今日の東京は21度まで回復したが明け方は10度近くまで下がった。いつも薄着で寝ているので暖房が必須であった。正午を過ぎた現在陽射しはこの時期にしてはかなりの強さである。ところで今日午前中の通院は見送った。水曜夜の雨の中の徘徊が応えて体調が悪化し、昨日だけでは取れなかった。明日からの連勤に備え今日もジックリ休養したい。俳句などの購入も明日にしたい。月末までは句作も押さえ月が明けてから11月分の投句は準備すればよい。そろそろ秋の季題を整理しなければならないが、私は決して伝統派などではないのだからもっと旗幟鮮明にすべきだろう。それには俳句界の夏石番矢選がかっこうの踏み絵となる。俳句は季語から入ってはいけない、というのが彼の30年前の助言だった。いずれにしても体調と相談しながらにしたい。 わたしはわたし秋冷の香の憚らず まほろば
アンチエイジングの秘薬を求めきのこ山 汝の敵を愛せよ毒きのこ盛んなり 空揺れてきのこがことば発しをり(福島椎茸農家に風評被害続く) 紅茶きのこの効用魂の飢え始む マタンゴとは絶海の孤島のきのこの名 人生とはきのことはただ火を打てり 行方不明の母好きだったきのこ汁 きのこが好き山崎ハコのひとり唄 恍惚のブルース雨ときのこが合唱す きのこにはきのこの方舟出帆す
0時を回ってやっと帰宅できた。半年ぶりの銭湯、好物のとんかつ、秋の雨と三者三様にマイナスの存在感をこの日の私に示したようだ。出かける前に空腹状態で少量づつ呼吸器の薬や強力な健康食品を飲み残しのビールと濃い目の緑茶で流し込んだのがいけなかったようだ。その結果大判のとんかつの消化が悪かったのと秋雨の冷えが原因であろう。帰路何度も胃液を吐きながらひたすら家路を辿る惨状であった。唯一つ助かったのは雨が小降りになっていったことと秋冷の一歩手前で踏み止まっていたことである。途中延々と公園が続き中央に秋の鮮やかな花壇が並んでいるが私にとっては詮無きものである。こんなものに風流ぶって一喜一憂しても所詮人間社会に取り込まれ改竄された自然の残像に手振り身振りでエールを送るようなもので実に身勝手な行為でしかない。季語というものも大半が近代になって虚子らが勝手に決め付けたもので21世紀の今も尻尾を振る醜態は避けたいものだ。芭蕉・蕪村・一茶が現代に生きていたら金子兜太など及びもつかない最先端芸術家であったことだろう。今日有季といえば《季》の更新でなければならず、定型といえば《定型批判》でなければならないはずだ。そんなことはまた別の機会に考察することにして食後の胸焼けと雨を避けるため書店でエンタメ誌MとさらにBOOK OFF(100円コーナー)に寄って有用な3冊を購入した。それぞれ当ブログの主要トピックに直結するものであらためて書き止めて置きたい。 花鳥風月滅びて一茶忌の空つのる まほろば
先ほど遂に雨が本降りになって来た。10月分の投句準備が完了したのでもうすぐJR駅方面に出かけるつもりである。私は結社・会員誌、総合誌と3種類の投稿を行っており、これに句会が加わるともう収拾がつかなくなる。早いものは前月末には送られて来るのでちょうど1ヶ月かかったことになる。性格の違う数種の投句を行うことで俳句型式の大きな相対性に耐えることを学ぶことが出来る。私にとり句作に慰安の要素が無い所以である。ところで雨の効用で今夜は何時でも好きな時間に帰宅出来る。まず半年ぶりに俳味に満ち溢れた銭湯に寄ってみたい。 きのこのようにふと人間を忘じけり まほろば
今日は3日連続で曇り時々小雨である。もしかして本格的に降るかもしれない。気になるのが気温が遂に上下とも20度を割ってしまう点である。もう10月も下旬に入っている。仕方の無いことである。週末は検診と仕事が待っており雑用を片付けるには今日しかない。ついでに銭湯にも行っておきたい。下町に住んでいて銭湯に行かない手はない。何もないようで何かある、極めて俳諧的である。湯船に浸るまでの一連の作業には俳味さえ感じさせられる。その後は好物のとんかつであろう。最後にマックは中間テストを前に中高生で賑わっているに違いない。 温め酒NG酎ハイで事足りる まほろば