限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第161回目)『リベラルアーツとしての語学(その2)』

2011-10-09 22:30:22 | 日記
前回から続く。。。

【2.ギリシャ語とラテン語の語彙について】

現在、日本語には数多くの外来語が入っているが、それらは我々にとっては何の関連性のない音だけとしか聞こえない。つまり西洋語の単語は単に音だけをアルファベットで表記したに過ぎないように考えている人が多い。しかし、もし単語がすべてランダムな音だけで構成されているとしたら、たとえその言語のネイティブでもそれぞれの意味を覚えるのは大変だろうと想像できないだろうか?西洋語の単語といえども何らかの規則性・論理性をもっているに違いないと考えるのが合理的であろう。

このことを考えるために、日本語と中国語における外来語の取り入れ方を比較してみよう。例えば、computer は日本語にはそのままコンピュータとして、音だけを表す単語として入っているため、字面から意味を取ることは難しい。ただし、コンピュータというカタカナから computer という英語を連想し、それが compute + er 、つまり『計算するもの』という意味を理解できる人は別だが。。。

一方、中国語ではコンピュータは『電脳』と訳されている。これは英語の音ではなく、意味を中国語に翻訳した訳語である。この『電脳』という字面から、我々は、電気で動く脳、つまり電子式の知能機械であることを想像できる。同じく database も日本語では、データベース、中国語では『資料庫』と訳されている。これら2例から分かるように、中国語の場合は、元の英語の単語が分からなくても構成要素のそれぞれの漢字の意味を知っているなら、合成単語の意味をおぼろげながらも想像することができ、また単語を覚えるにも意味的な関連から比較的容易に覚えることができる。

この点、我々は江戸の蘭学者や明治の学者達が、西洋語を適切な漢語に訳してくれたことに対して大いに感謝しなければならない。デモクラシーを民主主義、モナキーを君主制、オリガルキーを寡頭政治、ティモクラシーを金権政治、などと訳してくれおかげで、現在の小沢某が引き起こしている政治混乱をカタカナ語を交えずに論ずることができるのだ。



   閑話休題

要するに、カタカナ語は単語の数が少ない内は機械的でも覚えることができても、数が多くなるとそうはいかない。意味を持たない音だけの単語というのは覚える数に限度があるということだ。これは何も現代日本人だけでなく、古代ギリシャ人も同じような結論に至った。つまりギリシャ語の語彙は音ではなく漢語のように意味をもったシラブルから成り立っているのである。それで構成要素の意味が分かると意味の推定がつく(場合が多い)のである。

ところでラテン語はローマ人の言葉としてギリシャ語とは本来は無関係に発達した言語であったが、紀元前数世紀頃から高いギリシャ文明の文物と語彙を多く取り入れた。その際、ギリシャ語からラテン語に意味翻訳された語がある。例えば synchronous(同時発生)という語がそうだ。現在では、シンクロナススイミングで有名な単語である。これは syn + chronos と分解できる。 syn は(一緒に)という意味、chronos は時(time)という意味だ。これがラテン語に入って contemporary という単語になった。 con + temporary と分解できる。 con は(一緒に)という意味、tempo は時(time)という意味である。つまりこのラテン語の単語はギリシャ語を全く逐語的に訳していることが分かる。

同じように、ギリシャ語からラテン語へ直訳の単語として次のようなものが挙げられる。
 (英)orthogonal :(ギ)orthogonios = orthos + gonia, (ラ) rectiangulus = rectus + angulus.
 (英)dichotomy :(ギ)dichotomos = dicha + temno, (ラ) bisect = bi + seco
 (英)entomology :(ギ)entomos = en + temno , (ラ) insect = in + seco
 (英)system :(ギ)systema = syn + istemi, (ラ)construction = con + struo


しかし、ギリシャの文化を取り入れたローマでは、大多数のギリシャ語は、意味翻訳する手間を端折って発音をラテン語化してそのまま取り入れた単語が多い。つまりカタカナ語として、ギリシャ語を取り入れてたのである。
 例: astronomy, encyclopedia, grammer, mathematic, philosophy, ...

これらは日本語におけるカタカナ単語と同様、当初は、ローマ人にとっては意味が分からなかったはずである。ただ、当時のローマ人の社会の上層部はギリシャ語とバイリンガルであったため、カタカナ・ギリシャ語を全く不便に感じなかったのかもしれない。そして時の経緯とともに、これらのカタカナ語もラテン語と見分けがつかなくなってしまった。

ただ、ローマ人も本来的に新しい語彙を造る場合、単語を見て意味が分かるように作ったことは、以前のブログ『ギリシャ・ローマと古代中国の比較』で、suovetauriliaが、 sus(豚)+ ovis(羊)+ taurus(牛)の合成語であることを例に挙げて指摘した通りだ。

このように、元来ギリシャ語やラテン語では単語がそれぞれ意味を持っていたのであるが、ローマ帝国の繁栄と拡大とともにラテン語から他のヨーロッパ言語に膨大に取り入れられた時、元あった音と意味の関係が断ち切れてしまった。それは、ラテン人の兵士や商人たちと接触したヨーロッパ各地の原住民は文法や単語の成り立ちなどは全く関心がなく、単に物を示すための音としてのラテン語の単語を取り入れたためだ。彼らは耳から覚えた単語を自らの語彙としたのだ。

例えば、英語で pursue という単語がある。これはノルマンディの古フランスから英語に取り入れられた単語であるが、元をたどれば、ラテン語では prosequi という単語であった。これが古代フランス人(ノルマンディ)の耳には porsievre あるいは porsieure と、r と o が逆の順に聞こえたのであろう、そのまま(つまり間違ったまま)英語に定着してしまった。

結論として、ギリシャ語やラテン語の語彙は、ランダムな音の表記などではなく、意味を表す構成要素を組み合わして作ってある、ということを私は言いたい。これは漢語で造語する場合と全く同じ発想である。

以上の観点から、西洋語(特に現代の我々にとっては英語)をよりよく理解しようとすれば、ギリシャ語やラテン語の知識は必要である、ということを強調しておきたい。それは日本語をよりよく理解しようとしたら、漢字の成り立ちを理解する必要があり、更に漢字の成り立ちを理解しようとすれば、その構成要素である偏と旁をよく理解しないといけないのと相似である。

続く。。。
コメント (1)
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