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畑倉山の忘備録

日々気ままに

失敗の責任は無視する

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
たしかに瀬島は兵器産業により伊藤忠の事業を大きく飛躍させた。しかし、彼の失敗はなぜか伝えられていない。保阪正康の『瀬島龍三参謀の昭和史』も、共同通信社社会部編の『沈黙のファイル』も、伊藤忠時代の瀬島龍三の事業の失敗をほとんど伝えない。

まず、瀬島龍三がいかに石油事業で伊藤忠に大打撃を与え続けたのかを見ていきたい。

インドネシナとの賠償ビジネスでは、伊藤忠は大きな利益を上げ続けた。しかし、瀬島龍三は、インドネシアでの石油採掘事業に熱中する。スマトラ沖合と北西ジャワ沖合でいくらかは成功したものの、瀬島が伊藤忠に投資させた数多くの開発事業はことごとく失敗した。インドネシアで原油開発を行ない、シンガポールでの石油精製を仕掛けた瀬島は "和製メジャー" を目指すなどと豪語した。(中略)しかし、伊藤忠に大きな不幸が襲いかかった。

瀬島龍三は、東亜石油、東亜共石両社に投資し、446億円という巨額の累積赤字(1978年度)を抱えるにいたった。債務保証1240億円。伊藤忠が両社に与えた商社金融は1900億円に上った。伊藤忠の東亜進出(1966年)は、瀬島が通産省の民族系石油精製販売会社の強化育成事業に便乗してひと儲けを画し、(中略)約2000億円の負債を伊藤忠に与えたのである。

1978年、瀬島龍三は伊藤忠商事取締役会長になった。1979年、伊藤忠は東亜二社から撤退した。瀬島は東亜二社への巨大損失の責任をとることなく無視し続けた。1985年1月、伊藤忠は昭和石油に東亜石油の株を譲渡して、全面撤退した。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


「国家のために奉公する」なんてよく言えたもんだ

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
魚住昭・佐髙信の『だまされることの責任』(2004年)の中で魚住昭(『沈黙のファイル』の共同執筆者)は次のように語っている。

<瀬島さんは国家のためとか、国家に奉公するとかさかんに言うけど、僕に言わせれば違う。たとえば、彼はシベリアから帰還して伊藤忠に就職するんですが、そこで彼がやったのは対韓、対インドネシア賠償ビジネスです。日本が占領や戦争の償いとして韓国やインドネシアに巨額の賠償金を払う。これはいわゆるひも付き賠償で、「現物」で払うという条件がついている。向こうの政府が必要な物資などを日本企業に注文し、代金の支払いは日本の政府が保証する。商社にとっては代金のとりはぐれがない、うまい商売なんです。

そこで瀬島さんは旧軍時代のつてを使ったり、右翼の黒幕といわれた児玉誉士夫などと結びついたりして、伊藤忠の賠償ビジネスで活躍し、出世していく。そこでは相手国の高官らに対する賄賂工作なんてごく当たり前のことだったんです。

裏でそんなことをやりながら「国家のために奉公する」なんてよく言えたもんだなと思うんです。本当は企業の儲けとか、自分の出世という私的な目的のためなのに、常に「国家」とか「公」というものを持ち出して、自分の行為を正当化するんですね。瀬島さんだけでなく、そんな人が政治家とか官僚とか財界人とかにごろごろしている。>

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


インドネシア賠償ビジネス(下)

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
児玉誉士夫と瀬島龍三との間で、インドネシア賠償金を一括して奪う計画がなされた。

(1)瀬島龍三が大本営参謀であったときの先輩辻政信を説得し、インドネシアに行かせスカルノと接触させること。
(2)渡邉恒雄記者が、スカルノが訪日するとき、スカルノ暗殺計画があるのを秘かにインドネシアの駐日大使に伝えること。
(3)スカルノをガードするとの目的で羽田空港に児玉誉士夫の友人の暴力団(東声会)のメンバーを動員すること。
(4)暴力団東声会の在日朝鮮人町井久之(鄭建永)の企業舎弟久保正雄が経営する「東日貿易」を通して賠償ビジネスを行なうこと。

スカルノ大統領の訪日を知ると児玉誉土夫は、赤坂の高級ナイトクラブ「コパカバーナ」のママに電話を入れた。スカルノの女の好みを説明した。選ばれたのは定時制高校を中退したばかりの19歳の女性、根本七保子であった。後のデヴィ夫人である。(中略)

インドネシア賠償ビジネスは伊藤忠に莫大な利益をもたらした。児玉誉士夫の名が登場することにより、国会でもこの問題はタブーとなった。児玉と東声会の町井久之の登場がいかに大きな存在であるかを政界も財界のトップたちも知らされたのである。

このインドネシア賠償ビジネスで、当時800億円の事業をなしとげた伊藤忠は一流商社の仲間入りをする。インドネシアの天然資源、特に石油事業に力を入れていく。(中略)

