民主党政権で環境相や復興相を務めた松本龍さんが7月21日、肺がんのため死去した。67歳だった。
東日本大震災を受けて新設された復興相に就任した後、サングラス姿で記者会見に挑むなど何かと話題を集めた政治家だった。2011年7月、達増拓也岩手県知事に復興に向けて「キックオフだ」とサッカーボールを蹴り込んだり、村井嘉浩宮城県知事に「ちゃんとやれ」などと発言したことが批判され、就任9日目で引責辞任。その後、12年の衆院選で落選、14年に政界引退を表明した。
世間一般では復興相辞任の時の記憶から「上から目線の偉そうな政治家」との印象が強いかもしれない。だが、その素顔はまったく違って、誰からも愛される人柄だった。
また、暴言の背景には、当時、被災地で起きていたある問題が引き金になっていた。問題発言の裏にあった真実と、誤解を受けることの多かった政治家の秘話を、生前に親交のあった人の証言から紹介する。
松本龍さんは、赤坂のバー「キングハーベスト」の常連だった。顔なじみの客からは「龍さん」の愛称で慕われ、誰とでも分け隔てなく会話を楽しむ人だった。現職大臣の時もフラっと店にやって来た。政府の要職を務めながらも偉ぶることはまったくなく、静かにお湯割りの焼酎やウイスキーを飲んでいることが多かった。
音楽と映画が好きで、読書家。与野党関係なく多くの政治家から信頼されていた。龍さんが店に来ていることを知った安倍内閣の現役閣僚が、予定を変更して会いにきたこともあったという。
祖父は「解放の父」と呼ばれた松本治一郎元参院副議長。父の松本英一参院議員の秘書を務めた後、1990年に初当選した。店のマスターである平野敏樹さんは、龍さんについて「苦労している人に特に優しい人だった。右とか左とか関係なく、みんなから愛されていた」と話す。
常連客の一人は、龍さんからこんな言葉を教えてもらったという。
<村の床屋の腕が悪いからと言って、わざわざ都会まで出かけるようではいけない。そのままひいきにして、その男の腕を磨いてもらった方が賢明である>
「もともとはガンジーの言葉だそうです。龍さんは、この言葉の最後に『たとえ血だらけになろうとも』と勝手に付け加えていました(笑)。その土地に住んでいる人の思いと、地域社会の将来を誰よりも大切に考えていた人でした」(店の常連客)
政治家としての実績では、10年9月に就任した環境相時代が知られている。大臣就任1カ月で国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で議長を務め、名古屋議定書の採択を成功させた。この時は、先進国と意見が対立していた発展途上国に対して丁寧な対話と交渉を重ねた。同年11月には新潟水俣病の被害者と面会し、環境相としてはじめて謝罪した。いずれも、立場の弱い人と誠実に話をすることを基本姿勢にしていた。
COP10の交渉過程を記した著書『環境外交の舞台裏 大臣が語るCOP10の真実』(日経BP社)では、自らの生き方についてこう話している。
<私はある時から、人間は一人ひとり皆、違う悲しみを抱えているんだと思うようになりました。日本に1億2000万人の人がいたら、悲しみも1億2000万通りあるのだろうと。(中略)それからですね。悲しいことに寄り添うとか、肩をたたき合えるとか、そういう人間になりたいと考えるようになった>
だが、この“優しさ”が11年7月3日の暴言問題を引き起こす要因となってしまった。
この日、復興相に就任して初めて被災地入りをした龍さんは、午前中に岩手県の達増拓也知事と面会。「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない」「九州の人間だから、何市がどこの県とか分からん」と語った。際どい発言ではあったが、面会に参加した人の多くは、龍さんが被災地の現場に足繁く通っていることを知っていた。そのこともあってか、面会は大きな問題もなく終了した。
激しく批判をされたのは、宮城県で行われた村井嘉浩知事との面会だ。村井知事は応接室に入室した後に握手を求めたが、龍さんが拒否。「お客さんが来る時は、自分が入ってからお客さんを呼べ」と厳しい口調で注意した。さらには報道陣に「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか、みなさん。『書いたらもうその社は終わり』だから」と発言。その言葉がテレビで繰り返し報道され、「被災者を見下している」などと批判された。それからわずか2日後の7月5日、復興相を辞任した。
だが、村井知事への叱責にはある理由があった。当時、宮城県では県と津波の被災者である漁業関係者が激しく対立していたのだ。
村井知事は震災後、漁業復興のための政策として「漁業権の開放」や「漁港の集約」など、漁業関係者に次々と“改革”を迫っていた。
