畑倉山の忘備録

日々気ままに

(魂の中小企業)1級建築士、荒波をゆく

2014年12月31日 | その他
(魂の中小企業)1級建築士、荒波をゆく(前編)


朝日新聞デジタル
2014年12月9日22時0分


 わたしは、おおくの女性経営者に話をうかがってきました。みなさん、凜(りん)として、強くて、まぶしいくらいに輝いています。
 こんかい登場していただく東平豊三さん(49)も、すごい人です。1級建築士です。46歳で太陽光発電ベンチャー「eーflat」(イー・フラット)を立ち上げました。スタッフは女性5人、男性1人。起業してたった5年ですが、今年度の売り上げは30億円を見込んでいます。
 大成功をしている、だけではありません。このコラムで取り上げるのですから、波乱の半生をおくってきました。それを笑いとばすところが、また彼女のかっこいいところです。
 おや、そこのあなた。浮かない顔をしていますね。えっ、男の名前じゃないかですって? ははーん、「豊三」を「とよぞう」と読みましたね。正解は「ゆたみ」。とうひらゆたみ、さんです。
 のちほど触れますが、彼女は兵庫県の国立明石工業高等専門学校、略して明石高専で建築をまなびます。30数年まえの高専には、ほとんど女子はいません。理系女子、リケジョなんて言葉、もちろんありません。
 入学して、はじめての出席とり。教師は、「とよぞう」と読みます。男だと思っているのです。東平さんは、はいっと手をあげます。すると、教師がいいました。「ことしは1人、女性がいましたね」
 いまも、まちがわれるそうです。会社に営業か何かの電話がかかってきて、社長を出してくれというので、東平さんが受話器をとります。「あんたじゃない。社長を出せ」っていうのです。「わたしが社長です」というと、「とよぞうを出せ」。あまりに失礼なので、「ちゃんと調べて電話をかけてください」と電話を切ったことがあるそうです。
 では、彼女のドラマをはじめましょう。
     ◇
 1965年、東京五輪があった翌年に、東平は、兵庫県の山間地にうまれた。家の窓から、ヤッホーと叫ぶと、こだまがかえってきた。建設業をいとなむ兼業農家だった。
 保育園では、ほとんどしゃべらない女の子だった。ともだちがいないので、砂場でひとりで遊んだ。お昼寝の時間、先生は寝なさいというけれど、寝なかった。目だけでも閉じていればいいのに、ぱちっと目をあけていた。
 保育園の先生が、母親にいった。「この子の将来が不安です」
 半年ほど登園拒否をしていたこともある。ともだちもいないし、おもしろくないからだった。家で図鑑や絵本、近所のおねえちゃんが貸してくれる本を、かたっぱしから読んでいた。母は、病気です、と保育園に説明していた。
 この頑固さ、一徹さは、いまも変わらない。だから、いまの東平がいるのだろう。
 小学校に入った。本の虫だったので、勉強の地盤ができていたのだろう、成績は優秀だった。テストで100点、100点、100点。「ゆたみちゃん、すごーい」とクラスメートから言われる。授業で、先生が東平さん指名する。「ゆたみちゃんだったら答えられるでしょ」
 注目されるようになって、性格が明るくなった。さらに、キューリー夫人やマザー・テレサなどの伝記を読みまくったので、正義感がめっちゃくちゃ強い少女に育った。高学年になったころには、級友たちを注意しまくっていた。
 「道の端っこを歩きなさい」「いじめちゃだめじゃない、先生に言いつけるわよ」
 そして、すでに身長が150センチ越えと、いまと同じぐらいあった
 そんなでっかい少女が、正義感まるだしで、みんなに注意し、怒っていた。だから、級友たちからの人気は、なかった。だから、人気者がなる生徒会会長にはなれず、副会長だった。今風に言えば、面倒くさい子供だった。
 でも、この正義感がなければ、いまの東平はない。
 中学は、小学校からの持ち上がり。ばつぐんの成績だった。ところが、しだいに成績が落ちていく。反抗期に入ったことにくわえ、両親が毎日のように大げんかしていたことが、おそらく原因である。
 「こんなんじゃ勉強できない。ふたりとも大嫌いだ」
 そう言い捨てて、しばらく、東平は祖母の家で暮らした。大きな屋敷に、ふたり。祖母は、「あんたは本当にかわいそうだ」と言ってくれた。東平のいうことを、はいはいと聞いてくれた。
     ◇
 さて、高校受験である。いくら落ち気味とはいえ、東平の成績だったら、進学校に入ることができた。大学への道が広がっているはずだった。
 だが、父親がいとなんでいた建設会社が倒産していた。父はこういった。
 「おまえには悪いけれど、大学には行かせてやれない。高校を卒業したら働け」
 勉強ができるのに残念だ、もったいない、と東平は思った。そして、進学先として探し当てたのが、高専だったのだ。
 高校と大学を合体させたカリキュラムを、5年間でする。国立なので、私立と比べたら、授業料は安い。これだ! 
 本当は本の虫、つまり文系女子だった。なのに、バリバリの理系の道を選んでしまったものだから、たいへんなことになった。
 応用数学、応用物理……、ぜんぜんわかりません。
 構造力学ですか……、やばいです。
 家にお金がないから高専にいっているので、バイトざんまい。さらに、高専までは片道2時間かけての通学。勉強する暇もなかった。
 おそらく、入試の成績はトップクラスだった。ところが、まっさかさまに落ちての超低空飛行。先生たちは、女子で留年させたらかわいそう、と心配してくれた。
 応用数学のテストでは、零点をとった。担当の先生が、追試の問題を予告してくれて、必死に暗記した。
 応用物理では、試験も追試も零点。東平は、担当の先生のところにいった。「先生、わたし留年するのかなあ」。リポートを書いて許してくれた。
 本人の名誉のために、付け加えなくてはなるまい。4年生からは専門分野になる。建築を学びはじめてからは、成績があがってきた。きちんと5年間で卒業できた。
     ◇
 水回りのリフォーム会社に3年いて、大阪の設計事務所に転職した。1級建築士になりたいと思ったのだ。そこは、高専の先輩ばかりがいた。みんな1回の試験で合格していた。「東平さんも、1回でパスするさ」と言われていた。
