畑倉山の忘備録

日々気ままに

権勢と反逆を生む山口県(2)

2018年10月22日 | 国内政治
毛利藩では、高杉の率いる奇兵隊という百姓、町人を加えたゲリラ部隊が、萩城を攻略して、藩主をおさえ、政治犯の釈放までやってのけたところは、小型のパリ・コミューン、"萩コミューン"に成功したのである。

各藩のこういった連中の上にのっかって、徳川政府を倒し、明治政府をつくる上に、いわば共産党の書記長のような役割をしたのが岩倉具視である。

萩の町を歩くと、明治の"元勲"たちの生家とか旧宅とかいうものがやたらにあって、その前に石の記念碑が建っている。これらの家は、ひどく見すぼらしいものだが、そういうところに育っても、ひとたび社会変革の風雲に乗ずれば、大臣、大将となり、最後は神にもなれる。革命というものはこんなにボロイもんだ、ということを教えているようだ。

野坂参三氏も志賀義雄氏も、この萩の生れである。野坂氏の父小野梧右衛門は骨董商で、碁や俳句をたしなんだ。参三氏はその三男で、野坂家をついだ。志賀氏の父は川元筆助といって、大島郡の沖浦村の出身で、内海航海の船長などをしていた。義雄氏はその二男で、萩家をついだ。どっちも秀才で、育った環境も、養家をついだ点もよく似ている。

(大宅壮一「権勢と反逆を生む山口県」『文藝春秋』昭和33年3月。同『無思想の思想』文藝春秋、1991年より引用)


追悼・松本龍元復興相

2018年07月26日 | 国内政治
 民主党政権で環境相や復興相を務めた松本龍さんが7月21日、肺がんのため死去した。67歳だった。
 
 東日本大震災を受けて新設された復興相に就任した後、サングラス姿で記者会見に挑むなど何かと話題を集めた政治家だった。2011年7月、達増拓也岩手県知事に復興に向けて「キックオフだ」とサッカーボールを蹴り込んだり、村井嘉浩宮城県知事に「ちゃんとやれ」などと発言したことが批判され、就任9日目で引責辞任。その後、12年の衆院選で落選、14年に政界引退を表明した。

 世間一般では復興相辞任の時の記憶から「上から目線の偉そうな政治家」との印象が強いかもしれない。だが、その素顔はまったく違って、誰からも愛される人柄だった。
 また、暴言の背景には、当時、被災地で起きていたある問題が引き金になっていた。問題発言の裏にあった真実と、誤解を受けることの多かった政治家の秘話を、生前に親交のあった人の証言から紹介する。

 松本龍さんは、赤坂のバー「キングハーベスト」の常連だった。顔なじみの客からは「龍さん」の愛称で慕われ、誰とでも分け隔てなく会話を楽しむ人だった。現職大臣の時もフラっと店にやって来た。政府の要職を務めながらも偉ぶることはまったくなく、静かにお湯割りの焼酎やウイスキーを飲んでいることが多かった。

 音楽と映画が好きで、読書家。与野党関係なく多くの政治家から信頼されていた。龍さんが店に来ていることを知った安倍内閣の現役閣僚が、予定を変更して会いにきたこともあったという。

 祖父は「解放の父」と呼ばれた松本治一郎元参院副議長。父の松本英一参院議員の秘書を務めた後、1990年に初当選した。店のマスターである平野敏樹さんは、龍さんについて「苦労している人に特に優しい人だった。右とか左とか関係なく、みんなから愛されていた」と話す。

 常連客の一人は、龍さんからこんな言葉を教えてもらったという。
<村の床屋の腕が悪いからと言って、わざわざ都会まで出かけるようではいけない。そのままひいきにして、その男の腕を磨いてもらった方が賢明である>

「もともとはガンジーの言葉だそうです。龍さんは、この言葉の最後に『たとえ血だらけになろうとも』と勝手に付け加えていました(笑)。その土地に住んでいる人の思いと、地域社会の将来を誰よりも大切に考えていた人でした」(店の常連客)