これだけではない。宮城県の復興構想会議の委員となった12人のうち、宮城県在住者はわずか2人。岩手県の津波復興委員会の19人のメンバーが全員岩手県在住者であったことに比べて、「地元を軽視している」と批判されていた。震災復興計画についても野村総研が支援し、委員のほとんどは首都圏在住者だったため、村井知事が上京して復興会議が開催されている状態だった。
一方、龍さんは震災発生直後から防災担当相として災害対応の陣頭指揮をとっていた。原発事故の対応、生活物資の緊急支援、がれき処理など、次々に降りかかる難題を処理しながら、被災地に繰り返し足を運んだ。その時も、被災者の声に耳を傾け、その話をもとに国としての対応を決めていた。そういった時に、村井知事と面会することになったのだ。
面会後の報道は批判一色で注目されなかったが、この時に龍さんは、村井知事に「(漁業の復興計画は)県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」とクギをさしている。龍さんにとってみれば、トップダウンで復興計画を決めようとしている村井知事に対して、被災者の怒りを知事に直接ぶつけたつもりだったのだろう。
だが、世の中はそうは受け止めてくれなかった。当時、震災対応の批判や民主党内で政争が相次ぎ、菅直人内閣の支持率は3割を切っていた。国民の不満は爆発寸前で、龍さんの発言の方が「国からのトップダウン」、村井知事の姿が「現場で奮闘する知事」に映ってしまった。
たしかに、漁業権を「既得権益」とみなして村井知事の方針に賛同する人はいた。一方、近年の研究では、江戸時代から長い時間をかけて形成された漁業権を中心とした「浜の秩序」は、経済合理性が高く、環境面でも持続可能な制度だと評価する専門家もいる。
ただ、龍さんがこだわったのは、漁業権の開放に賛成か反対かということではなかったはずだ。県知事という強い者が、被災者という弱い者にトップダウンで言うことをきかせようとする。前出の平野さんは「龍さんはそのことが許せなかったのだと思う」と語る。
復興相を辞任した後には、キングハーベストでちょっとした騒動も起きた。会見で辞任を決めたのはいつかと記者から問われた龍さんが、「昨日の夜9時半、キングハーベストというお店で昔の音楽を聴きながら」と話したのだ。案の定、その日の夜から辞任を決めた時の様子を聞こうと、店には記者が次々と訪れた。
世間では龍さんへの批判が沸騰していた。しかし、そんな時でも常連客たちは「龍さんは理由もなくあんなことを言う人ではない。何であんなに激しい口調になったのか、その背景を知ってほしい」と必死に龍さんをかばった。前出の常連客は、当時のことをこう振り返る。
「震災対応で緊張の連続で、最後は疲れ過ぎで感情のコントロールができなくなってしまったのだと思う。店に話を聞きに来た記者で、龍さんに会いに行った人もいたけど、村井知事を批判するようなことは言わなかったそうです。自分の失敗を誰かの責任にしたり、言い訳をしたりしない。龍さんらしいなと思いました」
辞任会見では、国鉄総裁だった石田礼助の言葉を引用して、「粗にして野だが卑ではない松本龍、一兵卒として復興に努力をしていきたい」と話した。その言葉通り、大臣辞任後、そして政界引退後も被災地への訪問や自治体関係者、被災地選出の与野党議員との交流を続けた。熊本で開かれる水俣病の慰霊祭も、毎年のように参加していた。
酒場には、出会いと別れがある。結婚、出産、就職、転勤、退職など、人生の転換点を機にある人は新しい客となり、ある人は足が遠のく。龍さんも、政治家を引退してからは福岡を中心とした生活となり、店に来る回数は減った。
それでも上京した時にはフラリと店にやって来た。時には、被災県の自治体の首長と一緒だったこともある。平野さんによると、その首長たちは「震災の時、龍さんに助けてもらった」と感謝の言葉を述べていたという。
龍さんが店にいることをどこからか聞きつけ、環境相時代に一緒に仕事をした官僚たちが挨拶に来たこともある。彼らは口をそろえて「松本先生の人柄があったから、COP10をまとめることができた」と話していた。
「酒場のたしなみ」をよく知る素敵な大人だった。龍さんが来ると、自然と人の和ができて店が和やかになる。しかし、今となってはその機会は永遠に失われてしまった。それでも、キングハーベストに集まる人たちはこう言うのだ。
「ほら、今にでもそこの入口から龍さんが入って来そうじゃない」
7月23日、葬儀が福岡で執り行われ、龍さんは荼毘に付された。同日夜、キングハーベストでは龍さんお気に入りの指定席に、焼酎のお湯割りとオムレツが置かれた。最近店に来た時は、生まれたばかりの孫の話をしていて、その表情は国会議員時代には見せたことのないような笑顔だったという。67歳の早すぎる旅立ちだった。
