畑倉山の忘備録

日々気ままに

朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(6)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

金泳三政権時代(一九九二〜九八年)の一九九五年八月十五日、旧朝鮮総督府ビルが「光復節」記念祝賀行事の一環として爆破・撤去された。この事実を前にして黒田勝弘は、「『あるべき歴史』としては朝鮮総督府の建物はあってはならないのだ。歴史の立て直しは朝鮮総督府という『あった歴史』を消してしまうことである」と書くのである。

「あった歴史」よりも「あるべき歴史」が重要であるというのが韓国人の歴史観であろう。「あるべき歴史」を創造し、永遠の反日運動を韓国は展開していると黒田勝弘は説く。彼の『韓国反日感情の正体』(二〇一二年)から引用する。

「たとえば韓国では「歴史を正しく立て直す(ヨクサ、パロ、セウギ)」などということが平気でよくいわれる。われわれは「歴史とは過ぎ去った昔のできごと」くらいに思っているので、それを「正しく立て直す」などといわれてもピンとこない。しかし韓国人はそれで納得なのだ。
 筆者はそこのところを「あった歴史」より「あるべき歴史」を重視する考え方と説明してきたが、こうした歴史観は国際的にどれだけ通用する話だろうか。韓国では日本に対ししきりに「歴史歪曲」といい「歴史認識の一致」を要求する。時にはそれを外交問題にして日本を非難、糾弾する。」

私は黒田勝弘の歴史観に反駁(はんばく)する。日本の歴史も歪曲され尽くしていると思う。「歴史とは過ぎ去った昔のできごと」などとは思っていない。昔のできごとでなく、今のできごとと深く結びつき、今現在を常に動かしていると認識している。彼にはそういう考え方がないらしい。だから日本の多くの識者が、誰が最初に発明した言葉かは知らないが、「韓国の歴史はファンタジー(空想)」という。ならば「日本の歴史もファンタジー」である。特に、幕末から、明治・大正・昭和の時代の歴史はほとんどファンタジーである。だからこそ、私はこの「ファンタジー」に挑戦し続けている。アメリカを抜きにした日韓の歴史がいかにファンタジーに満ち溢れているかを私は書こうとしているのである。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(5)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

ジョージ・アキタとブランドマン・パーマの『「日本の朝鮮統治」を検証する1910〜1945』は一度引用した。この本の最後は次の文章で終わる。

「もちろん、本研究は朝鮮において日本が行なったことを取り繕うことを意図してなされたものではない。だが、一方でわれわれは、日本による朝鮮統治を可能な限り客観的に検証した本研究の結果を通して、朝鮮・韓国系の人々が往々にして極端に偏見に満ち、反日的な歴史の記憶をあえて選択して記憶に留める傾向を、可能なことなら少しでも緩和するお手伝いをするべく努力してきた。その中でわれわれ二人にとって非常に印象的だったのは、朝鮮の近代化のために、日本政府と朝鮮総督府が善意をもってあらゆる努力を惜しまなかったという事実だった。だから日本の植民地政策は、汚点は確かにあったものの、同時代の他の植民地保有国との比較において、アモス氏の言葉を借りて言うなら、「九分どおり公平 almost fair」だったと判断されてもよいのではないかと愚考するしだいである。」

私は右の文章に間違いがあるとは思わない。九分どおり公平であったと思う。同じように、崔基鎬の『韓国がタブーにする日韓併合の真実』の最後の文章を引用する。

「李朝五百十八年は、腐りきった中国の属国を志したものだった。李朝は自主独立を捨てて、中国に精神を預けて、儒教朱子学の原理主義に立脚して、「小中華」を自称して、自国民を奴隷化した。良民たちは、私利私欲だけに駆られた両班の食い物にすぎなかった。百姓は虐政に呻吟し、脱出するか、死ぬ自由しかなかった。改革を試みた王世子や、愛国者は抹殺された。
 李朝のもとでは、民族の自主的な解放は、絶対にできなかった。
 日韓併合の収支決算は、韓民族にとって大いなる善であったことを、知らねばならない。他力本願ながら、日韓併合が韓民族を救済し、南の韓国に今日の繁栄をもたらした。このことを、率直に認めるべきである。
 韓日両国が密接に協力することこそ、両国民にとって望ましい。
 日本民族は百済の末裔であり、本性は善である。兄弟国によった日韓併合は、李朝五世紀にわたって不当に抑えつけられてきた韓民族の善なる本性を蘇生させた。いまこそ、歴史を再検討するように、提案したい。」

