畑倉山の忘備録

日々気ままに

明治維新の謎(6)

2016年09月24日 | 鹿島曻

我々はかくのごとき日本の悲劇が、岩倉、大久保、伊藤たちの情報独占と歴史偽造の延長であり、その当然の結果であったことを指摘しなければならない。

わかりやすくいえば、明治維新は孝明天皇父子を暗殺してその死屍のうえに築かれたものであり、その犯人であった元老たちが歴史を偽造して事件を隠蔽したために、日本国の進路には常に孝明天皇の呪いが影をおとしたのである。このことは我々も、我々の子孫も常に心に銘記しなければならない。

かくのごとく歪みきった維新を礼賛し、明治を聖代だといってその延長上に現代の繁栄を考えようとする錯誤は是正されなければならない。朝鮮国の王妃であった閔妃を虐殺し、屍姦して、その国土を略取するという不法行為を、それで合法的であったなどという政治家は歴史を理解していないのである。たしかに閔妃は朝鮮民族のために理想的な王妃とはいえなかったが、そんな他国のことはどうでもいいのである。日本に内政干渉する権利はなかったではないか。

従軍慰安婦の問題にしてもこの閔妃屍姦事件と同列であって、要するに、天皇制のもとで差別され奴隷扱いにされた日本人が帝国主義戦争に参入して、アジア人を差別してついに奴隷のごとく扱ったことが問題なのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(5)

2016年09月24日 | 鹿島曻

ゴルバチョフによるソ連改革の試みは、戦争によっては失うものが余りに大きいという核戦争の実状によってなされたことは否定しえないが、われわれは天皇ヒロヒトの独裁時代に八方美人で何も決断できない近衛やゴマすり男の東条だけが権力の中核を占め、一人のゴルバチョフもいなかったことが悔やまれてならない。

このことは明治以降、西南の役で軍旗を奪われたために、追放されて然るべき乃木のごき軍人が将軍として旅順攻撃の指揮を任せられ、その結果余りにも膨大な戦死者を出した、というひたすら忠誠重視の国体から生まれたのである。ライプニッツは「すべて高貴なるものは困難であり稀である」といったが、この時代に天皇に対する忠誠は珍奇なものであったからこそ重用されたのであった。

だからこの間の歴史を大観すると、こののち日本の国策を転換できたのは、憲法上、参謀本部を自己の指揮下において軍の最高指導者であった天皇ヒロヒトただ一人であったが、その天皇は独裁の座に酔い、軍機の秘密といって情報を独占し、戦闘能力を失ってゴマスリ競争だけに励んだ将軍たちに囲まれていた。

そのために、日本はノモンハン戦争においてソ連を攻撃ししかも全滅して、自己の軍事力の劣化に気づきながら、突如としてソ連に侵攻したヒットラーの戦力を天の助けとして他力依存して、なお戦争をつづけるというキ印的な戦略に逃避した。そしてそれは問題の解決でなく、ただ大破綻の先のばしにすぎなかったのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(4)

2016年09月24日 | 鹿島曻

ソビエトが共産主義の失敗を戦争によらず、国際資本主義に屈服して資本主義グループに参加するという形で国家の存続を図ったのに比べて、日本は帝国主義の矛盾を戦争によって先にのばした。この国の無能なる政治家たちは国家の存続を考えることなく、常に問題の解決を先のばしして保身を計ったからである。

このことを、モスクワ大学教授のガブリール・ポポフは、
「革命は新しい体制をつくり出すが、本来、革命が目指すものとは無縁の体制が革命の担い手になることは、フランス革命の歴史が証明している。しかも革命後の新制度は旧体制の制度の中から生まれてきたもので、過去にあったものとの妥協の産物だ。社会主義の七〇年余の歴史を振り返ると、社会主義理論が目指した社会主義を実現できなかった現在の社会主義は行政的社会主義、全般的国家社会主義とでも呼ぶべきもので、旧体制の破壊には有効だったが新体制の創設では有効ではなかった。我々は現在の社会主義を克服せねばならない。社会主義の基本理念は過去七〇年間に大きく傷ついた」と主張した(「朝日新聞」89/11/8)。

