畑倉山の忘備録

日々気ままに

追悼・松本龍元復興相

2018年07月26日 | 国内政治
 民主党政権で環境相や復興相を務めた松本龍さんが7月21日、肺がんのため死去した。67歳だった。
 
 東日本大震災を受けて新設された復興相に就任した後、サングラス姿で記者会見に挑むなど何かと話題を集めた政治家だった。2011年7月、達増拓也岩手県知事に復興に向けて「キックオフだ」とサッカーボールを蹴り込んだり、村井嘉浩宮城県知事に「ちゃんとやれ」などと発言したことが批判され、就任9日目で引責辞任。その後、12年の衆院選で落選、14年に政界引退を表明した。

 世間一般では復興相辞任の時の記憶から「上から目線の偉そうな政治家」との印象が強いかもしれない。だが、その素顔はまったく違って、誰からも愛される人柄だった。
 また、暴言の背景には、当時、被災地で起きていたある問題が引き金になっていた。問題発言の裏にあった真実と、誤解を受けることの多かった政治家の秘話を、生前に親交のあった人の証言から紹介する。

 松本龍さんは、赤坂のバー「キングハーベスト」の常連だった。顔なじみの客からは「龍さん」の愛称で慕われ、誰とでも分け隔てなく会話を楽しむ人だった。現職大臣の時もフラっと店にやって来た。政府の要職を務めながらも偉ぶることはまったくなく、静かにお湯割りの焼酎やウイスキーを飲んでいることが多かった。

 音楽と映画が好きで、読書家。与野党関係なく多くの政治家から信頼されていた。龍さんが店に来ていることを知った安倍内閣の現役閣僚が、予定を変更して会いにきたこともあったという。

 祖父は「解放の父」と呼ばれた松本治一郎元参院副議長。父の松本英一参院議員の秘書を務めた後、1990年に初当選した。店のマスターである平野敏樹さんは、龍さんについて「苦労している人に特に優しい人だった。右とか左とか関係なく、みんなから愛されていた」と話す。

 常連客の一人は、龍さんからこんな言葉を教えてもらったという。
<村の床屋の腕が悪いからと言って、わざわざ都会まで出かけるようではいけない。そのままひいきにして、その男の腕を磨いてもらった方が賢明である>

「もともとはガンジーの言葉だそうです。龍さんは、この言葉の最後に『たとえ血だらけになろうとも』と勝手に付け加えていました(笑)。その土地に住んでいる人の思いと、地域社会の将来を誰よりも大切に考えていた人でした」(店の常連客)

 政治家としての実績では、10年9月に就任した環境相時代が知られている。大臣就任1カ月で国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で議長を務め、名古屋議定書の採択を成功させた。この時は、先進国と意見が対立していた発展途上国に対して丁寧な対話と交渉を重ねた。同年11月には新潟水俣病の被害者と面会し、環境相としてはじめて謝罪した。いずれも、立場の弱い人と誠実に話をすることを基本姿勢にしていた。

 COP10の交渉過程を記した著書『環境外交の舞台裏 大臣が語るCOP10の真実』(日経BP社)では、自らの生き方についてこう話している。

<私はある時から、人間は一人ひとり皆、違う悲しみを抱えているんだと思うようになりました。日本に1億2000万人の人がいたら、悲しみも1億2000万通りあるのだろうと。(中略)それからですね。悲しいことに寄り添うとか、肩をたたき合えるとか、そういう人間になりたいと考えるようになった>

 だが、この“優しさ”が11年7月3日の暴言問題を引き起こす要因となってしまった。

 この日、復興相に就任して初めて被災地入りをした龍さんは、午前中に岩手県の達増拓也知事と面会。「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない」「九州の人間だから、何市がどこの県とか分からん」と語った。際どい発言ではあったが、面会に参加した人の多くは、龍さんが被災地の現場に足繁く通っていることを知っていた。そのこともあってか、面会は大きな問題もなく終了した。