(AERA dot. 2018.7.24)
東日本大震災を受けて新設された復興相に就任した後、サングラス姿で記者会見に挑むなど何かと話題を集めた政治家だった。2011年7月、達増拓也岩手県知事に復興に向けて「キックオフだ」とサッカーボールを蹴り込んだり、村井嘉浩宮城県知事に「ちゃんとやれ」などと発言したことが批判され、就任9日目で引責辞任。その後、12年の衆院選で落選、14年に政界引退を表明した。
世間一般では復興相辞任の時の記憶から「上から目線の偉そうな政治家」との印象が強いかもしれない。だが、その素顔はまったく違って、誰からも愛される人柄だった。
また、暴言の背景には、当時、被災地で起きていたある問題が引き金になっていた。問題発言の裏にあった真実と、誤解を受けることの多かった政治家の秘話を、生前に親交のあった人の証言から紹介する。
松本龍さんは、赤坂のバー「キングハーベスト」の常連だった。顔なじみの客からは「龍さん」の愛称で慕われ、誰とでも分け隔てなく会話を楽しむ人だった。現職大臣の時もフラっと店にやって来た。政府の要職を務めながらも偉ぶることはまったくなく、静かにお湯割りの焼酎やウイスキーを飲んでいることが多かった。
音楽と映画が好きで、読書家。与野党関係なく多くの政治家から信頼されていた。龍さんが店に来ていることを知った安倍内閣の現役閣僚が、予定を変更して会いにきたこともあったという。
祖父は「解放の父」と呼ばれた松本治一郎元参院副議長。父の松本英一参院議員の秘書を務めた後、1990年に初当選した。店のマスターである平野敏樹さんは、龍さんについて「苦労している人に特に優しい人だった。右とか左とか関係なく、みんなから愛されていた」と話す。
常連客の一人は、龍さんからこんな言葉を教えてもらったという。
<村の床屋の腕が悪いからと言って、わざわざ都会まで出かけるようではいけない。そのままひいきにして、その男の腕を磨いてもらった方が賢明である>
「もともとはガンジーの言葉だそうです。龍さんは、この言葉の最後に『たとえ血だらけになろうとも』と勝手に付け加えていました(笑)。その土地に住んでいる人の思いと、地域社会の将来を誰よりも大切に考えていた人でした」(店の常連客)
政治家としての実績では、10年9月に就任した環境相時代が知られている。大臣就任1カ月で国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で議長を務め、名古屋議定書の採択を成功させた。この時は、先進国と意見が対立していた発展途上国に対して丁寧な対話と交渉を重ねた。同年11月には新潟水俣病の被害者と面会し、環境相としてはじめて謝罪した。いずれも、立場の弱い人と誠実に話をすることを基本姿勢にしていた。
COP10の交渉過程を記した著書『環境外交の舞台裏 大臣が語るCOP10の真実』(日経BP社)では、自らの生き方についてこう話している。
<私はある時から、人間は一人ひとり皆、違う悲しみを抱えているんだと思うようになりました。日本に1億2000万人の人がいたら、悲しみも1億2000万通りあるのだろうと。(中略)それからですね。悲しいことに寄り添うとか、肩をたたき合えるとか、そういう人間になりたいと考えるようになった>
だが、この“優しさ”が11年7月3日の暴言問題を引き起こす要因となってしまった。
この日、復興相に就任して初めて被災地入りをした龍さんは、午前中に岩手県の達増拓也知事と面会。「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない」「九州の人間だから、何市がどこの県とか分からん」と語った。際どい発言ではあったが、面会に参加した人の多くは、龍さんが被災地の現場に足繁く通っていることを知っていた。そのこともあってか、面会は大きな問題もなく終了した。
激しく批判をされたのは、宮城県で行われた村井嘉浩知事との面会だ。村井知事は応接室に入室した後に握手を求めたが、龍さんが拒否。「お客さんが来る時は、自分が入ってからお客さんを呼べ」と厳しい口調で注意した。さらには報道陣に「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか、みなさん。『書いたらもうその社は終わり』だから」と発言。その言葉がテレビで繰り返し報道され、「被災者を見下している」などと批判された。それからわずか2日後の7月5日、復興相を辞任した。
だが、村井知事への叱責にはある理由があった。当時、宮城県では県と津波の被災者である漁業関係者が激しく対立していたのだ。
村井知事は震災後、漁業復興のための政策として「漁業権の開放」や「漁港の集約」など、漁業関係者に次々と“改革”を迫っていた。