ポポフが「革命後の新制度は旧体制の制度の中から生まれてくる」といったことは、明治革命による新政府が旧体制の北朝官僚に依存し、その過去の手法によって情報を独占し、国民には必要な情報をー切与えず、ただただ官僚の命ずるままに諾々として奉仕するという、あたかも奴隷制のごとき封建制の不法を復活させたことで明らかであろう。吉田松陰が叫んだ解放の大義は捨てられて、朝鮮人やシナ人がおのれの系図を偽造し、歴史をデッチアゲた「倭の大乱」以降の大侵略時代が、その本国に向って侵略者の姿となって出現したのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(3)

2016年09月24日 | 鹿島曻

アメリカ合衆国憲法の父と呼ばれたジェームス・マディソンは、「人民が情報をもたず、情報を入手する手段をもたないような人民の政府は、喜劇ヘの序章か悲劇ヘの序章か、あるい双方ヘの序章にしかすぎない。知識をもつ者が無知な者を永久に支配する・・・・・」と述べている。

この言葉は敗戦という日本国の悲劇を、天皇ヒロヒトの「御聖断」が国を救ったとする日本国の喜劇を、明確に予言したものであった。だから、ありていにいえばのちに天皇ヒロヒトを作り出した明治維新は失敗以外のなにものでもない。

明治天皇は自ら南朝の末孫であるのにその事実をかくすことを求められた。すなわち自分が政治を委託した人びとに裏切られて、一生涯鉄仮面をつけていつわりの人生を強要されたのである。それは格子なき牢獄の人というべく、家族と絶縁させられ、全く自由がないという意味ではさながら囚人と変わらないものでもあった。

天皇が自らの出自をかくし、家族や旧友たちと絶縁したら南朝革命は存在しなかったことになる。兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川は、夢となって老いたる天皇の枕頭に現れたであろう。天皇もついにそんな人生にたえられず、その晩年には、南朝正系論によって自ら出自を明かそうとしたが、このときー人の側近も天皇を助けようとはしなかった。

時に側近の学奴たちは多くいたもののすべて虎の威を借りる狐ばかりで、自分が権力の分け前にあずかれば余計なことはしないというのである。孝明天皇と睦仁が臣下に裏切られたのと同じように、明治天皇もまた、いやそれ以上に臣下から裏切られたのである。

それゆえに、明治天皇を完全なる手本としてそれを修正できなかった天皇ヒロヒトの治政は、ゴマスリ東条や長い間北朝に仕えた家柄の近衛などにかこまれて、敗戦という悲劇によって「聖戦」を終了せざるをえなかったのである。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(2)

2016年09月24日 | 鹿島曻

このように過去を作りかえて合理性を否定した国家が、啓蒙主義の洗礼を受け、異なった歴史によって異なった文明を築いた欧米国家と接触したとき、あたかも今日の我々がUFOUの侵略を受けたかのごとく、異常極まるショックを感じたことは当然であろう。

今にして思えば、戦国時代と明治維新とはともに異なった二つの文化、文明の対決であった。それが戦国時代には鎖国によって日本の文化を守ろうとし、明治維新には日本の文化が独自性を捨てて西欧文明の中に埋没するという形で終わったのである。

しかし、ひとくちに文化といい文明といってもそれにはウラとオモテがある。日本側に優れた指導者がいれば、日本が受容した西欧文明はオモテの部分の優れたものだけが対象となったはずであろうが、維新の指導者は酒と女に溺れて革命の大義を放棄し、自分たちが孝明天皇父子を殺し天皇をすりかえた犯罪をひたかくしにして、日本的な腐敗の源泉であった北朝系官僚システムと妥協したため、日本が受容した西欧文明は奴隷主義、帝国主義、植民地主義などによって腐敗したヨーロッパの裏文化、すなわち差別イデオロギーそのものであった。

