限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第51回目)『乗合自動車の停留所』

2010-04-11 17:25:21 | 日記
往年の名女優オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)の映画に『ティファニーで朝食を』というのがある。この朝食という単語をフランス語に変えて、鼻にかかった発音で『ティファニーでプティデジュネを』と言うと、きざっぽく聞こえてしまうに違いない。

しかし逆に次のような言い方はどうだろうか
『今日、昼食に近くの乗合自動車の停留所の喫茶店で洋麺とイリ卵を食べた。』
明治時代に戻ったような言い方だと感じないだろうか?今では、次のような言い方の方が自然に聞こえるだろう。
『今日、ランチに近くのバスストップのカフェーでスパゲッティとスクランブルエッグを食べた。』

よく見ると、この文で使われている単語の大部分はカタカナ単語である。我々が現在使っている日本語の中に、ある程度のカタカナ語は已むを得ないにしてもこのようにカタカナ語が頻出する文は耳障りである。

しかし、英語というのは実は、上のカタカナ語が頻出する文のようにかなりの単語が借用語である。ある統計によると、最頻出単語2万語の語源を調べてみるとその66%はラテン語、フランス語、ギリシャ語であるという。現在、英語においてこれらの借用単語が英語本来の単語のように感じるのは、あたかも我々日本人にとっての漢語が本来の日本語のように感じるのに似ている。



さて、ここで問題にしたいのは、英語の単語の日本語訳が次第に無機質、つまり深みがなくなりつつある、という点である。私の知っている範囲で言うとコンピュータや IT関連の文章では、カタカナ語が多い、そしてその意味が不明であると不評である。問題は概念そのものの難しさではなく、適切な訳語を見つけることのできる人がいなくなったことによる、と私は考える。

西洋文学が専攻にも拘らず、豊潤な日本語・漢語を駆使することの出来た実例を挙げてみよう。

以前、タキトゥスの『年代記』をラテン語、英語そして国原吉之助氏が訳した日本語の3つを比較参照しながら読んでいたことがあった。その時、国原氏の絶妙な訳に感心した。例を挙げると:(当然のことながら、国原氏は元のラテン語から訳しているので、ここに示す英語の訳ではない。)
in vogue -- 猖獗(しょうけつ)を極む
nothing daunted -- 泰然自若
sluggish silence -- 拱手傍観
industry     -- 精励恪勤
native simplicity -- 天真爛漫
wantonness  -- 軽佻浮薄

現代人にとって、これらの漢語は難しすぎるといわれそうだが、私には、これ以上の適訳がないように響く。結局、翻訳というのは外国語の理解能力もさることながら、日本語の表現能力が訳文・訳語の質に大きく関与するのである。このことから言えば、現在、小学校から『ちーちーぱっぱ英語』を教える愚を改め、日本語、そして漢語をしっかり教えないといけないと私は主張したい。
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