限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第273回目)『根源的な観点から考える国際関係論の授業』

2023-07-23 16:38:05 | 日記
先月、ある人の紹介でこの9月の秋学期から某大学のリモート講義で2科目を教えることになった。ひとつは国際政治がらみの国際関係論、もうひとつは現在の自然科学について、である。授業の設計はかなり自由に任せてくれるとのことであった。前者の科目はこれまでも数多くの機会に話してきた「リベラルアーツ・グローバルリテラシー」の内容に近代史の要素を加えればよく、後者も、半分は科学技術史、もう半分は各テーマ(例:科学と技術、科学と社会、天文学、物理学、生物学、医学など)ごとの話をしようと考えている。しかし、せっかく教えるのであるから、出席する学生が「この授業を受けてよかった!」と思ってくれるものにしたいと考えている。

とりあえず、上で述べた授業方針は立てたものの、「国際関係論」というのは世間では一体どのような内容を教えているのか、と各大学の「国際関係論」のシラバスをチェックし、文献として挙げられている教科書・参考書などを一応当たってみた。驚いたことに私がチェックした範囲では、「国際関係論」は半数以上、女性の先生が教えている。ことさら男女比をいう積りはないが、国際政治という、いわば「お固い」テーマであるだけに、この分野の女性研究者が多いことに不思議な思いがした。

さて、シラバスに書かれている内容をチェックすると、ウェストファリア条約から始まるのがほとんどで、一般的には1900年以降、それも第一次大戦と第二次大戦とその後の国際連盟、国際連合の話が大半を占めている。何のことはない、高校の世界史や日本史で端折られた部分をカバーしているに過ぎないような内容だ。確かに、この年代になると政治舞台がヨーロッパ一極ではなく、北米、南米、アフリカ、アジアと広大な世界を舞台にしているので、黙っていても世界史的な話は国際関係論にならざるを得ない。それで、研究ならいざしらず、授業で教える分にはネタに困ることはないし、新たな機軸を打ち出す必要もなかろう、と考えられる。



しかし、私が学生の立場であれば、そのような陳腐な授業内容は御免蒙りたい!私が望むのは、そもそも政治とは一体何を目的とした行為なのか、何故、戦争は止むことがないのか、自由・奴隷・人権とは何か、社会的生存権とは一体どのようなものであるべきなのか、SGD's やLGBT、気候温暖化、環境問題にどう取り組めばよいのか、など人間社会の根源的・本質的なテーマについて、考え、議論することである。理性的に考えれば、世界が一致団結して解決しなければいけないはずの環境問題についてすら、どうして国によって態度が大きく異なるのか、その背景は何か、またこういった問題は理性的な解決法が見つかるべきものなのか、など、覚えることよりも、考えるべきことの方がずっと多いはずだ。

たしかに国際関係論は、現在のウクライナ戦争もそうだが、現在視点での考えが非常に重大であることは間違いないが、私は敢えて現在視点をを離れることが重要だと考えている。

例えば、ベトナム戦争について考えてみよう。は私が高校生から大学生ごろ、つまり1960年から1970年代にかけて、ベトナム戦争は非常に大きな問題で、毎日のようにベトナム戦争の報道で溢れていた。しかし、現在ベトナム戦争について熱っぽく語る人は老齢のジャーナリストを除いては、ほとんどいないであろう。つまり、ベトナム戦争の個別の戦闘は今や語るべき価値を持たない。しかし、アメリカとの戦争も含め、ベトナムの歴史を貫く「ベトナム民族の国家防衛の敢闘精神」について考えることは、将来にわたっても非常に重要な示唆を含む。

というのは、私は数年前、漢文で書かれたベトナムの歴史書『大越史記全書』を読んだことがあり、この「ベトナム民族の国家防衛の敢闘精神」に鮮烈な印象を受けた。ベトナムはご存じのように、隣の超大国である中国から紀元前後から何度も占領され、掠奪され続けた悲惨な歴史を持つ。しかし、いつもいつもやられっ放しではない。世界中を怒涛の如く進撃した元軍を白藤江河口の海戦で打ち破り大勝利を得たこともあったほどだ。日本へ攻めて来た元寇では戦闘で負けたのではなく、台風にやられてしまった、いわば不運の敗戦であるが、ベトナムでの敗戦は、完全にベトナム人の智謀による勝利である。

つまり、国際関係論とは、このように単に、ウェストファリア条約以降、定式化された国民国家という枠組みで国際関連を読み解くのではなく、民族というものを根本から理解することが重要だと私は考え、そのような授業をしようとしている。

現在では、水戸黄門の印籠のごとき不可侵性をもつ「自由、平等、民主主義」は国や民族ごとに理解は異なる。これらの概念が意味を持つためには、人々がこれらの概念が己が命にも匹敵するぐらい重要だと認識している必要がある。

しかし、だれもかれもが同じ感覚でこれらの抽象概念を理解しているとは言えない。それは自由のありがたさを考えてみれば分かる。自由という抽象概念だとわかり難いがアルコールに喩えてみると納得するだろう。もし、あなたが、一家全員、誰もアルコールが飲めない家庭に育ったとしよう。そうすると、たとえアルコールが目の前に置かれても何とも思わないし、ましてやわざわざ手に取って飲もうとは思わないだろう。しかし、ある時たまたま飲んで陶酔感を味わってしまうと、もはや離せなくなるに違いない。自由というのはまさにアルコールのような効果を持つものだ。

すでに各種の報道で知られているように、北朝鮮では、信じられないほど自由が抑圧されているにも拘わらず、一向に反乱や暴動が起こらない。これは不思議でも何ともない。というのは、かの国の人たちは、生まれてから一度も自由を味わったことがないのだ。つまり、上のアルコールの喩のように、味わったことのない自由の状態が理解できないため、命を懸けてまで自由を掴みとろうという気が起こらないないのだ。もっとも、以前読んだ『高麗史節要』では、奴婢の万積が「将軍や大臣は誰でもなれる!」(将相相、寧有種乎)と叫んで挙兵したが、仲間に裏切られて失敗したので、将来的には北朝鮮でも自由を求めて革命が起こらないとも限らない。

私の「国際関係論」の授業は国家、政権、人権、自由、平等などについて根源的な観点から、受講生が自らの考えを樹立する授業を目指す。
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