あえていうならば、日本は欧米という吸血鬼ドラキュラに血を吸われて、自らも吸血鬼と化したのである。そしてこのことを可能にしたのは情報を独占して国民に何も知らせないという手法であった。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


明治維新の謎(1)

2016年09月24日 | 鹿島曻

日本には国民の歴史は存在しない。歴史とは常に天皇家のための歴史であった。しかもこの歴史がー貫してデッチアゲであったのは修史の動機が不純だったから、すなわちシナや朝鮮から逃亡してきた人びとが己れの恥ずべき過去を天皇信仰という宗教によって抹殺しようとしたからである。

少年時代朝鮮海峡を密航してやって来たあと、パチンコで成功したキヨッポウが何故か理由はわからないが、「オレは日本で生まれた」と頑強にいい張るように、古墳時代のキヨッポウも日本の歴史を抹殺したあと自己の出自を偽造し、朝鮮三国(新羅、百済、駕洛)の歴史を合成して日本史らしきものを創作するという、今にして思えばまことに不可解な犯罪を強引に遂行した。

そしてそのために情報を独占し、抵抗するものを皆殺しにしたため、そののちこの国の偽造された歴史に対して合理的な批判がまったく発生しないようになった。そして同じ渡来者の子孫であった源平武士団の政権のもとでも、この不法なる状況は変更されなかった。

日本はシナや朝鮮と同じくきわめて多民族から成る国家であり、縄文人、弥生人、古墳人は皆別種であって、外来の朝鮮人やシナ人は先住民と異なる言葉を用いていたから、かれらが縄文時代の港川人やオロッコ(自称ウヱッタ)、ギリヤック、千島アイヌなどに対して、真実を語らずして情報を独占しえたことは容易に理解できるであろう。まことに情報の独占こそ先住民統治のための魔法の杖であった。

(鹿島曻『裏切られた三人の天皇』新国民社、1997年)


破防法(破壊活動防止法)の制定

2016年09月22日 | 国内政治

旧大日本帝国時代の支配層は、天皇崇拝を文化政策の中軸とし、これによって国民よりー段高い立場を確保し、有無を言わさず、彼らの特権的、享楽的な、公私の生活を確保した。

しかし戦後、天皇崇拝を、公然と利用することができなくなったので、彼らは、もっぱら、カラメテ戦術を用いた。

まず彼らは、一般国民をして、できるだけ民主主義を、ハキちがえるように仕組むことによって、各方面に混乱や行き過ぎを生じさせ、いろいろの浪費を多くさせ、物心両方面における国民生活を、行き詰まらせるように図った。これは同時に官憲のー般国民に対する物心両方面の支配力、統制力を増大するに役立つ。その政策が成功し、戦後における官と民との生活程度のヒラキは、年々大きくなっていった。

しかし、ただ一つの心配のタネとなるものは、隣国まで押しよせてきている共産主義革命の影響力である。もし、ひとたびその波が日本国内に侵入してきたら、どんなことになるか。もちろん、彼等の位置も特権も財産も、一挙にスッ飛んでしまうばかりか、まかりまちがうと、その生首までがあやうくなることは明らかである。

したがって、この波を、どうやって防止するかということが、戦後における日本の支配層と、その一党にとって絶対至上の問題であり、頭痛のタネであった。

すべて、ほんとうの人類的な正義と愛によらない政治は、国民を威圧と、眼先きの利益で釣る以外に方法はない。

彼等にとって考え得るただーつの方法は、昔の治安維持法みたいなものを作って、国民を威嚇するとともに、その実施に伴うボウ大な機構と予算とをもって、自己の陣営の商売繁昌と、追従者の優遇をはかることであった。

