ソフトクリーム此の世崩ゆるは音なけれ 竹岡一郎竹岡一郎の名を知ったのは、故郷から出ている俳句同人誌(発行者は中学の先輩)上での書評『竹岡一郎句集「ふるさとのはつこい」』であった。同時に、この著者が私が昔いた結社誌「鷹」の同人であることを知った。私が数年いて辞めたのは1980年代の初頭なので、そのかなり後のことであるに違いない。おそらく、現在の【第二次鷹】(主宰 小川軽舟 編集 高柳尭行)になってからのことではなかろうか。当時、このような俳人が「鷹」に存在することは考えられなかった。と言うより、時代そのものに存立する根拠が見当たらなかったのだ。それでは、このような俳人とは何者で、現在とはどのような時代なのであろうか?・・・《続く》
立春の晴子につづく澄子かな まほろば 最新作 即興
今日は【立春】です。何ともお目出度い響きです。気温も13度はあり、雲ひとつ無い晴れ空がどこまでも続いています。しかし、晴れ渡っているからといってもそれが澄んでいるとは限りません。私が最初の俳句入門の中で遭遇した超大物俳人の中に故飯島晴子さんがいます。聞くところによると飯島さんの死(2000)は自ら選んだものでした。80歳を少し超えたくらいだったのでしょうか。彼女が目指した句の世界を模倣し、一見発展させたかのように感じる女流に【池田澄子】がいます。こちらは晴子の死後16年目で78歳ですから、20歳下ということになります。時代も当時とはまるで違います。これだけは言えます。澄子は自ら死を選ぶこともないし、春子の目指した俳句の《彼岸》などとんと眼中になく、ただひたすら俳句のこちら側でダダを捏ね回しているだけだと。 代表作 ピーマンを切って中をあかるくしてあげた(池田澄子) における自我はあらかじめ回避されていて、ただそこにあるピーマンを拾って齧っているだけのことです。第二のタダ事俳句と言えましょう。短歌の俵真智から始まった定型詩のライトバース【一線を超えた単純さで、同じく一線を超えた複雑さを獲得する逆説的な表現方法】も実に情けない貧相なものに成り果てたものです。・・・《続く》
今日は【立春】です。何ともお目出度い響きです。気温も13度はあり、雲ひとつ無い晴れ空がどこまでも続いています。しかし、晴れ渡っているからといってもそれが澄んでいるとは限りません。私が最初の俳句入門の中で遭遇した超大物俳人の中に故飯島晴子さんがいます。聞くところによると飯島さんの死(2000)は自ら選んだものでした。80歳を少し超えたくらいだったのでしょうか。彼女が目指した句の世界を模倣し、一見発展させたかのように感じる女流に【池田澄子】がいます。こちらは晴子の死後16年目で78歳ですから、20歳下ということになります。時代も当時とはまるで違います。これだけは言えます。澄子は自ら死を選ぶこともないし、春子の目指した俳句の《彼岸》などとんと眼中になく、ただひたすら俳句のこちら側でダダを捏ね回しているだけだと。 代表作 ピーマンを切って中をあかるくしてあげた(池田澄子) における自我はあらかじめ回避されていて、ただそこにあるピーマンを拾って齧っているだけのことです。第二のタダ事俳句と言えましょう。短歌の俵真智から始まった定型詩のライトバース【一線を超えた単純さで、同じく一線を超えた複雑さを獲得する逆説的な表現方法】も実に情けない貧相なものに成り果てたものです。・・・《続く》
今日は節分の日である。気温は12度まで上がった。戻ったと言うべきか。30日の月曜は20度あったからだ。私にとって日々の気温は死活問題である。60歳を過ぎて身心と外的自然とのバランスが取りにくくなっている。また毎晩の数時間の【夜歩き】で自分を鞭打つことで本業に加え句作を己に促している。もはや暖房の効いた環境のみでは生きてゆくことが上手く立ち行かなくなっている。私の日常の趣味や趣向は《俳句》のみではないが、とりわけ生きてゆく上でのあるがままの《自我》の輪郭を浮き立たせるには外界との直接の関わりが欠かせなくなっているということだ。ところで、俳句同人誌「豈(あに)」の最新号(59号)が昨日届いた。手許にあるのは57号の1冊のみである。新着分を開封する前に、ここから1句を引いてみた。編集人の大井恒之の作品である。・・・《続く》
桐一葉落ちればみょうに明るい木 大井恒之 *『無題抄』(11句)より
桐一葉落ちればみょうに明るい木 大井恒之 *『無題抄』(11句)より
前記事までに、中山宏史氏の所属結社新人賞受賞作『山頭火』(20句)から次の2句を引用した。【時雨忌やどうやら俺はエグザイル】【ヘーゲルの苦笑を背に初詣】である。1句目は芭蕉の《旅立ち》と現代人の日常性の孕む《非日常》への衝迫を重ね、エグザイル(故郷喪失者)としての己れの《現在》を提示した。この矛盾を生きることは、作者にとって芭蕉の切り拓いた寄る辺無きものとしての《俳句》の不可能性を生きることにつながってゆく。それでは、2句目の「ヘーゲルの苦笑」とは何ごとを言うのだろうか。
その前に中山氏と昨秋の結社大会と先月の新年句会で会った時の印象について書いておきたい。彼は77歳で60年安保世代の一員であった。60年安保とは戦後の復興を成し遂げた後の次なるステップとしての《成熟》へ向かう狭間に全国的に巻き起こった異議申し立ての運動であった。彼もまた学生時代にその渦中に身を置き、世界と人間の全体性の回復(変革)へのうねりに身を任せていた。そして運動の敗北とその主体の一部としての絶対的な《個》の不成立を目の当たりにして立ち竦み、何の確信も得られないままただ生きて存り続けるために社会に押し出されて行った。そして就職・結婚そして《老い》という即物的な時間の経過の中に身を置かざるを得なかったに違いない。彼自身の語るところによれば、定年退職とその後の数年を了えた後に俳句表現と出遭い、今日まで10年近い歳月を経て来たのだという。・・・《続く》
その前に中山氏と昨秋の結社大会と先月の新年句会で会った時の印象について書いておきたい。彼は77歳で60年安保世代の一員であった。60年安保とは戦後の復興を成し遂げた後の次なるステップとしての《成熟》へ向かう狭間に全国的に巻き起こった異議申し立ての運動であった。彼もまた学生時代にその渦中に身を置き、世界と人間の全体性の回復(変革)へのうねりに身を任せていた。そして運動の敗北とその主体の一部としての絶対的な《個》の不成立を目の当たりにして立ち竦み、何の確信も得られないままただ生きて存り続けるために社会に押し出されて行った。そして就職・結婚そして《老い》という即物的な時間の経過の中に身を置かざるを得なかったに違いない。彼自身の語るところによれば、定年退職とその後の数年を了えた後に俳句表現と出遭い、今日まで10年近い歳月を経て来たのだという。・・・《続く》