 政治家としての実績では、10年9月に就任した環境相時代が知られている。大臣就任1カ月で国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で議長を務め、名古屋議定書の採択を成功させた。この時は、先進国と意見が対立していた発展途上国に対して丁寧な対話と交渉を重ねた。同年11月には新潟水俣病の被害者と面会し、環境相としてはじめて謝罪した。いずれも、立場の弱い人と誠実に話をすることを基本姿勢にしていた。

 COP10の交渉過程を記した著書『環境外交の舞台裏 大臣が語るCOP10の真実』(日経BP社)では、自らの生き方についてこう話している。

<私はある時から、人間は一人ひとり皆、違う悲しみを抱えているんだと思うようになりました。日本に1億2000万人の人がいたら、悲しみも1億2000万通りあるのだろうと。(中略)それからですね。悲しいことに寄り添うとか、肩をたたき合えるとか、そういう人間になりたいと考えるようになった>

 だが、この“優しさ”が11年7月3日の暴言問題を引き起こす要因となってしまった。

 この日、復興相に就任して初めて被災地入りをした龍さんは、午前中に岩手県の達増拓也知事と面会。「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない」「九州の人間だから、何市がどこの県とか分からん」と語った。際どい発言ではあったが、面会に参加した人の多くは、龍さんが被災地の現場に足繁く通っていることを知っていた。そのこともあってか、面会は大きな問題もなく終了した。

 激しく批判をされたのは、宮城県で行われた村井嘉浩知事との面会だ。村井知事は応接室に入室した後に握手を求めたが、龍さんが拒否。「お客さんが来る時は、自分が入ってからお客さんを呼べ」と厳しい口調で注意した。さらには報道陣に「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか、みなさん。『書いたらもうその社は終わり』だから」と発言。その言葉がテレビで繰り返し報道され、「被災者を見下している」などと批判された。それからわずか2日後の7月5日、復興相を辞任した。

 だが、村井知事への叱責にはある理由があった。当時、宮城県では県と津波の被災者である漁業関係者が激しく対立していたのだ。

 村井知事は震災後、漁業復興のための政策として「漁業権の開放」や「漁港の集約」など、漁業関係者に次々と“改革”を迫っていた。

 これだけではない。宮城県の復興構想会議の委員となった12人のうち、宮城県在住者はわずか2人。岩手県の津波復興委員会の19人のメンバーが全員岩手県在住者であったことに比べて、「地元を軽視している」と批判されていた。震災復興計画についても野村総研が支援し、委員のほとんどは首都圏在住者だったため、村井知事が上京して復興会議が開催されている状態だった。

 一方、龍さんは震災発生直後から防災担当相として災害対応の陣頭指揮をとっていた。原発事故の対応、生活物資の緊急支援、がれき処理など、次々に降りかかる難題を処理しながら、被災地に繰り返し足を運んだ。その時も、被災者の声に耳を傾け、その話をもとに国としての対応を決めていた。そういった時に、村井知事と面会することになったのだ。

 面会後の報道は批判一色で注目されなかったが、この時に龍さんは、村井知事に「(漁業の復興計画は)県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」とクギをさしている。龍さんにとってみれば、トップダウンで復興計画を決めようとしている村井知事に対して、被災者の怒りを知事に直接ぶつけたつもりだったのだろう。

 だが、世の中はそうは受け止めてくれなかった。当時、震災対応の批判や民主党内で政争が相次ぎ、菅直人内閣の支持率は3割を切っていた。国民の不満は爆発寸前で、龍さんの発言の方が「国からのトップダウン」、村井知事の姿が「現場で奮闘する知事」に映ってしまった。

 たしかに、漁業権を「既得権益」とみなして村井知事の方針に賛同する人はいた。一方、近年の研究では、江戸時代から長い時間をかけて形成された漁業権を中心とした「浜の秩序」は、経済合理性が高く、環境面でも持続可能な制度だと評価する専門家もいる。

 ただ、龍さんがこだわったのは、漁業権の開放に賛成か反対かということではなかったはずだ。県知事という強い者が、被災者という弱い者にトップダウンで言うことをきかせようとする。前出の平野さんは「龍さんはそのことが許せなかったのだと思う」と語る。

 復興相を辞任した後には、キングハーベストでちょっとした騒動も起きた。会見で辞任を決めたのはいつかと記者から問われた龍さんが、「昨日の夜9時半、キングハーベストというお店で昔の音楽を聴きながら」と話したのだ。案の定、その日の夜から辞任を決めた時の様子を聞こうと、店には記者が次々と訪れた。