 プレッシャーを感じての、1級建築士試験。そして……、落ちた。
 事務所でいわれた。「初めてだ、落ちた人は」
 そもそも夜10時、11時まで仕事をしてマンションに帰る、それから、どうやって勉強するんだよ。東平は言った、心の中で。
 2回目も、ダメだった。
 3回目の試験。こんどこそ、と東平は思った。関門は、学科だった。でも、こんかいは無事にクリアした。あとは、設計図をかく実技である。3時間で二階建ての図書館を設計せよ、が試験だった。こっちは自信があった。
 ところが……。1時間半たっても、基準になる1階のプランがまとまらない。このままじゃ、やばい。「がんばって」と励ましてくれた母の顔が浮かぶ。頭がパニックになった。
 「すいません、トイレにいきます」
 トイレですわりこんだ。母が持たせてくれたお守りを見つめた。どうしよう、どうしよう。何とか心を落ちつかせ、試験会場にもどる。すでに残り1時間半になっていた。
 ところが、不思議なことに、猛然と描きはじめることができた。まずは2階から、そして1階と描いた。合格。1993年、1級建築士の免許をえた。東平、28歳のときである。
 免許はとった。でも、体調をくずしてしまった。ビル建築などを役所に申請する担当だったが、これがかなりのプレッシャーになっていたのだ。申請を通らなければ、建築ができない。建築できなければ、設計事務所の商売はあがったりである。
 通勤電車の中で、おなかがいたくなる。事務所が入るビルのエレベーターのまえにたつと、また、おなかがいたくなる。〈もうこれは続けられないかな。いったん休もう〉
 東平は、事務所をやめた。そして、遠距離恋愛していたふたつ年下の彼のもとへ。結婚し、横浜で暮らしはじめた。
 人材バンクには登録していた。川崎の建設会社の社長が、面接に来てください、と連絡をくれた。
 「わたし、結婚したばかりで、毎日遅くまで仕事できないんです」
 「1時間短くてもかまいません」
 1級建築士という肩書は強いのである。新築アパートの設計などをこなした。リフォーム部門を立ち上げ、「すべてを100万円ぽっきりでします」という商品を企画、大ヒットを飛ばした。
 仕事は順調だった。ところが、私生活が、とんでもないことになっていた。結婚した翌年には娘がうまれ、しあわせな家庭が築けると思ったのだけれど……
     ◇
 結婚4年目、東平33歳のときのことである。夫がサラ金に手をだしていたことがわかった。ありとあらゆるギャンブルに手をだし、サラ金数社から300万円の借金をしていたのだ。
 東平は自分の貯金で、夫の借金を、ぜんぶ返した。
 ホッとしたのもつかのま。半年もしないうちに、夫はまた借金。
 ショックだった。奈落の底をみるような気分だった。夫の両親とも相談し、サラ金から借りることができないような措置をした。
 そうしたら、夫は、友人に泣きついていた。
 「会社でミスをして、穴をあけてしまった」
 「お客さんとマージャンをすることになっていたんだが、マージャン屋に来なかった。店にいた人たちと卓を囲んだら、えらいことになった」
 そう言って、友人たちから借金をしていたのだ。東平は、懸命に返済しつづけた。わたしは何のために働いているんだろう。強烈な疑問で頭がいっぱいになった。
 あるとき、娘が熱をだしたので、病院に連れて行こうとおもった。財布にお金がなかった。娘をおんぶして、銀行にいった。口座に5~6万円のこっていたはずだから、そこから引き出し、病院にいこうと思った。
 ところが、残高はゼロ。夫がカードで引き出していたのだ。
 東平は、ATMのまえで、泣いた。あわてて実家の父に電話し、事情を説明したら、すぐにおカネを振り込んでくれた。娘を病院につれてさえいけないなんて、これはダメだ。
 35歳で別居した。夫を追いだし、娘との2人暮らしをはじめた。ときどき夫は帰ってきた。東平にも娘にも、やさしかった。でも、お金に超ルーズなのは、治らなかった。38歳で結婚生活にピリオドを打った。
 娘は自分についてくる、と東平は思っていた。ところが、娘から拒否された。「わたし、小学校を変わりたくない」と。
 東平は娘に、勉強しなさい、などと口うるさく言っていた。これが嫌だったようだ。
 「わたし、おとうさんとすんでみようかな」
 ショックだった。けれど、思い直した。夫は、娘と暮らしはじめたら立ち直ってくれるかもしれない、と思った。
 しばらく時がたった。娘が東平のところにきた。「おかあさん、わたし、いっしょに暮らしていい?」
 ワンルームマンションで、娘と暮らしはじめた。小学校をかわりたくないというので、川崎から横浜の小学校へ、こっそり通わせた。
 「お金に関しては、もっとひどいこともされました、ははは」
 そう笑い飛ばす東平。これ以上は聞くのをやめておこう。
     ◇
 さて、38歳でシングルマザーになった東平。私生活はたいへんなことになっていたが、仕事は順調だった。
 夫の借金問題を解決しようと奮闘するなかで、子どものころに原点がある性格が、前面にでるようになった。
 保育園のとき、先生の言うことをきかなかった負けん気、である。
 小学生のとき、同級生たちを注意してまわった正義漢、である。
 これがいかんなく発揮され、東平は不動産業界で知られる存在になっていく。
 もっとも、そのことがまた、東平の足をひっぱることになる。東平は、ふたたび、どん底におちるしかも、こんどは、仕事がらみだった。(つづく、敬称略)
     ◇
 中島隆(なかじま・たかし) 朝日新聞編集委員。福岡県生まれ。鹿児島支局をふりだしに、経済部記者、名古屋報道センター次長、東京生活部次長、「ニッポン人脈記」チームなどをへて、2012年4月から現職。著書に「魂の中小企業」(朝日新聞出版)、近著に「女性社員にまかせたら、ヒット商品できちゃった」(あさ出版)。就活生向けの朝日学情ナビでコラム「輝く中小企業を探して」を連載中。

http://digital.asahi.com/sp/articles/ASGD831TKGD8ULZU001.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGD831TKGD8ULZU001


