リベラルアーツというと、西洋における古典的教養科目であり、自由七科 (Seven Liberal Arts) ともとも言われる。三学(トリウィウム)と呼ばれる、文法学、論理学、修辞学と四科(クワドリウィウム)と呼ばれる、幾何学、算術、天文学、音楽から成り立つ。
この中で、語学(つまりラテン語)は、三学の中核である文法学と修辞学を占める非常に重要な科目である。現代では語学(言語を学ぶ)というと、英語に代表されるように、実用科目としての観点だけで捉えられているが、私はそういった見方には組みしない。言語というのは、もっと幅広く人間の思考を支える基本的な道具であると同時に、それぞれの国民性や思考体系を抽象化したものであると考えている。つまり、人間が論理を使って生活していく上では意見表明や思想を深める上で必須の道具であると同時に、逆に言語という道具によって、考え方が規定されてしまう。言語にはそういった両面性がある。この観点から言語を学ぶ、つまり語学というのは、目先の実用よりもっと深い価値があると私は考えている。
さて、この項では、語学をリベラルアーツとしての観点からの私の考えを述べたい。かつて、このブログでは『私の語学学習』と称して、50回に渡り、私が語学学習に取り組んだ経緯を述べた。その中には、リベラルアーツとしての取り組みも触れたが、ここでは私が知っている西洋語に関してもう少し深く次の4つの観点について、説明しよう。
1.印欧祖語と語源について
2.ギリシャ語とラテン語の語彙について
3.思想表現としての言語について
4.現代に生きるギリシャ語・ラテン語について
【1.印欧祖語と語源について】
西洋語(以下では印欧語と呼ぶ場合もある)はアルファベットで記述されているが、世の中には西洋語はアルファベットは単なる表音文字であり、音自体には意味がなしと考えている人が多い。特に漢字と比べてみると、漢字では偏によって視覚的な意味が理解できるのに対して西洋語の単語は音だけで、意味は適当につけられている、と考えるようだ。この考えたが間違っていることを示すことは至って簡単である。例えば、漢字の熟語をアルファベットで書いてみるとどうなるか? NekketsukanやBokanと書くと分かりにくいが、熱血漢や暴漢と書くと、最後の漢という同じ字が含まれていることに気がつく。その意味は『男(おとこ)』であるから、ローマ字表記の Nekketsukan や Boukan の Kan も同様に男という意味であることは容易に推察がつく。ただ、残念ながら、日本語には同音異義語がかなり多いため、音だけでなく漢字を見ないと理解できないことが多々ある。
さて、音そのものに意味がある、ということは以前のブログ、『私の語学学習(その42)』、で比較言語学でいうところの『根(root)』ということを述べた。この比較言語学というのは、 1780年ごろにインドに滞在していたイギリス人のウィリアム・ジョーンズがサンスクリット語の単語がギリシャ語から来ていることに気づいたところから始まった。
現在までに判明しているのは、今から数万年前に現在のヨーロッパ人の祖先(アーリア人、印欧人)が中央アジアにかけて住んでいた。当時は共通の語彙を持っていたが、次第に分化していったと推定される。実際にこのような状態であったかどうかは定かではない。しかし、このように印欧語の祖語を想定すると、印欧語(インド+ヨーロッパ語)のほとんどの語彙を合理的に理解することができる。
比較言語学は19世紀に非常に発達した。ヨーロッパの先進各国に於いて、現在にも通用する偉大な業績が競うように打ち立てられた。その勢いは20世紀に入って衰えることなく、進展した。その成果の集大成は、 Webster's Third New International Dictionary, Unabridged の語源欄に現れている。 Websterの語源欄の特徴は、似た発音の単語群の関連だけでなく、意味的に関連している単語群も網目状に関連付けられているのが特徴的である。
イギリスの高名な言語学者 Walter Skeat の『Etymological Dictionary of the English Languate』(ISBN:978-0486440521)英語の語源辞書の巻末に List of Indogermanic Roots として500語ほどの印欧語の『根』が示されている。
根の例:
GEN(KEN), to know; also gna, gno(kna), サンスクリット語では:jna (= to know)ギリシャ語では: gi-gno-sko (= to know), ラテン語では: gno-sco, no-sco (= to know), i-gno-ro (= not to know), gna-rus (= knowing)
Ex. gnostic, gnomon, ignoranti, narrate, noble, ken, know , cunning, keen, uncouth.
