探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

保科正慶 ・・・保科正俊の息子達

2013-07-02 15:59:51 | 歴史
保科正俊の息子達 保科正慶

保科家の系譜を調べていく中で、一番に激動的なのが正俊のところで、どうも保科の各流が、そして荒川家の易正が合流し、さらに彼の盟主を決める過程でも色々あり、大名への飛翔の礎を作ったのが、保科正俊であることが明確になりつつある。どうも保科正俊は強烈である。そして、かなり魅力的でもある。だが、この保科家の、恐らく三系流の合流のことは、以後の大名家への飛翔の際の家系譜の正統性からか、無理矢理整合を図られ、二流派は切り捨てを余儀なくされたようだ。従って、どう見てもおかしい史実が後日に幾つか露呈し始める。数を上げれば切りがないが、保科正則の年齢、正俊(正利)の名前の重複、易正の別名の多さ、等々。これが、保科正俊のときに行われたことは確かなので、保科正俊のところを、更に深掘りをしてみたいと思う。このことは何も自分だけが今に気がついたことではないことは、赤羽記を読んだあと、蕗原拾葉の中村元恒が既に明治11年に指摘しているところでもある。さらに書には、著わさなかったものの、この部分の古書の研究者達は矛盾に気づいていたことと思われる。鍵を握る男(キーマン)は保科正俊だが、過去を修正した後の、道筋を辿ることは容易ではない。正攻法の系譜探しは困難を極める。正俊自体が生没の年を顕かにしていながら、不思議なことに、その墓地を発見することができないのだ。
そこで、正俊の子供達のそれぞれの生涯を辿ってみたいと思う。
まず、系譜は、第一に赤羽記の保科略系を基本として、第二に寛政重修諸家譜を補助とし、必要があれば他を参考とする。理由は赤羽記はA級資料であり、寛政重修諸家譜は幕府が家系図を作る必要から、諸藩に提出させたもので、時折飾って修正されたものがあり、資料としてはB級と思われるからである。

保科正慶のこと
槍弾正、保科正俊は実に魅力的な人物ですが、かつ謎多き人物でもあります。その正俊の息子に、系図から外された、存在を封印された息子がありそうです。
この保科正慶は、長谷溝口の溝口長友の跡をついで、溝口正慶を名乗りました。

この時の、溝口家の時代背景は次の様になります。
武田との戦いに敗れた小笠原長時は開運の見込みがないとして、弟の信定のいる鈴岡城に逃れることになった。この時溝口長友は跡目を長勝に譲っていたが、本来、氏友以来松尾小笠原の別家筋に当たる。鈴岡・松尾と小笠原家の総帥小笠原長時を守るべく、長勝。長友父子は小笠原長時の元に合流することとなる。つまり、長谷溝口からの撤退である。だが、武田信玄(晴信)に駆逐されて、長時は京都の三好長慶を頼る羽目になった。長時の上洛に従い長勝・長友父子も従い、京畿の長慶の弟三好義賢の居城河内高屋城に寄寓し、いご小笠原長時を助けて流浪するようになる。
さて城主不在となった溝口城へ、保科正慶は、溝口正慶として名跡を継承するようになる。
この時の名跡継承には、保科家と溝口家との間で、暗黙か実際にか、確実な了承があったと見るのが自然かも知れない。

溝口正慶については a保科正辰の次男、 b保科正直の子、 c保科正俊の子の三説がある。たぶん長谷出身の学者、市川本太郎(信大東洋史・特に中国儒教)のa保科正辰の次男説は年代考証から無理があろう。正辰を誰かと読み違えた可能性がある。b保科正直の子の説は、信玄に誅されたのが1556年とすれば、1542生まれの正直の14才のとき、正慶は既に元服を終えて壮年であったことで、考えられない。そうして考えると、正慶は、c保科正俊の子、それも正直より兄で、長男と考えるのが、一番妥当に思える。