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(魂の中小企業)1級建築士、荒波をゆく(後編)


朝日新聞デジタル

2014年12月23日22時0分

   まずは、前編のおさらいから。
 東京・銀座にある「e-flat(イー・フラット)」という会社は、太陽光発電ベンチャーで、リフォーム、不動産売買などもしています。
 社長は、2010年にここを起業した東平豊三さん、49歳です。
 「ひがしだいら・とよぞう」ではありませんよ、「とうひら・ゆたみ」です。もちろん、女性です。
 子どものころから負けん気の強いひとです。間違ったことはたださなければ気がすまない、正義感の強いひとです。
 1級建築士です。設計事務所や建設会社で、バリバリはたらきます。ただし、私生活はたいへんでした。ギャンブルにはまった夫の借金返済の日々に飽き飽きし、38歳で離婚。娘ひとりを抱えたシングルマザーになるのです。
 でも、仕事ぶりは業界で知れわたる存在になっていましたので、へっちゃらでした。
 それでは、後編のスタートです。
 東平さんは、とある不動産会社に転職しました。1級建築士の肩書と、実力をいかんなく発揮し、リフォーム部門をたちあげ、大成功をおさめます。役員にばってきされました。ここまでは良かったのです、ここまでは……。
     ◇
 社長がいて、ナンバー2がいて、ナンバー3がいて、そして女性の東平。そんな4人が取締役だった。
 東平は、間違いや不正をたださなくては我慢できない正義感の持ち主である。とはいえ、いっしょうけんめいに働いているひとに、あんたはダメだ、というようなひとではない。
 だから、社長は、許せた。ぴんとはずれな判断も仕方ないか、と思っていた。
 我慢できなかったのは、ナンバー2だった。いつも電話しているので、仕事熱心なひとだな、とはじめは思った。ぜーんぜん違った。知人の女性と話をしていたのだ。
 東平とナンバー2は、ときどき、いっしょに取引先に出向いた。ところが、ナンバー2は、自分だけ社有車でいき、東平には電車を使わせた。会社に帰るときも、電車で帰って、と放り出された。ぐーっとこらえて、東平は電車で帰社する。ナンバー2は、それからかなり遅れて帰社した。
 いっしょの車で行動するのを相手の女性が嫌がるから、というのが理由だった。
 東平は、社長に苦言を放った。「あのひと、どういうつもりなんでしょうか」
 ほんとうは、東平のはらわたは煮えくりかえっていた。東平は、取引先からの信頼があつく、ばつぐんの営業成績を残していた。働かないナンバー2、ぴんとはずれの社長のために稼いでいるわけじゃないのに。
 もっとも、東平は覚悟していた。会社のなかであまり好かれてはいないんだろうな、と。小学生のとき、道の端っこを歩きなさい、などと同級生に注意していた。あのとき、そうだったように。
 ところが、尊敬されていた。「いっそのこと、東平さんが社長になってくれたほうがいい」「東平さん、独立しちゃいなさいよ」といった声もあった。
 ある日、東平のパソコンに、へんなメールがきた。社長とナンバー2がやりとりするメールだった。間違って、東平のところに送られてきたのだ。
 読んで、おどろいた。東平を追い落とす策略をねるメールだった。
 人間は、悲しい生き物である。ねたみ、嫉妬が過ぎると、策略、謀略で追い落とそうとする。わたしも男だからよく分かるのだが、男の方がその傾向が、圧倒的に強い。
 間違いメールがきた翌日、東平は、社長に喫茶店に呼び出された。そして宣告される。
 「あしたから来なくていいから」
 そう来たか。
 「理由をおしえてください」
 「分かっているだろ」
 「分かりません」
 押し問答がつづく。そして、東平のパソコン、携帯電話を取り上げられた。取引先との癒着、クーデターの動きを調べるためだったようだ。もちろん、何も出てくるわけがない。仲がよかったナンバー3は、社長たちについた。東平は、クビになった。
 東平の人生設計が大きく狂う。川崎市内にマンションを買おうと持って、手付金をはらっていた。でも、あきらめるしかなかった。私立中学に通っていた娘は、部屋に引きこもりがちになった。中学をやめなくてはいけないかも、と不安だったのだろう。
 東平自身、頭の整理がつかなかった。
 〈いきなりクビなだなんて、全く理解できない。どうしたらいいの?〉
 やる気がおこらず、東平自身も引きこもり状態になった。まわりの人たちが心配してくれた。気持ちを奮い立たせて建設会社をめぐる就職活動もしたけれど、45歳で年収500万~600万円、という仕事がない。「建設業で女性がいきなり管理職はむずかしい」「年収が高い職はないだろう」と言われた。
 一日中、悩んだ。そして、疲れて寝る。友達とも会うのもおっくう。仕事にしか自信がないのに、その自信を奪い取られた。東平は、自分という人間そのものを全否定された、と感じていた。