 世間では龍さんへの批判が沸騰していた。しかし、そんな時でも常連客たちは「龍さんは理由もなくあんなことを言う人ではない。何であんなに激しい口調になったのか、その背景を知ってほしい」と必死に龍さんをかばった。前出の常連客は、当時のことをこう振り返る。

「震災対応で緊張の連続で、最後は疲れ過ぎで感情のコントロールができなくなってしまったのだと思う。店に話を聞きに来た記者で、龍さんに会いに行った人もいたけど、村井知事を批判するようなことは言わなかったそうです。自分の失敗を誰かの責任にしたり、言い訳をしたりしない。龍さんらしいなと思いました」

 辞任会見では、国鉄総裁だった石田礼助の言葉を引用して、「粗にして野だが卑ではない松本龍、一兵卒として復興に努力をしていきたい」と話した。その言葉通り、大臣辞任後、そして政界引退後も被災地への訪問や自治体関係者、被災地選出の与野党議員との交流を続けた。熊本で開かれる水俣病の慰霊祭も、毎年のように参加していた。

 酒場には、出会いと別れがある。結婚、出産、就職、転勤、退職など、人生の転換点を機にある人は新しい客となり、ある人は足が遠のく。龍さんも、政治家を引退してからは福岡を中心とした生活となり、店に来る回数は減った。

 それでも上京した時にはフラリと店にやって来た。時には、被災県の自治体の首長と一緒だったこともある。平野さんによると、その首長たちは「震災の時、龍さんに助けてもらった」と感謝の言葉を述べていたという。

 龍さんが店にいることをどこからか聞きつけ、環境相時代に一緒に仕事をした官僚たちが挨拶に来たこともある。彼らは口をそろえて「松本先生の人柄があったから、COP10をまとめることができた」と話していた。

「酒場のたしなみ」をよく知る素敵な大人だった。龍さんが来ると、自然と人の和ができて店が和やかになる。しかし、今となってはその機会は永遠に失われてしまった。それでも、キングハーベストに集まる人たちはこう言うのだ。

「ほら、今にでもそこの入口から龍さんが入って来そうじゃない」

 7月23日、葬儀が福岡で執り行われ、龍さんは荼毘に付された。同日夜、キングハーベストでは龍さんお気に入りの指定席に、焼酎のお湯割りとオムレツが置かれた。最近店に来た時は、生まれたばかりの孫の話をしていて、その表情は国会議員時代には見せたことのないような笑顔だったという。67歳の早すぎる旅立ちだった。

(AERA dot. 2018.7.24)

朝鮮戦争終結と新自由主義

2018年05月06日 | 国内政治
東アジアの状況を一変させる戦争終結には、朝鮮半島の人々はもちろんのこと、日本の人たちも過半数が歓迎している。私もその一人である。その上で、大きな変化が起きるとき、そこには「新自由主義」の影がうごめいているのではないか。そういう目を持っておくことも必要だ。

「新自由主義」は、正義をまとって現れる。左手で平和と民主主義の旗を振りながら、右手で他国民の富を根こそぎ奪っていく。正義の味方を気取れないときは、まずは悪役を作りだし、しかる後に登場する。イラク、リビア、エジプト、アルカイダ、イスラム国・・・・枚挙にいとまがない。

「新自由主義」の実績を思い起こせば、この度の終戦とそれに続くであろう北朝鮮の激変の裏にも潜んでいると思わないわけにはいかない。なにせ、朝鮮がもし統一されるとなれば、その経済規模は天文学的な数字になる。

こんな未開の地が開かれるのだから、行き場を探して世界中をさまよっている金融資本は、舌なめずりして待ち構えている。しかし、こんなところに投資しても、見返りは無いんじゃないか?とおもうかもしれない。なんのなんの「新自由主義」をなめてはいけない。

最初に損する役と、後からがっぽがっぽ回収する役はちゃんと分担されているのだ。そう、もうお気づきと思うが、最初に損する役が米国のATM=日本。

ひと通り基盤整備ができてから、オイシイところだけごっそり持って帰るのが国際金融資本=新自由主義なのだ。もちろん、日本も商社などの大企業はある程度おこぼれにあずかる。