 激しく批判をされたのは、宮城県で行われた村井嘉浩知事との面会だ。村井知事は応接室に入室した後に握手を求めたが、龍さんが拒否。「お客さんが来る時は、自分が入ってからお客さんを呼べ」と厳しい口調で注意した。さらには報道陣に「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか、みなさん。『書いたらもうその社は終わり』だから」と発言。その言葉がテレビで繰り返し報道され、「被災者を見下している」などと批判された。それからわずか2日後の7月5日、復興相を辞任した。

 だが、村井知事への叱責にはある理由があった。当時、宮城県では県と津波の被災者である漁業関係者が激しく対立していたのだ。

 村井知事は震災後、漁業復興のための政策として「漁業権の開放」や「漁港の集約」など、漁業関係者に次々と“改革”を迫っていた。

 これだけではない。宮城県の復興構想会議の委員となった12人のうち、宮城県在住者はわずか2人。岩手県の津波復興委員会の19人のメンバーが全員岩手県在住者であったことに比べて、「地元を軽視している」と批判されていた。震災復興計画についても野村総研が支援し、委員のほとんどは首都圏在住者だったため、村井知事が上京して復興会議が開催されている状態だった。

 一方、龍さんは震災発生直後から防災担当相として災害対応の陣頭指揮をとっていた。原発事故の対応、生活物資の緊急支援、がれき処理など、次々に降りかかる難題を処理しながら、被災地に繰り返し足を運んだ。その時も、被災者の声に耳を傾け、その話をもとに国としての対応を決めていた。そういった時に、村井知事と面会することになったのだ。

 面会後の報道は批判一色で注目されなかったが、この時に龍さんは、村井知事に「(漁業の復興計画は)県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」とクギをさしている。龍さんにとってみれば、トップダウンで復興計画を決めようとしている村井知事に対して、被災者の怒りを知事に直接ぶつけたつもりだったのだろう。

 だが、世の中はそうは受け止めてくれなかった。当時、震災対応の批判や民主党内で政争が相次ぎ、菅直人内閣の支持率は3割を切っていた。国民の不満は爆発寸前で、龍さんの発言の方が「国からのトップダウン」、村井知事の姿が「現場で奮闘する知事」に映ってしまった。

 たしかに、漁業権を「既得権益」とみなして村井知事の方針に賛同する人はいた。一方、近年の研究では、江戸時代から長い時間をかけて形成された漁業権を中心とした「浜の秩序」は、経済合理性が高く、環境面でも持続可能な制度だと評価する専門家もいる。

 ただ、龍さんがこだわったのは、漁業権の開放に賛成か反対かということではなかったはずだ。県知事という強い者が、被災者という弱い者にトップダウンで言うことをきかせようとする。前出の平野さんは「龍さんはそのことが許せなかったのだと思う」と語る。

 復興相を辞任した後には、キングハーベストでちょっとした騒動も起きた。会見で辞任を決めたのはいつかと記者から問われた龍さんが、「昨日の夜9時半、キングハーベストというお店で昔の音楽を聴きながら」と話したのだ。案の定、その日の夜から辞任を決めた時の様子を聞こうと、店には記者が次々と訪れた。

 世間では龍さんへの批判が沸騰していた。しかし、そんな時でも常連客たちは「龍さんは理由もなくあんなことを言う人ではない。何であんなに激しい口調になったのか、その背景を知ってほしい」と必死に龍さんをかばった。前出の常連客は、当時のことをこう振り返る。

「震災対応で緊張の連続で、最後は疲れ過ぎで感情のコントロールができなくなってしまったのだと思う。店に話を聞きに来た記者で、龍さんに会いに行った人もいたけど、村井知事を批判するようなことは言わなかったそうです。自分の失敗を誰かの責任にしたり、言い訳をしたりしない。龍さんらしいなと思いました」