 そんなとき、励ましてくれた女性がいた。彼女の名は、榎仁美(えのき・ひとみ)。東平の12歳年下である。「東平さん。会社をつくって、いっしょにやりましょうよ」
 東平が榎とはじめて会った、いや、見たのは、東平をクビにしたあの会社の面接だった。役員だった東平は、すっかり榎を気にいった。ハキハキしていて、頭の回転がはやい。そこは、ふたりともいっしょ。慎重派の東平と、行動派の榎と。性格がちがったので、かえって馬があった。
 じつは、東平がクビになって2カ月後に、榎もあの会社をやめていた。会社の雰囲気がおかしくなったからだ。男性社員たちは、下手なことをいったら、会社をクビになるかも、とビクビクしていた。男たちは、会社にすがりつく。こんな会社に未練はないわ、とさっさと、榎はやめた。
 そして、東平と榎は、2010年、会社をつくった。資本金は東平だけが出し、榎はあくまでも社員。榎は思った、共同経営にすると、どんなにふたりが仲良くても、もめる、と。だから、自分はあくまでも社員で、と考えたのである。
 知人の知恵も借りて、社名を考えた。東平、東平……、東は英語でEAST(イースト)でしょ、平らは、英語でFLAT(フラット)よね。EAST FLAT、EAST FLAT、略して、EFLAT。ちょっとおしゃれにして、「e-flat(イーフラット)」にしましょ。
     ◇
 はじめは、高齢者関連の施設をつくろうと考えた。ふたりで、不動産会社や地主などを営業してまわるが、ぜんぜんダメ。
 午後4時になったら、営業するところがない。ジタバタしてもしょうがない、よし、飲みに行こう。
 店をあけている居酒屋を意地でもさがして、飲んだ。ビール、しょうちゅう。「なんとかなるわ」「でも、方針転換も必要よね」。ああでもない、こうでもない。そして夜11時ごろ、おひらき。翌朝、またふたりで営業である。
 リフォームの仕事をはじめ、倉庫の管理など、コツコツと仕事を広げた。ポッと出の女性だけの会社だったので、設計図をタダで描かされたり、宴会でお酌係をさせられたりもした。
 東平と榎は誓い合った。
 「正々堂々と、企画力、技術力で勝負よ」
 「わたしたちは、ただの建設屋ではない。不動産屋ではない。だれにもできない仕事があるはず。それを探すのよ」
 2011年3月11日、東日本大震災がおきた。東京ディズニーランドがある千葉県浦安市は、おおきな被害にあった。東京湾を埋め立てた土地が、いわゆる液状化現象でゆるゆるになり、おおくの家が傾いた。
 傾いた家を元に戻してあげたい。東平と榎は、そんな思いにかられる。
 物を持ち上げる「ジャッキ」と呼ばれる装置をつかって家を引きあげれば、傾きは修正できて平らになる。大きなジャッキをもつ業者に頼めば、やってくれる。平らにする、これこそ、文字どおり、「e-flat」の仕事である。
 浦安市全域に、チラシをまくと、10棟ほどに頼まれた。東北の復旧の邪魔にならないよう、西日本の業者に頼んで、傾いた家を引き上げ、平らにした。ありがとうございました、とお客から感謝される。
 ポッと出の会社だけれど、実績をつむと、信用がましてくる。リフォーム、建築、不動産と仕事がふえていった。そして、太陽光発電。50キロワット以下のシステムを設置して土地ごと分譲する、という仕組みを考えた。関東各地で、あわせて4万6千坪、電力にして12メガワット分、230区画を販売している。
 太陽光など再生可能エネルギーの受け入れをめぐり、大手電力が受け入れを中断する問題がおこっている。もっとも、東京電力は関係ない。そして、東平の会社では、受け入れることが確実でなければ、区画を販売することはない。そのあたりは、東電や役所としっかり連携している。榎のばつぐんの行動力が、いかんなく発揮されている。
 売り上げは今年度、30億円になる見通し。スタッフはいままで女性6人だったが、この10月、男性スタッフが入社してきた。東平をクビにしたアノ会社でいっしょだった、元部下である。
     ◇
 離婚、謀略。東平さんは、男たちに振り回されてきました。
 彼女のカッコイイところは、「社会勉強をさせてもらいました。感謝しています」と笑い飛ばすところです。
 痛い目にあってきたのに、東平は「正々堂々と、決してひきょうなことはしない」と決心しています
 そこが、女性の強さなのかもしれません。
 わたしは、中小企業の世界を取材してまわっています。そこには、輝いている女性がたくさんいます。シリウス、プロキオン、ペテルギウス。あの冬の夜空に光る大三角のように。(一部敬称略)
     ◇
 中島隆(なかじま・たかし) 朝日新聞編集委員。福岡県生まれ。鹿児島支局をふりだしに、経済部記者、名古屋報道センター次長、東京生活部次長、「ニッポン人脈記」チームなどをへて、2012年4月から現職。著書に「魂の中小企業」(朝日新聞出版)、近著に「女性社員にまかせたら、ヒット商品できちゃった」(あさ出版)。就活生向けの朝日学情ナビでコラム「輝く中小企業を探して」を連載中。