昔は“天皇の御ため”という口実を使ったが、当今では、あからさまに“自分たちのため”ということが露骨にでるのである。

そこで考え出したのが破防法(破壊活動防止法)の制定である。

もちろん、このような、非民主的な、野望にみちた立法は新憲法の立場から許さるべきものではなかったので、民主陣営の人々が、こぞってこれに反対してきたことは、読者諸君の知られることと思う。

昭和二十七年は、この破防法案が、国会を通過するか、あるいは永久に通らないか、あやぶまれた年であった。

ところが不思議なことに、その年の二月ごろから七月までの間に、急に日本の各地で、日本共産党員と称するものによる火焔ビン事件や、ダイナマイト事件というものが、おこったのである。

それらの実態は、このごろになって調べてみると、ほとんどタワイもない事件であったが、新聞にはデカデカと掲載されたので、当時、難航をつづけていた破防法を制定させるためには、この上ない有力な資料(口実)となったのだった。

あるいはそれらの事件の大部分が、菅生事件*と同性質のインチキ事件ではなかったろうかという気もする。

しかし、新聞の報道だけで、その真相を究明できない国民にとって、日共はいつしか“愛される共産党”でなく、“いやがられる共産党”となり下がってしまったのである。

かくて、破防法は、その年の七月二十一日に、マンマと国会を通過、制定されたのである。

(『正木ひろし 事件・信念・自伝』日本図書センター、1999年)

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* 菅生事件(すごうじけん)は、1952年6月2日に大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件。犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件である。当時巡査部長だった実行犯の警察官は有罪判決確定後も昇進を続けてノンキャリア組の限界とされる警視長まで昇任した。(ウィキペディア)


日本人のアメリカ人化

2016年09月17日 | 鬼塚英昭
日本人がアメリカに深入りするのはどうしてなのかを考えてみたい。それは、日本人がアメリカ人化しているからである。だからアメリカがサブプライム化すると、日本もサブプライム化したのである。ビル・トッテンの『日本人はアメリカにだまされている』(1994年)を紹介したい。トッテンは日本で「株式会社アシスト」を経営している。

「現在のアメリカは、国民の1%だけが得をするシステムの国と思えばわかりやすい。その1%の人々が、残りの99%の人々をごまかそうとしている。私は最近、決して冗談ではなく、アメリカの指導階級は本気で国民をごまかしているのではないかと思うことがある。これはじつにかんたんなことだ。
 要するに、政治家が何もしなければいいのである。麻薬を野放しにし、拳銃を自由に使わせ、暴力を取り締まらない。教育問題も放置する。テレビは下品な映像を映させ、雑音でしかない音楽を流させる。子供の教育レベルが低下しているから、テレビの悪影響はてきめんにあらわれる。人殺しやレイプに感性が麻痺して、自分もその一員に加わるようになる。頭の中は空っぽになっているから、本も読まない。思考能力は、いよいよ低下し社会生活を営む能力がなくなってくる。」

トッテンは1994年だからこそ、右のような文章を書いたのである。現在では決して書かないであろう。どうしてか? これはまさしく日本の現状に他ならないからだ。あっという間に日本人はアメリカ人化したのである。だから、アメリカで起こることは、必ずといってよいほどに日本でおきるのである。

(鬼塚英昭『八百長恐慌!』成甲書房、2008年)

人間対人間という関係

2016年09月16日 | 鹿島曻

歴史は人類に神の意思を教え、価値と理想を教え、そして未来の希望を与えてきた。しかし歴史の偽造者 -----「歴史の女神」を裏切った者には女神の怒りが与えられた。

日本列島は縄文晩期以降、屢々大規模な民族移動を受け容れ、民族それ自体も変質してきた。ところが、唐の帰化人であった藤原氏は、倭人の中国支配史を抹殺して、「われわれは日本列島が大陸から分離して以来、常に単一民族であった」という虚構の史書を作り、良く言えば民族の同一性を保つことができた。しかし、このような歴史は、努力すればするほど、あがけばあがくほど、周辺諸族を差別して、軋轢をおこすことになる。