 辞任会見では、国鉄総裁だった石田礼助の言葉を引用して、「粗にして野だが卑ではない松本龍、一兵卒として復興に努力をしていきたい」と話した。その言葉通り、大臣辞任後、そして政界引退後も被災地への訪問や自治体関係者、被災地選出の与野党議員との交流を続けた。熊本で開かれる水俣病の慰霊祭も、毎年のように参加していた。

 酒場には、出会いと別れがある。結婚、出産、就職、転勤、退職など、人生の転換点を機にある人は新しい客となり、ある人は足が遠のく。龍さんも、政治家を引退してからは福岡を中心とした生活となり、店に来る回数は減った。

 それでも上京した時にはフラリと店にやって来た。時には、被災県の自治体の首長と一緒だったこともある。平野さんによると、その首長たちは「震災の時、龍さんに助けてもらった」と感謝の言葉を述べていたという。

 龍さんが店にいることをどこからか聞きつけ、環境相時代に一緒に仕事をした官僚たちが挨拶に来たこともある。彼らは口をそろえて「松本先生の人柄があったから、COP10をまとめることができた」と話していた。

「酒場のたしなみ」をよく知る素敵な大人だった。龍さんが来ると、自然と人の和ができて店が和やかになる。しかし、今となってはその機会は永遠に失われてしまった。それでも、キングハーベストに集まる人たちはこう言うのだ。

「ほら、今にでもそこの入口から龍さんが入って来そうじゃない」

 7月23日、葬儀が福岡で執り行われ、龍さんは荼毘に付された。同日夜、キングハーベストでは龍さんお気に入りの指定席に、焼酎のお湯割りとオムレツが置かれた。最近店に来た時は、生まれたばかりの孫の話をしていて、その表情は国会議員時代には見せたことのないような笑顔だったという。67歳の早すぎる旅立ちだった。

(AERA dot. 2018.7.24)

「伝統の創出」

2018年07月10日 | 天皇
天皇陛下は、皇居のなかにある田んぼで稲を育てておられる。そのうち田植えは、日本の稲作で重要な行事とされてきたため、特にこの日は儀式として認識され、宮内庁の発表に従ってマスコミのニュースになる。一方、皇后陛下は絹糸生産のために蚕(かいこ)を飼っておられ、これまた毎年の恒例行事になっている。

古来ずつと続いているかに思われるこの二つの行事は、しかし、近代になってから創られたものだった。しかも、もとは別々に始まったものが、儒教教義にもとづいて一対のものとされている。

皇族の宗教は神道だとされる。そのため、墓も神道式に造営され、基本は土葬である。ところが、奈良時代から江戸時代まで、皇室の宗教は仏教だった。それ以前の古墳時代とは異なって、仏教教義によって墓は重視されずに供養塔が取って代わり、多くの場合に火葬が行われた。現在につながる制度は十九世紀になってから、儒教にもとづいて考案された神道式によって創られたものである。

天皇は律令の規定によって多くの神々を祀(まつ)ることになっていた。特に祖先祭祀と豊作祈願とは、王権の正統性を示す重要な意味をもっていた。ただ、ここでも、十九世紀にその改定がなされ、儒教教義の影響と解釈できる方式が採用されている。

天皇家は長い歴史をもっている。その間、天皇家が二つに割れて抗争したこともあった。これを後世どのように評価して記述するかは、天皇代数の数え方に反映される。明治政府はそれまでの数え方を改め、新しい歴史認識による国民統合を図る。

以上の諸事例は「復古」を掲げていたけれども、その内実は「伝統の創出」だった。一方で、天皇に関する事柄でも西洋近代の流儀にあわせる改変が実施されてきた。暦(こよみ)の改革もその一例だが、しかし、意外にもそこには思想的な議論や苦悩はなかった。

元号は、日本国号・天皇号・律令と並んで、八世紀以降の伝統である。しかし、明治政府は一世一元制を採用し、改元が具(そな)えていた旧来の性格を一掃する。この考え方は中国の新しい儒教たる朱子学に由来するかたちで、江戸時代の一部の学者によって唱えられていた。

(小島毅『天皇と儒教思想』光文社新書、2018年)


