探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

雑記:保科正則と正俊 覚書:Ⅰ

2016-09-30 03:07:54 | 歴史

雑記:保科正則と正俊 覚書1

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しばらく、命題のテーマを休んでおりました。
新たなる”史実の発見”がなかったこともあり、その時代の、「荒川家、保科家の周辺」の諏訪家や小笠原家の理解を深める作業を少し続けていましたが、違う方面が忙しくなり、忙しさにかまけて、”命題”の方は休んでおりました。
ある時、北信濃・長野・若穂保科に”延命寺”という寺があることを知り、この開祖のことを知る機会があり、開祖保正の遠祖は、諏訪・長久保から北信濃・保科の里へ流れた、と記載されています。しかし諏訪には長久保という地籍は、調べたが、昔も今も存在しません。しかし、伊那・箕輪の北限の小河内の隣に久保という地籍は存在します。小河内は、おそらく保科正俊の室・小河内美作守女の出身地。保科正直、内藤昌月の母でもあります。こうなってくると、武田信虎の配下に、保科七騎あり・・はがぜん真実味を帯びてきます。さらに、信虎の時代、保科正則は甘利虎泰の娘を室に迎えております・・甲陽軍鑑。甘利虎泰は武田信虎の腹心とくれば、同時代の高遠・諏訪頼継の家老の保科正則と別人格が浮かび上がってきます。
この複雑な部分を、年代や活動地域や姻戚関係を整理しながら、解明しようと思います。

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保科家系譜(to kazusa)引用

◇保科正則の項

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●保科正則(まさのり。弾正忠、築後守)
  ……信濃国高井郡保科に生まれ、これにより保科(ほしな)を称号とした説もある。
  ・長亨年間(1487-88)に村上顕国に攻められ、父・正利(永正3年/1506没)と共に一時伊那郡高遠の別邑に退く。
  ・藤沢城を居とし、高遠氏(保科氏と同じく諏訪祝系)に従い藤沢の代官となる。天正19年(1591)9月6日没、法華寺に墓。
 ├──[女子] 畑(野)伯耆守室 ⇒山田伯耆守室?
 ├──[女子] 上林但馬守室
 ├──[正俊]→嫡子:
 ├──[甚右衛門] ※上杉家臣保科略系譜の権左衛門「保科弾正忠ニ男 豊後守正信 天正十年没」と同一か?
 ├──[女子] 小原美濃守室
 ├──[女子] 秋山備後守室
 ├──[新右衛門] 兄甚右衛門と同母
 └──[女子] 春日河内室
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 研究:各書に記載された事象を箇条書き列記・
 1:畑野伯耆守、畑(・)伯耆守 波多野、秦野、幡野、波田野、畠野 ・・・不明
  ・赤羽記付録に、畑(山田)源左衛門=山田伯耆守は婿という
  ・畑 は”火”と”田”を分解して眺めれば、”山”の崩し字が小さくて”火”とも読め、隣接していたため誤読されたのであろう。そうとすれば、畑伯耆/畑野伯耆は誤読で、不明なのは頷ける。山田伯耆・正。
  ・ ・・・山田氏は高遠頼継とともに、天文14年(1545年)に武田信玄に降ったとみられるが、天文18年(1518年)伊那衆が武田氏に叛き金沢峠で戦ったとき、山田新左衛門が武田氏と戦って討死している。新左衛門の子山田弥介は武田氏に従って二十騎の将となった。・・・ 説明:山田城は三峰川の南岸、下山田集落の南側の山にあり、南の山塊から北東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれている。・・・源左衛門?新左衛門?伯耆守?
 2:上林但馬守
  ・一瀬城近く、円通寺境内。伊那市長谷市野瀬1139。
  ・墓の主は「上林但馬守女」とあり、一瀬城三代目城主「一瀬勘兵衛直重」の母にあたる人
  ・・・・>頼次の家臣は上林上野入道と保科筑前守殿両人也・・・
  ・・・・高遠頼継や保科・神林両氏ように、所領を新たに宛行い、高遠の代官として ・・・
  ・上林上野入道と上林但馬守が同族かどうか不明・上林と>神林が同一かどうか不明・
  ・ ・・・高遠頼継の老臣に「上林上野入道」があり、殿島の地頭・・・
  ・上記から、上林上野入道は、高遠・殿島の地頭で殿島に住んでいた
 3:甚右衛門:保科弾正忠正則ニ男 豊後守正信 天正十年没?保科正信?
  ・保科正信 北信濃に在か?保科正俊の弟/兄?
  ・上杉の家臣・上杉方・稲荷山城城代(天正壬午の乱の時期):>保科豊後守正信:1584(天正12)
  ・保科豊後守佐左衛門(すけざえもん/権左衛門とも?/保科左近将監?
  ・正俊(武田)と正信(上杉)は敵として対峙したのか?異母兄弟なのか?父・正則は同一人物なのか?
 4:小原美濃守:>小原美濃守・武田家臣の小原広勝は小原丹後?美濃ではない。高遠・小原城城主(鉾持神社三峰川挟んだ対面)の係累か?「朝寝朝酒朝湯が大好き」な小原庄助さんの六代前の祖
 5:秋山備後守:春近衆の秋山だと思うが不明?
 6:新右衛門 兄甚右衛門と同母
  ・保科正則の次男の与次郎が、春近から藤沢台に移住し北村家の祖になった。
  ・新右衛門と与次郎は同一人物か?
 7:春日河内 伊那部左衛門尉重親か:この場合、個人の生没からの年齢が不明なので特定できず・
  ・磔になったのは春日河内守、または伊那部新左衛門か
  ・春日城主には春日河内守昌吉が就いた。・昌(正)の字から推測すれば、正則の娘の子・孫の可能性高。
 ・正則の子、正俊の兄弟姉妹を分類すると、異母兄弟の可能性と、異質の正則の2つの像が浮かび上がる。
 ・恐らく、前期正則と後期正則の継承であろう。
 ・前期正則の子は、甚右衛門と新右衛門。
 ・証は、状況証拠だが、長亨年間(1487-88)に青年だった正則が、1591年に没というのは、齢100歳を超えてしまい、常識的に合理性がない。家名としての”名跡”を継承する形で”正則”は引き継がれたのであろうと推測する。
 8:甘利虎泰の子に(信益、信忠、信康、女(坂西左衛門室)、女(坂西左衛門室)、女(保科正則室)、女(鎮目惟真室):虎泰の生没?
 ・> 甘利虎泰は戦国時代の武将:武田氏の譜代家老:武田二十四将、信虎時代の武田四天王。
 ・>女(坂西左衛門室):>坂西左衛門は、飯田城城代
  ・甘利虎泰の子信益、信忠、信康、
     ・・・娘 ・女(安中景繁室[2])、女(坂西左衛門室)、女(保科正則室)、女(鎮目惟真室)
 9:赤羽記付録の解析・
 ・保科正則は、小笠原の内訌に松尾小笠原家の援軍で参戦し、松本小笠原家との戦いで、1533年に、駒場において戦死したとの記載がある・
 ・高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構え・・・”通説”では、高遠満継の時代・・・この時代に、信定(=満継)に反旗を翻した貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)を治め、・・・これらの反乱を治めるのに・・・功績のあった保科正則に、報償として彼らの領地が与えられて、ついには高遠一揆衆の中で一番の大身になった、と記載され・・・
 10:保科正則を筆頭として、玉井甚市、堀内土佐、山崎刀悦、轟玄蕃、海谷与五右、久保保正・・・保科七騎
 ・武田信虎の軍の中に、保科正則七騎あり