そもそも、ODAというのは、日本の税金を途上国に投資して、それを日本の企業が受注して持って帰る、という詐欺まがいのシステムのことだった。そのシステムは今でも生きているが、もはや日本企業が独占することは許されず、新自由主義がほぼ何もせずに持っていくのである。

(反戦な家づくり)




約束を破ったのは日本

2018年05月06日 | 国内政治
小泉訪朝には裏話があるはずです。小泉一行は平壌に到着後、北朝鮮側から予期に反して「拉致被害者13人のうち、5名は生存しているが、8名は死亡している」と通告されました。しかし、日本側は事前に「拉致被害者13人は生きていて、全員返す」というメッセージを受けとっていたはずです。小泉は拉致被害者13人を奪還できると思って平壌まで行ったが、土壇場で「8名死亡」を告げられ、茫然自失したのではないか。

その後、日本側は北の用意していた昼食をキャンセルしましたが、それは「騙された」「話が違う」という不満の表れでしょう。それならば、その場で机を蹴飛ばして帰国すればよかったのです。

この時、金正日は日朝首脳会談を機に拉致を国家犯罪として認め、主席の立場で正式に謝罪したのです。その上で小泉と金正日は平壌宣言に署名しました。つまり、拉致被害者に関する北朝鮮の説明は、両首脳の間で「事実」として決着したということです。この事実はトップの間で確認されているので非常に重いものであり、拉致問題はこの時点で終わったということです。

日本側も不本意ながらこれを認めました。現に小泉訪朝の当日に、東京では福田官房長官が外務省飯倉公館に拉致被害者の家族全員を招集して、北朝鮮側の説明を伝達しました。国際社会から客観的に見た場合、「両首脳の合意によって事実を確認した上で拉致問題は決着した」ということになります。

とはいえ、これは日本人には受け入れがたい結果です。そのため、小泉訪朝後に国内世論は激高しました。またアメリカは日本の独自外交を快く思っていなかった。その結果、日本はその後に平壌宣言を無視し、国交正常化交渉を進めることができなくなったわけです。

金日成と金正日は親子2代にわたって日朝国交正常化を求めました。金丸信と小泉純一郎はその要求に理解を示したものの、最終的に国内・国際情勢に抗しきれず約束を守ることができませんでした。日朝国交正常化交渉において約束を破っているのは、北朝鮮ではなく日本だということです。

(石井 一 月刊日本)


沖縄密約

2017年09月23日 | 国内政治

72年5月の沖縄返還に際して、日本は3億2000万ドルをアメリカに差し出した。このほか密約で、さらに取られた。

核抜き本土並みの正体を日本国民は今も知らない。新聞テレビが真実を伝えないからだ。事実は沖縄にあった、もはや使いものにならない固定した大陸間弾道弾の撤去費用などにも、血税を使った。固定した核の基地は、時代遅れとなっていたのだ。移動式の多弾頭の核兵器の時代に移っていた。

米国は、撤去を口実に日本から大金をせしめたのだ。しかも、非常事態には核を持ち込む、通過させるとの密約も認めさせた。売国奴外交も極まっていた。笑いの止まらないワシントンが、沖縄返還の真相である。

今も変わらない。普天間移転にからめて米海兵隊をグァムに移転するという米産軍体制の計画を、日本の金でやる、というのだ。

沖縄に海兵隊を駐留させる理由などない。万が一のことが起きれば、一瞬にして死滅する部隊であることがわかっている。グァム移転を普天間問題にからめて、日本の金で、がワシントンの狙いなのだ*。

「アメリカというずる賢い泥棒に身ぐるみはがされる日本かな」という戦後の日本外交なのだ。

余談だが、沖縄返還時にナベツネはワシントン特派員をしていた。当時、衆院予算委員長の中野四郎がワシントンを訪問すると、待ち構えていたナベツネと日経の神末佳明特派員が、当時の日本では禁じられていた「エロ映画館」に案内している。

欧米勤務の外交官の主たる任務は、東京からのバッジ組を売春宿に連れてゆくものだった、と何度も聞いたことがある。日本の外交官・政治屋・特派員もこのレベルだった。「ワシントン帰りが、政府・議会・言論界の中枢を占める日本かな」である。