東日貿易ジャカルタ支店長桐島正也は「日本滞在中のスカルノ大統領を護衛してほしいという話が、インドネシアの駐日大使館から久保さんのところへ持ち込まれた。それまで久保さんはインドネシアとは縁がなかったから、だれか知人を通してだったと思う。それで久保さんは知り合いの暴力団幹部に頼んでボディガード役や、羽田空港で歓迎の旗を振る人間の大量動員を引き受けてもらった」と語っている。

インドネシアとは何の縁もなかった男がどうして東日貿易として伊藤忠と賠償ビジネスを立ち上げることができたのか。児玉誉士夫がすべて采配を振るったからである。久保正雄は児玉のところに出入りする右翼の一員だった。その男を町井久之に推したのは児玉だった。いわば、久保は児玉と町井の二人の企業舎弟だった。瀬島龍三は出世の階段を昇り常務となった。しかし、町井との交流を深めていったのである。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


インドネシア賠償ビジネス(上)

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
大東亜戦争で日本が敗北した後、東アジア諸国が次々と独立していった。日本の現代史家のほとんどは、大東亜戦争をアジア解放の戦争であったと主張している。しかし、アジア諸国を侵略した戦争であったことは間違いない。初代インドネシア大統領スカルノはいち早く日本に戦後賠償を要求した。

1957年11月、岸信介首相はインドネシアを訪問した。スカルノと岸の話し合いの結果、2億2300万ドルという賠償金額が決まった。インドネシア賠償委員会ができて細目の賠償金の要求案が日本側に提出された。交渉の結果、インドネシア側がプロジェクトを作成し見積書を日本側に提出し、個別の案件につき日本側が応じることになった。

この賠償プロジェクトが具体的に進行すると思われたとき、木下商店という商社が、岸首相と組んでいることが判明した。(中略)

これから本格的に木下商店が賠償ビジネスを開始しようとしたとき、インドネシアに支店さえ持っていなかった。在インドネシアに支店を持つ商社はすでに17社あった。しかし、これらの大手商社も木下商店の一括入札に敗れた。この木下商店の背後にいた石原広一郎(ひろいちろう)、小林中(あたる)という財界グループが岸を動かしていた。

瀬島龍三は大野伴睦、河野一郎にこの利権を伊藤忠が奪うようにできないかと相談した。二人の大物代議士は瀬島に「児玉誉士夫に会ってみろ。俺たちの紹介で来たといえばいい。あんた、三浦義一を動かせば児玉は必ず動く」と言った。瀬島は親友となった読売新聞の記者渡邉恒雄を誘い、児玉に会いにいく。

児玉誉士夫は右翼ではあるが、中国からダイヤモンド・金・銀を敗戦まぢかに日本に持ち帰り、その財を鳩山一郎、河野一郎らに提供して、政界の黒幕となっていた。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


政治家はどんなに汚いカネでも貰う

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
加藤昭の『鈴木宗男研究』(2002年)から引用する。文中、金炯旭(キムヒョンオク)とあるのは、1961年の朴正煕らの軍事クーデターに参加した男である。後に彼は中央情報部(KCIA)の部長になる。しかし、朴大統領と対立し、1973年米国に亡命した。

「青嵐会への献金疑惑が露顕する契機となったのは、海の向こうのアメリカで、『ワシントン・ポスト』紙が、

<朴正熙(パクチョンヒ)大統領の指揮下にある朴東宣(パクドンソン)ら韓国の工作員グループが、年間50万から100万米ドルを、贈り物ないしは選挙資金という形で米議員や当局者に配っていた>

とスッパ抜いたことに端を発する。1976年10月24日のことだ。

この疑惑事件はたちまち日本にも飛び火し、国会を揺るがす大騒動に発展した。翌77年7月12日、KCIA (韓国中央情報部)の元部長で米国に亡命中の金炯旭(キムヒョンオク)が、日韓政治資金の流れについて、次のように驚くべき発言を米下院公聴会の証言台に立ち、行ったのだ。

<韓国政府の中枢部から日本の自民党、とりわけ党内右派グループの青嵐会に巨額の対日工作資金が流れた。資金は、選挙支援などを名目に定期的に献金され、秘密工作の最高責任者は朴大統領の密命を受けた李秉禧(イビョンヒ)国務大臣だった>」

私が注目するその「実に生々しい証言」である。三つの資金ルートが存在したという。

(1)金成坤(キムソンコン)・元韓国民主共和党財政委員長→三井物産、三菱商事、日商岩井、伊藤忠商事、丸紅などの大手商社ルート。
(2)李厚洛(イフク)KCIA部長ルート。
(3)李秉禧→青嵐会ルート。

私は加藤昭の本を読みつつ、政治家というのは、どんなに汚いカネでも貰うものだと思った。だが、中川一郎、中尾栄一、三塚博、浜田幸一、中山正暉、石原慎太郎らの青嵐会のメンバーは全員否定している。大手商社のルートで中川一郎を中心に政治資金が流れたが、そのルートづくりをしたのが瀬島龍三に間違いがないのである。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