溝口正慶の悲劇
信濃侵攻で、信玄は伊那谷に進出し、高遠城や箕輪の福与城を攻め、さらに下伊那の知久氏や飯田の小笠原氏を攻略、木曽氏を降伏させたうえで三女を木曽義昌の正室として嫁がせて一門として処遇し南信濃 をほぼ手中にした。上伊那衆の反抗は、こうした状況で起こった。武田が 川中島で上杉軍と対陣している状況を見て、勝機を感じ武田に反抗するために、信玄の娘の嫁ぎ先である木曽氏を攻撃したのである。これは信玄の怒りを買い、急遽伊那に矛先を転じた武田軍によって、上伊那衆の反抗は捕らえられて、狐島の蓮台場で首をはねられ、さらし首になった。
八人塚の逸話を唯一伝える甲陽軍鑑によると、「信玄公弘治二年六月中 旬に又伊那へ御出馬あり、七月、八月、九月都合四月の間に伐随給ひ、 即ち伊那侍御成敗の衆 …」とあり、黒河内隼人政信、溝口民部少輔正慶、松島豊前守信久、伊那部左衛門尉重親、殿島大和守重国、宮田左近正親房、小田切大和守入道正則、上穂伊豆守重清の名が続く。
このうち黒河内隼人政信、溝口民部少輔正慶の領民たちが、自分たちの殿様の無念を思い、首を取り戻すため闇夜に乗じて刑場に忍び込んだ。しかし、暗さでどれが殿様の首か判断できず、八つの首すべてを持ち帰り、供養したのが八人塚伝説の原点とされる。

武田家の権勢が伊那一帯に及んだ時、保科正俊は、溝口を名乗って反乱した長男を、武田に憚って封印したと見るのが合理的と思う。意識的に封印したとすれば、証拠は隠滅されて、その為か、残された資料はすくない。


赤羽記による保科家系の正俊の子供達
保科正俊の子   赤羽記
保科正則-正俊-
・正直
・・弾正忠、始め筑前守、弾右衛門
・・母、小河内美作守女
・・生死年月、天文十一年(1542)高遠で生、没慶長六年(1601)六十六才。
・・法名建福寺殿天関透公大居士、墓は高遠建福寺、霊屋は会津建福寺(位牌のことか)
・・武田家の靡下で属し、高遠城主、武田家滅亡後、子の正光とも家康に仕える。大阪の役後、高遠城三万石城主。
・・夫人、跡部越中守女、
・・・天正十年(1582)三月二日織田軍高遠城侵攻で自殺。
・・・法名、成就院殿願誉○心妙貞大姉、高遠満光寺、霊屋会津願成就寺
・・夫人、多却。徳川二郎三郎広忠の五女。
・・・松平忠正室→松平忠吉嫁→正直嫁
・・・法名、長元院殿清信授法大禅定尼、西久保天徳寺
・喜兵衛
・・天正十年(1582)三月二日高遠城で戦死。
・内藤昌月
・・別稿で詳細記述。
・正勝
・・参河守、始め隼人、一正秀とも名乗る。
・・慶長二年(1597)四月十一日逝
・・法名、無着院殿安窓英心居士、高遠善龍寺
・・夫人、甘利左衛門信景女
・女、小山田将監貞政室

さらに、寛政譜によれば

寛政譜

保科正俊-正直
・正直
・・甚四郎、筑前守、弾正忠、母は某。
・・天文十一年(1542)高遠で生。信玄・勝頼に仕え、数々の軍忠あり。
・・天正十年(1582)家康が甲斐に進軍し北条と対峙する時、徳川に味方することを、酒井忠次を通じて告げ、家康より感状を受け、伊那の半郡の二万五千石の御朱印で高遠を領す。
・・その後、藤沢頼親が家康に反旗する時、頼親を滅ぼす。
・・天正十二年(1584)家康より多却姫を室に迎える。
・・木曽が太閤に味方する時、菅沼、諏訪とともに木曽を攻めるが、攻めきれず退却。この時、しんがりを勤める。
・・十三年(1585)上田の真田昌幸を攻めるが落とせず退却。
・・この年十二月三日、小笠原貞慶が高遠城を攻める。*軍役で留守をしていた正直に替わり、隠居していた正俊が無勢ながら防戦して打ち破った。鉾持除けの戦い。
・・十八年(1590)小田原の陣、十九年(1591)九戸の一揆に参陣する。
・・慶長六年(1601)高遠で逝く。66才。
・・・法名、墓地、霊屋等、赤羽記と同じ。

寛政譜は、間違っているとまで言わないが、正式な嫡流のみの正直の記述があるだけで、他が一切略された?資料価値に乏しいものに成り下がっている。


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