2013年9月20日8時30分記

(本澤二郎)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52047529.html

* グアム移転に必要な経費は92億ドルで「その3分の2(約6,000億円)を日本側が負担します」と2006年当時の自民党政権が約束している。米議会が関連予算を認めないため、移転事業は進んでいないが、日本政府はすでに500億円以上を米国政府に送金している。(http://www.asahi.com/special/wikileaks/TKY201105030472.html)。


ネズミの競走、競争

2017年06月03日 | 国内政治

学者仲間やジャーナリストと話していると、「裁判官になった以上出世のことなど気にせず、生涯一裁判官で転勤を繰り返していてもかまわないはずじゃないですか? どうして皆そんなに出世にこだわるんですか?」といった言葉を聞くことが時々ある。

「ああ、外部の人には、そういうことがわからないんだ」と思い知らされるのが、こうした発言である。おそらく、こうした発言をする人々だって、裁判官になれば、その大半が、人事に無関心ではいられなくなることは、目にみえているからだ。なぜだろうか?

それは、第ーに、裁判官の世界が閉ざされ、隔離された小世界、精神的な収容所だからであり、第二に、裁判官が、期を中心として切り分けられ、競争させられる集団、しかも相撲の番付表にも似た細かなヒエラルキーによって分断される集団の一員だからであり、第三に、全国にまたがる裁判官の転勤システムのためである。

裁判官を外の世界から隔離しておくことは、裁判所当局にとって非常に重要である。裁判所以外に世界は存在しないようにしておけば、個々の裁判官は孤立した根無し草だから、ほうっておいても人事や出世にばかりうつつを抜かすようになる。これは、当局にとってきわめて都合のいい事態である。

次に、ヒエラルキーの階梯(かいてい)を細かく細かく切り分け、出発点はー応平等にし、根拠のよくわからない小さな差を付けて相互に競わせる。英語でいうところのラットレース、際限のないばかげた出世競争である。第三者からみればまさにいじましい「ネズミの競走、競争」なのだが、当事者は客観的に自分を見つめる眼を完全に失ってしまっているから、そのことには気が付かず、必死に入れ込む。

さらに、ある段階で事務総局系(局長、課長経験者)とそれ以外の裁判官との間に歴然とした差を付ける。それも、近年では、純然たるエリート系とともに、お追従で上に取り入ってきたイエスマンをも適宜取り立てることによって、いよいよ微妙に裁判官たちを刺激するようになっている。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)


人事による統制とラットレース

2017年06月03日 | 国内政治

最高裁長官、事務総長、そして、その意を受けた最高裁判所事務総局人事局は、人事を一手に握っていることにより、いくらでも裁判官の支配、統制を行うことが可能になっている。不本意な、そして、誰がみても「ああ、これは」と思うような人事を二つ、三つと重ねられてやめていった裁判官を、私は何人もみている。

これは若手裁判官に限ったことではない。裁判長たちについても、前記の通り、事務総局が望ましいと考える方向と異なった判決や論文を書いた者など事務総局の気に入らない者については、所長になる時期を何年も遅らせ、後輩の後に赴任させることによって屈辱を噛み締めさせ、あるいは所長にすらしないといった形で、いたぶり、かつ、見せしめにすることが可能である。

さらに、地家裁の所長たちについてさえ、当局の気に入らない者については、本来なら次には東京高裁の裁判長になるのが当然である人を何年も地方の高裁の裁判長にとどめおくといった形でやはりいたぶり人事ができる。これは、本人にとってはかなりのダメージになる。プライドも傷付くし、単身赴任も長くなるからである。

こうした人事について恐ろしいのは、前記のような報復や見せしめが、何を根拠として行われるかも、いつ行われるかもわからないということである。たとえば、「違憲判決を書いた場合」などといった形でそれが明示されているのなら、それ以外は安心ということになるかもしれないが、「ともかく事務総局の気に入らない判決」ということなのだから、裁判官たちは、常に、ヒラメのようにそちらの方向ばかりをうかがいながら裁判をすることになる。当然のことながら、結論の適正さや当事者の権利などは二の次になる。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)


