まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

無音の曳き出す空虚なことば/竹岡一郎を読む(2)~俳句のサバイバリズム

2017-02-08 00:30:11 | エッセー・評論
抱きをればだんだんもがき出すむじな   竹岡一郎 第二句集「ふるさとのはつこい」(ふらんす堂)より
前回引用した【ソフトクリーム此の世崩ゆるは音なけれ】をまず先に観賞したい。作者はソフトクリームを食べている。むろん音はしない。その有様を《此の世》の崩れてゆく姿に重ねた。解釈はこれ以上でも以下でもない。問題は「無音」で「此の世崩ゆる」状況を作者が認識しつつ、俳句形式の17音に載せたことにある。載せることが可能となった世代的な共通感覚と言ってもよい。竹岡は現在1963年(昭和38年)生まれの53歳である。「鷹」に入門したのは1992年で29歳になる年のことである。1992年といえば尾崎豊が26歳で死んだ年だ。竹岡もあの1980年代に青春期(17~27歳)を送った。「あの」と強調したのは、私はその10年前の1970年代に青春期を送り、何事かの終焉を見届け、それに続く《無音》の時代を全身に突き刺さる思いで迎えたからである。その1980年代に青春期を送った者が、20歳代の最後にあえて俳句形式に身を投じるということに、いったいどのような意味があるのかについてある程度察しがつく。おのれの真後ろからひしひしと影のように迫る【空虚】にまみれた能面のような貌の世代の足音をである。・・・《続く》