これだけではない。宮城県の復興構想会議の委員となった12人のうち、宮城県在住者はわずか2人。岩手県の津波復興委員会の19人のメンバーが全員岩手県在住者であったことに比べて、「地元を軽視している」と批判されていた。震災復興計画についても野村総研が支援し、委員のほとんどは首都圏在住者だったため、村井知事が上京して復興会議が開催されている状態だった。
一方、龍さんは震災発生直後から防災担当相として災害対応の陣頭指揮をとっていた。原発事故の対応、生活物資の緊急支援、がれき処理など、次々に降りかかる難題を処理しながら、被災地に繰り返し足を運んだ。その時も、被災者の声に耳を傾け、その話をもとに国としての対応を決めていた。そういった時に、村井知事と面会することになったのだ。
面会後の報道は批判一色で注目されなかったが、この時に龍さんは、村井知事に「(漁業の復興計画は)県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」とクギをさしている。龍さんにとってみれば、トップダウンで復興計画を決めようとしている村井知事に対して、被災者の怒りを知事に直接ぶつけたつもりだったのだろう。
だが、世の中はそうは受け止めてくれなかった。当時、震災対応の批判や民主党内で政争が相次ぎ、菅直人内閣の支持率は3割を切っていた。国民の不満は爆発寸前で、龍さんの発言の方が「国からのトップダウン」、村井知事の姿が「現場で奮闘する知事」に映ってしまった。
たしかに、漁業権を「既得権益」とみなして村井知事の方針に賛同する人はいた。一方、近年の研究では、江戸時代から長い時間をかけて形成された漁業権を中心とした「浜の秩序」は、経済合理性が高く、環境面でも持続可能な制度だと評価する専門家もいる。
ただ、龍さんがこだわったのは、漁業権の開放に賛成か反対かということではなかったはずだ。県知事という強い者が、被災者という弱い者にトップダウンで言うことをきかせようとする。前出の平野さんは「龍さんはそのことが許せなかったのだと思う」と語る。
復興相を辞任した後には、キングハーベストでちょっとした騒動も起きた。会見で辞任を決めたのはいつかと記者から問われた龍さんが、「昨日の夜9時半、キングハーベストというお店で昔の音楽を聴きながら」と話したのだ。案の定、その日の夜から辞任を決めた時の様子を聞こうと、店には記者が次々と訪れた。
世間では龍さんへの批判が沸騰していた。しかし、そんな時でも常連客たちは「龍さんは理由もなくあんなことを言う人ではない。何であんなに激しい口調になったのか、その背景を知ってほしい」と必死に龍さんをかばった。前出の常連客は、当時のことをこう振り返る。
「震災対応で緊張の連続で、最後は疲れ過ぎで感情のコントロールができなくなってしまったのだと思う。店に話を聞きに来た記者で、龍さんに会いに行った人もいたけど、村井知事を批判するようなことは言わなかったそうです。自分の失敗を誰かの責任にしたり、言い訳をしたりしない。龍さんらしいなと思いました」
辞任会見では、国鉄総裁だった石田礼助の言葉を引用して、「粗にして野だが卑ではない松本龍、一兵卒として復興に努力をしていきたい」と話した。その言葉通り、大臣辞任後、そして政界引退後も被災地への訪問や自治体関係者、被災地選出の与野党議員との交流を続けた。熊本で開かれる水俣病の慰霊祭も、毎年のように参加していた。
酒場には、出会いと別れがある。結婚、出産、就職、転勤、退職など、人生の転換点を機にある人は新しい客となり、ある人は足が遠のく。龍さんも、政治家を引退してからは福岡を中心とした生活となり、店に来る回数は減った。
それでも上京した時にはフラリと店にやって来た。時には、被災県の自治体の首長と一緒だったこともある。平野さんによると、その首長たちは「震災の時、龍さんに助けてもらった」と感謝の言葉を述べていたという。
龍さんが店にいることをどこからか聞きつけ、環境相時代に一緒に仕事をした官僚たちが挨拶に来たこともある。彼らは口をそろえて「松本先生の人柄があったから、COP10をまとめることができた」と話していた。
「酒場のたしなみ」をよく知る素敵な大人だった。龍さんが来ると、自然と人の和ができて店が和やかになる。しかし、今となってはその機会は永遠に失われてしまった。それでも、キングハーベストに集まる人たちはこう言うのだ。
「ほら、今にでもそこの入口から龍さんが入って来そうじゃない」
7月23日、葬儀が福岡で執り行われ、龍さんは荼毘に付された。同日夜、キングハーベストでは龍さんお気に入りの指定席に、焼酎のお湯割りとオムレツが置かれた。最近店に来た時は、生まれたばかりの孫の話をしていて、その表情は国会議員時代には見せたことのないような笑顔だったという。67歳の早すぎる旅立ちだった。
(AERA dot. 2018.7.24)