日韓国交正常化と対韓ビジネス

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
町井久之(本名・鄭建永 チョンゴニョン)は1922年、東京市芝区南佐久間町に生まれた。そして2002年に亡くなった。私はどうして町井のことを書くのか。(中略)ヤクザでありながら企業家として成功した人物は宅見勝(五代目山口組若頭)を別にして町井久之しかいないと思うからである。もう一つの理由は、瀬島龍三の対韓ビジネスに深く関わっているからである。

町井久之は児玉誉士夫の働きで韓国に行けるようになる。ヤクザを廃業すると宣言し、実業家への道を進むことになる。児玉誉士夫と瀬島龍三、そして日韓問題と深く関わっていく小佐野賢治が、町井の事業に協力するようになっていく。

1965年6月、14年にわたった日韓国交正常化交渉は妥結した。6月22日、佐藤栄作首相立ち合いのもと、両国の全権委員は日韓基本条約と四つの協定に調印した。この調印の後、児玉誉士夫と町井久之は親善訪問団として訪韓した。町井は東亜相互企業を一流の企業にする計画を立てる。彼は韓国外換銀行から110億円あまりの融資をうけた。また、さまざまなルートで170億円の借金もした。特に「西武不動産」からは10億円以上の借入をした。西武との関係は東亜相互企業がロッキード事件で消えるまで続いた。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


政治家と任侠道(下)

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
町井久之に話を戻そう。この訪韓に際して児玉誉士夫は韓国側に町井の同行を認めよと交渉した。しかし、「ヤクザの訪韓はダメだ」との回答であった。町井を児玉に紹介したのはプロレスラーの力道山であった。大野伴睦は当時日本プロレス・コミッショナー(1957年10月に就任)として力道山をかわいがっていた。大野伴睦、児玉誉士夫、町井久之のラインがこうして出来上がった。それに瀬島龍三が加わった。昔からの右翼であり、かつヤクザであった大野伴睦は訪韓の翌年の1963年、広域暴力団本多会(神戸)会長・平田勝市の襲名披露宴(豪華クラブ「新世紀」)で2500人以上の列席者を前にこうスピーチしている。

「政治家と任侠の道を歩むものは職業こそ違えどもどちらにも共通するものが一つある。それは、義理人情という信条に献身することである。我々の国をよりよくしていくため、任侠の道にさらに精進していただきますようお祈りして、私のお祝いの言葉といたします」

このスピーチを会の結びとして、2500人を超えるヤクザの連中は「天皇陛下万歳」を三唱した。その音頭をとったのは大野伴睦だった。岸信介の後、後継首相の約束を岸がこの大野にしていたのである。渡邉恒雄は『渡邉恒雄回顧録』の中に、「俺はその念書の写真を持っている」と得意げに書いている。大野伴睦は万歳三唱の音頭をとった翌年に死んでいる。ひょっとしたら、音頭をとったために死神が訪れたのであろうか。

町井久之は、児玉、瀬島とともには訪韓できなかったが、極秘で韓国に渡る。そして「東亜相互企業」を設立し韓国との貿易を始める。大野伴睦の秘書中川一郎を町井久之に紹介したのも児玉誉士夫だった。瀬島は秘書時代の中川一郎を大野と児玉に紹介される。また、河野一郎の子飼いの代議士中曽根康弘とも友人となる。瀬島は「田布施マネー」を使い、この二人を一つの会に集める「中々(ちゅうちゅう)会」の誕生である。中々会と町井久之は対韓貿易の利益を共有するようになる。これも瀬島龍三のお膳立てである。中川一郎は1963年11月、衆議院議員に初当選する。大野伴睦が翌年に死んだ後、河野一郎に接近する。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


政治家と任侠道(上)

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
韓国に軍事クーデターが起きたのは1961年5月16日未明。陸軍少将朴正熙(パクチョンヒ)が前年8月に成立したばかりの文民の張勉(チャンミヨン)内閣を倒した。クーデターの主力となったのは日本の旧陸軍士官学校の8期生、金鐘泌(キムジヨンピル、のちに韓国首相)、崔英沢(チュヨンタク)。二人はKCIAの有力メンバーであった。特に崔英沢は日本に来て政治工作をした。朝鮮戦争の後の韓国経済の復興のために、日本から「賠償金」を受け取る役目を与えられていた。崔英沢は1962年3月、児玉誉士夫を東京等々カの邸に訪ねた。児玉は崔英沢に言った。

