で検挙され、二十代で投獄された怒りから、憲法学を研究するうち大正デモクラシーの指導者・吉野作造と出会って世界各国の憲法資料を提供され、屈指の憲法学者となった。そこから、明治初期に高知県で自由人権運動が興った歴史を調べるうち、植木枝盛らの先覚者が主権在民の憲法草案を主張して、人民の抵抗権や革命権まで明記していたことを知った。そしてその源が、同じ土佐の中江兆民によって翻訳されたジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』や『民約論』などであることを学び、安蔵は世界中の思想を広く身につけたのである。

戦後、安蔵のもとを訪れたのが、戦前からの知己ハーバート・ノーマンであった。長野県の伝道帥として地元で愛されたカナダ人ダニエル・ノーマンの息子として軽井沢で生まれ、日本をよく知るハーバートは、戦後にGHQの依頼で来日し、占領下の日本の民主化に取り組んだ。そのなかで、日本の元禄時代、早くから階級差別の撤廃と、男女同権を唱えた学者・安藤昌益を日本人に紹介するほど、日本史に目が肥えていた。安藤昌益が秋田藩に生まれたのは、ルソーよりわずかに早く、大石内蔵助たち赤穂義士が切腹した年であった。昌益は「浅田飴」の処方生みの親となったすぐれた医学者でもあり、青森県八戸に住んだ驚くべき人権思想の先駆者であった。その意味で昌益の思想も、日本国憲法の底流に脈々と息づくことになった。

四六年が明けて、急な動きに泡を食った日本政府の松本烝治が、ようやく憲法改正私案の起草を開始し、憲法問題調査委員の宮沢俊義らが加わったが、国民の主権さえも眼中にない、民主化とほど遠い封建的憲法をこしらえたのである。

四六年二月一日の毎日新聞スクープでその内容を知ったGHQが驚きあきれて、マッカーサーが民政局に、急いで憲法モデルを作成するよう極秘に命じることになったのは、自然の成り行きであった。民政局メンバーは、国連憲章と鈴木安蔵草案を土台にして、アメリカ憲法、ドイツのワイマール憲法、フランス憲法、日本の各政党の憲法草案など、ありとあらゆる資料を並べて議論を重ねた。しかし憲法学者でもない彼らが、短時日での作成を命じられたため、結局は鈴木安蔵草案を骨格にして、GHQ草案を作成したわけである。それを知らない日本政府が松本試案をGHQに持参すると一蹴され、GHQ草案を突きつけられ、以後はよく知られるように、徹夜の書き換え作業にかかった、という次第。情ないのは、日本の国民に自由を与えようとするそのGHQ草案に吉田茂と白洲次郎が口を出して、民主化を妨害し続けた態度である。

最終的には四六年三月五日、GHQとの交渉によって大幅に修正された日本政府の確定草案が採択され、翌六日に緊急記者会見で発表されたのである。そこには、鈴木安蔵たちが求めた通り、主権在民が明記され、天皇制は維持されるが天皇を単に国家の象徴とし、天皇の統治権が否定され、GHQがほかの戦勝国に天皇制維持を納得させるために、国際紛争を解決する手段としての戦争放棄が規定されていた。マッカーサーがこれを全面的に承認する声明を発したことは言うまでもない。

ところがその後、連合国の極東委員会が、「これで決定するのではなく、日本の国民が憲法改正に自由に参加し、議会を経て決定しなければならない」と、これまたまったく当然の勧告をおこなった。それを受けて議会でたびたびの議論が展開され、ここに国民が数々の意見を寄せ、怪しげな密室の小委員会が修正案を出すなどしたが、土壇場になって、極東委員会が普通選挙制と、総理大臣と国務大臣は文民でなければならないという重要な条項の追加を求めたおかげで、議会が最終的にこれを採り入れ、「帝国憲法改正案」つまり現在の「日本国憲法」が修正可決されたのであった。四ヶ月におよぶ議会を経ての成果であった。日本の指導者は、マッカーサーが言った通り、「十二歳の子供」であった。

憲法改悪の動きが出てきた最近になって、鈴木安蔵草案の存在意義がマスメディアで報道されるようになったのは好ましいことである。だが、それが「今発掘された新事実」であるかのように報じられるのは、まったくの嘘である。広く日本の文化人の考えを採り入れた憲法研究会草案をもとに、GHQ草案が生まれたことは戦後すぐに日本史の書物に書かれ、古くから知られた事実である。その存在を、知らなかったとすれば報道人として恥ずかしいことであり、実は故意に無視して、「GHQの押しつけ憲法」という世論を生み出してきたのが、近年の報道界なのである。