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◇本文・1:
武田信虎の臣・保科正則

「武田信虎の軍の中に、保科正則七騎あり」という記録があり、”保科七騎”もしくは”保科村七騎”は、保科正則を首領に、「玉井甚市、堀内土佐、山崎刀悦、轟玄蕃、海谷与五右、久保保正」の七名であったと記録されている。このうち、「玉井甚市、堀内土佐、山崎刀悦、轟玄蕃、海谷与五右」の五名は、他所に記録見つからないが、保科正則と久保安正は、幾つかの記録が残っている。
まず、久保安正だが、
 1:『長野市誌 第4巻』に「保科の郷士久保伯耆守保正の嫡子、保国が豊臣秀吉の家臣になっていたが、文禄4(1595)年7月関白秀次のあとを慕って高野山の奥山寺で自刃。保正は子保国の菩提を弔うために現保科小学校地籍に延命寺を創建。・・・『長野県町村誌 北信篇』の延命寺の項と久保伯耆守保正(以後久保保正)の名前あり。・・・文禄四年七月本村久保伯耆守保正開基、開山僧乗伯宗。・・・久保保正其子左京大夫保国と共に、諏訪郡長久保より来り、字引澤(比定できず)に住す。保科七騎の一なり。弘治(1555-1558)、永禄(1558-1570)中保科氏と共に武田氏に降り、後保国豊臣に仕へ、秀次自刃の時殉死す。)家傳の一刀を父保正に送る。保正其子保国の為に當寺を開基す。」
 2:『保科氏八〇〇年史』に久保保正の名前あり。・・・「永禄四年九月の第四回目の合戦は・・・、この戦いに加わって軍功を挙げた正俊が「保科村七騎」の一騎として信玄から感状を与えられているらしい・・・。(この中の久保但馬保正の子保国は後に豊臣秀吉に仕え、秀次自刃の時に殉死したと伝えられている)。
 3:久保保正(久保但馬保正)の名は確認できる・・・(『保科氏八〇〇年史』正則・正俊の生没年に関して、二人の同一人物説もある・・・という記録。)
 