「韓日交渉の妥結のためには自民党副総裁の大野さん、農林大臣の河野さんを説得しなければなりません」

児玉誉士夫はこの訪問の二ヵ月後、崔英沢に読売新聞記者渡邉恒雄を紹介する。崔英沢に頼まれた渡邉は協力を約束した。大野伴睦、渡邉恒雄が協力することとなり、賠償折衝は終盤に近づいた。韓国側3億5000万ドル、日本側2億5000万ドルの提示で互いの要求金額が決まった。金鐘泌が同年11月11日来日。箱根・小涌園ホテルにて、大野伴睦と会談した。翌12日、金は外務省で大平正芳外相と会談。このとき、「金・大平メモ」を作成した。池田勇人首相が渡米中であったので、日本側は大平外相だけがこの極秘メモを知るのみであった。

翌13日の読売新聞朝刊第一面に「大野氏、来月上旬訪韓」の特ダネ記事が出た。12月9日、大野伴睦は政府特使として池田勇人の親書を携えて訪韓した。そこで大野は「金・大平メモ」の内容を知ることになる。賠償金3億ドルの無償供与、2億ドルの長期低利融資、1億ドルの民間による長期低利融資。大野伴睦は13日夕に帰国した。池田勇人は自分の留守中のこととして渋った。しかし、またしても渡邉恒雄が読売新聞朝刊の一面でこのメモをすっぱ抜いた(12月15日)。

これからが瀬島龍三の出番である。渡邉のすっぱ抜き記事ゆえに池田勇人首相はこのメモの合意事項を承認した。大野伴睦一行が帰国した直後の夜、児玉誉士夫は金鐘泌邸を訪ねた。右翼の訪韓は認められないとのことで、この訪韓は非公式とされていた。彼は瀬島龍三を伴っていた。伊藤忠商事取締役業務部長として、児玉は瀬島を韓国政府ナンバー2の金鐘泌に紹介した。賠償ビジネスの先頭を切ったのは伊藤忠であった。いかに伊藤忠が対韓国賠償ビジネスで大金を儲けたかについては一切書かない。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)


「このことは日本国民に知らせてはならない」

2018年04月04日 | 鬼塚英昭
天皇の巡幸は全国的規模で人間天皇の誕生としての天皇制を演出していくものであった。天皇は自ら人間宣言をしていた。しかし、天皇は歴史的な神格性を持つ存在にちがいなかった。あの奉迎場の御座は、天皇の神格性をそれらしくみせるための舞台装置であった。矢野暢(とおる)は『劇場国家日本』の中で天皇の政治的意味について書いている。

「天皇の政治的意味は、無限抱擁的であって、このひとつの表現のなかに、巨大な政治的宇宙がふくみ込まれる論理性をもってさえいる。天皇制によって、あらゆる政治的演出が最終的には正当化されることになる。したがって、天皇制のもとでは、ある種のゆるやかな様式性の枠のなかで、かなり多彩な政治が花咲くのである。」

(中略)こうした中で天皇は九州巡行に出る。供奉員二人もGHQの要求であろう。そうすれば、「天皇の劇的な回心」の場の演出も成功するからである。また、天皇の巡幸に同行した田島道治宮内府長官、三谷隆信侍従長も、熱烈なクリスチャンである。このことも関係があったのかもしれない。その確かな証拠はないのであるが。

天皇の巡幸は、隱された意味があった。SNWCC(国務省・陸軍省・海軍省調整委員会)がワシントンにあった。要するに、マッカーサーを支配する組織である。ここから1946年7月にマッカーサー宛の指令が出た。

「天皇制を直接攻撃することは日本の民主的要素を弱体化させるばかりか、共産主義者や軍国主義ら過激派の勢力を強めることになるであろう。従って最高司令官は天皇を大衆化し、人間性を持たせるための方策を内密にとるよう命じる。このことは日本国民に知らせてはならない。」

この指令の三カ月後の10月16日、第三回目の天皇・マッカーサー会談が開かれた。この会談録が世に出ている。巡幸に関する部分を見る。

陛下 巡幸は私の強く希望するものである事は御承知の通りでありますが、憲法成立後は特に差控ヘて居ったのでありますが、当分差控ヘた方がいいといふ者もあります。貴将軍はどう御考ヘになりますか。

元帥 機会ある毎に御出掛けになった方が良しいと存じます。回数は多い程良いと存じます。‥‥‥司令部に関する限り、陛下は何事をも為し得る自由を持っているのであります。何事でも私に御用命願ひます。

この会談の中で天皇とマッカーサーは、新憲法、戦争放棄、ストライキ等を論じている。天皇は「‥‥‥日本人の教養未だ低く、且つ宗教心の足らない現在‥‥‥」とマッカーサーに言っている。宗教心とは、間違いなく、キリスト教ヘの帰依の心の足りなさにちがいあるまい。だからストライキが起きると、天皇はマッカーサーに語ったのである。

