不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第405回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その248)』

2019-08-18 10:03:19 | 日記
前回

【347.代謝 】P.4519、AD502年

『代謝』とは「古いものと新しいものとが入れかわること」。前漢時代に編纂された『淮南子』にも見える句なので、結構古い単語だといえる。しかし、現在では「新陳代謝」の略語として代謝(metabolism)が用いられているケースがほとんどだろう。中国の辞書の辞海(1978年版)には「新陳交替之意」とある。また辞源(1987年版)には「更替変化」とある。どちらも「代謝」とは alternate, change の意味だという説明する。

「代謝」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索する次の表のようになる。


ところで、この表では資治通鑑には用例が2ヶあるというようになっているが、実はその1ヶ所は巻107で、下記のように書かれている。
「朱序をもって青、兗二州の刺史と為し、謝玄に代(かわりて)彭城を鎮せしむ」
(以朱序為青、兗二州刺史、代謝玄鎮彭城)


ここでは「代謝」の句は「謝玄に代る」となるので、ここで説明する「代謝」の意味で使われているのではない。この表に限らず、私のこのブログでは、機械的な検索結果をそのまま表示しているため、このような本来の意図とは異なる用例もカウントされている。学術論文なら、このような事態を避けるため、すべての検索結果を逐一チェックすることが必要であるが、私のブログではそこまでのチェックはしていない。それ故、検索結果表は参考程度だと考えて欲しい。

さて、資治通鑑で「代謝」が使われている場面を見てみよう。南北朝の南斉は、東昏侯のあまりにも暴君ぶりに、一族の蕭衍が打倒に立ち上がり、梁を建国した。南斉の一族の男子は皆殺しにしたが、蕭宝義だけは、不具の体であったので、殺さず、斉国の祭祀を司どるようにさせた。

蕭衍(梁の武帝)は、一族の蕭子恪と蕭子範が訪問してきたとき、それまでの歴史の変遷について次のような感想を漏らした。

 +++++++++++++++++++++++++++
蕭衍がしんみりと語った。「天下は公器だ。軍事力があれば取れるというものではない。時の「運」というものが無ければ、項羽のような勇猛な武将でも天下は取れない。劉宋の孝武帝(劉駿)は疑い深い性格で、兄弟のうちで名声の誉れあるものは皆、毒殺(鴆)したし、臣下の中で、少しでも反抗しそうな者は罪をかぶせて殺した。そのような理不尽な殺戮が行われていたにも拘わらず、ある者は「殺されるのではないか」と恐れたが、それでも宮廷に留まっていたので最後は殺されてしまったり、ある者は「殺されることはない」とは思っていたもののノイローゼに患かって死んでしまったりした。お前たち二人の祖先の高帝(蕭道成)は当時の劉宋の皇帝たちからは疑われたが、天命があったのでどうすることもできなかった(殺されなかった)。劉宋の明帝(劉彧)は、ぼんくら(庸愚)だったので誰からも疑われなかったが、即位後、宋の武帝(劉駿)の子孫は皆殺しにされた。

私はそのような殺戮が行われた当時、すでに生まれていたが、殺されなかったので、今日帝位に就くことができたが、当時だれがそれを予想したであろう! こうしてみると、天命がある者というのは人がいくら頑張っても殺すことができないということだ、と分かる。最初、建康に入城したときに、皆、わしにお前たちを全員殺して、人心を一新せよと勧告した。世の風潮に従ってやろうと思えばできないことではなかったが、殺さなかった。顧りみれば、東晋以降(江左以来)、王朝が交替(代謝)する時には必ず王族が全員殺されたので、和気が壊されたのが、王朝の命脈が短い理由だった。

上従容謂曰:「天下公器、非可力取、苟無期運、雖項籍之力終亦敗亡。宋孝武性猜忌、兄弟粗有令名者皆鴆之、朝臣以疑似枉死者相継。然或疑而不能去、或不疑而卒為患、如卿祖以材略見疑、而無如之何。湘東以庸愚不疑、而子孫皆死其手。

我於時已生、彼豈知我応有今日!固知有天命者所害。我初平建康、人皆勧我除去卿輩以壱物心、我於時依而行之、誰謂不可!正以江左以来、代謝之際、必相屠滅、感傷和気、所以国祚不長。…」
 +++++++++++++++++++++++++++

南北朝では短命な王朝が続いたが、その理由は蕭衍(梁の武帝)の分析によると、前王朝の子孫を皆殺しにしたことにあるという。それで、蕭衍は南斉の祭祀を絶やないためにに蕭宝義だけを残した、と述べる。

たしかに、蕭宝義、一人だけは殺されなかったが、残りの数十人は王族は無実にもかかわらず殺された。この点に於いては「感傷和気」(殺伐とした空気を生んだ)という点においては、蕭衍が非難している前王朝(南斉)の蛮行と何ら変わりないと私には思われる。そのせいかどうか分からないが、結局、梁も 50年で滅び、「国祚不長」となった。

続く。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 沂風詠録:(第317回目)『良... | トップ | 【座右之銘・119】『profecto... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事