限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第10回目)『日本のマザーテレサ、中国のキリスト』

2009-06-24 00:31:15 | 日記
しばらく前『磁力と重力の発見』という本が話題になりました。内容はタイトル通り、かなり科学的内容の濃い本です。記述は今から2500年前の古代ギリシャのタレスが磁石について以下のような考えをもっていたとアリストテレスが伝えている所から説き起こしています。『タレスは霊魂は物を動かす力を持っていると想定していた。それで磁石は鉄を動かすのであるから霊魂をもっているのではないかと考えた。』

この本は充実した内容と明快な論旨が評価されてか、大仏次郎賞、毎日出版文化賞、パピルス賞の三賞受賞という高い評価を受けています。

著者の山本義隆氏は予備校勤務と著者略歴に書いてありますが、実は1960年代、学生運動が盛んであった頃の名だたる闘士だったのです。仄聞する所では山本氏は高校(大阪府立大手前高等学校卒業)では開校以来の秀才と呼ばれ東京大学に進学しました。理学部の大学院時代、その学際的な博学と明敏さで将来のノーベル賞候補とも目されていたそうです。しかし、学園紛争の嵐が吹き荒れる中、生まれ持った正義感と統率力が氏を東大全共闘委員長に押し上げたのでしょう。

ちなみに、義隆という名前について述べますと、日本的な響きがしますが、中国に同名の皇帝がいます。王羲之などが活躍した東晋の次の王朝、宋の第二代皇帝の文帝(劉義隆)がその人です。資治通鑑には『仁厚恭儉,勤於爲政,守法而不峻,容物而不弛』(性格が温厚で慎みぶかく、政治に情熱を傾け、法を遵守するも峻烈すぎることはなく、よく人を受け入れるも弛むことがなかった)と誉められています。

話を戻しますと、山本義隆氏はその後、逮捕・投獄され研究者人生を棒に振ったのですが、学生運動に関するインタビューには頑として拒んでいるそうです。私はこれを聞いて、中国の楽毅(がっき)の言葉『古の君子は交わりを絶つも悪声(あくせい)を出ださず』を思い出しました。

この楽毅という将軍ですが、中国戦国時代の燕の名将です。元来趙の将軍だったのですが、郭隗(かくかい)が主君の昭王に例の『隗より始めよ』と提言して、燕が全国からタレントを募集した時に趙から移籍してきた人だったのです。そして、弱兵の燕軍を率いて隣の強国である斉を攻めたて、二城を除き斉全土を掌中におさめます。しかし、その時斉の田単の計略によって燕の恵王は楽毅を疑い左遷し、代りに騎劫を将軍に任命しました。しかし、おっちょこちょいの騎劫は田単の火牛の奇略にかかり大敗を喫し、とうとう燕軍は斉から全面撤退する破目になりました。そこで慌てた燕の恵王は、楽毅を再度呼び戻そうとしますが、楽毅はかつての処遇を不満としてそれを断ります。しかし、『古之君子、交絶不出悪声、忠臣去国、不其名』(昔の君子は、付き合いを止めた人の悪口は言わないものだし、忠臣というのは、国を出るときに、自分には落ち度がなかったなどと自己弁護しないものだ)と名言をはきます。私はこの部分を読んだ時、楽毅の潔ぎよさに感心したものです。山本氏の振る舞いを聞いた時、楽毅のような潔い人が現在にもいるものだと思ったのでした。



さて、楽毅という名前を初めて知ったのは、書道の名品で国宝にもなっている光明皇后の『楽毅論』でした。これは現在正倉院に残っていますが、王羲之流の品格高い書体です。平安時代の小野道風に代表される国風の女性的な文字とは対照的です。かな書きの影響かもしれませんが、丸みを帯びた形が日本人には好まれているように感じます。それに反し、中国(大陸、香港、台湾、など)では骨ばった字体、あるいは顔真卿のような肉太の字体が好まれているように感じます。現地に行ってみて、あるいは新聞やテレビなどで見かける街角の看板ですら、気品溢れる字で書いてあるのを見るにつけても、さすがに文字の国だけある、と言う風に感じない訳にはいきません。