では、天皇はどのような姿で民衆の中に入っていったのであろうか。AP通信のラッセル・ブラインズの見方は鋭いものがある。

「天皇はいきなり使い古した中折れ帽子に手を伸ばされたかと思うと、また思い直しておろし、微笑もうとした。それから微笑を浮かベて帽子をとられ、民衆にむけて盛んにそれを振られた。人々は歓呼の声を上げ、緊張を解いた。‥‥‥堂々たる軍服姿の天皇を心に描いた民衆は、実際に天皇を前にして、その相違に混乱させられた。そこにいたのは、側近の指示でしか行動できない一人の小男だった。「あっ、そう」。いつもこういう話し方をした。高い調子で無意味な言葉を続ける。顏にしみが浮き出てぶしょうひげが生えていた。」

(鬼塚英昭『天皇のロザリオ(上)』成甲書房、2006年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(6)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

金泳三政権時代(一九九二〜九八年)の一九九五年八月十五日、旧朝鮮総督府ビルが「光復節」記念祝賀行事の一環として爆破・撤去された。この事実を前にして黒田勝弘は、「『あるべき歴史』としては朝鮮総督府の建物はあってはならないのだ。歴史の立て直しは朝鮮総督府という『あった歴史』を消してしまうことである」と書くのである。

「あった歴史」よりも「あるべき歴史」が重要であるというのが韓国人の歴史観であろう。「あるべき歴史」を創造し、永遠の反日運動を韓国は展開していると黒田勝弘は説く。彼の『韓国反日感情の正体』(二〇一二年)から引用する。

「たとえば韓国では「歴史を正しく立て直す(ヨクサ、パロ、セウギ)」などということが平気でよくいわれる。われわれは「歴史とは過ぎ去った昔のできごと」くらいに思っているので、それを「正しく立て直す」などといわれてもピンとこない。しかし韓国人はそれで納得なのだ。
 筆者はそこのところを「あった歴史」より「あるべき歴史」を重視する考え方と説明してきたが、こうした歴史観は国際的にどれだけ通用する話だろうか。韓国では日本に対ししきりに「歴史歪曲」といい「歴史認識の一致」を要求する。時にはそれを外交問題にして日本を非難、糾弾する。」

私は黒田勝弘の歴史観に反駁(はんばく)する。日本の歴史も歪曲され尽くしていると思う。「歴史とは過ぎ去った昔のできごと」などとは思っていない。昔のできごとでなく、今のできごとと深く結びつき、今現在を常に動かしていると認識している。彼にはそういう考え方がないらしい。だから日本の多くの識者が、誰が最初に発明した言葉かは知らないが、「韓国の歴史はファンタジー(空想)」という。ならば「日本の歴史もファンタジー」である。特に、幕末から、明治・大正・昭和の時代の歴史はほとんどファンタジーである。だからこそ、私はこの「ファンタジー」に挑戦し続けている。アメリカを抜きにした日韓の歴史がいかにファンタジーに満ち溢れているかを私は書こうとしているのである。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(5)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

ジョージ・アキタとブランドマン・パーマの『「日本の朝鮮統治」を検証する1910〜1945』は一度引用した。この本の最後は次の文章で終わる。

「もちろん、本研究は朝鮮において日本が行なったことを取り繕うことを意図してなされたものではない。だが、一方でわれわれは、日本による朝鮮統治を可能な限り客観的に検証した本研究の結果を通して、朝鮮・韓国系の人々が往々にして極端に偏見に満ち、反日的な歴史の記憶をあえて選択して記憶に留める傾向を、可能なことなら少しでも緩和するお手伝いをするべく努力してきた。その中でわれわれ二人にとって非常に印象的だったのは、朝鮮の近代化のために、日本政府と朝鮮総督府が善意をもってあらゆる努力を惜しまなかったという事実だった。だから日本の植民地政策は、汚点は確かにあったものの、同時代の他の植民地保有国との比較において、アモス氏の言葉を借りて言うなら、「九分どおり公平 almost fair」だったと判断されてもよいのではないかと愚考するしだいである。」

私は右の文章に間違いがあるとは思わない。九分どおり公平であったと思う。同じように、崔基鎬の『韓国がタブーにする日韓併合の真実』の最後の文章を引用する。

「李朝五百十八年は、腐りきった中国の属国を志したものだった。李朝は自主独立を捨てて、中国に精神を預けて、儒教朱子学の原理主義に立脚して、「小中華」を自称して、自国民を奴隷化した。良民たちは、私利私欲だけに駆られた両班の食い物にすぎなかった。百姓は虐政に呻吟し、脱出するか、死ぬ自由しかなかった。改革を試みた王世子や、愛国者は抹殺された。
 李朝のもとでは、民族の自主的な解放は、絶対にできなかった。
 日韓併合の収支決算は、韓民族にとって大いなる善であったことを、知らねばならない。他力本願ながら、日韓併合が韓民族を救済し、南の韓国に今日の繁栄をもたらした。このことを、率直に認めるべきである。
 韓日両国が密接に協力することこそ、両国民にとって望ましい。
 日本民族は百済の末裔であり、本性は善である。兄弟国によった日韓併合は、李朝五世紀にわたって不当に抑えつけられてきた韓民族の善なる本性を蘇生させた。いまこそ、歴史を再検討するように、提案したい。」