http://digital.asahi.com/sp/articles/ASGDM35CQGDMULZU001.html?_requesturl=sp/articles/ASGDM35CQGDMULZU001.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGDM35CQGDMULZU001


「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」

2014年12月21日 | 国内政治
「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」で話題の矢部宏治が鳩山友紀夫と“日本の真の支配者”を語った!

民主党・鳩山政権の崩壊と沖縄の基地問題を出発点に、日本の戦後史を振り返った話題の新刊『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)の著者・矢部宏治(やべ・こうじ)氏。そして、まさにこの本を執筆するきっかけとなった鳩山友紀夫元首相。

このふたりが、辺野古移設反対派の圧勝に終わった11月の沖縄県知事選や総選挙を踏まえ、事実上、今も米軍の占領状態が続いているこの国の姿と、日本が「真の独立国」として新しい戦後を歩んでいくためにはどうすればいいのか、その方法を考えた!

■首相の時はわからなかった「見えない敵」の正体

―まずは鳩山さんに、矢部さんの本を読まれた率直な感想から伺いたいのですが?

鳩山 正直申し上げて“ぶったまげた”というか、矢部さんがここまで勇気を持って取材され、この本を書かれたことに敬服しました。先にこの本を読んでいれば、私も総理を辞めずに済んだかもしれない、と(笑)。

もちろん、私は自分の非力について言い訳する気はありません。総理として一度は沖縄県民に期待感を与えながら(県外移設を)実現できなかったのは私に大きな責任があります。

ただ、この本を読んで、当時、自分がもっと政治の裏側にある仕組みを深く理解していれば、結果が違っていた部分もあるのかなとは思いました。それだけに、自分が総理という立場にありながら、この本に書かれているような現実を知らなかったことを恥じなきゃいかんと感じるわけです。

矢部 鳩山さんは以前、インタビューで「官僚たちは総理である自分ではなく『何か別のもの』に忠誠を誓っているように感じた」と言われていましたが、その正体がなんであるか、当時はわからなかったのでしょうか?

鳩山 物事が自分の思いどおりに進まないのは、自分自身の力不足という程度にしか思っていませんでした。本来ならば協力してくれるはずの官僚の皆さんには、自分の提案を「米軍側との協議の結果」と言って、すべてはね返されてしまって。分厚い壁の存在は感じながらも「やっぱりアメリカはキツイんだなぁ」ぐらいにしか思っていなかった。その裏側、深淵の部分まで自分の考えは届いていなかったのです。

しかし、矢部さんのこの本はもっと深いところで米軍と官僚組織、さらには司法やメディアまでがすべてつながって一体となった姿を見事に解き明かしてくれて、いろんなことが腑(ふ)に落ちました。この本を読んで、目からうろこが何枚落ちたかわからないくらい落ちましたね。

矢部 在日米軍と日本のエリート官僚で組織された「日米合同委員会」の存在は、当時ご存じなかったということでしょうか?

鳩山 お恥ずかしい話ですが、わかりませんでした。日米で月に2度も、それも米軍と外務省や法務省、財務省などのトップクラスの官僚たちが、政府の中の議論以上に密な議論をしていたとは! しかもその内容は基本的には表に出ない。

私が総理の時にアメリカから「規制改革をやれ」という話があって、向こうからの要望書に従って郵政の民営化とかがドンドンと押しつけられた。そこで「この規制改革委員会はおかしいぞ」というところまでは当時もわかっていたのですが。

矢部 日米合同委員会は基本的に占領以来続く在日米軍の特権、つまり「米軍は日本の国土全体を自由に使える」という権利を行使するための協議機関なのですが、この組織が60年間続いていくうちに、そこで決まったことには、もう誰も口出しできないという状況になってしまった。

なかでも一番の問題は、日米合同委員会のメンバーである法務官僚が、法務省のトップである事務次官に占める割合は過去17人中12人、そのうち9人が検事総長にまで上り詰めている。つまり、米軍と日本の高級官僚をメンバーとするこの共同体が、検察権力を事実上握っているということなんです。

しかも、在日米軍基地の違憲性をめぐって争われた1959年の砂川裁判で、当時の駐日米国大使だったダグラス・マッカーサー2世が裁判に不当な形で介入し、「日米安保条約のような高度な政治性を持つ問題については、最高裁は憲法判断をしない」という判例を残してしまった。ですから日米合同委員会の合意事項が仮に憲法違反であっても、日本国民にはそれを覆(くつがえ)す法的手段がない。

鳩山 それはつまり日米合同委員会の決定事項が、憲法も含めた日本の法律よりも優先されるということですよね。そのことを総理大臣の私は知らなかったのに、検事総長は知っていたし役人も知っていたわけだ。

矢部 ですから、鳩山さんの言う「官僚たちが忠誠を誓っていた何か別のもの」、つまり鳩山政権を潰(つぶ)したのは、この60年続く日米合同委員会という米軍と官僚の共同体であり、そこで決められた安保法体系だというのが現時点での私の結論ですね。―そうした仕組みの存在を知った今、鳩山さんはどのような思いなのでしょうか。

鳩山 日米合同委員会に乗り込んでいきたいぐらいだね。「何をやってるんだ、おまえら!」みたいな感じで。

ただ、そういうものが舞台裏で、しかも、憲法以上の力を持った存在として成り立っていたとしても、決してメディアで報道されることもないし、このメンバー以外にはほとんど知られないような仕組みになっているわけですよね。

矢部 このような「見えない力」の存在は、政権内にいないと、野党の立場ではまったく知り得ないものなのでしょうか?

鳩山 私も自民党時代がありましたので、8年は政権党にいたわけですが、当選1回や2回の新人議員の間は、官邸内部で何が動いているか知りようもありませんでした。でも与党の一員としては扱ってもらっていたと思います。

それが野党となると、与党、特に与党の中枢の方々とは情報量が圧倒的に違う。官僚も野党に話す場合と与党に説明に行く場合では、丁寧さも説明に来る人の役職も全然違う。そのぐらい野党に対しては官僚は区別し、冷たい対応をしていました。

つまり、自民党政権と官僚機構が完全に一体化していたということです。野党は圧倒的に情報過疎に置かれているのは事実で、国民はその野党よりも情報が少ない。

この先、特定秘密保護法によって、ますます国民には何も知らせない国になるわけで、非常に恐ろしいことだと思います。

■日本全土が「米軍の基地」という現実

矢部 「横田空域」という、1都8県の上に米軍が管理している広大な空域がありまして、日本の飛行機はここを飛べない。これなんか典型的な「米軍が自由に日本の国土を使える」事例ですね。

鳩山 私も横田空域のせいで、日本の航空会社が非常に不自然な飛行ルートで飛ばされていることは知っていましたが、「沖縄と同じように、米軍の優位性というのが東京や関東周辺にもあるんだな」という程度にしか理解していなかった。