PED(FET), to go, to fetch. サンスクリット語では:pad (= to fall, to go to, obtain), pad-a (= step, trace) pad-a (= a foot), ギリシャ語では:ped-on (= ground), ped-e (= a fetter), pous (= a foot), ラテン語では:pes (所有格、ped-is, = a foot), ped-ica (= a fetter),
Ex. tripd, pedal, pedestal, pawn, pioneer, oppidan, impede, foot, fetter, fetch, fetlock.
この例でも分かるように、音が一種の概念ブロックを形成していることが分かる。それは、漢字では偏が概念ブロックを形成しているのと同じ発想法だ。つまり、新しい語を作るときに、既に存在している概念の分類に当てはめ、新しい語彙を形成する。
この時、概念ブロックは時には単語がもつ音とは関係がなさそうに思える語彙も含むことがある。
例えば、cult (宗教集団のカルト)の語源欄を見てみよう。『ラテン語の cultus、colere(耕す、住み着く) から。』との記述がある。ここまでだと、普通の辞書の語源欄にも書いてある、極く平凡な内容だ。しかし Websterには次の指示がある。
『 wheel を参照せよ』
『えっ! cult と wheel にどういう関係があるの?』と驚くであろう。訝りながらも wheelの項をチェックしてみると、wheel は『ME(中世英語)では whel, wheel, whele, OE(古英語)では hweogol, hweohl,という記述の後で、ラテン語では、colere(耕す)、ギリシャ語では kyklos(輪、円環)と関連がある』との記述が見える。つまり、cult と wheel はラテン語の colere を媒介として関連しているということを知ることができる。このように、一見、突拍子もない単語が関連していることを知ることができるのは、私の管見ではこの Webster の辞書だけである。
(続く。。。)
この中で、語学(つまりラテン語)は、三学の中核である文法学と修辞学を占める非常に重要な科目である。現代では語学(言語を学ぶ)というと、英語に代表されるように、実用科目としての観点だけで捉えられているが、私はそういった見方には組みしない。言語というのは、もっと幅広く人間の思考を支える基本的な道具であると同時に、それぞれの国民性や思考体系を抽象化したものであると考えている。つまり、人間が論理を使って生活していく上では意見表明や思想を深める上で必須の道具であると同時に、逆に言語という道具によって、考え方が規定されてしまう。言語にはそういった両面性がある。この観点から言語を学ぶ、つまり語学というのは、目先の実用よりもっと深い価値があると私は考えている。
さて、この項では、語学をリベラルアーツとしての観点からの私の考えを述べたい。かつて、このブログでは『私の語学学習』と称して、50回に渡り、私が語学学習に取り組んだ経緯を述べた。その中には、リベラルアーツとしての取り組みも触れたが、ここでは私が知っている西洋語に関してもう少し深く次の4つの観点について、説明しよう。
1.印欧祖語と語源について
2.ギリシャ語とラテン語の語彙について
3.思想表現としての言語について
4.現代に生きるギリシャ語・ラテン語について
【1.印欧祖語と語源について】
西洋語(以下では印欧語と呼ぶ場合もある)はアルファベットで記述されているが、世の中には西洋語はアルファベットは単なる表音文字であり、音自体には意味がなしと考えている人が多い。特に漢字と比べてみると、漢字では偏によって視覚的な意味が理解できるのに対して西洋語の単語は音だけで、意味は適当につけられている、と考えるようだ。この考えたが間違っていることを示すことは至って簡単である。例えば、漢字の熟語をアルファベットで書いてみるとどうなるか? NekketsukanやBokanと書くと分かりにくいが、熱血漢や暴漢と書くと、最後の漢という同じ字が含まれていることに気がつく。その意味は『男(おとこ)』であるから、ローマ字表記の Nekketsukan や Boukan の Kan も同様に男という意味であることは容易に推察がつく。ただ、残念ながら、日本語には同音異義語がかなり多いため、音だけでなく漢字を見ないと理解できないことが多々ある。