私はこの崔基鎬の文章になんら偽りを見出せない。真実の告白であると思う。しかし、この本は、月刊誌に連載された後に、二〇〇三年九月に単行本として刊行されたものである。今なら、このような本を日本で出版すれば、崔基鎬は大変な不幸に遭うであろう。時代はたった十年の間に大きく変化したのである。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(4)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

ここで古田博司の論説「朴槿恵、アンタは何様か 否韓三原則で対韓不干渉を貫け」(月刊「WILL」二〇ー四年二月号掲載)から引用する。

「他方で、韓国は近代史上、日本軍と戦ったことがない。韓国が主張する戦いは一九二〇年の青山里戦闘一回きりで、敵は朝鮮人匪賊(ひぞく)だった。日本の無条件降伏と米軍進駐によって棚ぼた式に独立を得た韓国には、そもそも国家の正統性というものがない。一般の韓国人もそのことはうすうす知っていて、北の政権に比べて自分たちの政権に正統性の点で瑕疵(かし)があることに気づいている。
 なんとか正統性を得るため、青山里の戦闘で勝ったというウソを定着させようと韓国は骨を折ってきたが、戦場に残ったのは日本軍であった。敗けたほうが戦場に残る道理はない。
 正統性を保つために韓国が英雄として誇るのは、爆弾魔のテロリストだけだ。爆弾テロリス卜を英雄に仕立てなければならないのは、いまの韓国の悲哀であり、私が危惧しているのは、反日教育でテロリストや爆弾魔を解放運動の雄だと刷り込まれ、頭のなかがIRA(アイルランド共和軍)のようになった韓国の若者が「自分は英雄になりたい」と思って、爆弾をもって海を渡ってくる危険性があるということである。
 韓国人が歴史を学ぶとろくなことが起きない。我々日本人は、韓国人が歴史に学んでしくじる民族であるということをいま一度、認識すべきだ。」

私は古田博司(筑波大大学院教授)のこの文章を読みつつ、驕れる日本民族の悲しみを知った。そして、悲しみを通り越して怒りさえ覚えた。私は日本人の一人として、古田博司と同じような論を展開する多くの識者を知っている。嫌韓論、反韓論、排韓論・・・・・・・今日、日本人は驕れる民族となったのではないか。

三・一運動は朝鮮人が日本に挑戦した戦争ではないのか。日露戦争の後のルーズヴェルトを説得しようとした李承晩も、日本に戦争を挑んだのではないのか。パリ講和会議で日本を非難しようとしたことも戦争ではないのか。極端な表現で申し訳ないが、昭和天皇を爆死させようとしたテロリストも、日本に戦争を挑んだのではないのか。国民政府の力を得て、数々の工作をしたのも戦争ではないのか。

国と国とが大量の死者を出すことをもってする戦争のみが戦争ではないのである。私はここまで書いてきてやっと一つのことを知り、納得した。そして、私は林秀彦の『憎国心のすすめ』の一節を思い出した。

「悔し涙がたぎり落ちる。
 このとおりなのだ。すべて。そして、誰かが操作している。この日本人の本性を、骨の髄まで他律的であることを知っている誰かが、どこかの国が、どこかの民族が、その欠点をたくみにつき、利用し、一層助長させ、推進させ、搾取し、あやつっている。
 そして、これほど歴然としている数々の証拠実例を、なぜ人びとは(私が日本人を愛する故にわざと呼ぶ、“ジャップ”たちは)、気づかないのか。」

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(3)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

三・一運動が勃発した後に多くの運動家たちが韓国を脱出し、ロシア領に入った。また、上海にも入った。後の朝鮮戦争前に指導者になる呂運亨(ロウニョン)も一次上海に入った。ここで「大韓民国臨時政府」(通称・上海臨時政府)ができた。京城に「漢城政府」ができたが総督府の妨害に遭い満足な活動ができなかった。「ロシア領政府」も存在したが、日本がロシアの内乱でシベリア出兵をしたときでもあり、これも活動ができなかった。唯一、上海臨時政府のみがその存在を少なからず海外に示していた。ここでは、上海臨時政府についてのみ記すことにする。三つ存在した臨時政府においても李承晩は臨時内閣の閣員に入っていた。李承晩の名が日本統治下の韓国人の間で知れわたっていたことの証しとなる。

梶村秀樹の『朝鮮史』は、抗日パルチザン(遊撃隊)について詳述しているが、この上海臨時政府の記述はごく少ない。彼は次のように書いている。

「ブルジョア民族主義者の側では、李承晩(一八七五〜一九六五)はアメリカで外交工作に専念したにすぎなかったが、上海の大韓民国臨時政府は、二〇年代を混乱のうちにすごしたすえ、「満州事変」以後、金九(キムグ)(一八七六〜一九四九)の統率のもとでー連の爆弾闘争を敢行して活路を開いた。臨時政府は、のちには蒋介石政権とともに重慶に移り、一時的ながら義烈団との統一戦線を成立させ、「光復軍」を組織して四五年二月には日本に宣戦を布告した。国内の「民族改良」派も、対日協力者にされてしまった李光洙(イグァンス)や崔南善(チュナムソン)(一八九〇〜一九五七)らをのぞき、面従腹背の姿勢をもちこたえていた。そして、以上のいずれの系列にも属さぬ無名の民衆の、孤立した中でたったひとりでもがんばる抗争が、数多くあったことを忘れてはならない。」