私はこの崔基鎬の文章になんら偽りを見出せない。真実の告白であると思う。しかし、この本は、月刊誌に連載された後に、二〇〇三年九月に単行本として刊行されたものである。今なら、このような本を日本で出版すれば、崔基鎬は大変な不幸に遭うであろう。時代はたった十年の間に大きく変化したのである。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(4)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

ここで古田博司の論説「朴槿恵、アンタは何様か 否韓三原則で対韓不干渉を貫け」(月刊「WILL」二〇ー四年二月号掲載)から引用する。

「他方で、韓国は近代史上、日本軍と戦ったことがない。韓国が主張する戦いは一九二〇年の青山里戦闘一回きりで、敵は朝鮮人匪賊(ひぞく)だった。日本の無条件降伏と米軍進駐によって棚ぼた式に独立を得た韓国には、そもそも国家の正統性というものがない。一般の韓国人もそのことはうすうす知っていて、北の政権に比べて自分たちの政権に正統性の点で瑕疵(かし)があることに気づいている。
 なんとか正統性を得るため、青山里の戦闘で勝ったというウソを定着させようと韓国は骨を折ってきたが、戦場に残ったのは日本軍であった。敗けたほうが戦場に残る道理はない。
 正統性を保つために韓国が英雄として誇るのは、爆弾魔のテロリストだけだ。爆弾テロリス卜を英雄に仕立てなければならないのは、いまの韓国の悲哀であり、私が危惧しているのは、反日教育でテロリストや爆弾魔を解放運動の雄だと刷り込まれ、頭のなかがIRA(アイルランド共和軍)のようになった韓国の若者が「自分は英雄になりたい」と思って、爆弾をもって海を渡ってくる危険性があるということである。
 韓国人が歴史を学ぶとろくなことが起きない。我々日本人は、韓国人が歴史に学んでしくじる民族であるということをいま一度、認識すべきだ。」

私は古田博司(筑波大大学院教授)のこの文章を読みつつ、驕れる日本民族の悲しみを知った。そして、悲しみを通り越して怒りさえ覚えた。私は日本人の一人として、古田博司と同じような論を展開する多くの識者を知っている。嫌韓論、反韓論、排韓論・・・・・・・今日、日本人は驕れる民族となったのではないか。

三・一運動は朝鮮人が日本に挑戦した戦争ではないのか。日露戦争の後のルーズヴェルトを説得しようとした李承晩も、日本に戦争を挑んだのではないのか。パリ講和会議で日本を非難しようとしたことも戦争ではないのか。極端な表現で申し訳ないが、昭和天皇を爆死させようとしたテロリストも、日本に戦争を挑んだのではないのか。国民政府の力を得て、数々の工作をしたのも戦争ではないのか。

国と国とが大量の死者を出すことをもってする戦争のみが戦争ではないのである。私はここまで書いてきてやっと一つのことを知り、納得した。そして、私は林秀彦の『憎国心のすすめ』の一節を思い出した。

「悔し涙がたぎり落ちる。
 このとおりなのだ。すべて。そして、誰かが操作している。この日本人の本性を、骨の髄まで他律的であることを知っている誰かが、どこかの国が、どこかの民族が、その欠点をたくみにつき、利用し、一層助長させ、推進させ、搾取し、あやつっている。
 そして、これほど歴然としている数々の証拠実例を、なぜ人びとは(私が日本人を愛する故にわざと呼ぶ、“ジャップ”たちは)、気づかないのか。」

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(3)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

三・一運動が勃発した後に多くの運動家たちが韓国を脱出し、ロシア領に入った。また、上海にも入った。後の朝鮮戦争前に指導者になる呂運亨(ロウニョン)も一次上海に入った。ここで「大韓民国臨時政府」(通称・上海臨時政府)ができた。京城に「漢城政府」ができたが総督府の妨害に遭い満足な活動ができなかった。「ロシア領政府」も存在したが、日本がロシアの内乱でシベリア出兵をしたときでもあり、これも活動ができなかった。唯一、上海臨時政府のみがその存在を少なからず海外に示していた。ここでは、上海臨時政府についてのみ記すことにする。三つ存在した臨時政府においても李承晩は臨時内閣の閣員に入っていた。李承晩の名が日本統治下の韓国人の間で知れわたっていたことの証しとなる。

