限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第35回目)『中国四千年の策略大全(その 35)』

2023-07-30 08:32:27 | 日記
前回

日本人は外交ベタといわれるが、外交関係というのは、言ってみれば譲れるところは譲ってお互いに納得できる利益(ウィン)で妥協を目指すのであって、筋を通すだけが能ではない。外交のように、人の交渉では当意即妙な機転を効かせ、無用な混乱、誤解を避けることを心がけるべきだ。つまり、「筋を通す」などという小さな節義に律儀にこだわらず『大行不顧細謹、大礼不辞小譲』(大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞さず)というおおらかな心構えが肝要ということだ。

そういった例を2つ取り上げよう。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 764 / 韓億】(私訳・原文)

韓億が契丹に使者に出た。この時、副使は太后の外戚で、太后の内輪の訓戒を勝手に契丹に伝えて、次のように言った「宋と契丹は仲良くしないといけない。これを子孫に伝えたい」と。韓億は副使がそういった話を契丹にばらしたのを知らなかった。

宴会の席で契丹の帝が韓億に尋ねた「宋の皇太后は契丹と婚戚関係を結びたいと言っているそうだが、何故、大使である貴卿がそのことを言いださないのだ?」韓億が答えていうには「我が国では遣使の都度、皇太后が皆を呼んで、契丹と仲良くせよと訓戒しますが、その意図が間違って契丹に伝わると困るのでそういった話は絶対にするな、と言われています」と答えた。契丹の帝は「それでこそ、両方の王朝が安泰であるのだ」と喜んだ。この時、副使は話をとりつくろうことができず、黙っていた。世間では、副使の失言で、逆に韓億はよい答弁をしたと誉めた。

億奉使契丹、時副使者為章献外姻、妄伝太后旨於契丹、諭以南北歓好、伝示子孫之意。億初不知也。

契丹主問億曰:「皇太后即有旨、大使何不言?」億対曰:「本朝毎遣使、皇太后必以此戒約、非欲達之北朝也。」契丹主大喜曰:「此両朝生霊之福。」是時副使方失詞、而億反用以為徳、時推其善対。
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契丹の帝はどうして宋と婚戚関係になるのが嫌だったのだろうか?

推測するに、大国・宋からの皇女が来ると、契丹の宮廷で、親宋派と反宋派の対立が起こるに違いない。そうなれば、国が乱れてしまう。契丹の帝は、宋の皇太后が婚戚関係を望んでいると聞かされて、実は内心困っていたはずだが、宋の使節には面と向かって言い出しにくい。それを察した韓億は咄嗟の判断で「仲良くする、という意味は婚戚関係になるということではない」と説明し、契丹の帝の心配を取り除いてあげた。

皇太后の本当の意図や、副使が本当はどのように伝えたのかは分からないが、ここで述べられているのは韓億の当意即妙の言い返しで、契丹も宋も両方のメンツが立ったということだ。韓億のような人が論語にいう「使於四方、不辱君命」(四方に使いして、君命を辱めず)と言えるだろう。



次は、司馬光の話。司馬光とは資治通鑑の編者として有名なので、現代的表現では「歴史学者」となるが、本職は、科挙に合格した高級官僚である。儒者は策略など弄せず正々堂々を事を運ぶが、やはり正攻法ではうまくいかない時もある。その時、どうするかが見ものだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻20 / 766 / 邵雍】(私訳・原文)

司馬公一日見康節曰:「明日僧顒修開堂説法。富公、呂晦叔欲偕往聴之、晦叔貪仏、已不可勧;富公果往、於理未便。某後進、不敢言、先生曷止之?」康節唯唯。

明日康節往見富公、曰:「聞上欲用裴晋公礼起公。」公笑曰:「先生謂某衰病能起否?」康節曰:「固也,或人言『上命公、公不起;僧開堂、公即出』、無乃不可乎?」公驚曰:「某未之思也!」〈〔時富公請告。〕〉

司馬光がある時、邵雍(字は康節)に次のように言った。「明日、僧侶の顒が新しくお堂を開き、説法をします。そこに富弼公や呂晦叔など、大臣たちが皆一緒に行って説法を聞くようです。呂晦叔は仏教に凝っているので止めようがないのですが、富弼公が出席するとなると厄介なことになります。私は、若輩ものなので直接、富弼公をお止め立てする訳にはいきません。先生なら止めて頂けるでしょうか?」邵雍は「うんうん」と頷いた。

翌日、邵雍が富弼に会いに行って言うには「聞くところによると、帝が裴度を新たに設置する官職に起用して、貴公をその後釜に据えようと考えているそうだ」。富弼は笑って「先生は私が病気をおして職に就けとでもおっしゃるのでしょうか?」と尋ねた。邵雍は「その通り。世間の人は『帝が富弼公を起用しようとすると、公は病気だと言って出てこない。しかし、僧侶の説法には喜んで出かけて行った』と言うことでしょう。それでもいいですか?」富弼はあわてて「そこまで智恵が回りませんでした!」と謝った。
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この物語の背景には、儒者と仏者の対立がある。

宋代は、いわゆる「士大夫」といわれる文人・儒者が輩出した時代である。科挙に合格して高級官僚になった文人たちは、白居易や蘇軾のように仏教に傾倒した人たちもいるが、概してアンチ仏教派であった。一時代前の唐の韓愈は徹底したアンチ仏教派で、時の皇帝の憲宗が仏骨をうやうやしく戴くのを徹底的に非難したため、あやうく殺されそうになったほどだ。

司馬光は韓愈ほどではないにしろ、儒者の立場から、国の高級官僚たちが仏教に染まることを嫌っていた。それで、富弼が仏教の儀式に参加するのを阻止するために邵雍に説得させたという話だ。見事、帝の命令をだしにして、富弼が仏教の式典にでることを阻止した。正論ではうまくいかないが、策略を使うことで、見事に目的を達成した。

続く。。。
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