さて、上記の記録の1:)~3:)までの真偽だが、まず武田信虎の活躍時期を確認したい。
 1:信虎生誕(1494/1498)~没年(1574)。
 2:守護・家督就任・永正4(1507)年~晴信からの追放天文10(1541)年。
 ・この期間に、保科七騎が信虎家臣であったことは確認されている。
さらに、武田信虎の重臣(家宰的存在)に甘利虎奏がある。この甘利虎奏の女(三女)が保科正則の室(妻女)になったという記録が残る。この記録も『系図纂要』『甲陽軍鑑』『保科御事歴』と複数の古書で、検証を担保されている。おそらく事実と認証してよいと思う。
 ・甘利虎奏の生没は、生誕:明応7(1498)年~死没:天文17(1548)年。確認できる子女は、男子2名女子4名であり、正則室(妻女)は三女である。
 ・ここで、精度の高くない仮説で虎奏三女の生年を想定してみると、三女は虎奏四子と仮設したら、虎奏十八の時婚姻として翌年一子、あと二年ごとに生まれたとして七年後に生まれた、となる。二年毎もかなり無理があるが、余裕をみても、7から10年後であろう。当時の結婚適齢期が15歳から20歳とするならば、また待たねばならない。これを条件に、三女の生年を想定すると<1528~1538>、適齢期は<1538~1558>になる。
 ・この時、虎奏三女の婚姻相手の保科正則の年齢を想定すれば、虎奏より若く、三女より年長であると考えるのが合理的である。あくまで常識の範囲での仮設の想定であるが、保科正則は、甘利虎奏より10前後若く、生誕は1510年前後(誤差±7)というところでしょうか。
 ・信虎追放のあと、信玄(晴信)家臣団の中に、保科正則の名前を見出すことはできない。
 ・代わりに、保科正俊の名前を、信玄家臣の中に見るが、この時期や経緯は明確であり、高遠頼継が、信玄に敗れた後の後年になる。
 ・上記の検証を証左にすると、『長野市誌 第4巻』の記述は、1:)は前半は信頼に足るもので、2:)と3:)は極めて怪しいと言わざるを得ない。1:)の後半の、「武田氏に降り」は保科正俊のことで、同一化の無理がある。
 ・この記事の前の保科正則は、記述が乏しく、遡って長享年間の北信濃・保科御厨までほぼない。
 ・したがって、なぜに武田信虎の家臣になったのかは、想像力を豊かにした仮説でしかなく信頼を欠くが、あえて私見を述べると、諏訪大社の内訌の時、下社・金刺氏と遠戚であった縁で与力を依頼された保科御厨の神官・荘官の保科氏が合力し、やがて敗れて金刺氏とともに流れて、甲斐の武田信虎を頼った。時は、永正十五年(1518)のことである。この仮説の流れが事実だとすれば、この時の保科氏が誰かは特定できないが(保科易正?)、信虎に仕えた保科正則は、下社に合力した保科何某の子息であろう。
 ・保科正則は、信玄の、信虎追放のあと、いづれの時にか、高遠・藤沢の保科正俊を頼った。以後、正俊と行動を共にし、最後に、千葉の多胡で生涯を終える。
 ・保科正則が、高遠近在に移り住んだ時期と場所の比定は、詳らかではない。密かに高遠近在・北林を思うが定かではない。
 ・・・保科正則は1591年に多古城で死んだ ・・・「ひっそりと立つ保科正則(左側)夫婦の墓・・・飯高寺化主日潮が供養塔・・・法華寺;[寺院];千葉県八日市場市飯高571;正則夫婦の墓 ・・・
 ・これと同じ戒名の位牌が、会津松平藩(保科氏)の菩提寺にあるという。あるいは西郷家(保科)の祖は、正則に通じているのかもしれない。
 ・・・久保保正は、信虎追放の時、信虎に随行していたと読むと合理的である。信虎は、まず駿河・今川のもとへ行き、やがて京に流れた。そして久保保正は、信虎と別れて、まず秀吉に仕えた後、秀次に仕え、子の保国は秀次の側近になり、秀次自決の時に殉死を選んだ、とすれば話のつじつまが合う。仔細は詳らかではないが、話の筋は大きくズレてはいないだろうと思われる。この部分は、資料の考証の担保がないところである。
 
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◇本文・2:
高遠満継の臣・保科正則
 

続く:本文未完・

 


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1 コメント

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「保科正則と正俊 覚書1」について (久保元春)
2018-02-12 21:09:38
”延命寺”の開祖の久保保正に関して
1)諏訪郡に長久保は、戦国・江戸時代は不明だが、明治7年の地図に、2箇所有る。(信濃国の古地図)
 諏訪郡高木村
 諏訪郡元今井村
2)引澤(比定できず)に住す。
 保科小学校の東に、現在も存在する(保科川の上流側)。
3)「久保保正は信虎追放の時、信虎に随行していたと読むと合理的である。」について
信虎追放は天分10年(1541)。
保科7騎の川中島の戦いは、永禄4年(1561)。
信虎追放後、川中島の戦いに参加。
武田滅亡後、子保国が秀吉に仕える。
4)久保家の子孫は、現在も保科や長野市にいます。
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