裁判官のヒエラルキー

2017年06月03日 | 国内政治

日本の裁判所の最も目立った特徴とは何か? それは、明らかに、(最高裁)事務総局中心体制であり、それに基づく、上命下服、上意下達のピラミッド型ヒエラルキーである。(中略)

頂点には、最高裁長官と14名の最高裁判事がいる。(略)次が高等裁判所長官。全国に8名おり、序列は、東京、大阪、名古屋、広島、福岡、仙台、札幌、高松の順であると思われる。なお、東京、大阪の高裁長官は、それ以外の高裁長官よりも最高裁入りすることが多い。

次が東京、大阪等の大都市の地家裁所長(同じ場所の地裁は家裁より格が上。なお、裁判所法上は、最高裁判所以外の裁判所の裁判官の種類は、高裁長官、判事、判事補、簡裁判事だけであり、地家裁所長は、司法行政事務の総括者にすぎない)と東京高裁の裁判長、少し後れて大阪高裁の裁判長であろうか。(中略)

次がそれ以外の地家裁所長とそれ以外の高裁裁判長。そして、高裁支部長と地家裁大支部の支部長。次が地家裁裁判長と高裁の右陪席。その格付けには全国でかなり大きな差がある。次が高裁の左陪席と地家裁の右陪席。最後が地家裁の左陪席となる。大支部以外の地家裁支部長は地家裁右陪席クラスまで広がる。(中略)

こうした、相撲の番付表にも似た裁判官の細かなヒエラルキーは、裁判所法をみても決してわからない。日本の裁判所がおよそ平等を基本とする組織ではなくむしろその逆であることは、よくよく頭に入れておいていただきたい。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)


裁判官の官僚化、役人化

2017年06月03日 | 国内政治

裁判所当局は、司法制度改革の動きを無効化するのみならず、それを逆手にとって悪用し、その結果、裁判所と裁判官集団は、今世紀に入ってから、徐々に、しかし目にみえて悪くなっていった。ことに、平均的な裁判官、中間層のあり方がなし崩しに変化、悪化していったことは、私にとって大きなショックだった。

日本の裁判官が、実際にはその本質において裁判官というよりも官僚、役人でありながら、行政官僚よりは信頼されてきた大きな理由は、平均的な裁判官、中間層が、たとえ保守的であり、考え方や視野は狭くとも、少なくとも、日々誠実にこつこつと仕事をし、たとえば行政訴訟や憲法訴訟といった類型の事件を除いた日常的な事件に関する限りは、当事者の言い分にもそれなりに耳を傾けてきたからである。つまり、職人タイプの裁判官が日本の裁判の質を支えていたわけである。しかし、上層部の劣化、腐敗に伴い、そのような中間層も、疲労し、やる気を失い、あからさまな事大主義、事なかれ主義に陥っていったのである。

現在の裁判所の状況は、いわば、官僚、役人タイプが、かつての多数派であった職人夕イプを圧倒し、駆逐した状況にあるといってよい。言葉を換えれば、多数派、中間層の官僚化、役人化傾向が著しい。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)


ブルーパージ関係資料

2017年06月03日 | 国内政治

最高裁判所調査官時代についても、ーつ鮮明な記憶がある。

最高裁判所の裁判官と調査官の合同昼食会の席上、あるテーブルの最高裁判事が、突然大きな声を上げた。

「実は、俺の家の押入にはブルーパージ関係の資料が山とあるんだ。一つの押入いっぱいさ。どうやって処分しようかなあ?」

すると、「俺も」、「俺もだ」とほかの二人の最高裁判事からも声が上がった。

この時も、事務総局における会議の席の場合と同様に、しばらくの間、昼食会の会場が静まりかえったことを記憶している。

多数の調査官と、おそらくは裁判官出身以外の最高裁判事の多くも、こうした半ば公の席上で、六人の裁判官出身判事のうち半分の三人もが、恥ずかしげもなく、むしろ自慢気に前記のような発言を行ったことに、ショックを受けていた。

ブルーパージとは、青年法律家協会裁判官部会、いわゆる青法協裁判官、左翼系裁判官に対する、再任拒否まで含めたさまざまな不利益取扱いや、人事の餌で釣っての青法協からの脱会工作を意味する。転向した裁判官の中には、私の知る限り、極端な体制派になった人物も多い。日本の左翼によくある端から端への転向の典型的な形のーつである(中略)。

ところで、なぜ昼食会の出席者たちは、ショックを受けたのだろうか?