しかし、具体的に図を見ると、関東上空がこれほど広範囲に米軍に「占領」されているという事実に仰天しますよね。沖縄だけではなくて、実は日本全体がアメリカに今でも支配されているも同然ですから。

矢部 飛行ルートの阻害もありますが、それより問題なのは、米軍やCIAの関係者が日本の国境に関係なく、この空域から自由に出入りできる、入国の「裏口(バックドア)」が存在することです。これはどう考えてもおかしな話で、こんなことは普通の主権国家ではあり得ません。

この問題なんて国際社会にアピールしたら、みんなすごく驚くと思うんです。これは今、日本で起きているほかの問題、特に原発の問題にも絡んでくる話ですが、日本という国が置かれている状況の歪(ゆが)みやおかしさを伝えるいい事例になると思っています。

結局、日米安保条約とは、米軍が「日本の基地」を使う権利ではなく、「日本全土」を基地として使う権利を定めたものなのです。

旧安保条約の第1条で米軍にその権利が認められ、60年の安保条約で文言は変わっていますが、その権利は残されている。これを「全土基地方式」というのですが、これはなんとしても国際社会にアピールして変えていかないといけない。

鳩山 矢部さんの本だと、米軍がそんなことをできる根拠は、敗戦国である日本を今でも「敵国」と見なした、国連憲章の「敵国条項」があるから、という話でしたが。

矢部 そこの説明は少し複雑で、旧安保条約第1条には、そうしたメチャクチャな軍事利用のあり方は、日本側が望み、アメリカ側がそれに応えたものだということが書かれている。そうした戦後処理を日本が望んだ以上、日本の主権や国民の人権がいくら侵害されていても、国連は口を出せないというロジックになっているんです。一種の法的トリックと言ってもいい。

ですから、日本にちゃんとした政権が誕生して、国際社会で堂々と議論し、「全土基地方式はやめてくれ」と言ったら「それは敵国条項があるから無理だ」とは絶対ならないと思います。

■米軍の占領状況を米国民に訴えろ!

鳩山 矢部さんのような方の努力もあって、私もようやく目隠しが外れて真実が見えてきたわけですが、問題はそこから先をどうするかです。やはり一部の人たちだけが目隠しを外すんじゃなくて、日本の国民の多くに触れられるPR戦術というか、日本の戦後の背後には何があるのかをきちんと解き明かす手段が必要だと思いますね。

それと、日米関係に関わっている米軍関係者を除けば、アメリカの議会や国民は日米合同委員会なるものがどういう役割を果たしてきたのか、それが今も日本の主権をさまざまな形で侵害している事実も知らないと思います。しかし、こうした状況はアメリカの国民から見ても「異常なこと」だと映るはずですから、われわれが海外、特にアメリカの議会や国民に対して「日本は今も事実上、米軍に占領されているけれど、本当にこれでいいのか?」と訴えることが重要です。

矢部 情報発信という意味では、今、ドイツなど多くの国が日本の原発汚染に対して「何を考えてるんだ!」って相当に怒っている。基地の問題だけだと「勝手にやっててくれ」となるかもしれないけれど、原発の問題はそうはいかない。全地球的な問題です。

あれだけ深刻な原発事故を起こした日本がなぜ、今再び原発推進への道を進もうとしているのか? その背景には「日米原子力協定」という、自国のエネルギー政策すらアメリカの同意なしには決められないという、客観的に見ても非常に歪(いびつ)な構造がある。それをうまく国際社会にアピールできたら、こうした日本の歪んだシステムに世界の光が当たる可能性はあります。

鳩山 そうですね、日本のメディアも完全に取り込まれてしまっているのであれば、基地の問題だけではなく、原発も併せて海外に訴えるほうが圧倒的に意義があると思います。

ただし、そうした「外圧」に頼るだけでなく、結局はこの国の政治を変えない限り、そして多数派にならない限り、こうした流れは大きく変えられません。

(取材・文/川喜田 研 撮影/池之平昌信)

●鳩山友紀夫(はとやま・ゆきお)
1947年生まれ、東京都出身。第93代内閣総理大臣となり、沖縄基地問題で「最低でも県外移設」と主張し活動するも、2010年6月、総理辞任。2012年の総選挙前に政界を引退。昨年から政治信念である「友愛」の文字を取り「友紀夫」名で活動している

●矢部宏治(やべ・こうじ)
1960年生まれ、兵庫県出身。書籍情報社代表。著書に『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知ってること―沖縄・米軍基地観光ガイド』、共著に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』など。『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』は発売1ヵ月で5万部というベストセラーに。

(前編)週プレNEWS 12月15日(月)6時0分配信
(後編)週プレNEWS 12月16日(火)11時0分配信

http://wpb.shueisha.co.jp/2014/12/15/40591/
http://wpb.shueisha.co.jp/2014/12/16/40674/

日本を支配する“憲法より上の法”の正体とは?

2014年12月21日 | 国内政治
日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか? 本書のタイトルはまさに、誰もが一度は抱いたことがある「素朴な疑問」だろう。

それを出発点に著者の矢部宏治氏がたどった日本戦後史の「旅」は、想像をはるかに超える広がりを見せながら「憲法」の上にある「もうひとつの法体系」の存在と、それによって支配された「日本社会のB面=本当の姿」をクッキリ浮かび上がらせる。

太平洋戦争で焼け野原と化した国土を世界有数の経済大国へと復興し、間もなく戦後70年を迎えようとしている日本が、今も対米従属のくびきから逃れられない本当の理由……。

そして、この国がいまだに「独立国」ですらないという衝撃の事実を、日米間の条約や公文書などの「事実」を足がかりに明らかにする本書は、多くの「普通の日本人」にとって、文字どおり「目からウロコ」の体験をもたらしてくれる一冊だ。矢部氏に聞いた。

■戦後の日本を本当に支配していたものとは?