一部の者は、「譬え嘘の歴史であっても、それを信じつづけたことが重要である。今さら本当の歴史を持ち出す必要はない。この程度の国民にはこの程度の歴史でいいではないか」などという。一見理論的な意見のようだが、こういった人に限って、文化勲章をもらった某教授曰く、とか言って悦び、自分の説がムダになるような新しい学問を生理的に嫌う。

日本史は『書紀』と『古事記』だけで十分だとか、『古事記』は人類最高の思想書だなどと言って、他のー切を読もうとしない。しかし調べてみると、中国史や朝鮮史は漢字が多くて読めないだけなのである。歴史学における近隣諸国史の重要性を説明しても、聞く耳もないし、突然怒り出したりする。要するに受け売り屋、ダイジェスト文化人なのである。

そもそも海陸シルクロードにおける民族移動の歴史は、われわれにとって周辺諸族との連帯の記憶であり、友好の根源であった筈だ。

いかなる人類も移動する生物であった。人類が移動の歴史を捨てることは、人類が人類であることを否定することである。田中事件で見るように、先祖の地や近隣諸国の人々の憎悪を生み、排日の嵐を激化させている現状は、「嘘の歴史」が作り出した常識がつづく限り、決してやむことはない。そこでは、日本人対異民族という関係だけが存在し、人間対人間という関係は成立しないのである。

今日、国家の絶対性は急速に薄くなっている。

江戸時代、藩の外には別の法律があり、国家とは藩であり、幕府とは今日の国連のような性格であった。しかし、内外経済の変化はー瞬にして藩幕体制を崩壊させてしまった。今日の国家もやがて同じ運命を辿るであろう。

具体的に云うと、世界連邦を作らなければ核の脅威は絶滅しない。人類に未来と希望を取りもどせないのである。そして世界連邦を作るためには、古代世界文明を集約することに成功した日本の歴史が理想的な先例であり、日本人が「本当の歴史を取り戻す」ことが人類にとって今日ほど必要な時代はないのである。

ところが、日本の史学界は多分に芸能的でいわば家元制度が確立している。家元の作品が無価値になるような作品が決して生まれないように、シャーマニズムによって築かれた日本史の大系が、実はまったくのペテンであり、『日本書紀』は包装紙に日本史と書いただけの、別の国の歴史だということを、家元の徒弟である現在の大学教授たちに認めさせるのは、それこそ八百屋でバイブルを求めるようなのものでしかない。

明治以降、日本のアカデミイは欧米文明に追いつくため驚くべき業績をあげた。しかし、このなかで日本史の教授たちだけは、学問の進歩に抵抗し、文明を退化させるために努力しつづけたのである。

このような抵抗のなかで歴史的真実を追求することは、個人の能力を超えるものである。しかし人々が、虚構の歴史と歴史学者を見捨てさえすれば、歴史的真実は僅かずつでも近づくであろう。真実は常に人類のものであり、学問は常識を否定することによって進歩してきたのである。

(鹿島曻『日本ユダヤ王朝の謎(続)』新国民社、1984年)


三十数年前の日本人

2016年09月14日 | 鹿島曻

日本人は東南アジアの嫌われ者である。

「エコノミック・アニマル」「イエロー・ヤンキー」に始まって、最近では「アロガント・ジャパニーズ(傲慢尊大な日本人)」と言われだした。

正月の毎日新聞(昭和59.1.10)を読んでいると、「日本は自分の利益極大化だけを追い求める。現地社会のしきたりや宗教など文化には気配りどころか、目配りさえしない。加えて外国語が上手な日本人は少ないから、話す言葉はぶっきらぼう、命令形を多用しがちとなる。話しかけられた外国語に自分がついていけないと、相手が白人ならテレ笑いでごまかすのに、現地の人の場合は口をむすんだままの見下すような表情。東南アジアの人々はこんな日本と日本人をアロガントと感じたに相違ない。