大韓民国臨時政府のリーダーは金九であった。金九は韓人愛国団を組織した。この組織がテロを日本、中国の各地で実行した。一九三二年一月八日、東京の桜田門外で昭和天皇に爆弾を投げつけたが失敗した(犯人・李泰昌は後に死刑)。一九三二年四月二十九日には上海で、天長節(昭和天皇誕生日)の祝賀会に参加していた日本の要人に爆弾を投擲する事件が起きた。陸軍大将白川義則が死亡、駐華公使重光葵が右脚を失った。殺害者は尹奉吉(ユポンギル)。五月上海において死刑判決が出た。後に日本に移送され銃殺刑。ここで注目すべきは、テロ実行犯の李奉昌も尹奉吉も、伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュングン)とともに、韓国では英雄扱いされていることである。

日本と中国が全面戦争に突入し、蒋介石の国民政府が南京から重慶に移ると、大韓民国臨時政府も重慶に移った(一九四〇年九月)。この臨時政府は少数の韓国人がいただけで、軍組織を持たなかった。金日成の抗日活動と比べて格段に劣っていたことが、一九四五年八月十五日以降にはっきりする。

現在の韓国は、この大韓民国臨時政府を現韓国の国家起源であると憲法で明文化している。日本の史家はこの臨時政府の存在を認めようとしない。蒋介石は臨時政府をアメリカに認めさせようとしたが、アメリカはこの政府を無視し続けたのである。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(2)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

ここでアメリカと韓国(朝鮮)の関係を書くことにする。最初に結論を書いてから書き進める。「アメリカは日本の植民地政策を支持し続けて、ことごとく韓国の人々の要望を裏切るのである」「なぜか?」という問いを発してから、アメリカとは何かを追究する。

セオドア・ルーズヴェルトはアメリカ大統領になる前、副大統領のときから、膨脹主義をとるロシアを抑制するために韓国を日本が支配下に置くよう主張していた。一九〇四年二月、日本海海戦で日本海軍はロシア・バルチック艦隊を対馬海峡において壊滅させた。満州でも日本軍がロシア軍に大いなる打撃を与えていた。

駐米日本公使高平小五郎は一九〇五年一月二十五日、ルーズヴェルト大統領にロシアとの講和調停を申し入れた。

デイヴィッド・ハルバースタムは『ザ・コールデスト・ウインター朝鮮戦争』(二〇〇九年)の中で次のように書いている。

「自国の将来に発言権を持たなかったのは朝鮮という国の宿命だったようだ。日露戦争の調停者は朝鮮人ではなく、セオドア・ルーズヴェルト米大統領だった。かれはその功によってノーベル賞を得ているが、朝鮮人の利益の増進にはなんの関係もない功であった。ルーズヴェルトが代表したのは、力をつけていく新しいアメリカ、無意識の帝国主義的衝動を表わし始めたアメリカであった。ルーズヴェルトは一八九八年の米西戦争の熱心な主戦論者だった。戦争の勝利は植民地フィリピンをアメリカにもたらす。かれは時代の寵児だった。」

ルーズヴェルトの方針は一貫していた。彼は「日本を南方(フィリピン)でなく、大陸に向ける。そして満州においてロシアと対峙させ、両方の軍事力を消耗させる。やがて、日本を中国に侵入させ、太平洋に誘い出して敗北させる」という思想の持ち主であった。日露戦争前から秘密裡にこの計画は練られ、「オレンジ計画」として登場する。

「ジャップの野郎にすきなことをさせておけ。しかし、今しばらくだ」。日本人は福沢諭吉が明治維新後から「脱亜論」を説いたが、日本人は白人並みの扱いは決してされなかった。だが、朝鮮人に対するルーズヴェルトの態度はそれを上回る冷淡さであった。

一九〇五年九月五日、日露講和条約が調印された。この条約でロシアは韓国における日本の政治、軍事、経済の優位を認めた。アメリカとイギリスは韓国問題について合意した。同年八月十二日、第二回日英同盟が調印された。日英の利益のため、日本はインドにおける英国の優位を認めた。ここで第一回日英同盟には明記されていた「韓国の独立」が姿を消した。

同年七月二十七日、国務長官ウィリアム・H・タフトは日本で桂太郎首相との間に秘密会談を持った。ここでアメリカは韓国における日本の宗主権を認めるとした。ルーズヴェルトもタフトの意向を公式に認めた。

アメリカは膨脹主義と孤立主義を同時に主張する国家であると私は書いた。韓国はそんなアメリカにとって無関心な国となった。かつて両国の間には米朝条約が結ばれていたが、アメリカによって一方的に破棄された。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(1)

2017年12月25日 | 鬼塚英昭
反日論の萌芽は、日韓併合後に生まれている。では、三・一独立運動とアメリカの関係について次項で書くことにする。アメリカは三・一独立運動を無視し続け、日本に協力する立場を堅持するのだ。それはなぜか?