―まず驚いたのは矢部さんがほんの数年前まで、沖縄の基地問題とも政治とも無縁な、いわゆる「普通の人」だったということです。そんな「普通の人」が日本の戦後史をめぐる「旅」に出たきっかけはなんだったのですか?

矢部宏治(以下、矢部) 直接のきっかけは、やはり民主党による政権交代とその崩壊ですね。それまでは日本は経済的には豊かだけど、「なんか変な国だなぁ」とは思っていて、鳩山政権ができたときにやっぱり期待したんですよね。この政権交代で何かが変わるんじゃないかと。

ところが圧倒的な民意を得て誕生した鳩山政権があっという間に崩壊して、沖縄の基地問題も潰(つぶ)されて、菅政権になったら完全に自民党時代と同じようなことをやっている。これは一体どういうことなんだと怒りに任せて、沖縄に取材に行ったのが始まりです。鳩山政権を潰したのは本当は誰だったのか、その答えをどうしても知りたくなった。

―ちなみに、矢部さんは沖縄の基地問題について以前から関心があったのですか?

矢部 いいえ、沖縄といえばそれまで2回、旅行で行っただけで、基地のことや辺野古のことも何も知りませんでした。ところが実際沖縄に行って、自分の知らなかったさまざまな現実を目にして、その根っこを探っていくと、いろいろワケのわからない仕組みに出会う。

そこで沖縄本島にある28の米軍基地をすべて許可なしで撮影した『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』という本を作りました。

沖縄では住民が米軍基地を日常的に撮影している現実があるのですが、当局の判断次第ではそれが違法行為だとして逮捕される可能性もある。

そうしてカメラマンとふたりで危険に身をさらしながら基地の取材を続けていくうちに、いろんなことが見えてきた。基地のフェンスってまさに「境界」なんですね。日本とアメリカの境界、戦争と平和の境界、民主主義のある世界とない世界の境界。

そういう「境界」をずっとたどっていくと、日本の戦後や日本国憲法の成り立ち、日米関係の裏側が少しずつ見えてくる。さらにたどっていくと、最後は国連憲章にまでたどり着いたというのが今回のこの本で、結局、第2次世界大戦後の世界は、軍事力よりもむしろ条約や協定といった「法的な枠組み」によって支配されていることがわかってきた。

■日本国憲法より上の「法の支配」とは

矢部 具体的な例を挙げましょう、例えば米軍の飛行機は日本の上空をどんな高さで飛んでもいいことになっています。なので沖縄に行くと米軍機が住宅地の上を信じられないような低空でブンブンと飛んでいる。

もちろん、日本には航空機の運航について定めた「航空法」が存在します。ところが、日米地位協定の実施に伴う「航空特例法」というのがあり、そこには「米軍機と国連軍機およびその航空機に乗り組んでその運航に従事する者については、航空法第六章の規定は政令で定めるものを除き、適用しない」と明記してあるのです。

つまり、「最低高度」や「制限速度」「飛行禁止区域」などを定めた航空法第六章の43もの条文が米軍機には適用されない! 「米軍機は高度も安全も何も守らずに日本全国の空を飛んでいいことが法律で決まっている」という驚愕(きょうがく)の事実です。要するに日本の空は今でも100%、米軍の占領下にあるのです。

ただし、沖縄の米軍機は日本の住宅地の上を超低空で飛ぶことはあっても、米軍住宅の上を低空で飛ぶことはありません。なぜならそれは危険であるとして、アメリカの法律で禁じられているからです。

―日本の航空法は無視してもいいけれど、アメリカの航空法はきちんと守っていると。

矢部 空だけではありません。実は地上も潜在的には100%占領されています。例えば、2004年に起きた沖縄国際大への米軍ヘリ墜落事件。訓練中の米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落し爆発炎上した際、米軍は一方的に事故現場を封鎖してしまいましたが、実はこれも「合法」なのです。

なぜなら日米間には1953年に合意した「日本国の当局は(略)所在地のいかんを問わず、合衆国の財産について捜索、差し押さえ、または検証を行なう権利を行使しない」という取り決めがあり、それが現在でも有効だからです。

つまり、アメリカ政府の財産がある場所はどこでも一瞬にして治外法権エリアになり得る。
墜落したヘリの残骸や破片が「アメリカの財産」だと見なされれば、それがある場所で米軍はなんでもできるし、日本の警察や消防は何もできないのです。

―日本の憲法や法律が及ばない場所が突如、現れる?

矢部 そこが最大の問題です。いくら条約は守らなければならないと言っても、国民の人権がそのように侵害されていいはずがない。条約は一般の法律よりも強いが、憲法よりは弱い。これが本来の「法治国家」の姿です。

ところが1959年に在日米軍の存在が憲法違反かどうかをめぐって争われた砂川裁判で、最高裁(田中耕太郎・最高裁長官)が「日米安保条約のような高度な政治的問題については、最高裁は憲法判断しない」という、とんでもない判決を出してしまいます。

しかも、この裁判の全プロセスが、実はアメリカ政府の指示と誘導に基づいて進められたことが近年、アメリカの公文書によって明らかになっています。

結局、この「砂川判決」によって、日米安保条約とそれに関する日米間の取り決めが「憲法」にすら優先するという構図が法的に確定してしまった。

敗戦後、日本政府がアメリカ政府に従わされたように、この判決以降、「憲法を含む日本の国内法」が「アメリカとの軍事条約」の下に固定化されてしまった。つまり、日本の上空どころか、憲法を含んだ日本の「法体系」そのものがいまだに米軍の支配下にあると言っても過言ではないのです。

■ 戦後日本を陰で操る日米合同委員会

矢部 ちなみに、安保条約の条文は全部で10ヵ条しかありませんが、その下には在日米軍の法的な特権について定めた日米地位協定がある。さらにその日米地位協定に基づき、在日米軍をどのように運用するかに関して、日本の官僚と米軍が60年以上にわたって、毎月会議(現在は月2回)を行なっています。