そんな彼らの感情がー九七四年、田中首相(当時)が東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々を歴訪したさい、バンコク、ジャカルタにおける大衆、学生の日本大使館襲撃、日本車焼き打ちなどの反日行動につながった」という記事が眼についた(編集委員・小木曽功)。

一九七四年一月十日、時の首相田中角栄は、バンコックを訪問したが、宿舎エラワンホテルを数千人の大学生に包囲されて「田中カエレ」のシュプレヒコールを浴びた。翌十一日田中首相はタイの学生代表と会談し、例によってポンポン数字を並べて煙にまこうとしたが、タイの学生たちは日本の選挙民より頭が良いらしく、誠意が感じられないと批判した。

同様の事件はジャカルタでも発生し、日本の評論家は、日中友好(田中首相が進めた国交正常化---引用者)を嫌ったアメリカの陰謀だなどと論じたが、それは問題のすりかえであろう。

こんなことは田中事件に限らない。ある商社のエリート社員が、ブルー・シャトウというバンコックの高級クラブでホステスに振られた腹いせに、「あの女は病気がある」と云いふらしたため、ホステスは商社員をピストルで殺し、自分も警察のジープの中で自殺したという事件もあった。

また、ある上場会社の元社長がバンコックに住んで、ハウス・ボーイに盗みの疑いをかけたため、翌日ピストルで射殺されたという事件もあった。タイの人々にとって、名誉は死を以って償わせ死を以って守るべきもので、それがタイ人のアイデンティティなのである。

バンコックに在住する私の友人は、「こんな事件は氷山のー角に過ぎない」と云う。

マイアミ、アカプルコ、ロングビーチなどと並び称される国際的避暑地パタヤビーチに体育館のようなセックス・ハウスがある。吉原などのイメージと異って、地方の女の子がぶらりと来ては何日か働いているのだが、この女の子がホールに並んでいるところに、観光バスでノーキョー・グループが大声で騒ぎながら入ってくる。

案内するのは現地ガイドだが、これがタイ人と結婚した日本女性である。そして、驚くなかれ観光グループの中に中年の女たちもいて、男たちに「あんたはどの子にする?」などと言いながら、ペット・ショップの子猫でも選ぶように、タイ女性を指さすのである。

確かにドイツ人などもへそくりを蓄めてバンコックにやって来るが、一人の男性としてガール・ハントする。会話ができなければ、手まねをしても女性の考えを識ろうとする、というのである。

これで反日感情がおきなかったらどうかしているではないか。CIAが反日運動をやらせたなどという以前の問題なのだが、机の前で考える人たちには判らないのかもしれない。

さて、『日本書紀』には神武の軍団に大来目がいたと書いてあるが、大来目とは古代メコン河の流域を支配したクメール族のことだ。

だから、日本人とタイ民族の間には切っても切れない血のつながりがある。クメール族はかつてメコン川流域を支配していたが、上流のバンチェン地域には世界最古の青銅文明が生まれ、オリエントーインダスの文明と殷文明をつなぐ役割を担い、人類史の焦点に位置した。

単独では旅行もできないという恥をさらしながら、金魚のウンコ式に観光バスで廻るにしても、まず、バンコック博物館に行って、偉大な共通の祖先が生んだ、バンチェンの文明を学んだらどうか。第二次世界大戦のあと、ドイツ占領のアメリカ兵は、ドイツ文明を祖先のものとして尊重したというではないか。思うに、このような日米の違いは、神国日本といった誤った歴史観が創造した虚構のアイデンティティによるのだが、恐らく将来に亘って、極めて重大な問題を引きおこすに違いない。

(鹿島曻『日本ユダヤ王朝の謎(続)』新国民社、1984年)


歴史を静思して目を覚ます(6)