さて、音そのものに意味がある、ということは以前のブログ、『私の語学学習(その42)』、で比較言語学でいうところの『根(root)』ということを述べた。この比較言語学というのは、 1780年ごろにインドに滞在していたイギリス人のウィリアム・ジョーンズがサンスクリット語の単語がギリシャ語から来ていることに気づいたところから始まった。
現在までに判明しているのは、今から数万年前に現在のヨーロッパ人の祖先(アーリア人、印欧人)が中央アジアにかけて住んでいた。当時は共通の語彙を持っていたが、次第に分化していったと推定される。実際にこのような状態であったかどうかは定かではない。しかし、このように印欧語の祖語を想定すると、印欧語(インド+ヨーロッパ語)のほとんどの語彙を合理的に理解することができる。
比較言語学は19世紀に非常に発達した。ヨーロッパの先進各国に於いて、現在にも通用する偉大な業績が競うように打ち立てられた。その勢いは20世紀に入って衰えることなく、進展した。その成果の集大成は、 Webster's Third New International Dictionary, Unabridged の語源欄に現れている。 Websterの語源欄の特徴は、似た発音の単語群の関連だけでなく、意味的に関連している単語群も網目状に関連付けられているのが特徴的である。
イギリスの高名な言語学者 Walter Skeat の『Etymological Dictionary of the English Languate』(ISBN:978-0486440521)英語の語源辞書の巻末に List of Indogermanic Roots として500語ほどの印欧語の『根』が示されている。
根の例:
GEN(KEN), to know; also gna, gno(kna), サンスクリット語では:jna (= to know)ギリシャ語では: gi-gno-sko (= to know), ラテン語では: gno-sco, no-sco (= to know), i-gno-ro (= not to know), gna-rus (= knowing)
Ex. gnostic, gnomon, ignoranti, narrate, noble, ken, know , cunning, keen, uncouth.
PED(FET), to go, to fetch. サンスクリット語では:pad (= to fall, to go to, obtain), pad-a (= step, trace) pad-a (= a foot), ギリシャ語では:ped-on (= ground), ped-e (= a fetter), pous (= a foot), ラテン語では:pes (所有格、ped-is, = a foot), ped-ica (= a fetter),
Ex. tripd, pedal, pedestal, pawn, pioneer, oppidan, impede, foot, fetter, fetch, fetlock.
この例でも分かるように、音が一種の概念ブロックを形成していることが分かる。それは、漢字では偏が概念ブロックを形成しているのと同じ発想法だ。つまり、新しい語を作るときに、既に存在している概念の分類に当てはめ、新しい語彙を形成する。
この時、概念ブロックは時には単語がもつ音とは関係がなさそうに思える語彙も含むことがある。
例えば、cult (宗教集団のカルト)の語源欄を見てみよう。『ラテン語の cultus、colere(耕す、住み着く) から。』との記述がある。ここまでだと、普通の辞書の語源欄にも書いてある、極く平凡な内容だ。しかし Websterには次の指示がある。
『 wheel を参照せよ』
『えっ! cult と wheel にどういう関係があるの?』と驚くであろう。訝りながらも wheelの項をチェックしてみると、wheel は『ME(中世英語)では whel, wheel, whele, OE(古英語)では hweogol, hweohl,という記述の後で、ラテン語では、colere(耕す)、ギリシャ語では kyklos(輪、円環)と関連がある』との記述が見える。つまり、cult と wheel はラテン語の colere を媒介として関連しているということを知ることができる。このように、一見、突拍子もない単語が関連していることを知ることができるのは、私の管見ではこの Webster の辞書だけである。
(続く。。。)