さて光明皇后はこのように能書家でもある一方で、社会運動にも積極的に関与しています。藤原不比等の娘という高貴な身分でありながら、病人に献身的な看護をした、奈良時代のマザーテレサと言えるでしょう。現在社会問題となっている、介護や老人医療に関しては悲田院、施薬院、療病院などの福利厚生施設を建設し、自らその運営に携わることで解決していたようです。

この話は中学校の歴史の時間などにも出てくるので大抵の日本人にはおなじみの話と思います。そして、それは必ず仏教の人道主義的な観点と関連づけられて説明されているのではないでしょうか。私は中国では後漢に仏教が入ってくる以前にこのような人道主義的な施策がなかったので、仏教を待って始めて実現したものとばかり思っていました。ところが、調べてみると古代中国には仏教が入ってくる数百年も以前にすでに社会福祉政策が実施されていたことを知りました。

『倉廩(そうりん)実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る』という言葉で有名な管子という本にはそのことが書いてあります。『入国篇』には、孤児や寡婦への生活補助、身体障害者への衣食給付をするべきこと、などがこと細かく記されています。また、荘子には身体障害者には、粟150リットルや薪十束が支給されていたとも書かれています。

また、人道主義というとすぐにキリスト教に関連づけしてしまいがちですが、古代中国にも人道主義・平和主義を堂々と唱えた一派がありました。それは、孔子より少し遅れますが孟子と同時代の紀元前五世紀ごろに活躍した墨子です。荘子には、儒墨が世の中を二分していると書かれている程、当時中国中を席捲した新興宗教であったことが分かります。しかし、秦が中国全土を統一し、また漢代に儒教が国教となって以来、急激に勢力を失墜し、とうとう歴史から完全に消滅してしまいました。

日本では論語や孫子、荘子などが取りあげられることはあっても、墨子は全く無視された状態です。しかし、そういう過去の評価を別として客観的に墨子を読んでみると、その平和主義、人道主義には頭が下がります。墨子のえらい点は戦乱の世の中にあって、身を張って公然と戦国諸侯の悪辣な侵略主義、覇権主義に反対している点です。

現代的観点からすれば、キリスト教的とも言えるこういった人道主義が、結局中国では全く評価されなかった、という事実は中国人、ひいては日本人の精神構造とヨーロッパ人の精神構造の差を考えるヒントとなるのではないかと私は考えます。つまり中国では、家族や親族のように血のつながりが倫理の基本スタンスであったのです。孟子が感情的に反発しているように、血のつながりのない他人を血族同様に平等視する観念自体が彼ら中国人には生理的に受け入れることのできないものであったことがわかります。

しかし、もう一つの観点から言えば、キリスト教は戦略面では墨子より遥かに長じていたといえます。つまり、イエスは神から遣わされた者であり、神と同等であるという絶対的な権威づけを(特にパウロが)おこなっています。そしてキリスト教を信じる者は神の国に行けるのだと報償を約束しています。この意味でキリスト教は布教する上での戦略性が高いといえます。一方、墨子はあくまでも愚直に、兼愛という世俗社会における倫理性を主張しつづけ、また報償については、個人個人の満足感以上に出るものはありません。明らかに布教の戦略性という観点から見た場合、拙い気がします。

これら一連の中国古代の書物を読むことで、人道主義という思想そのものは必ずしも西洋の専売特許ではないことを私は遅まきながら知った次第でした。ただ、東洋では人道主義はその後の長い歴史における社会的認知レベルが西洋より低かったという事実は率直に認め、その原因をさぐり、我々の足りなかった部分を考えなおすことが現在の私達の課題であると私は考えています。
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