梶村秀樹の『朝鮮史』は、抗日パルチザン(遊撃隊)について詳述しているが、この上海臨時政府の記述はごく少ない。彼は次のように書いている。

「ブルジョア民族主義者の側では、李承晩(一八七五〜一九六五)はアメリカで外交工作に専念したにすぎなかったが、上海の大韓民国臨時政府は、二〇年代を混乱のうちにすごしたすえ、「満州事変」以後、金九(キムグ)(一八七六〜一九四九)の統率のもとでー連の爆弾闘争を敢行して活路を開いた。臨時政府は、のちには蒋介石政権とともに重慶に移り、一時的ながら義烈団との統一戦線を成立させ、「光復軍」を組織して四五年二月には日本に宣戦を布告した。国内の「民族改良」派も、対日協力者にされてしまった李光洙(イグァンス)や崔南善(チュナムソン)(一八九〇〜一九五七)らをのぞき、面従腹背の姿勢をもちこたえていた。そして、以上のいずれの系列にも属さぬ無名の民衆の、孤立した中でたったひとりでもがんばる抗争が、数多くあったことを忘れてはならない。」

大韓民国臨時政府のリーダーは金九であった。金九は韓人愛国団を組織した。この組織がテロを日本、中国の各地で実行した。一九三二年一月八日、東京の桜田門外で昭和天皇に爆弾を投げつけたが失敗した(犯人・李泰昌は後に死刑)。一九三二年四月二十九日には上海で、天長節(昭和天皇誕生日)の祝賀会に参加していた日本の要人に爆弾を投擲する事件が起きた。陸軍大将白川義則が死亡、駐華公使重光葵が右脚を失った。殺害者は尹奉吉(ユポンギル)。五月上海において死刑判決が出た。後に日本に移送され銃殺刑。ここで注目すべきは、テロ実行犯の李奉昌も尹奉吉も、伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュングン)とともに、韓国では英雄扱いされていることである。

日本と中国が全面戦争に突入し、蒋介石の国民政府が南京から重慶に移ると、大韓民国臨時政府も重慶に移った(一九四〇年九月)。この臨時政府は少数の韓国人がいただけで、軍組織を持たなかった。金日成の抗日活動と比べて格段に劣っていたことが、一九四五年八月十五日以降にはっきりする。

現在の韓国は、この大韓民国臨時政府を現韓国の国家起源であると憲法で明文化している。日本の史家はこの臨時政府の存在を認めようとしない。蒋介石は臨時政府をアメリカに認めさせようとしたが、アメリカはこの政府を無視し続けたのである。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(2)

2017年12月26日 | 鬼塚英昭

ここでアメリカと韓国(朝鮮)の関係を書くことにする。最初に結論を書いてから書き進める。「アメリカは日本の植民地政策を支持し続けて、ことごとく韓国の人々の要望を裏切るのである」「なぜか?」という問いを発してから、アメリカとは何かを追究する。

セオドア・ルーズヴェルトはアメリカ大統領になる前、副大統領のときから、膨脹主義をとるロシアを抑制するために韓国を日本が支配下に置くよう主張していた。一九〇四年二月、日本海海戦で日本海軍はロシア・バルチック艦隊を対馬海峡において壊滅させた。満州でも日本軍がロシア軍に大いなる打撃を与えていた。

駐米日本公使高平小五郎は一九〇五年一月二十五日、ルーズヴェルト大統領にロシアとの講和調停を申し入れた。

デイヴィッド・ハルバースタムは『ザ・コールデスト・ウインター朝鮮戦争』(二〇〇九年)の中で次のように書いている。

「自国の将来に発言権を持たなかったのは朝鮮という国の宿命だったようだ。日露戦争の調停者は朝鮮人ではなく、セオドア・ルーズヴェルト米大統領だった。かれはその功によってノーベル賞を得ているが、朝鮮人の利益の増進にはなんの関係もない功であった。ルーズヴェルトが代表したのは、力をつけていく新しいアメリカ、無意識の帝国主義的衝動を表わし始めたアメリカであった。ルーズヴェルトは一八九八年の米西戦争の熱心な主戦論者だった。戦争の勝利は植民地フィリピンをアメリカにもたらす。かれは時代の寵児だった。」

ルーズヴェルトの方針は一貫していた。彼は「日本を南方(フィリピン)でなく、大陸に向ける。そして満州においてロシアと対峙させ、両方の軍事力を消耗させる。やがて、日本を中国に侵入させ、太平洋に誘い出して敗北させる」という思想の持ち主であった。日露戦争前から秘密裡にこの計画は練られ、「オレンジ計画」として登場する。

「ジャップの野郎にすきなことをさせておけ。しかし、今しばらくだ」。日本人は福沢諭吉が明治維新後から「脱亜論」を説いたが、日本人は白人並みの扱いは決してされなかった。だが、朝鮮人に対するルーズヴェルトの態度はそれを上回る冷淡さであった。