民営化(Privatization)

2018年07月10日 | 国際情勢
ベクテル社という巨大企業の長い過去とその行状の恐ろしさ物凄さをご存じの方も少なくないと思います。私は民営化(Privatization)の恐ろしさについて語り始めているわけですが、ベクテル社のことを思うとこの民営化という言葉そのものが既に空しく、ベクテル社という企業体の存在自体がアメリカという巨大国家そのものの象徴のように思えて来るのを禁じ得ません。ベクテル社とアメリカ政府との人事面での関連をみると、両者の関係は全くの相互浸透であり、「天下り」などという悠長なものではありません。ネット上に Wikipedia の “Bechtel” の項目をはじめ、多数の情報源がありますので、ご覧になって下さい。このブログでは、前にも取り上げたことのある「ボリビアのコチャバンバの水騒動」の話を少し復習します。

1999年、財政困難に落ち入っていたボリビア政府は世界銀行から融資をうける条件の一つとして公営の水道事業の私営化を押し付けられます。ビル・クリントン大統領も民営化を強く求めました。その結果の一つがボリビア第3の都市コチャバンバの水道事業のベクテル社による乗っ取りでした。民営化入札は行われたのですが入札は Aguas del Tunari という名のベクテル社の手先会社一社だけでした。ボリビア政府から40年間のコチャバンバの上下水道事業を引き取ったベクテル社は直ちに大幅な水道料金の値上げを実行し、もともと収益の上がらない貧民地区や遠隔市街地へのサービスのカットを始めました。値上げのために料金を払えなくなった住民へはもちろん断水です。
 
2000年2月はじめ、労働組合指導者 Oscar Olivera などが先頭にたって,数千人の市民の抗議集会が市の広場で平和裡に始まりましたが、ベクテル社の要請を受けた警察機動隊が集会者に襲いかかり、2百人ほどが負傷し、2名が催涙ガスで盲目になりました。この騒ぎをきっかけに抗議デモの規模は爆発的に大きくなりコチャバンバだけではなくボリビア全体に広がり、ボリビア政府は国軍を出動させて紛争の鎮圧に努めますが、4月に入って17歳の少年が国軍将校によって射殺され、他にも数人の死者が出ました。紛争はますます激しさを増し、2001年8月には大統領 Hugo Banzer は病気を理由に辞職し、その後、政府は水道事業の民営化(Privatization)を規定した法律の破棄を余儀なくされました。事の成り行きに流石のベクテル社も撤退を強いられることになりましたが、もちろん、ただでは引き下がりません。契約違反だとして多額の賠償金の支払いを貧しい小国ボリビアに求めました。
 
このコチャバンバの水闘争が2005年の大統領選挙での、反米、反世界銀行、反民営化、反グローバリゼーションの先住民エボ・モラレスの当選とつながっているのは明らかです。モラレスはコチャバンバ地方を拠点とする農民運動の指導者でした。
 
水道事業の私営化についてのベクテル社の魔手はフィリッピンやインドやアフリカ諸国にも及び、ベクテル社は今や世界一の水道事業(もっと一般に水商売と言った方が適切ですが)請負会社です。ローカルな反対運動は各地で起きていますが、今までの所それが成功したのはコチャバンバだけのようです。水資源の争奪は、人類に取って、今までの石油資源の争奪戦争を継ぐものになると思われます。石油事業におけるベクテル社の活動の歴史については是非 ネットでお調べ下さい。アメリカの兵器産業といえば、質量ともに世界ダントツです。その最高の研究施設であるロスアラモスもリヴァモアも今や実質的にベクテル社の支配下にあります。
 
ベクテル社という巨大な魔物のような私企業の実態を見ていると,先ほども言いましたが、民営化(Privatization)という我々が日常的に馴染んでいる言葉が、実は、ミスノウマー(misnomer、 呼び誤り、誤称)であるとさえ思われてきます。

藤永 茂(2012年3月14日)

(私の闇の奥)