ブルーパージは、いわば、最高裁判所司法行政の歴史における恥部のーつ、その代表的なものであり、常識的には、それについてこうした合同昼食会の席上で大声で自慢気に語りうるようなものとはおよそ考えられない事柄だからである。しかし、当の裁判官たちは、そのことに気付いてすらいなかったように思われる。

当時のキャリアシステム出身最高裁判事の少なくとも半分が前記のような行為に深く関わっていたことを示す事実であり、おそらくは、その行為が、彼らが最高裁判事に取り立てられた重要な「実績」でもあったに違いない。なお、「少なくとも」というのは、ブルーパージに関わってはいたが、さすがに人前で声を上げることは差し控えた人もいる可能性が高いからである。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)


最高裁判所事務総局民事局

2017年06月03日 | 国内政治

この局付時代の記憶から二つのことを書いておきたい。

ーつは、ある国会議員(断っておくと、左翼政党の議員ではない)から入った質問に対してどのように答えるかをいくつかの局の裁判官(課長と局付)が集まって協議していた時のことである。

ある局の課長がこう言った。

「俺知ってるんだけどさ、こいつ、女のことで問題があるんだ。〔端的な質問対策として〕そのことを、週刊誌かテレビにリークしてやったらいいんじゃねえか?」

しばらくの間、会議の席を静寂が支配したことをよく覚えている。

それはさすがにまずいのではないかということで、彼のアイデイアは採用されなかった。メンバーは、裁判官の口から先のような言葉が出たことに明らかにショックを受けていた。しかし、当の課長は、平然としていた。

彼は、後に、出世のピラミッドを昇り詰めて、最高裁入りを果たすことになる。

ある人間がこうしたヒエラルキー、階層制のトップまで昇るには、彼の努力だけでは不十分であり、多数の人間の推挙と承認が必要である。つまり、先のような人物がトップ入りする組織には、それ相応のダークサイドが存在するに違いないということだ。

もうーつは、極秘裏に行われたある調査のことである。

内容は簡単なものであり、特定の期間に全国の裁判所で判決が下された国家賠償請求事件について、関与した裁判官の氏名と、判決主文の内容とをー覧表にしたものであった。前記のとおり司法行政を通じて裁判官支配、統制を徹底した矢口(洪一)長官体制下の出来事であったことを考えると、その資料が何らかの形で人事の参考に供された可能性は否定できないと思う。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)


絶望の裁判所

2017年06月03日 | 国内政治

日本の裁判所、裁判官の関心は、端的にいえば、「事件処理」ということに尽きている。とにかく、早く、そつなく、「事件」を「処理」しさえすればそれでよいのだ。

また、権力や政治家や大企業も、これをよしとしている。庶民のどうでもいいような事件、紛争などともかく早く終わらせるにこしたことはなく、冤罪事件などいくらかあっても別にどうということはなく、それよりも、全体としての秩序維持、社会防衛のほうが大切であり、また、司法が「大きな正義」などに深い関心を示すことは望ましくない、あるいは、そうなったら大変に都合が悪い。大国の権力や政治家や大企業は、おおむねそのように考えているに違いない。

そして、日本の裁判所は、そういう意味、つまり、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」という意味では、非常に、「模範的」な裁判所なのである。

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』講談社現代新書、2014年)


ミサイル防衛システム

2017年05月10日 | 国内政治
元自衛隊陸将補「同時に100発撃たれたら50発は撃ち落とせない」

大砲の弾を大砲で撃ち落とすという話はあまり聞かない。

ミサイルになるとそんなに簡単に撃ち落とせるのか?