しかし鈴木安蔵らの憲法研究会草案にも欠点があり、それをGHQのブレーンと極東委員会が補い、議会で広く国民の声を採り入れたものが、四七年五月三日に施行された日本国憲法であった、と言うのが正しい。憲法の口語化に尽力したのは、『路傍の石』を書いた小説家・山本有三であった。そもそも、四五年末当時の内閣情報局による世論調査で、国民の四分の三という圧倒的多数が憲法改正を強く要求し、その意見として天皇制の改革,貴族院の廃止、国民主権、自由の保障などを求めていたのだから、日本の国民の情熱の結晶が新憲法であった。GHQが押しつけた憲法、と呼ぶのは、ただ白洲たちがその国民の意志に無駄な抵抗をし続けた、時代錯誤の恥ずべき何日間かの行為を指しているにすぎない。

(広瀬隆『持丸長者 戦後復興編』ダイヤモンド社)


戦後憲法と9条

2016年05月09日 | 国内政治
れんだいこは、近代憲法の由来を評価する。それは、ルネサンス的息吹からもたらされた市民革命の産物であり、キリスト教的政教一致体制からの政教分離思想と市民的権利の保障を特質とする。人民大衆の臣民的在り方からの解放であり、市民の自由自主自律的規律によりもたらされる社会を理想としている。これには異存ない。

戦後憲法の成立史と9条的反戦平和条項の由来は、精力的に検証されてしかるべきであろう。れんだいこ史観は、戦後憲法も9条もその精神に於いてキリスト教的理想主義に裏打ちされていることを重視したい。その限りで「押し付け」であることはその通りである。但し、そのようにしてもたらされた戦後憲法はプレ社会主義的な内実を伴っており、為に人民大衆がこれを受け入れ享受することになった。

その憲法と9条が改変されようとしているのはなぜか。これを本質的に見れば、キリスト教的理想主義憲法からユダヤ教パリサイ派的独裁主義憲法への転換が画策されていると読むべきではないか。これを理解するには、キリスト教的とユダヤ教精神を知らねばならず、その根深い対立をも知らねばならない。この方面の知識が極端に痩せている日本人の多くは、このことを理解できない。

戦後憲法と9条が規定された裏事情は次のように理解できる。戦後直後には第一次第二次世界大戦を反省とする反戦平和的時代気分が漲っており、これを受け止める形で日本の戦後憲法に反映されたのではなかろうか。その他人民的諸権利の網羅は、それをアメリカ陣営がもたらすことにより、戦後日本をソ連陣営に引き込みさせない戦略戦術として使われたのではなかろうか。れんだいこは、そのように推定している。

その後冷戦社会となり、日本は軽武装経済大国の道をひた走り始めた。この間、表面的な帝国主義間対立を装いながら、その裏で国際金融資本帝国ロスチャイルド派即ち現代パリサイ派が実権を強め、金融と軍事と原子力を握る彼らは、戦後日本を再捕捉する為に様々な狡知で攻略し始めた。戦後憲法の改憲はこの流れで生み出されているものである。してみれば、改憲運動の正体は国粋主義によるものではなく、現代パリサイ派の国際的指令に基づくものであると見立てたい。

現代パリサイ派は何ゆえに改憲を急ぐのか。それは、日本の自衛隊を中東へ派兵し、アジア人とアラブ人を戦わせる傭兵国家にせんが為である。歯止めなき軍事防衛費注ぎ込みの道を敷き、軍事産業を支える軍費支出大国日本にせんが為である。更には、原子力費支出大国日本にせんが為である。金融奴隷国家日本にせんが為である。れんだいこはそう見立てる。

戦後憲法の制定過程論の真の問題は、「GHQ案=マッカーサー草案」が下敷きにした「原案」を探し出すところにある。GHQが僅か二週間で作成したという巷間説に従う限り真相が見えてこない。その原案を捜し出し、誰がどういう意思と目的で草案化したのかを知ることが大事であろう。現在、このような議論が皆目為されておらず、群盲象を撫でる感がある。

いずれにせよ、現下の改憲論は押し付け憲法を自主憲法化するという口実で、新たな押し付け憲法化されようとしているところに問題がある。それも、キリスト教的精神からユダヤ教的精神のものへと転換されようとしている。ユダヤ教的精神に汚染されると国家及び人民は病み永遠に立ち直れなくされる。これは歴史が教えるところである。

9条改定論は、戦争及び軍事費抑止力としての9条を改定することにより、軍事防衛費の垂れ流しと好戦国家へ誘い込むために画策されている。彼らは、国家を守るという名目でこの道へ誘うが、これほど危険な誘いは無かろう。我々は断固として拒否するべきである。

最後に。現下憲法論のれんだいこの知る限り論者の殆どが言及していない重要点について触れておく。戦後憲法は財政健全主義を掲げている。これにより国債の発行を禁止している。予算の国会承認もその現れである。憲法9条の非武装平和主義は、軍事が最大の金食い虫であることを踏まえてこの方面の費用支出を拒否する宣言とも受け取ることが出来る。今や、この精神が全く無視されているが、今からでも良いこの原理原則を再興すべきではなかろうか。

2007.6.20日 れんだいこ拝

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/9jyotushin/kuratariron.htm