2016年09月06日 | 歴史・文化
文化・文明に資するとはどのようなことか。

「漢」の国の漢字、「呉」の国の呉服、紙の漉(す)き方、儒学・仏教の五大文化を日本に伝え、日本人に初めて文字と紙と思想を与えてくれたのが、中国人である。

古代のおそらく紀元前数百年頃、九州北部に渡来して、水稲耕作の方法と青銅器と鉄器を日本人に教え、焼き物のつくり方と、のちには金銀銅の画期的な精錬法である鉛灰吹法を教えてくれたのが、朝鮮人である。

この最初の朝鮮渡来の文化を、まったく奇妙な名称ながら、東京弥生町で最初のー個の壺が発見されたことから弥生文化と呼び、その時代を弥生時代と呼んできた。

伊勢神宮の氏神は、国学者や維新の志士たちの妄想とはあべこべに、考古学的に検証すれば、この渡来人から生まれたものと判断して間違いない。

仏教を生み、絣(かすり)の技術を日本に伝えたのが、インド人である。インドネシアのバタヴィアやフィリピンのルソンなど、東南アジアからは、呂宋(ルソン)助左衛門ら豪商の手を経て山のような先進文明が入ってきた。

お茶、孟宗竹(もうそうだけ)など、数えきれない文化・文明がアジア諸国から日本に伝わった。日本はこれらの国の人がいなければ、ほとんど何もないと言えるほど、広く深い恩恵を受けてきた。日本人は、アジア人のなかの同じ家族である。

そうした隣人に対する恩義も忘れて、歴史の無知をきわめたのが、明治維新を成し遂げた日本の支配階層であった。(中略)植民地侵略は、明治維新から始まった。その流れを最もよく示す軌跡が、朝鮮と日本の関係である。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱篇』ダイヤモンド社、2007年)

歴史を静思して目を覚ます(5)

2016年09月06日 | 歴史・文化
ここまでたびたび用いてきた植民地と侵略という言葉について、定義しておきたい。

家に置き換えて考えてみるとよい。侵略して植民地にするとは、他人の家に勝手に入り込み、主人が服従するならその者を操って、抵抗するなら殺してしまい、居間を占拠することである。また、そこに住んでいる人間から土地を取り上げる。

今までの住人は、台所と畑や庭で働かせ、薄暗い下男部屋と女中部屋に押し込める。抵抗するものは殺し、玄関には門衛を置く、若い娘がいれば手ごめにする。家全体を住みやすく、立派なものにする。

侵入者のほうが必ず兵器にすぐれ、技術文明では高度なため、このように武力・腕力で押さえつけることができる。自分たちの言葉を教え、時には呼びやすいように、名前も変えさせ、自分たちが祀(まつ)る神棚を拝ませる。

このようにして、家全体が立派なものに変り、畑に数々の野菜が実るようになって、自室から追い出され、片隅にひっそり暮らした人間が、何を感じたであろうか。

なぜ改めて、この誰もが知る言葉を考えるかと言えば、第二次世界大戦の敗戦まで日本がどれほど朝鮮・中国・満州・台湾をはじめとするアジア諸国に対して、大きな文化、文明の普及につくしたかを第一義に語る、不道徳きわまりない、人として精神のかけらも持ち合わせない無知な人間がいるからである。曰く、鉄道を敷設した、通貨制度を確立した、生活の向上につくした・・・云々である。

ついには大声で、アメリカと中国の連携にはめられて日本は大戦争に突入したのだ、日本は侵略したのではない、とまで言い出す始末である。こうした輩(やから)は、日本の軍隊が台湾・朝鮮や満州・中国にどのようにして入りこみ、何を奪ったかについて、ひと言も説明しない。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱篇』ダイヤモンド社、2007年)

歴史を静思して目を覚ます(4)

2016年09月06日 | 歴史・文化
鈴木善幸内閣の文部大臣・小川平二は、教科書において、日本が戦前にアジアにおいておこなった行為を「侵略」から「進出」に書き換えようとし、一九八二年六月に中国から厳しい批判を受けた。この文部大臣は、田中義一内閣の鉄道大臣、小川平吉の息子であった。