これが「日米合同委員会」という名の組織で、いわば日本の「闇の心臓部(ハート・オブ・ダークネス)」。ここで彼らが第2次世界大戦後も維持された米軍の特殊権益について、さまざまな取り決めを結んできたのです。

しかも、この日米合同委員会での合意事項は原則的に非公開で、その一部は議事録にも残らない、いわゆる「密約」です。

また、この日米合同委員会のメンバーを経験した法務官僚の多くが、その後、法務省事務次官を経て検事総長に就任しています。つまり、この日米合同委員会が事実上、検事総長のポストを握っていて、その検事総長は米軍の意向に反抗する人間を攻撃し潰していくという構造がある。

―民主党政権時に小沢一郎氏が検察のターゲットになったり、鳩山由紀夫氏の政治資金問題が浮上したりしたのも、もしかしたら彼らや民主党政権が都合の悪い存在だったのかもしれませんね……。検事総長という重要ポストをこの組織のメンバーが押さえ続けることで、先ほどの話にあった「軍事力ではなく法で支配する」構造が維持されているというわけですね。

矢部 ただし、この仕組みは「アメリカがつくり上げた」というより、「米軍」と「日本の官僚組織」のコラボによって生まれたと言ったほうが正しいと思います。

アメリカといっても決して一枚岩じゃなく、国務省と国防省・米軍の間には常に大きな対立が存在します。

実は国務省(日本でいう外務省)の良識派は、こうした米軍の違法な「占領の継続」にはずっと反対してるんです。当然です。誰が見てもおかしなことをやっているんですから。しかし60年も続いているから、複雑すぎて手が出せなくなっている。まともなアメリカの外交官なら、みんな思っていますよ。「日本人はなぜ、これほど一方的な従属関係を受け入れ続けているのだろう?」と。

考えてみてください。世界でも有数といわれる美しい海岸(辺野古)に、自分たちの税金で外国軍の基地を造ろうとしている。本当にメチャクチャな話ですよ。でも利権を持つ軍部から「イイんだよ。あいつらがそれでイイって言ってるんだから」と言われたら、国務省側は黙るしかない。

―基地問題だけでなく、原発の問題も基本的に同じ構図だと考えればいいのでしょうか?

矢部 こちらも基本的には軍事マターだと考えればいいと思います。日米間に「日米原子力協定」というものがあって、原子力政策については「アメリカ側の了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられない」ようになっているんです。

しかも、この協定、第十六条三項には、「この協定が停止、終了した後も(ほとんどの条文は)引き続き効力を有する」ということが書いてある。これなんか、もう「不思議の国の協定」というしかない……。

―協定の停止または終了後もその内容が引き続き効力を有するって、スゴイですね。

矢部 で、最悪なのは、震災から1年3ヵ月後に改正された原子力基本法で「原子力利用の安全の確保については、我が国の安全保障に資することを目的として」と、するりと「安全保障」という項目をすべり込ませてきたことです。

なぜ「安全保障」が出てくるかといえば、さっきの「砂川裁判」と同じで「安全保障」が入るだけで、もう最高裁は憲法判断できなくなる。

■ 日本がアメリカから独立するためになすべきことは?

―しかも、「安全保障」に関わるとして原発関連の情報が特定秘密保護法の対象になれば、もう誰も原発問題には手が出せなくなると。

矢部 そういうことです!

―日本が本当の意味で「独立」する道はないのでしょうか?

矢部 第2次世界大戦の敗戦国である日本とドイツは、国連憲章のいわゆる「敵国条項」で国際法上、最下層の地位にあるわけです。しかし、戦後、ドイツは周辺諸国との融和を図り信頼を得ることで、事実上、敵国的な地位を脱したと見なされるようになりました。

それがあったから、ドイツは冷戦終結後、90年に第2次世界大戦の戦勝4ヵ国(英米仏ロ)との間で講和条約(「2プラス4条約」)を結んで、東西ドイツの再統一を実現することができたのです。そしてその条約に基づき、94年までに国内にいた駐留軍としての英米仏ロの軍隊を撤退させることができた。現在ドイツ内にいる米軍はNATO軍として駐留しているもので、その行動については全面的にドイツの国内法が適用されています。

なので、僕はドイツが戦後、真の意味で独立したのは1994年だと思っています。つまり、ドイツも独立するまでに49年もかかった。日本もまだ事実上の占領状態にあるとしたら、今からでも同じことをやればいい。

また長い間、アメリカの“軍事占領下”にあったフィリピンも、上院で憲法改正を議論して、1991年に米軍基地の完全撤退を実現しています。

日本はドイツとフィリピンというふたつのモデルがあるわけですから、そこから学んで、やるべきことを淡々とやっていけばいい。現状では「憲法改正による外国軍撤退」という、やや過激に見えるが実はオーソドックスなフィリピンモデルをカードに持ちながら「周辺諸国との和解を実現した上での、新条約締結による外国軍撤退」というドイツモデルを目指せばいいと思います。

後者については、国務省の良識派は絶対に喜ぶはずです。ところが現在の安倍政権は周辺諸国との緊張感をいたずらに高め、書店の店頭には「嫌韓・嫌中本」が氾濫(はんらん)している。まるで真逆の出来事が急激に起こり始めているのです。それこそが「日本の主権回復」を阻む最悪の道だということをどうしても言いたくて、この本を書きました。

(取材・文/川喜田 研 撮影/池之平昌信)

●矢部宏治(やべ・こうじ)
1960年生まれ、兵庫県出身。書籍情報社代表。著書に『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること―沖縄・米軍基地観光ガイド』、共著に『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』など。

( 週プレNEWS 2014年11月04日)
http://wpb.shueisha.co.jp/2014/11/04/38278/