一九一九年三月一日、京城のパゴダ公園(現在のタブコル公園、ソウル市鐘路区)で朗読された「独立宣言」の第一節は「我々はここに朝鮮が独立国だということと、朝鮮人が自主民族であることを宣言する」である。

金両基編著『韓国の歴史を知るための66章』には「一九一九年三月一日、京城と平壌など九カ所の主要都市での同時多発デモから始まった三・一運動は、四月末まで二カ月にわたって全国各地で起こり、二百万人以上がマンセー(万歳)と叫びながら千五百回以上のデモを繰り広げた」と書かれている。この本の編著者金両基は韓国の立場からこの本を編集及び執筆している。続けて読んでみよう。私たち日本人は、日本側から一方的に日本優位の立場・視点から韓国を見ている。しかし、彼ら韓国人の視点に立って、一時的にしろ感情移入して読んでみてほしい。

「これほどまでに大々的に朝鮮人たちが立ち上がった背景とは何であろうか。一つ目は内的要因として、まず日本帝国の武断統治とそれによる朝鮮人と日本人の間の矛盾の深さをあげることができる。武断統治体制は銃剣とムチをもった憲兵によって維持されていた。朝鮮全体が「窓のない監獄」あるいは兵営となり、朝鮮の民衆は自由を抑圧されながら暮らした時期である。また土地調査事業の実施によって自作農と自作兼小作農の大半が没落し、小作農と農業労働者が大きく増加した。また、土地改良、綿花栽培の強制などで小作農民は大変困難な生活に陥った。そのうえ各種税金、公課金、間接税や、さまざまな農民団体の組合費なども農民の家計を大きく圧迫した。三・一運動に参加して逮捕された一万五千余りの人びとの職業統計研究の結果によると、農民が圧倒的に多く約六〇%に達していた。これはまさに苦痛の中心にいた農民たちの不満が三・一運動をきっかけに爆発したことを物語っている。」

日本の史家の中にも韓国側の立場から書く人も多い。梶村秀樹の『朝鮮史』(二〇〇七年)を読んでみよう。

「一九一九年三月一日から始まり、およそ一年もの間朝鮮全土をおおった三・一運動は、ひとりの英雄的な指導者によって象徴されるような質のものではない。多くの無名の人々の、もちこたえてきた独立ヘの意思が、ひとつに合流した民衆運動であった。たとえばソウルで学んでいたわずか一五歳の女子学生柳寛順(一九〇四〜二〇)は、宣言文を持って故郷の天安に帰り、その土地での行動の先頭に立ち、逮捕されても昂然と正当性を主張して屈せず、拷問のため獄死したことが、いまも語りつがれている。かの女はいわば無数の無名の英雄のひとりであり、運動の象徴なのである。全国二一八の市郡のうち二一七までにおいて、その土地に住む人々がかの行動を自主的に組織した。延ベ参加人数は数百万、実質的には当時二千万の全朝鮮人が主体的に運動にかかわった、といってもそう誇張ではない。三・一運動は、日本の米騒動や中国の五・四運動とともに、東アジアにおける運動の同時的昂揚としてよく一括してあつかわれるが、その中での三・一運動の特徴は、民衆運動としての拡がりの大きさであったといえる。」

私たち日本人は「反韓論」の本や雑誌を読んで「なぜだ!」と憤激している。しかし、反日の源流を過去に溯って知る努力をしていない。いかに李氏朝鮮が腐敗した国家であれ、これを糺(ただ)し、日本に併合したときに、そこに住む人々が日本人に向けた憎悪の眼差しを過去に溯って知ろうとしなければならない。日本併合によって生活が良くなったのだから、文句を言われる筋合いはない、というのは日本人の驕(おご)りである。

日本の官憲も当初はたかをくくっていた。しかし、この運動が全国的規模となるにつれて弾圧にかかった。逮捕者が続出した。当時の首相原敬は日本から軍隊を増派し、大衆集会さえ開かせなかった。デモも徹底的に取り締まった。この三・一運動で七千人といわれる死者、約一万六千人の負傷者、約四万七千人の検挙者を出した(韓国側の発表した数字)。

この三・一運動の後、統監府は武断政治をやめ文治政治、すなわち、アメとムチの政治体制へと移行する。多くの三・一運動の指導者たちは文官あるいは実業家となっていく。そして、一部のものが海外ヘと脱出する。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)