一九〇五年九月五日、日露講和条約が調印された。この条約でロシアは韓国における日本の政治、軍事、経済の優位を認めた。アメリカとイギリスは韓国問題について合意した。同年八月十二日、第二回日英同盟が調印された。日英の利益のため、日本はインドにおける英国の優位を認めた。ここで第一回日英同盟には明記されていた「韓国の独立」が姿を消した。

同年七月二十七日、国務長官ウィリアム・H・タフトは日本で桂太郎首相との間に秘密会談を持った。ここでアメリカは韓国における日本の宗主権を認めるとした。ルーズヴェルトもタフトの意向を公式に認めた。

アメリカは膨脹主義と孤立主義を同時に主張する国家であると私は書いた。韓国はそんなアメリカにとって無関心な国となった。かつて両国の間には米朝条約が結ばれていたが、アメリカによって一方的に破棄された。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


朝鮮半島をめぐる巨大な謀略(1)

2017年12月25日 | 鬼塚英昭
反日論の萌芽は、日韓併合後に生まれている。では、三・一独立運動とアメリカの関係について次項で書くことにする。アメリカは三・一独立運動を無視し続け、日本に協力する立場を堅持するのだ。それはなぜか?

一九一九年三月一日、京城のパゴダ公園(現在のタブコル公園、ソウル市鐘路区)で朗読された「独立宣言」の第一節は「我々はここに朝鮮が独立国だということと、朝鮮人が自主民族であることを宣言する」である。

金両基編著『韓国の歴史を知るための66章』には「一九一九年三月一日、京城と平壌など九カ所の主要都市での同時多発デモから始まった三・一運動は、四月末まで二カ月にわたって全国各地で起こり、二百万人以上がマンセー(万歳)と叫びながら千五百回以上のデモを繰り広げた」と書かれている。この本の編著者金両基は韓国の立場からこの本を編集及び執筆している。続けて読んでみよう。私たち日本人は、日本側から一方的に日本優位の立場・視点から韓国を見ている。しかし、彼ら韓国人の視点に立って、一時的にしろ感情移入して読んでみてほしい。

「これほどまでに大々的に朝鮮人たちが立ち上がった背景とは何であろうか。一つ目は内的要因として、まず日本帝国の武断統治とそれによる朝鮮人と日本人の間の矛盾の深さをあげることができる。武断統治体制は銃剣とムチをもった憲兵によって維持されていた。朝鮮全体が「窓のない監獄」あるいは兵営となり、朝鮮の民衆は自由を抑圧されながら暮らした時期である。また土地調査事業の実施によって自作農と自作兼小作農の大半が没落し、小作農と農業労働者が大きく増加した。また、土地改良、綿花栽培の強制などで小作農民は大変困難な生活に陥った。そのうえ各種税金、公課金、間接税や、さまざまな農民団体の組合費なども農民の家計を大きく圧迫した。三・一運動に参加して逮捕された一万五千余りの人びとの職業統計研究の結果によると、農民が圧倒的に多く約六〇%に達していた。これはまさに苦痛の中心にいた農民たちの不満が三・一運動をきっかけに爆発したことを物語っている。」

日本の史家の中にも韓国側の立場から書く人も多い。梶村秀樹の『朝鮮史』(二〇〇七年)を読んでみよう。

「一九一九年三月一日から始まり、およそ一年もの間朝鮮全土をおおった三・一運動は、ひとりの英雄的な指導者によって象徴されるような質のものではない。多くの無名の人々の、もちこたえてきた独立ヘの意思が、ひとつに合流した民衆運動であった。たとえばソウルで学んでいたわずか一五歳の女子学生柳寛順(一九〇四〜二〇)は、宣言文を持って故郷の天安に帰り、その土地での行動の先頭に立ち、逮捕されても昂然と正当性を主張して屈せず、拷問のため獄死したことが、いまも語りつがれている。かの女はいわば無数の無名の英雄のひとりであり、運動の象徴なのである。全国二一八の市郡のうち二一七までにおいて、その土地に住む人々がかの行動を自主的に組織した。延ベ参加人数は数百万、実質的には当時二千万の全朝鮮人が主体的に運動にかかわった、といってもそう誇張ではない。三・一運動は、日本の米騒動や中国の五・四運動とともに、東アジアにおける運動の同時的昂揚としてよく一括してあつかわれるが、その中での三・一運動の特徴は、民衆運動としての拡がりの大きさであったといえる。」

