限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第76回目)『数キロの石を数百メートルも飛ばす大砲』

2011-10-23 23:51:35 | 日記
19世紀に入り、日本近海に欧米の船舶がしきりに出没し、江戸幕府が対応に苦慮し始めていた 1811年、ロシア船・ディアナ号の船長ワシーリー・ゴローニンがが国後島で幕府の役人に捕縛された。一時、脱走に成功したものの、捕らわれ、それから約2年間、ゴローニンは函館の牢獄に閉じ込められてしまった。しかし、1813年に開放され、祖国にかえり、1816年に『日本幽囚記』という本を出版した。この本を読むとびっくりするのは、2年間日本にいたといっても、ほとんど牢獄で過ごした割には、ゴローニンの指摘には鋭いものを感じる。

この中に日本の軍事技術レベルについて次のような記述がある。

In engineering, the Japanese are as inexperienced, as in other branches of the military art. The fortresses and batteries, which we saw, were constructed in a manner which shows that they understand nothing of the rules of fortification. ... In the art of war they are still children, and wholly unacquainted with navigation, except of their own coasts.
【大意】日本人は軍事を知らない。要塞や砲台の作り方をみれば、防備の何たるかを全く理解していないことが分かる。 ... 日本人の戦争は児戯に等しい。航海術に於いても無知だし、海岸線沿いにしか航行できない。

つまり、太平の江戸時代の武士達の戦争術が全くお粗末だといっているのだ。これを聞くと、愛国心の強い人は、『いやいや、日本でも戦国時代の武将達は、知略、戦術とも優れていたし、立派な武器・武具を備えていた』と反発もしたくなるであろう。しかし、ヨーロッパや中国では、日本最大の合戦であった関が原の戦いや、大阪夏の陣、冬の陣規模の戦いがすでに1000年以上も前に何度も起こっていることを知れば、驚くであろう。



以前のブログ『その時歴史が、ズッコケた』でも述べたように古代ローマでは紀元前3世紀にすでにアルキメデスが戦艦をも吊り上げる巨大クレーンを使って、ローマ軍に恐怖を与えていた。あるいは、紀元後1世紀に、ローマ軍がエルサレムを攻めたときに、使った攻城機は、別名『雄羊』という、とヨセフスの『ユダヤ戦記』は伝える。それは移動式の巨大な槌で、数回打ち付けるとどのような分厚い城壁も崩れてしまうほどの威力を持っている。

このようにヨーロッパや中近東は紀元前から大規模な戦争を通じて軍事技術や戦器が非常に発達した。その伝統はロシア帝国にも十分受け継がれていることを考えると、上のゴローニンの発言も理解できよう。

ヨーロッパはさておき、中国はどうであったであろうか?

中国も紀元前数世紀には東周の勢力が弱まった結果、諸侯がそれぞれ武力で覇権を争うような戦国時代に突入した。中国の広大な地域と人口を戦争に巻き込みつつ、軍事技術や戦器が発達したのは、ヨーロッパと軌を一にしている。その具体例を見てみよう。

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資治通鑑(中華書局):巻63・漢紀55(P.2032)

曹操は出兵し袁紹と戦ったが、勝てなかったので、引き返し、陣地を固めた。袁紹は高い物見やぐらを作ったり、土盛をしてその上から曹操の陣地をめがけて矢を射った。曹操の兵隊は皆、盾をもって陣地内を移動した。曹操は、霹靂車を作って反撃をした。これは大きな石を飛ばす投石器で袁紹の陣地の建物を全部破壊した。袁紹はまた、地下道を掘って曹操の陣地に攻め入ろうとしたが、曹操も地下壕を作って対抗した。しかし、曹操の兵隊達はは少なく、食料も尽き、疲労もひどくなった。

曹操出兵與袁紹戰,不勝,復還,堅壁。紹爲高櫓,起土山,射營中,營中皆蒙楯而行。操乃爲霹靂車,發石以撃紹樓,皆破;紹復爲地道攻操,操輒於内爲長塹以拒之。操衆少糧盡,士卒疲乏。

曹操、兵を出だし袁紹と戦うも,勝たず。復た還り,壁を堅くす。紹、高櫓をなし,土山を起こし,営中を射る。営中、皆、楯を蒙むり行く。操、乃ち霹靂車を為す。石を発し、以って紹の楼を撃ち,皆な破る;紹、また地道をなし、操を攻む。操、すなわち内に長塹をなし以ってこれを拒む。操の衆、少なく糧、尽き,士卒、疲乏す。
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つまり、曹操が袁紹と戦った紀元200年には、大石を投げることのできる投石器、その名を霹靂車(ひれきしゃ)という戦器があったという。これは相手の陣地の建物をも破壊できるの威力があった。

この霹靂車とはどういうものであったか?この部分に付けられている、胡三省の注には次のような説明がある。(以下の文で、賢曰くとあるのは、唐の章懷太子・李賢のこと。)

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資治通鑑(中華書局):巻63・漢紀55(P.2032)

賢曰く:霹靂車というのは石を発射するときに雷の落ちたときのような、ものすごい音がするので、こう呼ぶ。現在(唐代)の砲車に該当する。

張晏、曰く:范蠡の兵法には、霹靂車とは重さ十二斤を発射でき、三百歩を飛ばすことができる。曹操はこれを用いたに過ぎない。

賢曰:以其發石聲烈震,呼之爲霹靂,即今之砲車也。

張晏曰:范蠡兵法,飛石重十二斤,爲機發,行三百歩。操蓋祖其遺法耳。
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これによると霹靂車とは、投石器のことで、その能力は重さ十二斤(6Kg)を発射でき、三百歩(500メータ)も飛ばせると代物らしい。

日本では、1453年に火縄銃が伝来してから十数年の間に戦術が大幅に変化したといわれているが、鉄砲で攻撃できるのはせいぜい人や馬である。つまり、攻城戦は依然として旧来からの戦法、即ち肉弾戦の突撃から変わるところがなかった。元和偃武以降、戦争がなく太平の世が続いたため、戦術が全く変化しなかったため、日本の稚拙な戦争術にゴローニンがあきれたのであった。ヨーロッパや中国のように紀元前から大規模な破壊兵器を続々と開発し、戦争に明け暮れた人達からみれば、日本はなんと呑気な国であろうか。

日本人というのは本来このように、戦争に対して嫌悪感を持っているというより、むしろ無関心な人種であると思う。それ故、明治維新以降、第二次大戦までの軍備拡張は本来の日本人の性格を無理やり捻じ曲げて、非常な無理をしていたのだと感じる。この観点から言えば、現在の沖縄の基地問題は沖縄の人間からすれば、本土の関心が低いと不満を感じているようが、それは何も沖縄という遠隔地だからというのでなく、本来的に日本人は軍事に無関心であるからだと私は考える。国防や軍備を考える場合、このような日本人特有の歴史背景やメンタリティも考慮することが必要だということを私は言いたい。
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