畑倉山の忘備録

日々気ままに

サトウ・西郷会談

2018年04月07日 | 歴史・文化
(1866年)12月6日、サトウは兵庫に到着した。当時、小松・西郷・大久保など、薩摩藩の実力者が京阪地方に集まっていたので、サトウはこれらの人々と接触するため、ここに来たのであった。

まもなく西郷が大阪からやってきた。前年、サトウは、兵庫港に停泊している薩摩の船のなかで寝ている西郷を見たことはあったが、直接面談するのは、これがはじめてであった。「型どおりの挨拶をかわしてからも、その人物はすこぶるのっそりしていて、話をしようともしないので、私はいささか、やり場に困った。けれど大きな黒ダイヤのようにかがやく眼をしていて、口をきくとき浮ベる微笑には、大ヘん親しみがあった」というのが、このときのサトウの印象である。

ここでサトウは、西郷からはじめて慶喜が将軍に任命されたことを知らされた。京都で大久保らの画策している大名会議が成功して将軍制廃止に向うことを期待していたサトウにとって、これは意外なニュースであった。ついで話は、慶喜の将軍に任命された事情から、長州征伐のあと始末や兵庫開港など、重要な政治問題にすすんだ。サトウは、得意の日本語でとうとうと弁じたてた。

「日本の内紛は、今年中に解決されることがもっとも重要なのですから、この点、大名会議の開催されなかったことは非常に遺憾です。われわれは日本と条約を結んだので、特別の個人を相手にしているのではありません。またわれわれは、貴国の内紛の解決に干渉するつもりはありません。日本が天皇に統治されようと、幕府に支配されようと、または個々の領邦の集合した連邦になろうと、それは、われわれにとってどうでもよいことですが、誰が真の主権者であるかを知りたいのです」

それからサトウは、生麦事件や下関海峡における外艦砲撃事件、そして最後に幕長戦争における長州の勝利をあげて、幕府の権威に重大な疑惑をもっていることをのベたのち、つぎのようにいった。

「こんなふうですから、われわれは、幕府の主権を信じかねるようになり、大名会議がこの難局を打開するのを期待していたのです。外国側が予定どおりに来年、兵庫開港を要求する場合、大名がこれに反対するならば、幕府はふたたび苦境におちいるでしょう」

彼は、日本の内紛に干渉するつもりはない、とことわりながら、外国の兵庫開港要求を合図に、大名が立上って幕府を苦境におとしいれる戦術を指示した。楽屋では盛んに指図をしておきながら、舞台には日本人を立たせるというのが、外相の訓令にもあるように、イギリスの対日政策であった。

兵庫開港問題について、西郷はつぎのように答えた。

「私の主人としては、兵庫開港そのものには反対せぬが、幕府だけの利益のために開かれるのに反対します。兵庫に関するすべての問題を五、六人の大名の委員会に委ねれば、幕府が私腹を肥やすため、自分勝手に行動するのを防ぐことができましょう。兵庫はわれわれにとって大いに重要です。われわれは、みな大阪の商人に借金があって、この借金の支払いに毎年国産を送らねばならぬ。それでもし兵庫が横浜と同じしかたで開かれるとしたら、われわれの財政は大混乱をきたすでしょう」

五、六人の大名の委員会という案は、鹿児島におけるパークスとの会談で、西郷が示したところと同じであり、それはさかのぼれば、勝が西郷に教えた「賢侯会議」につらなるであろう。薩摩藩は、西南諸藩にとってきわめて重要性をもつ兵庫港を、この委員会の監理のもとにおき、そこでの貿易を幕府の独占から防ごうとしたのである。

「なるほど、これであなたがたが兵庫開港を重視されるわけがよくわかりました。兵庫は、あなたがたの最後の切札なんですね。兵庫開港以前に、貴国の内紛が解決されないのは、はなはだ残念です」

サトウは、内紛解決の方法について、もう一度、だめを押した。これこそ、まさに『英国策論』に示されているような平和的幕府解消策の線である。

サトウは、こうしてパークスの触手としての役割を完全にはたし、西郷との会談の翌日、兵庫を出帆して横浜に向った。

(石井孝『明治維新の舞台裏 第二版』岩波新書、1975年)