父の平吉は大臣を退任後、在任中に鉄道会社に便宜を図った汚職が明るみに出て、「五私鉄疑獄事件」として有罪判決を受け、実刑二年で刑務所に収容されたが、鉄道大臣の任期中は国粋主義者として名高く、全国の駅名標をすべて右横書きに書き換えさせ、ローマ字を削除する知能水準の人間であった。(中略)

小川平吉は、一九二八年に関東軍の謀略で満州の統治者・張作霖が爆殺されると、事件をあいまいに処理しようと画策し、関東軍参謀・河本大作が主犯であることが証明されて立場を失った大臣でもある。

息子の平二が、そうした父の時代の事実を教科書の上で消し去ろうとしたに違いないが、奇しくもこの教科書問題が起こった時の総理大臣・鈴木善幸の息子、鈴木俊ーの妻は、小川平吉の孫娘であったばかりか、小川平吉の孫にあたる宮沢喜ーが、時の官房長官であった。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱篇』ダイヤモンド社、2007年)

歴史を静思して目を覚ます(3)

2016年09月06日 | 歴史・文化
戦後育ち、戦後生まれの人間にとって、戦時中の出来事には、なんの責任もない。

しかし日本人のために被害を受けた国から見れば、国家がおこなった戦争である以上は、すべて日本人が連帯責任を問われるのが、国際的なルールである。戦時中に日本が国全体で犯した過去の悪行を後年の世代が讃えれば、まったくの同罪で人格を問われる。

悪事を美化し、隠し、嘘をもって書き換え、目をそむける人間が、総理大臣と文部科学大臣、東京都知事、有象無象の評論家たちを筆頭に、いつまでも大手を振って徘徊する。

こうしたゴミに類する猿人は、論ずるに足らない。猿以下である。しかしこの猿以下が「主権は我にあり」と勘違いし、再び悪しき過去に日本を引き戻そうとしている。

政治家は、もともと主権のー片もない生き物にすぎない。日本人は、その政治家に牛耳られ、民衆自らが知恵を充分に発揮せず、ために苦難の道を歩んだ足跡をみつめ、歴史を静思して、目を覚まさなければならない時にある。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱篇』ダイヤモンド社、2007年)

歴史を静思して目を覚ます(2)

2016年09月06日 | 歴史・文化
近年の人間が口癖のように遺伝子のDNAで人の性格を論じているが、人間が育つ過程の進歩を否定する暴論・愚論である。

ひとつの家族からは、またひとつの土地からは、賢人も出れば凡人も出る。善人も出れば悪人も出る。もしそうでなければ、天才が出た血筋は永遠に天才だらけ、悪人が出た血筋は永遠に悪人だらけになるが、そのような家系、そのような土地は過去にひとつも実在しない。

三島由紀夫は徳川家康の直系子孫である、という事実がどのような意味を持つか。水戸黄門と徳川吉宗と最後の将軍・徳川慶喜と三島由紀夫は、どこに共通点があるかと論じても、こじつけに終る。

一家から正反対の性格の兄弟姉妹が出てきた膨大な事実から見て、血筋と血統は、容貌や骨格、体質のような医学的・肉体的な問題で、しかも長くて数代しか伝承しない。

一方で、先祖が生み出し、郷土に培われた業を頭で学んで、思想を受け継ぐことは実にしばしばある。技術者や商人、芸術家、役者の家において、そのすぐれた業が代々受け継がれてきたのは、そこに技と知の教育がおこなわれたからであって、血筋だけで育った技術は何ひとつない。

それだけ人間は「育つ」過程において受ける影響が大きい。すぐれた思想の伝承も、害意ある思考の継承も、同じ性格を持つ。

(広瀬隆『持丸長者 国家狂乱篇』ダイヤモンド社、2007年)