まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

無言の詩型/新雑句雑感(179)~プロローグ5の終わり

2017-02-28 16:10:25 | 新雑句雑感

俳句とは無言の詩型二月尽  鳩をめぐる争ひあまた二月尽(鴎と猫はライバル)  沖縄弁つひに憶へず二月尽  本当の土見当たらず二月尽  また結社替りて白し二月尽   そこにあるジュークボックス二月尽  スピッツの涙がキラリ二月尽  アコーディオンの泣くな妹よ二月尽  紙コップいよいよ溢れ二月尽  エヴァンゲリオンまず第一話二月尽(使徒襲来) 


【俳句の此岸】自由とは空を掴むような行為/私とは誰か~プレおたく世代の現在(6)

2017-02-27 21:01:46 | エッセー・評論

俳諧自由ただ空っぽの春の空   まほろば

1970年代の後半に入ると、私の足は大学からは遠のいていた。70年安保世代とその直後の人々がキャンパスから一掃されたのである。就職や中退など理由は様々であった。もう一つの理由は、70年安保と完全に切れた世代の登場である。彼らを指して第二次【シラケ世代】と言う他無い。私がキャンパスから離れ、就職することもなく何をしていたかと言うと、完全なる昼夜逆転生活であった。深夜の閉店間際の古本屋→ジャズ喫茶の繰り返しに徹すること以外に選択の余地はなかった。ある時、大学の学部の2年先輩(年齢は1歳違い)のAさんが突然吉祥寺のアパートを訪れて来た。1975年の秋頃だったろうか、翌日がかの成田空港反対闘争の決戦なのだという。それで私も同行することを誘って来たのだ。私は即座に拒絶した。彼も私同様、遅れて来た世代であり、70年安保はすでに頓挫していたことを誰よりも知っていたからだ。すでに終ったものを後追いする気持ちはとうに失せていた。私の興味は70年代後半の新たな展開に向いていた。その一つは【宇宙戦艦ヤマト】という突拍子も無い《すでに終ったもの》の暗喩であり、フリージャズという《空を掴むような行為》であった。・・・《続く》


【226事件】2017年の兵に告ぐ/新雑句雑感(178)~プロローグ5の終わり

2017-02-27 12:37:49 | 新雑句雑感

兵に告ぐ2017年の兵に告ぐ(226事件八十一周年)  草城も軍国主義にはお手挙げだ(昭和10年に無季俳句を掲げ、ホトトギスを除名されるも、15年の京大俳句事件では一人検挙を免れる) 平成の226事件降る雪無し(アパホテル前で極右政党旗揚げ)  安倍晋三よ今カラデモ遅クナイ(226事件「兵に告ぐ」より)  アパホテルとミヤコホテルどこかが違ふ(日野草城「ミヤコホテル」)  青峰忌二千十七年の黒き旗(新興俳句事件で検挙後、終戦直前に死去)  226の三人生きて三人死す  戦後の自由戦前の不自由夢なのか(戦後の伝統俳句の隆盛)  皇道とは人道のことわかるかい(昭和~今上と天皇は世界平和を推進)    軍隊あれば日本革命成就せり(三島由紀夫は226青年将校を継承した)  俳句の馬鹿川柳の阿呆糞まみれ(俳句甲子園、サラリーマン川柳)  敗者が行く宇宙戦艦ヤマトでゆく(1970年代の人気アニメ)      


【俳句の此岸】第2次シラケ世代はオタクになれたか?/私とは誰か~プレおたく世代の現在(5)

2017-02-26 11:46:12 | エッセー・評論

宇宙戦艦ヤマト乗員は誰なのか   まほろば

1970年代後半に私たち第一次【シラケ世代】に替って登場したのが、その名の通り第2次【シラケ世代】であった。年齢にして私より3~5歳下、1950年代後半生まれに収まる。ハッキリ言って、私たちは彼らに何も継承しなかった。と言うより、継承すべきものが何もなかったのだ。私たちは、70年安保世代から何も継承しなかったのと同じように。先行する世代の挫折をただひたすら封印し、70年代の後半にかけて加速した【空虚感】の渦中にあって逼塞し続けることを余儀なくなれた。それでは、彼らの目には我々の《沈黙》はどのように映っていたのだろうか?・・・《続く》


【俳句の此岸】宇宙戦艦ヤマトの向かった先/私とは誰か~プレおたく世代の現在(4)

2017-02-25 10:02:46 | エッセー・評論

私が大学入学のために上京したのは1970年代前半のことである。大学入学というのは表向きのことで、本当の目的は1960年代末の学生運動の帰趨を身をもって確かめるためであった。予想通り、学園紛争はすべて消滅しており、わずかに遅れて来た世代の手による退行的な運動が燻っているのみであった。それでも就職運動直前の3学年までは授業にはほとんど出ず、自治会室や部室のある学生会館に屯して、現在の自分達は何処にいるのか、この先どうなるのかと不安に震えながらも、同じ不安を抱えた仲間たちと片寄せ合っていた。・・こう書いてしまうとそれなりの充足感もまだあり得たかのように見えるかもしれない。実際は、すべてがあまりにも不確かで何をやっても、何を言ってもただひたすらに空疎であった。4学年になっても就職活動を忌避し、通学自体することがなくなっていた。以後、昼夜が逆転し、夜な夜な古本屋→ジャズ喫茶通いが続いた。世間では、先行して美味しい果実を摘み取ってしまった70年安保(全共闘)世代の村上龍や村上春樹、高橋三千綱などの晴れやかで完結した物語群の眩しさから目を背け、ユーミンらのニュー・ミュージックの華やかさにもなじめず、すべてが中途半端な精神状態で宙を仰ぐしかなかった。そんな中でも、次々と新たな世代が現れて来た。彼らの中には、先行していた我々の確信の無さを批判しながらも、自分たちの新たな指針を自ら打ち出すことも出来なかった。彼らは、私たちの《シラケ》をやむなく共有し、さらに深めてゆく他なかったのだろう。第2次【シラケ世代】の誕生である。もう大学から完全に足が遠のいていた1970代の後半に、渋谷駅の通路であるものを目撃した。アニメ映画【宇宙戦艦ヤマト】の支援グループのアンケート机であった。そこに座っていた若者は20歳前後、高校生か大学に入ったばかりくらいだろうか、その当時、このアニメ映画が若者の間で静かだが熱気の籠もったブームが巻き起こっていた。私より大学でいえば一回りを少しオーバーした世代である。70年代後半とは、もう70年安保の残り火は完全に消滅し、【無気力】【無関心】【無責任】の三無主義がはびこっていた。・・・《続く》