すごいなミサイル防衛システム。実戦で試してないから、なんとでも言えるけど・・・・。

実戦では100発のうち5、6発撃ち落とせたら上出来だろう。

治安維持法

2017年05月03日 | 国内政治

明治憲法の「表現の自由」条項をみると、「第二十九条 日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」とある。ここでは「法律ノ範囲内ニ於テ」と、つまり、「法律の範囲内」で人権制限をする法律をつくれば、「言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」という規定は意味を有しないことになり、「法律で」人権制限は可能となる。現実に治安維持法は、戦後はまるで悪法の典型のように見られてきたが、明治憲法から見れば憲法に違反してはいない法律であった。

1925(大正14)年につくられた治安維持法はその後「国体ヲ変革スルコトヲ目的卜シテ結社ヲ組織シタル者」を最高で死刑とし、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」と、いまだ目的を遂行していないが「為(ため)ニスル行為」も処罰の対象とされ、ついに、第二次大戦直前の1941年に法律は全面改正され、犯罪を「犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、つまり「予防拘禁」まで可能になったのである。

(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫、2017年)



破防法(破壊活動防止法)の制定

2016年09月22日 | 国内政治

旧大日本帝国時代の支配層は、天皇崇拝を文化政策の中軸とし、これによって国民よりー段高い立場を確保し、有無を言わさず、彼らの特権的、享楽的な、公私の生活を確保した。

しかし戦後、天皇崇拝を、公然と利用することができなくなったので、彼らは、もっぱら、カラメテ戦術を用いた。

まず彼らは、一般国民をして、できるだけ民主主義を、ハキちがえるように仕組むことによって、各方面に混乱や行き過ぎを生じさせ、いろいろの浪費を多くさせ、物心両方面における国民生活を、行き詰まらせるように図った。これは同時に官憲のー般国民に対する物心両方面の支配力、統制力を増大するに役立つ。その政策が成功し、戦後における官と民との生活程度のヒラキは、年々大きくなっていった。

しかし、ただ一つの心配のタネとなるものは、隣国まで押しよせてきている共産主義革命の影響力である。もし、ひとたびその波が日本国内に侵入してきたら、どんなことになるか。もちろん、彼等の位置も特権も財産も、一挙にスッ飛んでしまうばかりか、まかりまちがうと、その生首までがあやうくなることは明らかである。

したがって、この波を、どうやって防止するかということが、戦後における日本の支配層と、その一党にとって絶対至上の問題であり、頭痛のタネであった。

すべて、ほんとうの人類的な正義と愛によらない政治は、国民を威圧と、眼先きの利益で釣る以外に方法はない。

彼等にとって考え得るただーつの方法は、昔の治安維持法みたいなものを作って、国民を威嚇するとともに、その実施に伴うボウ大な機構と予算とをもって、自己の陣営の商売繁昌と、追従者の優遇をはかることであった。

昔は“天皇の御ため”という口実を使ったが、当今では、あからさまに“自分たちのため”ということが露骨にでるのである。

そこで考え出したのが破防法(破壊活動防止法)の制定である。

もちろん、このような、非民主的な、野望にみちた立法は新憲法の立場から許さるべきものではなかったので、民主陣営の人々が、こぞってこれに反対してきたことは、読者諸君の知られることと思う。

昭和二十七年は、この破防法案が、国会を通過するか、あるいは永久に通らないか、あやぶまれた年であった。

ところが不思議なことに、その年の二月ごろから七月までの間に、急に日本の各地で、日本共産党員と称するものによる火焔ビン事件や、ダイナマイト事件というものが、おこったのである。

それらの実態は、このごろになって調べてみると、ほとんどタワイもない事件であったが、新聞にはデカデカと掲載されたので、当時、難航をつづけていた破防法を制定させるためには、この上ない有力な資料(口実)となったのだった。

あるいはそれらの事件の大部分が、菅生事件*と同性質のインチキ事件ではなかったろうかという気もする。

しかし、新聞の報道だけで、その真相を究明できない国民にとって、日共はいつしか“愛される共産党”でなく、“いやがられる共産党”となり下がってしまったのである。

かくて、破防法は、その年の七月二十一日に、マンマと国会を通過、制定されたのである。

(『正木ひろし 事件・信念・自伝』日本図書センター、1999年)

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* 菅生事件(すごうじけん)は、1952年6月2日に大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件。犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件である。当時巡査部長だった実行犯の警察官は有罪判決確定後も昇進を続けてノンキャリア組の限界とされる警視長まで昇任した。(ウィキペディア)