私たち日本人は「反韓論」の本や雑誌を読んで「なぜだ!」と憤激している。しかし、反日の源流を過去に溯って知る努力をしていない。いかに李氏朝鮮が腐敗した国家であれ、これを糺(ただ)し、日本に併合したときに、そこに住む人々が日本人に向けた憎悪の眼差しを過去に溯って知ろうとしなければならない。日本併合によって生活が良くなったのだから、文句を言われる筋合いはない、というのは日本人の驕(おご)りである。

日本の官憲も当初はたかをくくっていた。しかし、この運動が全国的規模となるにつれて弾圧にかかった。逮捕者が続出した。当時の首相原敬は日本から軍隊を増派し、大衆集会さえ開かせなかった。デモも徹底的に取り締まった。この三・一運動で七千人といわれる死者、約一万六千人の負傷者、約四万七千人の検挙者を出した(韓国側の発表した数字)。

この三・一運動の後、統監府は武断政治をやめ文治政治、すなわち、アメとムチの政治体制へと移行する。多くの三・一運動の指導者たちは文官あるいは実業家となっていく。そして、一部のものが海外ヘと脱出する。

(鬼塚英昭『「反日」の秘密』成甲書房、2014年)


「全ク前代未聞」の大礼

2017年12月24日 | 天皇
内閣改造を行った大隈が次に行うべき重大行事は、11月の即位大礼であった。

11月6日、天皇を乗せた御召列車が、東京駅を発車した。皇后は懐妊のため同行しなかったが、官中の賢所が同時に運ばれた。天皇は途中、名古屋でー泊し7日に京都に入った。

沿線では、御召到車が停車した山北、沼津、静岡、浜松、名古屋、大垣、米原(まいばら)、大津の各駅はもちろん、それ以外の通過駅でも多くの人々が動員され、整然とした奉迎の光景が展開された。夜を徹して京都御所で行われた大嘗祭に続いて、天皇は伊勢神宮、神武天皇陵、光格・仁孝・孝明天皇陵、それに伏見桃山陵に参拝し、京都ー山田(現・伊勢市)、京都ー畝傍(うねび)、京都ー桃山間にも、それぞれ御召列車が運転された。大正天皇は二十日あまりにわたる大礼の日程を完全にこなしたことで、天皇としてふさわしい政治的身体を確立させたかに見えた。なおこうしたー連の日程は、1928(昭和3)年の昭和大礼にほぼそっくり受け継がれることになる。

しかし大礼は、天皇の希望通りに行われたわけではなかった。なぜなら、儀礼の簡素化や工程短縮を望んでいた天皇の意思は、結果的にやはりほとんど受け人れられなかったからである。貴族院書記官長として大礼に参列した柳田國男(1875〜1962)によれば、「今回ノ大嘗祭ノ如ク莫大ノ経費ト労カヲ給与セラレシコトハ全ク前代未聞ノコト」であり、「大嘗祭ノ前一夜、京都ノ市民ハ電灯昼ノ如ク種々ノ仮装ヲ為シテ市街ヲ練リ行ク者アリ。処々ノ酒楼ハ絃歌ノ声ヲ絶タズ」というような、大礼に乗じての派手なお祭り騒ぎが、あちこちで繰り広げられていた。

それだけではない。11月10日に行われた紫宸殿(ししんでん)の儀では、高御座(たかみくら)の天皇が勅語を朗読してから、大隈が国民を代表して寿詞(よごと)を奏上し、天皇に向かって万歳を三唱する午後3時30分に、植民地を含む全国でー斉に万歳を叫ぶことになった。実際には足の不自由な大隈が歩行に時間を費やしたため、大隈がまだ寿詞を読んでいるうちに万歳を唱える結果となったが、その光景は確かに、京都だけで見られたわけではなかった。東京郊外の北多摩郡千歳村(現・世田谷区粕谷)に住んでいた徳富蘆花は、この日の日記に「午后三時過ぎ、八幡様でも小学校でも万歳が聞こえる。 花火が上がる。吾(われ)も皇室の、日本の、人類の前途の為に祈る」と記している。

なお余談になるが、蘆花は続けて、「今朝は嘉仁君の即位を祝して赤の飯を焚(た)いた」とも書いている。明治天皇を不死の「神」のようにとらえるあまり、その死に対して強い衝撃を受けたのとは対照的に、蘆花が日記の中で大正天皇を一貫して「嘉仁君」「嘉仁どん」などと同輩のように呼んでいるのは興味深いところである。

(原武史『大正天皇』朝日文庫、2015年)

大正天皇は 1926(大正15)年12月25日、葉山御用邸で死去(享年47)